第9話 罠のない道
ペタルは〈シュライク〉を開き、部品を確かめていた。
鬼太郎は作業台の前で、山へ持っていく荷物を見直した。水と食料、予備の弾。いつもの仕事より重くなるが、戻ってくるまで買い足す場所はない。
「相手は、長い銃を持っています」
「待てる奴か」
ペタルが尋ねた。
「追ってきた方へ、罠も用意しているそうです」
「なら、厄介だな」
鬼太郎は写真を見せた。ペタルは一度見ただけで、銃へ視線を戻す。
「見えても、届かない場所から撃ってくる。撃ち返すために同じ場所へ顔を出すな」
「当たらない距離へ撃つつもりはありませんよ」
「向こうには、当たる」
鬼太郎はうなずいた。
「落ちている銃を拾うな。怪我人がいても、先に周りを見ろ」
「助けてほしいふりをする方ですか?」
「死んだあとでも危険な人間はいる」
鬼太郎は、机へ置かれた写真へ目を落とした。
「罠を残すのですね」
「拾った銃で、指を二本なくした男を知っている」
「その方は忠告を聞かなかったのですか?」
「する人間が、その場にいなかった」
鬼太郎は少し笑った。
「では、僕は幸運ですね」
ペタルは組み直した〈シュライク〉を返した。
「お前は、幸運を喜んでいる顔じゃないな」
「どのような顔です?」
「罠の向こうにいる奴へ、会いたがっている」
鬼太郎は銃を受け取った。
前金も、手の大きさを測る時間も、この男には必要だった。今は、次に使う場所を聞かれている。
鬼太郎は礼を言い、ホルスターへ収めた。山の中で調子が悪くなっても、ここへ戻って直してもらう余裕はないだろう。
「間違いではありませんよ」
◆
山へ近い町で待っていたのは、片耳の欠けた老人だった。
鬼太郎を見ると、運転手へ、連れてくる相手を間違えたのかと尋ねた。合っていると答えられても、まだ顔を見ていた。
「子供だぞ」
「見れば分かりますよ」
鬼太郎が言うと、老人は口を閉じた。
翌朝、二人で山道へ入った。
片側は斜面で、反対側は深い谷になっている。下から水の音がした。老人は古い石柱の前で止まった。
「俺はここまでだ」
「発電所は、もっと先では?」
「そこまで行くのは、お前の仕事だ。俺は死んだかどうか確かめる」
老人は道の先を指した。
前に二人が入ってから、銃声を何度か聞いたという。道の脇で針金も見つけたが、触ってはいない。
「曲がりを三つ越えると車がある。その先からは、まだ誰も戻っていない」
「僕が戻らなければ?」
「二日待つ。その後は、次の奴へ同じことを言う」
「でしたら、その方には別のお話をしていただきましょう」
老人は笑わなかった。
鬼太郎は鞄を背負い直し、一人で道を進んだ。
◆
車は、四つ目の曲がりにあった。
老人の記憶違いか、数え始めた場所が違うのか。鬼太郎は道の端で止まり、木の陰から見た。
扉は開いているが、壊れてはいない。毛布と食料の袋が残り、土には二人分の靴跡があった。
発電所へ向かい、戻ってきてはいない。
足元に落ちた紙は拾わなかった。鬼太郎が知っている道より詳しい地図でも、触って安全だとは限らない。
その先で、拳銃を見つけた。
泥の上にあるのに、あまり汚れていない。引き金の近くから、細い糸が草へ伸びていた。
鬼太郎は銃から離れ、斜面側の木々へ入った。
十歩ほど先で、別の糸が見えた。
道の銃を避けた者が、通りそうな場所に張ってある。
「なるほど」
一つを見つければ終わりではないらしい。
糸の先には石が積まれていた。何が起こるか確かめるつもりはなかった。鬼太郎はさらに上へ回り、木の根をつかんで進んだ。
六歳の身体は狭いところを通れるが、歩幅は短い。湿った土へ靴が沈み、荷物が斜面の下へ引いた。
木へ身体を寄せて休んだとき、血の臭いがした。
男が一人、少し先の木にもたれていた。
上着の胸が黒く染まり、開いた目が横を向いている。鬼太郎は近づかず、膝を曲げて周りを見た。
腹の前に置かれた手の下から、針金が伸びていた。
上着の内側へ消えている。
手を動かすか、身体を起こせば、何かが起きるのだろう。
靴底には、赤い粘土がついていた。この辺りの土は黒い。別の場所で殺され、ここへ運ばれたのかもしれない。
道の罠を避けて来た者が、見つけやすいところへ。
鬼太郎は、もう一度男の顔を見た。
先に入った二人の顔写真は持っていない。だが、服や靴は、散歩に来た者のものではなかった。
死んだ場所から動かされているなら、撃たれた位置を調べても役には立たない。ここに残っているものだけを見て、戦い方まで分かったつもりになるべきではなかった。
