『神殺し、墓場に還し者』
神の断末魔に、声はなかった。
宇宙そのものを震わせる光が収束し、無数に重なっていた黄金の顔が、一つ、また一つと砕けていく。
絶対であるはずの存在。
世界を造り、法を定め、人も悪魔も自らの下に置いてきた唯一神YHVHが、今、消滅しようとしていた。
最後まで残っていた巨大な眼が、墓場鬼太郎とフリンを見下ろす。
憤怒か。恐怖か。あるいは、自らが人間に殺されるという事実を理解できずにいるのか。
鬼太郎には、どれでもよかった。
「終わらせましょうか、フリン」
「ああ」
二人が同時に踏み出す。
フリンの神殺しの剣が、黄金の光を引き裂いた。
その亀裂へ鬼太郎の一撃が突き刺さる。
光が弾けた。
世界を満たした轟音の中で、神の眼に初めて明確な恐怖が浮かぶ。
次の瞬間、唯一神は砕け散った。
残されたのは、崩壊を始めた異界と、神を殺した者たちだけだった。
鬼太郎はゆっくり息を吐いた。
衣服は裂け、全身から血が流れている。それでも、その顔には満足そうな微笑があった。
「素晴らしい相手でしたね。できれば、もう少し戦っていたかったのですが」
「相変わらずだな、お前は」
フリンも無傷ではない。神殺しの剣を握る腕は震え、立っているだけでも限界に近い。
彼の隣では、傷だらけのジャックフロストが胸を張っていた。
「オイラたちが勝ったんだホ! これで、みんな安心して暮らせるんだホ!」
マサカドは黙したまま、崩れゆく世界の先を見据えている。
鬼太郎の傍らでは、四本の腕を血に染めたカーリーが、恍惚とした眼差しを主人へ向けていた。
「我が主よ。神すら、あなたの歩みを止めることはできませんでした」
「僕一人で倒したわけではありませんよ。あなたもよく働いてくれました」
その一言だけで、カーリーの顔に歓喜が広がった。
「もったいなきお言葉」
「大げさですね」
「おい」
低く響いたダグザの声には、疲労と苛立ちが混じっていた。
「褒め合うのは帰ってからにしろ。神は消えたが、この宇宙まで巻き添えで崩れ始めてやがる」
「そうですね」
鬼太郎は崩壊する光景を眺めた。
神の支配は終わった。
これからは、力を持つ者たちが次の世界を奪い合う。人間も、悪魔も、神々も、互いを食い、踏み越え、より強くなろうとするだろう。
考えただけで胸が躍った。
「帰ろう、鬼太郎」
フリンが言った。
「東京へ戻る。ミカド国とも話をしなければならない。戦争は終わった。これからは、人間が自分たちの手で世界を作り直すんだ」
鬼太郎は、わずかに首を傾げた。
「戦争を終わらせるのですか?」
「そのために戦った」
「そうでしたか」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
フリンの目が細くなる。
「お前は違うのか」
「ええ」
鬼太郎は穏やかに答えた。
「僕は、あの神と戦ってみたかっただけです。僕を支配しようとする者を、そのままにしておく理由もありませんでしたから」
「その後の世界は、どうでもいいと?」
「いいえ。楽しみにしていますよ」
鬼太郎は微笑んだ。
「神がいなくなれば、次の強者が現れるでしょう。その者を倒せば、また別の誰かが上へ昇る。強い者が弱い者を食らい、弱い者が生き残るために強くなる。そんな世界が、これからも延々と続く」
ジャックフロストの笑顔が消えた。
「僕は、その世界を見てみたいのです」
「弱い人間たちはどうなる」
「死ぬのでしょうね」
あまりにも自然な返答だった。
「生き残りたいのであれば、強くなればいい。逃げても、隠れても、誰かに縋っても構いません。それもその人の力です。何もできないのであれば、そこまでだったというだけですよ」
「そんな世界にはさせない」
フリンが神殺しの剣を構えた。
マサカドが静かに刀へ手を置き、ジャックフロストも傷ついた身体で前へ出る。
鬼太郎は彼らを見回し、嬉しそうに目を細めた。
「あなたなら、そう言うと思っていました」
カーリーが歓喜の声を上げ、四本の腕に握った刃を掲げる。
ダグザは深いため息をついた。
「神を殺した直後に、今度は救世主と殺し合いか。お前といると、本当に退屈しねえな」
「嫌なら帰っても構いませんよ」
「ここまで付き合っておいて、今さら帰れるかよ」
「それはよかった」
鬼太郎はフリンへ向き直った。
「最後に一度だけお願いします。そこを退いていただけませんか?」
「断る」
「そうですか」
鬼太郎の笑みが深くなる。
「では、仕方ありませんね」
最初に動いたのはカーリーだった。
