神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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離れなかった手

第100話 離れなかった手

 

 ハリーの靴が、何もない空を蹴った。

 

 柄へ伸ばした手は、一度触れた。だが、指を掛ける前に箒が跳ね、身体ごと振り離される。

 

「ハリー! 離すな!」

 

 ロンの声が、鬼太郎の耳元で割れた。

 

 隣で袖を掴んでいたキーノの手が緩む。鬼太郎が動けるよう離したのだろう。彼女自身は、ハリーから目を離さなかった。

 

 鬼太郎も黒檀を握ったまま、空を見た。

 

 ミネルバの杖先が、箒の柄を追っている。

 

 横へ向いた先端に照準が合いかけたところで、箒が縦に跳ねた。ぶら下がるハリーの肩が、その前を横切る。

 

 彼女は口を開きかけ、止めた。

 

 すぐに杖の角度を変える。

 

「進路を空けなさい! ポッターへ近づく者は、下から!」

 

 フーチが、箒で上がってきた。

 

 ハリーへ腕を伸ばす。その指の先でニンバスが跳ね、さらに高く上がった。

 

 赤い試合着の二人も、左右から近づいている。

 

「フレッドとジョージだ」

 

 ロンの声が掠れた。

 

 一人が柄へ手を掛けようとした。

 

 穂が顔の前を薙ぐ。身を引いたところへ、ハリーの脚が振られてきた。

 

 もう一人が、その下へ回った。

 

 鬼太郎は、競技場の芝へ目を落とした。

 

 ここから階段を下り、あの下へ着くまでにも時間が要る。走ったところで、落ちる身体を受け止められる高さでも、重さでもなかった。

 

 箒と、そこへ掴まっている手を見直す。

 

 今の自分に掛けられる呪文を、一つずつ思い浮かべた。

 

 どれにも、あの手を離して大丈夫だと言えるものはなかった。

 

 後ろで、ハグリッドが双眼鏡を握り締めていた。

 

「ニンバスが、勝手にあんなことをするわけがねえ」

 

「ぶつかったとき、壊れたのか?」

 

 シェーマスの問いに、大きな首が振られた。

 

「ただぶつけたくらいじゃ、ああはならん。強い闇の魔術でもなきゃ……」

 

 ハーマイオニーが、振り向いた。

 

「貸して、ハグリッド」

 

 差し出された双眼鏡を受け取り、顔へ当てる。

 

 一度ハリーを見た後、彼女はレンズを下へ動かした。

 

 箒の下ではなく、向こうの観客席へ。

 

     ◆

 

 ハリーの掌が、柄を擦った。

 

 汗をかいている。

 

 それが分かるのに、拭うこともできなかった。

 

 指を開けば落ちる。強く握り直そうとしても、身体を振られるたび、腕の重さが指先へ集まった。

 

 下から、誰かが名前を呼んでいる。

 

 先生の声だったかもしれない。

 

 答えようとすると、柄がまた跳ねた。

 

 歯が鳴った。

 

 今度こそ、と思って伸ばした手が、箒の下を空振りする。

 

 もう少しだった。

 

 少しだけ、動かないでいてくれれば。

 

 ハリーは息を止め、握っている方の肘を曲げようとした。

 

 肩に痛みが走った。

 

 それでも、指を離す方が、ずっと怖かった。

 

     ◆

 

 ターバンの奥で、低い声が呪文を継いでいた。

 

 クィレルの唇は、動いていない。

 

 膝の上で指を組み、空を見上げている。その身体を通して、ヴォルデモートも、箒にぶら下がる少年を見ていた。

 

 あと一本の腕が離れればよい。

 

 柄へ掛けられた力を強める。

 

 箒が身を捩りかけ、途中で鈍った。

 

 隣に座るスネイプの口が、休まず動いている。

 

 こちらが振り払おうとするたび、その動きを押さえる呪文が重なった。弱い宿主に任せず、自ら唱えても、今の身体では一息に押し切れない。

 

 邪魔な男へ向き直れば、ハリーへの呪いが途切れる。

 

 ヴォルデモートは、声を継いだ。

 