「先に来た方ですね」
返事はない。
身元を確かめるためだけに、触れる気にはならなかった。
◆
発電所は谷の底にあった。
灰色の建物へ、太い水圧管が斜面から伸びている。屋根は一部が落ち、割れた窓が黒く並んでいた。横には川へ続く放水路がある。
鬼太郎は木々の中から見下ろした。
正面の道には、隠れるものが少ない。裏は岩壁で、屋根へ近づくには水圧管のそばを下りる必要があった。
どこにも人影はなかった。
鬼太郎は窓を一つずつ見た。双眼鏡は持っていない。奥の暗がりまでは分からなかった。
上の階、左から三つ目で、何かが陽光を返した。
鬼太郎は身体を横へ投げた。
直前まで顔のあった場所で、木の皮が弾けた。銃声は、そのあとで届く。
地面へ伏せ、太い根の後ろへ移る。
二発目は来なかった。
鬼太郎は〈シュライク〉を抜かなかった。窓までは遠い。撃てば、今いる場所を知らせるだけだった。
ニコラも、次を同じ窓から撃つとは限らない。
頬へ飛んだ木片を払い、血が出ていないことを確かめた。
「ご挨拶としては、少し早いですね」
声は木々へ吸われた。
鬼太郎は、根の裏へ寄せた肩を少しずらした。指で土を押さえると、湿って冷たかった。
先に光を見なければ、顔を上げたままだっただろう。大きな銃声を聞いてから考えても、間に合わなかった。
もう一度窓を見たくなったが、顔を出さずに待った。相手が撃たないのは、いなくなったからとは限らない。
◆
一度、発電所から離れる方へ戻った。
同じ斜面をそのまま下りる気にはならなかった。木の密集した場所へ回ると、建物の横へ近づけそうな細い道があった。
足跡はなく、枝も不自然には折れていない。
鬼太郎はしゃがみ、草の根元を見た。
膝ほどの高さに針金が張られていた。大人の膝だ。鬼太郎なら腰へ当たる。
跨ぐことも、下をくぐることもできる。
だが、その先の草が伏せられていた。何かを埋め、土を戻したようにも見える。
道へ出れば窓から見える。上へ戻れば最初に撃たれた場所へ近づく。隠れたまま進めそうなところには、これがある。
鬼太郎は、足を置きかけた場所から離れた。
安全な道を見つけたのではない。
安全に見える場所を、用意されている。
「僕を、どちらへ行かせたいのでしょうね」
建物の川側に、小さな排水口が見えた。
大人なら肩を入れるのも難しい。鬼太郎なら通れそうだった。
ニコラも、あれを知らないとは思えなかった。
鬼太郎はその場で待ち、窓と排水口を交互に見た。正面へ近づくには、開けた道を渡る必要がある。川側へ行けば、少なくとも、その間は窓の銃口から隠れられた。
排水口の先が安全だとは考えずに、そちらへ向かった。
◆
鉄格子は一本だけ外れていた。
錆びて落ちたのか、人が外したのかは分からない。鬼太郎は石を投げ入れ、音が返るのを聞いた。
何も起きない。
入口の近くを見てから、身体を滑らせた。
肘と膝を使って進む。壁は湿り、服へ冷たさが染みた。銃は収めてあるが、この姿勢では、すぐに抜けなかった。
鞄が天井へ擦れた。少し戻り、身体の横へ引いて押し進める。後ろを向こうとしても、肩がつかえた。
ここで何かあれば、速く逃げることはできない。
鬼太郎は膝を置く場所を確かめ、呼吸を抑えた。急いで音を立てても、狭さが変わるわけではなかった。
途中で道が分かれた。右から風が来て、左には薄い水がたまっている。水面には油が浮いていた。
鬼太郎は右へ進んだ。
頭上に四角い蓋があった。押すと、少しだけ動く。
隙間から外を見た。
止まった発電機が並ぶ広い部屋だった。床には剥がれた塗料や金属片が散り、上には鉄の通路が渡されている。
人影は見えなかった。
鬼太郎は蓋をずらし、鞄を先に出した。
穴から這い上がった瞬間、上で金属が鳴った。
前へ転がる。
銃声が響き、背後の蓋へ穴が開いた。
鬼太郎は発電機の陰へ入り、鞄を引き寄せた。
「子供だと聞いていた」
上の通路から、低い声がした。
「火を出す。小さな拳銃を持っている。そういう話も聞いた」
鬼太郎は〈シュライク〉を抜いた。
「噂は、もうこちらまで届いていましたか」
「噂より小さい」
「あなたは写真より、お元気そうですね」
靴音が一つした。
ニコラが手すりの向こうへ姿を見せた。今は長い銃ではなく、拳銃を持っている。銃口は発電機の端へ向けられていた。
すぐには撃たない。
鬼太郎が出る場所を待っている。
「先に来た二人は、俺を老人だと思っていた」
「そう見せたのですか?」
「勝手に見たいものを見た」
鬼太郎は左手を少し出した。