砕けた空間を蹴り、一直線にフリンへ迫る。四本の刃が異なる軌道を描き、逃げ道を残さず襲いかかった。
マサカドが割って入る。
刃と刀が激突し、衝撃だけで周囲の黄金片が粉砕された。
その背後からジャックフロストが冷気を放つ。絶対零度の奔流がカーリーだけでなく、その後方の鬼太郎とダグザまで飲み込もうと広がった。
「まとめて凍るんだホ!」
「そう簡単にいくかよ」
ダグザが片手を振る。
黒い魔力が冷気を中央から引き裂いた。その裂け目を鬼太郎が駆け抜ける。
フリンは予想していた。
神殺しの剣が、鬼太郎の首を狙って振り抜かれる。
鬼太郎は身を沈めてかわし、フリンの懐へ踏み込んだ。互いの一撃が同時に相手を捉える。
骨の軋む音。
二人は吹き飛ばされながらも、倒れることなく着地した。
「いいですね」
鬼太郎の声が弾んだ。
「神との戦いでは、あなたと殺し合えませんでしたから」
「俺は楽しむために戦っているんじゃない」
「知っていますよ。だから、楽しいのです」
鬼太郎が再び踏み込む。
カーリーの斬撃がマサカドを押し込み、ダグザの魔法がフリンの退路を塞ぐ。鬼太郎は二体の意図を一瞥さえせず理解し、残された唯一の道へ攻撃を重ねた。
だが、フリンたちも同じだった。
「今だホ!」
ジャックフロストが作り出した氷壁が、フリンの足場となる。
フリンは壁を蹴り、ダグザの魔法を飛び越えた。マサカドがカーリーの刃を受け止めたまま身体をひねり、その巨体を鬼太郎の進路へ叩きつける。
鬼太郎はカーリーを避けなかった。
衝突の直前、彼女の背へ手を添え、その勢いさえ利用してフリンへ押し返す。
カーリーは空中で体勢を変え、四本の刃を振るった。
フリンを守ろうと、ジャックフロストが間へ飛び込む。
白い身体を二本の刃が貫いた。
同時に、ジャックフロストの両手がカーリーの胸へ触れる。
「捕まえたんだ……ホ」
カーリーの身体が内側から凍りついた。
「ジャック!」
フリンの声が響く。
カーリーは胸を貫く氷を見下ろし、それから鬼太郎を振り返った。
「我が主……」
「ええ。見ていますよ」
「私は、お役に……立てましたか」
「もちろんです」
カーリーは満たされたように微笑んだ。
次の瞬間、氷に覆われた身体が砕ける。
その破片の中へ、ジャックフロストも崩れ落ちた。
フリンが抱き留める。
「フリン……泣いちゃ、駄目だホ」
「しゃべるな」
「最初から……最後まで……一緒だったホ」
小さな手が、フリンの腕から落ちた。
フリンは動かなくなった相棒を静かに横たえる。
その背へ、ダグザの魔力が迫った。
マサカドが立ちはだかる。
黒い光が鎧を貫く。それでもマサカドは止まらず、刀をダグザの胸へ深々と突き立てた。
「東京の未来は、貴様らには渡さぬ」
「はっ……相変わらず、くそ真面目な野郎だ」
ダグザは刀を自らの胸へさらに食い込ませ、逃げる代わりにマサカドを掴んだ。
零距離で魔力が爆発する。
二体の姿が黒い光に飲み込まれた。
光が消えたとき、マサカドは刀を地へ突き立て、辛うじて立っていた。
「フリンよ」
その身体が、端から崩れ始める。
「人の世を……頼んだぞ」
「ああ。必ず守る」
マサカドは静かに目を閉じ、塵となって消えた。
ダグザは仰向けに倒れていた。
鬼太郎が、その傍らへ歩み寄る。
「死にそうですね」
「見りゃ分かるだろうが」
「何か言い残すことは?」
「負けたら……承知しねえぞ」
鬼太郎は少しだけ笑った。
「努力しますよ」
「努力じゃねえ。勝て……馬鹿野郎」
それが最後だった。
ダグザの瞳から光が消える。
鬼太郎はしばらく悪友の亡骸を見下ろし、それからフリンへ向き直った。
残ったのは、二人だけだった。
鬼太郎もフリンも、既に立っていることさえ不思議なほど傷ついている。
それでも、どちらも武器を下ろさない。
「後悔しているか」
フリンが尋ねた。
「何をです?」
「あいつらを死なせたことを」
「大切なものを失えば、惜しいとは思いますよ」
鬼太郎はカーリーとダグザの亡骸へ一度だけ目を向けた。
「ですが、彼らは自分でここに残りました。僕が選んだように、彼らも選んだ。それだけです」
「そうか」
「あなたは後悔していますか?」
「している」
フリンは迷わず答えた。
「それでも、お前を止める」
「ええ。それでこそ、あなたです」
二人が同時に地を蹴った。
剣と魔力が衝突する。
一撃ごとに空間が裂け、足元の大地が消し飛ぶ。
フリンが斬る。鬼太郎がかわす。
鬼太郎が死角から攻める。フリンは振り返ることなく受け止める。
