神殺し、墓場に還し者
第九十九話 知らない屋根の下で、朝を待つ
銀の皿から、最後の菓子が消えた。
キーノは空になった皿を見てから、教師のテーブルへ顔を戻した。
ダンブルドアが、一年生にも聞こえるよう、ゆっくり話している。
校庭の外にある森へは入らないこと。
それは新入生だけへの注意ではなく、上級生にも守ってもらう、と言葉が続いた。
鬼太郎は、窓の方へ一度目を向けた。
湖の向こうに見えた木々を思い出す。
ブルガリアの森には、通行の取り決めがあった。入ってよい場所と、勝手に踏み込めない場所を、自分も確かめて歩いていた。
こちらの森には、こちらの規則があるのだろう。
どんなものが暮らしているかは、まだ知らない。
ダンブルドアは、廊下で勝手に魔法を使わないことや、クィディッチの選手選抜についても話した。
ロンが、その話では顔を上げた。
鬼太郎は教師のテーブルへ視線を戻す。
「最後に、今年は三階の右側の廊下へ入ってはならん。ひどい苦痛の末に命を落としたくなければ、近づかぬことじゃ」
近くで笑い声がした。
冗談だと思ったらしい。
だが、ダンブルドアは笑っていなかった。
ハリーが、隣のロンを見た。
ロンも教師の方へ目を向けたままだった。
キーノは鬼太郎へ顔を向けた。
彼は校長を見ていた。
目が、少し楽しそうになっている。
「ぜひ、行ってみたいですね」
キーノに届くくらいの、小さな声だった。
それを言うと思った。
彼女が口を開く前に、ダンブルドアの目がこちらへ来た。
鬼太郎と、視線が合う。
一瞬だけ、校長の眉が下がった。
行ってはならぬ。
その目つきは、砦で鬼太郎の無茶な考えを聞いたときと、よく似ていた。
鬼太郎は気づき、微笑んだ。
ダンブルドアは視線を戻した。
ほかの生徒へ向けた説明は、途切れなかった。
「今、止められただろ」
キーノが囁く。
「ええ。僕に向けたご注意でしたね」
「全員にも、そう言っていた」
「そうでした」
鬼太郎は答え、椅子へ座り直した。
何があるかは、気になったままだった。
死ぬほどの危険があるというなら、弱い相手を置いているわけではないのだろう。人なのか、生き物なのか、別の何かなのか。
それを知るためだけに、学校の決まりを破るつもりはなかった。
ここには、まだ尋ねてもいないことがいくらでもある。
鬼太郎は、校長の次の言葉を待った。
◆
校歌を歌う、と告げられた。
ハリーは顔を上げた。
ダンブルドアが杖を動かすと、金色のものが細く伸び、大広間の上で文字になった。
歌詞だ。
明かりの中に浮かび、前の席からでも、後ろの席からでも読める。
好きな曲調を選んでよいと言われて、ハリーは少し迷った。
その間に、歌が始まった。
一つの歌には聞こえなかった。
隣で速く進んだ声が、向こうのゆっくりした声と重なる。高い音が伸びているところへ、別の生徒が次の言葉を入れた。
ハリーはロンを見る。
ロンはもう歌っていた。
キーノは上の文字を追い、近くの声へ合わせようとしている。
鬼太郎も同じように歌詞を見上げていた。
ハリーは、知っている曲を一つ思い浮かべた。
そこへ言葉を載せてみる。
途中で余ったので、少し速く歌った。
キーノがこちらを見た。
ハリーは笑いそうになり、次の言葉を危うく落とした。
彼女も口元を動かし、それからまた歌詞へ戻る。
歌は、ばらばらに終わっていった。
早く終えた者が隣の声を聞き、笑う。
最後まで残ったのは、フレッドとジョージだった。
二人は、驚くほどゆっくり歌っていた。
葬式の行進で聞こえそうな、重い調子だ。
歓迎の宴が終わるところで、何かを厳かに送り出しているようだった。
ロンが両手で顔を覆った。