近づけば届くと思っていた力を、ここから試す。ニコラの認識へ触れるつもりで意識を向けた。
「プリンパ」
ニコラの目が、鬼太郎のいない方へ動いた。
一発、別の発電機へ撃つ。
鬼太郎は反対側から身体を出し、銃を向けた。
ニコラが振り返った。
早い。
引き金を絞ると、男は手すりの下へ身を沈めた。弾丸が金属を叩く。
鬼太郎も発電機の陰へ戻った。直後、顔のあった場所を弾が通った。
「今のが、火とは別のものか」
ニコラの声は、乱れていなかった。
「ええ」
「便利だな」
「お気に召しましたか?」
「長く続くなら、俺はもう死んでいる」
頭の奥に鈍い痛みがあった。
効かなかったわけではない。ニコラは、何もない場所へ一発撃った。
だが、外した瞬間に自分を疑った。見えたものを追い続けず、次に聞こえた鬼太郎の足音へ反応したのだろう。
ここには、撃ち合わせる仲間もいない。
鬼太郎は右手の銃へ目を落とした。作れたのは、一発撃つための時間だけだった。
◆
機械室の奥に、半分開いた扉があった。
鬼太郎は発電機の陰を移り、そちらへ近づいた。上の通路から足音はしない。
扉の先は細い廊下で、左右に部屋が並んでいた。
床には埃が積もっている。入れば、足跡が残った。
それを消すために立ち止まれば、ニコラへ回り込む時間を与える。鬼太郎は低いまま進んだ。
三つ目の扉の近くで、背後に気配を感じた。
振り返らず、右の部屋へ飛び込んだ。
銃声とともに、左腕へ熱が走る。
身体が回り、床へ落ちた。鬼太郎は扉へ右手を向け、一発撃った。
壁へ弾痕が残っただけで、ニコラはもう見えなかった。
扉の陰へ寄り、腕を見る。
上腕の服が裂け、血が肘へ伝っていた。弾は中へ残っていないようだが、表面を深く削られている。
指は動いた。肩より上へ腕を上げると、痛みが強くなった。
銃をそばへ置き、服の裾を裂く。片手と歯を使い、傷へ布を巻こうとした。
布を引くと、腕の中へ痛みが走った。思わず息を止め、歯でくわえた端を離しかける。
鬼太郎は顎へ力を入れ直した。
手元を見ている間にも、廊下の向こうでは相手が動ける。傷へ目を落としたままでいることが、ひどく長く感じられた。
布を留め、右手で銃を握り直した。
「足音を聞いていましたね」
廊下へ声をかけた。
「小さい足は歩幅も短い。何歩で扉へ届くか、分かりやすい」
離れた場所から答えが返る。
「勉強になります」
「次に使う機会はない」
鬼太郎は布へ染みる血を見た。
元へ戻す方法は知らない。傷を押さえ、動けるうちに終わらせるしかなかった。
◆
部屋には壊れた机と棚があるだけで、窓はなかった。
奥の通気口は鬼太郎でも通れない。入ってきた扉から戻るしかなかった。
右手だけで〈シュライク〉を上げる。
両手で支えるときより揺れた。
鬼太郎は床の金属片を拾い、廊下へ投げた。音が響いたが、銃声はなかった。
ニコラは、音がしたというだけでは撃たない。
入口から低く身体を出し、向かいの部屋へ移った。今度も何も起きなかった。
次へ動く前に、廊下の先を見た。
上へ続く階段がある。その手前に、細い糸が張られていた。
光を受け、よく見えた。
鬼太郎が足を止めた瞬間、背後で扉が閉まった。
金属の閂が落ちる。
戻る道を塞がれた。
「出てこい」
階段の上から声がした。
鬼太郎は扉の陰にいた。顔を出せば、銃口の前へ出ることになる。
糸を見つけたために足が止まった。その間に、ニコラは後ろを閉じた。
踏ませるためだけの罠ではなかった。
「排水口へ入ったときから、この廊下へ来るようにしていたのですね」
「正面なら、外で終わっていた」
「見つけやすい道具を、たくさん残してありましたね」
「罠を見つければ、人は罠のない方へ行く」
鬼太郎は、山道に置かれた銃と、木にもたれた死体を思い出した。
見つけるたびに、その場所を避けた。
見つけられることまで、相手は考えていた。
「前の二人も、同じように?」
「二人目は気づいた」
「それでも、戻れなかったのですか」
「遅かったからな」
左腕が痛んだ。布の端から、新しい血が滴る。
鬼太郎は廊下を見た。
床の端に油が細く続いている。機械室から流れたものだろう。頭上には配管と、錆びた金属の足場がある。
その先に、ニコラのいる階段。
鬼太郎は息を整えた。
「次は腕では済まないぞ」
声がした。
鬼太郎は、血のついた左手を開いた。
指は動く。力を引き出す感覚も、まだ残っている。
「アギ」
小さな炎が掌へ灯った。
「次があるとよいですね」
床の油ではなく、その先の足場を見て、鬼太郎は少し笑った。