長く敵対し、長く共に戦ってきた。
互いの呼吸も、癖も、追い詰められたときに選ぶ手段も、二人は知り尽くしている。
鬼太郎の攻撃がフリンの肩を裂いた。
フリンの剣が鬼太郎の脇腹を抉る。
血を流しながら、鬼太郎は笑っていた。
「素晴らしい。まだ速くなるんですね」
「お前は、いつもそうだ」
フリンが荒い息の間から言った。
「勝てるときほど、危険な方を選ぶ」
「その方が楽しいでしょう?」
「だから負ける」
フリンが、わずかに重心を崩した。
鬼太郎は見逃さない。
確実に仕留めるなら、距離を取り、残った魔力を撃ち込めばよかった。
だが鬼太郎は前へ出た。
フリンが待っていると分かっていても、その先にある一撃を見たかった。
「ああ――やはり、あなたは面白い」
フリンの身体が沈む。
神殺しの剣が、鬼太郎の攻撃の下を抜けた。
刃が胸を貫く。
鬼太郎の身体から力が抜けた。
フリンが剣を引き抜くと、鬼太郎は数歩よろめき、仰向けに倒れた。
崩壊する宇宙の光が、遠い星のように頭上で瞬いている。
フリンが傍らへ膝をついた。
「鬼太郎」
「……楽しかったですね」
鬼太郎の声は、ひどく穏やかだった。
「もっと続けたかったのですが……」
血に濡れた唇が、かすかに笑う。
「今度は、勝ちたいですね」
その目から光が消えた。
神を殺した男は、救世主との戦いに敗れ、死んだ。
墓場鬼太郎の最初の生涯は、そこで終わった。
◆
ホッグズ・ヘッドの二階は、酒と埃の臭いが染みついていた。
アルバス・ダンブルドアは、目の前に座る痩せた女性を静かに観察していた。
シビル・トレローニー。
名高い占い師の血を引いてはいるが、採用するほどの才能があるようには見えない。
面接を終わらせようとした、そのときだった。
トレローニーの身体が大きく震えた。
眼鏡の奥から焦点が消え、喉から、先ほどまでとはまったく異なる低い声が響く。
闇の帝王を打ち破る可能性を持つ子供が、近づいている。
七月が終わるころ、三度彼へ抗った者たちのもとに、その子供は生まれる。
扉の外で、かすかな物音がした。
ダンブルドアが振り向く。
何者かが階下の主人に見つかり、激しく抵抗しながら引きずられていく気配が遠ざかった。
やがて予言は終わり、トレローニーの身体が椅子へ沈む。
「わたくし、何か?」
本人は何も覚えていない。
ダンブルドアが答えようとした瞬間、彼女の背筋が再び伸びた。
一夜に二度。
トレローニーの口から、再び彼女自身のものではない声が発せられる。
「――神を殺せし魂は、墓場を越える」
ダンブルドアは息を止めた。
「敗れてなお屈せず、選ばれず、従わず、定めの外より還り来る」
窓の外で風が鳴った。
「古き魔法の血を引きながら、その力を持たぬ父と、日の昇る国より来た母。その間に、二人目の子は生まれる」
低い声が、さらに沈む。
「一人は闇に選ばれ、一人は神を拒む。二つの道が交わるとき、魔法の世は、墓場より還りし者の望みを知るであろう」
トレローニーの頭が、力なく垂れた。
今度こそ、部屋に沈黙が戻る。
「校長先生?」
顔を上げた彼女は、二度目の予言も覚えていなかった。
ダンブルドアは答えられなかった。
一つ目は、闇の帝王と、その敵となる子供についての予言。
二つ目は、神を殺した魂についての予言。
そして「古き魔法の血」という言葉を聞いた瞬間、ダンブルドアの胸には、説明し難い確信が生まれていた。
その血は、自分から遠く離れた場所へ続いている。
あまりにも遠く、もはや同じ一族と呼ぶ者さえいないほどに。
◆
赤子の泣き声が、夜の家に響いた。
外では冷たい雨が降っている。
闇の魔法使いと、その配下が英国中で勢力を広げていた時代。魔法族の血を引きながら、一つの呪文も使えない父親は、扉の向こうで祈ることしかできなかった。
やがて扉が開く。
寝台の上では、日本から来た母親が、生まれたばかりの子供を抱いていた。
父親は恐る恐る近づき、小さな顔を覗き込む。
赤子の髪は、一見すると黒い。
だが、窓から差し込んだ淡い光を受けた一房だけが、深い濃紺に輝いていた。
泣き声が止まる。
赤子は静かに目を開いた。
異なる世界で神を殺し、敗れて死んだ魂が、再び生を得た瞬間だった。
ただし、生前の記憶は深い霞の向こうへ沈んでいた。魔法も、悪魔も、神を殺したことさえ、今の彼には分からない。
それでも、魂に刻まれた性格と、やがて言葉を覚えたときに現れる話し方だけは、かつてのまま残されていた。
その子の名は――墓場鬼太郎。