キーノは双子を見ている。
ハリーはとうとう、声を出して笑った。
ダンブルドアは二人が終わるまで待ち、杖で拍子を取っていた。
最後の音が消えると、拍手が起こる。
校長は満足そうに頷き、生徒たちを休ませることにした。
ハリーは椅子から立ち上がった。
お腹はいっぱいで、脚も少し重い。
寝るところへ行けると聞くと、急に眠くなった。
◆
「グリフィンドールの一年生、こちらへ。離れずについてきて」
パーシーが呼んでいた。
キーノは鬼太郎と一緒に、集まった子供たちのそばへ行った。
ハリーとロンも来る。
ハーマイオニーはまだ大広間の天井を見ていたが、列が動くとすぐついてきた。
玄関ホールへ出ると、声の響きが変わった。
食器の音が遠くなる。
パーシーが先に階段を上った。
キーノも裾を少し持ち上げて、後に続く。
踊り場から廊下へ出て、また曲がる。
階段を上る。
城を外から見たときには、大きいと思った。
中を歩くと、その大きさが足へ来た。
「まだ、上るのか」
キーノが小声で言う。
「そのようですね」
鬼太郎は答え、次の角を見る。
「お前、道を覚えているのか」
「できるだけ。明日、食事へ降りるときにも使いますから」
キーノも後ろを見た。
いくつもの廊下が、似ていた。
壁の絵が、少し助けになる。
ただ、絵の中にいる人物まで同じ位置にいるとは限らなかった。
夜着の男が自分の額縁から隣へ移り、こちらを見て文句を言う。
もっと静かに歩け、と言っているらしかった。
パーシーが一度振り返り、列へ手を振った。
「止まらないで。着いてから休めるからね」
キーノは頷き、前へ向き直った。
鬼太郎は絵の人物が去った額縁を見ていた。
それから、彼女の歩く速さへ合わせた。
◆
ハリーは、先頭の赤毛を見失わないよう歩いた。
足音が重なる。
誰かが欠伸をした。
前の子供も眠そうだったが、廊下の先へ出た途端、足を止めた。
空中に、小柄な人影がいた。
脚を組んで浮いている。
手には、何本もの杖のようなものを抱えていた。歩くときに使う、柄の曲がった杖だ。
その一本が、列の前へ落ちた。
石の床で跳ね、乾いた音を立てる。
「ピーブズ、やめるんだ」
パーシーが言った。
空中の人影が、嬉しそうに顔を広げた。
「おやおや、監督生のお通りだ! ちびっこを引き連れて、どちらへ?」
また杖を持ち上げる。
ハリーは少し身体を引いた。
鬼太郎が、キーノの隣で足を止めた。
手はまだ、ローブの外へ出ている。
パーシーはピーブズの前へ立ったまま、道を空けるように言った。
相手は笑い、頭の上へ回り込もうとした。
「血みどろ男爵に話すよ」
パーシーが言うと、笑い声の調子が変わった。
ピーブズは顔をしかめた。
抱えていた杖を放り出し、近くの生徒の帽子をずらしてから、向こうの壁へ消えた。
床に、杖が転がった。
パーシーはそれを跨ぎ、列へ手を振る。
「足元を見て。あれがピーブズだよ。寮に着くまでは、寄り道しないこと」
ハリーは壁を見た。
ほかの幽霊たちとは、様子が違った。
ロンも帽子を取られなかったか確かめ、歩き始める。
鬼太郎は壁から、パーシーへ目を移した。
「あの方は、その男爵さんを嫌がるのですね」
「彼の言うことなら聞くんだ。困ったものだけど、相手にしない方がいい」
パーシーは短く答え、先へ進んだ。
鬼太郎も歩き出した。
ハリーは、転がった杖を避けて後を追った。
◆
通路の先に、大きな肖像画があった。
桃色の衣装を着た、ふくよかな婦人が座っている。
パーシーが前へ立つと、婦人は目を開けた。
「合言葉は?」
「カプート・ドラコニス」
パーシーが答えた。
額縁が動いた。
絵が、扉のように開く。
その奥に、通れる穴があった。
