プロローグ 剣を下ろすまで
青い装束の男が、剣を構えていた。
その切っ先から、血が落ちている。男のものもあれば、違う者のものもあるはずだった。もう見分けはつかなかった。
鬼太郎は、足元の亀裂を越えた。
少し前まで、そこには誰かが立っていた。今は砕けた地面と、散らばった破片しかない。頭上では黄金の光が細かく割れ、音もなく落ちてくる。
帰るなら、急いだ方がよい。
それを知りながら、二人とも動かなかった。
「まだ、退いてはいただけませんか」
「何度聞いても同じだ」
男の声は掠れていた。剣を握る指にも血が伝っている。
鬼太郎も、大きく息を吸うことができなかった。脇腹が熱く、踏み込むたびに脚が震える。残った力で何ができるかを考えると、できないことの方が多かった。
それでも、目の前の相手を見ていると、口元が緩んだ。
「困りましたね。帰る道を塞がれてしまいました」
「お前が行こうとしているのは、帰り道じゃない」
「では、道を間違えたということにしましょう。見逃していただけますか?」
「断る」
返事と同時に、男の足が動いた。
鬼太郎は身を沈めた。頭の上を刃が抜ける。そのまま懐へ入ろうとしたところで、男が剣を引いた。
知っている動きだった。
肩が下がる。次は腹を狙う。鬼太郎が横へ逃げるより早く、切っ先はその先へ回っていた。
避けきれず、服が裂けた。鬼太郎は傷の深さを確かめる間も惜しんで踏み込み、男の腕を押し上げた。刃が空へ逸れる。互いの肩がぶつかり、二人は押し離されるように距離を取った。
男が短く息を吐いた。
あの呼吸も、覚えている。
隣に立っていたときには、次にどこへ斬り込むかが分かった。背を預け、こちらを見ずに振られる剣を頼りに進んだこともあった。
今は、その剣が自分の喉を狙っている。
「よく、ご存じですね」
「お前もだろう」
「ええ。だから、先が見たくなるのです」
男は答えなかった。
握りを直し、剣を持ち上げる。その腕がわずかに遅れた。肩に負った傷のせいだろう。鬼太郎には、距離を取る余地があった。
追い詰められたこの男が、何をするか。
それを見ないまま、終わらせたくはなかった。
鬼太郎は前へ出た。
青い袖が揺れる。男の重心が、こちらの予想より低く沈んだ。
ああ、やはり。
鬼太郎は笑った。
◆
階下で、何かが倒れる音がした。
ホッグズ・ヘッドの二階で、アルバス・ダンブルドアは扉へ目を向けた。
廊下の向こうから、主人の怒声が聞こえる。別の男が言い返し、足音が階段を下りていった。聞き耳を立てていた者が見つかったらしい。
追うことはできなかった。
目の前の女性は、まだ話し続けていた。
つい先ほどまで、シビル・トレローニーは、自分の才能がいかに優れているかを熱心に語っていた。ダンブルドアは、それを採用の理由にはできまいと思っていた。
その彼女の口から、別人のような声が響いている。
闇の帝王に抗いうる子供。
七月の終わりと、三度彼に抗った両親。
ダンブルドアは一言も挟まず、続きを聞いた。先ほどの男が、どこからどこまで聞いていたかは分からない。今ここを離れれば、自分もまた、肝心な言葉を聞き逃す。
やがて声が途切れた。
トレローニーは椅子へ沈み、何度か瞬きをした。大きな眼鏡の奥に、先ほどまでの表情が戻ってくる。
「……何のお話をしておりましたかしら」
ダンブルドアは、彼女の顔を見つめた。
覚えていないのだ。
本人にとっては、話の途中でほんの少し黙っただけなのだろう。こちらの沈黙を不満と受け取ったのか、トレローニーが姿勢を正そうとした。
その身体が、不自然に止まった。
ダンブルドアは、椅子からわずかに腰を浮かせた。
「――神を殺せし魂は、墓場を越える」
今度の声には、抑揚がなかった。
一語ずつ、同じ調子で言葉が続く。女性の喉から出ているはずなのに、息を継ぐ気配がひどく遠かった。
「敗れてなお屈せず、選ばれず、従わず、定めの外より還り来る」
ダンブルドアは動きを止めた。
予言は続いた。古い魔法の血を引きながら呪文を使えない父と、日の昇る国から来た母。その二人の間に生まれる子供について。
先ほど告げられた、闇の帝王に抗う子供とは違う。
部屋の隅で、窓枠が風に鳴った。
「一人は闇に選ばれ、一人は神を拒む」
その声は、窓の音にも階下の騒ぎにも乱されなかった。
「二つの道が交わるとき、魔法の世は、墓場より還りし者の望みを知るであろう」
トレローニーの顎が、胸へ落ちた。
ダンブルドアは待った。
今の言葉で終わりなのか。それとも、さらに何かが続くのか。
だが、顔を上げた彼女は、眼鏡を押し直しただけだった。
「ダンブルドア先生?」
「……うむ。聞いておるよ」
「それで、採用のお話は」
ダンブルドアは、ようやく椅子へ座り直した。
廊下には、もう人の気配がない。二つ目の予言を聞いた者は、ほかにいないだろう。
神を殺した魂。
そんなものが何を意味するのか、長く生きてきた彼にも分からなかった。比喩なのか、言葉の通りなのか。それを見分ける手掛かりもない。
ただ、闇の帝王に対抗できる者が、もう一人現れるのだと受け取ることはできなかった。
予言は、その子が何を望むかを告げていない。
ダンブルドアは扉から目を戻し、まだ返事を待っている女性へ向き直った。