キーノは目を瞬かせた。
絵の中へ入るのではなかった。
隠れた入口を、絵が開けている。
「これが談話室の入口だ。合言葉を忘れないように」
パーシーが言い、先に通り抜けた。
子供たちが続く。
キーノも、少し身をかがめて中へ入った。
暖かかった。
暖炉に火があり、部屋の中に柔らかそうな椅子が並んでいる。
大広間より天井が近い。
それでも、砦で使っていた部屋よりは広かった。
近くの椅子へ座りたくなったが、パーシーの説明はまだ続いていた。
女子の寝室へ行く階段と、男子の寝室へ行く階段が、それぞれ示される。
ここから、別々だ。
キーノは鬼太郎を見た。
彼も、階段の方へ目を向けていた。
ハーマイオニーが近くへ来る。
「行きましょう。荷物はもう上にあるんですって」
「ああ」
キーノは答えてから、鬼太郎へ顔を戻した。
「明日は、ここで会うか」
「ええ。朝食へ行く前に、こちらを見てみます」
ハリーが振り向いた。
「僕たちも、一緒に行けるといいね」
「寝坊しなければね」
ロンが言う。
ハリーは笑った。
キーノも小さく頷いた。
「では、また明日。キーノさん、おやすみなさい」
「おやすみ」
鬼太郎に答え、それからハリーとロンへも顔を向ける。
「お前たちも」
二人が返事をした。
キーノはハーマイオニーたちと、階段へ向かった。
◆
男子の寝室には、天蓋つきの寝台が並んでいた。
深い赤のカーテンが垂れている。
ハリーは自分の荷物を見つけ、そちらへ歩いた。
トランクは、ちゃんと運ばれていた。
ロンが近くの寝台へ腰を下ろし、靴を脱ぐ。
ネビル、シェーマス、ディーンも、それぞれの荷物を見つけていた。
鬼太郎は、拡張鞄のある寝台へ進んだ。
ハリーはトランクを開け、寝るための服を出した。
誰かが欠伸をする。
ディーンが、自分の足へ引っかかったローブを抜いた。
「長い一日だったな」
シェーマスが言った。
「汽車、ずっと座ってたのにね」
ハリーは答えた。
シェーマスが少し笑う。
その視線が鬼太郎へ動き、また自分の荷物へ戻った。
帽子のことを聞こうとしたのかもしれない。
結局、何も言わなかった。
鬼太郎も気づいたようだったが、鞄の留め具を確かめてから、服を取り出した。
ロンが寝台から顔を上げる。
「キタロウ、さっきの廊下へ行きたいって、本気で言ったの?」
鬼太郎は彼を見た。
「何があるか、気になりますから」
「死ぬって言われたんだぞ」
「だから、気になるんです。ただ、今夜は寝ますよ」
ロンは返事に困った顔をした。
ハリーも、三階の話を思い出した。
学校の中で、命を落とすかもしれないところがある。
入らなければよい、と校長は言った。
だが、何があるかは説明しなかった。
ハリーは窓の方を見た。
ガラスの向こうは暗く、遠くに湖があるのかも、今は分からない。
今日は、知らないことばかりだった。
全部を考えていたら、寝る時間がなくなる。
ハリーは寝台へ上がった。
布団を引く。
身体を横にすると、思っていた以上に疲れていたことが分かった。
近くで、ネビルがトレバーを確かめる声がした。
ロンがカーテンの向こうから、おやすみと言った。
ハリーも答えた。
閉じた赤い布の内側に、自分の寝る場所がある。
階段の下に押し込まれた部屋とは、違った。
ハリーは枕へ頬を寄せた。
◆
キーノは寝台の端へ座り、紺色の帳面を膝へ載せた。
ほかの少女たちも寝支度をしていた。
ハーマイオニーは荷物を開け、教科書を取り出しかけてから、迷った末に戻した。
明日も読める、と判断したらしい。
キーノは銀の留め金を外す。
前の夜に書いた言葉があった。
名前を聞く。
その次の空いているところへ、羽根ペンを置いた。
ハリー。
ロン。
ハーマイオニー。
ほかにも、覚えた名前を書いた。
フレッドとジョージは、見分けを間違えそうなので二つ並べた。
その下に、グリフィンドールと記す。
書いてから、しばらく見た。
帽子に言われたことを思い出す。
怖いと知っていて、ここへ来た。
今も、何もかも安心したわけではない。
自分のことを、誰もが知っているわけではなかった。明日から、どんな授業があるかも分からない。
それでも、今夜は同じ制服の子供たちと食事をした。
寝る部屋まで一緒に歩いた。
誰かが自分へ話しかけ、こちらも答えた。
「何か書いているの?」
ハーマイオニーが尋ねた。
キーノは顔を上げた。
「忘れたくないことだ」
「そう。明日はきっと、もっと増えるわね」
彼女はそう言って、自分の寝台のカーテンへ手を掛けた。
キーノは帳面を閉じた。
その言葉は、少し嬉しかった。
明日、増えるものがある。
知らない用語かもしれない。
今日聞けなかった、別の名前かもしれない。
帳面をしまい、布団へ入る。
灯りが遠くなると、部屋の中の小さな音が聞こえた。
布が動く音。
寝台へ横になる音。
キーノは一度だけ、カーテンの隙間から部屋を見た。
朝には、あの階段を下りる。
鬼太郎たちがいたら、名前で呼べばよい。
彼女は目を閉じた。
◆
ハリーは、いつの間にか夢を見ていた。
頭に、ターバンを巻いている。
それが声を出した。
今いる寮ではなく、スリザリンへ行くべきだと告げてくる。
ハリーは外そうとした。
布は指に引っかかり、かえって頭を締めつけた。
近くで、マルフォイが笑っている。
その顔が、黒髪の教師へ変わった。
笑い声も変わる。
冷たい、高い声だった。
緑の光が見えた。
ハリーは目を開けた。
息が速くなっていた。
目の前には、赤いカーテンがある。
頭へ手を置く。
ターバンはなかった。
寝室の向こうで、誰かが寝返りを打った。
ハリーはその音を聞き、ゆっくり息を吐いた。
夢だった。
自分はまだ、同じ寝台にいる。
隣には、ロンたちが眠っている。
ハリーは布団を引き上げた。
枕へ戻り、もう一度目を閉じた。
◆
鬼太郎は、廊下側から聞こえる音が少なくなるまで、寝台へ座っていた。
鞄の位置を確かめた。
杖は、手を伸ばせるところにある。
初めて泊まる場所で、何も確認せずに眠る気にはなれなかった。
だが、確認を終えれば、今夜することは少ない。
本を開くには、もう遅かった。
身体を休め、明日、教える者のいるところへ行けばよい。
鬼太郎は灯りを落とし、横になった。
今日だけでも、知りたいものが増えた。
湖を進む舟。
空を映す天井。
額縁を行き来する絵。
幽霊の身体。
それから、自分の内側へ入り込んできた感覚。
帽子に返事を無視されたことは、忘れていない。
次に同じことをされたら、少しでも押し返せるようになりたい。
何をすればよいかは、まだ探す必要がある。
学校へ来たことで、その探し方も増えるのだろう。
鬼太郎は、暗い天蓋を見上げた。
ダンブルドアが言った、三階の廊下も思い出した。
あの目つきには、つい笑ってしまった。
危険だと言われれば、気になる。
それでも、今は禁じられた扉より、開かれる教室の方を先に見たい。
この城で教える者たちは、何を知っているのか。
自分に何を渡してくれるのか。
寝室のどこかで、寝息が少し大きくなった。
鬼太郎は目を閉じた。
砦で朝を待つときとは違う音が、近くにある。
窓の外も、寝台の隣も、まだ馴染みのない場所だった。
それでも、荷物を置き、眠り、また起きるための場所にはなった。
明日になれば、ここから歩き出せる。
今夜は、そのために休めばよかった。
第六章 完