 クィレルの組んだ指へ力が入り、爪の先が白くなる。

 

 空を向く顔に、内側の望みが滲んでいた。

 

     ◆

 

「スネイプだわ」

 

 ハーマイオニーが言った。

 

 ロンが振り向く。

 

「何だって?」

 

「ハリーを見て、何か唱えてる。あの先生が、箒を呪ってるのよ!」

 

 鬼太郎は、彼女の向いている方を見た。

 

 実況席から離れた列に、黒いローブがあった。そばの生徒が立っても、スネイプは腰を上げず、空へ顔を向け続けている。

 

 隣には、クィレルも座っていた。

 

「私、行くわ」

 

 ハーマイオニーは双眼鏡をハグリッドへ返した。

 

 ロンが口を開く前に、列の間へ身体を入れる。

 

「待って、何をするんだよ!」

 

「止めなきゃ!」

 

 立ち上がった生徒の背を抜け、通路へ出た。

 

 キーノも一歩追いかけたが、椅子と人に塞がれ、足を止める。

 

「あいつ、どうやって止めるつもりだ」

 

 鬼太郎には、答えられなかった。

 

 スネイプが何かを唱えているなら、箒へ手を出しているのかもしれない。だが、止めようとしている可能性もある。

 

 ミネルバも、空へ杖を向けている。

 

 その理由は、ハリーを落とすためではない。

 

「ハグリッドさん。僕にも、貸していただけますか」

 

 鬼太郎は黒檀を携帯位置へ戻してから、双眼鏡を受け取った。

 

 両手で持ち、スネイプへ向ける。

 

 眉間には皺が寄り、顎にも力が入っていた。動き続ける唇の上で、目はハリーを追っている。

 

 箒が跳ねた。

 

 スネイプの顔が、一層険しくなった。

 

 鬼太郎は、その目をしばらく見た。

 

 それから、レンズを横へ動かす。

 

 クィレルの顔が入った。

 

 同じ空を見ていた。

 

 鬼太郎の指が、双眼鏡の縁で止まった。

 

 男の唇は、動いていない。

 

 怯えて座り込んでいるようにも見える姿だった。だが、ハリーが柄へ手を伸ばしかけると、目が細くなった。

 

 箒がそれを振り払う。

 

 男は、その先を見ようとした。

 

 鬼太郎は、似た目を見たことがあった。

 

 銃を向けた相手が、遮る壁から出てくるのを待つ。呪文を避け損ねた身体が、崩れるところを確かめる。

 

 自分へ向けられたこともあった。

 

 自分が、そうして見ていたことも。

 

 怖くて顔を背けられない者の目とは、違った。

 

 あの手が離れるところを、待っている。

 

「どうだよ。スネイプだろ?」

 

 ロンの声で、鬼太郎は双眼鏡を下ろした。

 

「唱えているところは、見えました」

 

「だったら――」

 

「何を唱えているかは、聞こえませんね」

 

 ロンが、もどかしそうに顔を歪めた。

 

 上空でまた悲鳴が上がり、彼はそちらへ向き直る。

 

 キーノが、鬼太郎のそばへ顔を寄せた。

 

「お前が見てたのは、隣だな」

 

「ええ。クィレル先生です」

 

「何かしてたのか」

 

「気になる顔を、していました」

 

 杖を振ったところは見ていない。

 

 声も聞こえなかった。

 

 それだけで何もできないと言うなら、鬼太郎自身の左手も、同じはずだった。

 

 だが、あの教師に何ができるかまでは、知らない。

 

 鬼太郎はハグリッドへ双眼鏡を返し、通路を進むハーマイオニーを探した。

 

 人の間に、茶色い髪が見えた。

 

 ハーマイオニーは腰を屈め、教師たちの席の後ろへ回ろうとしていた。

 

 鬼太郎は空を見た。

 

 ハリーの腕は、まだ伸び切っている。双子の箒が下を巡り、フーチが横から手を出せる場所を探していた。

 

 観客席へ目を戻す。

 

 ハーマイオニーが、前へ出ていた生徒の脚を避けた。

 

 その肩が、クィレルへぶつかった。

 

 ターバンが傾いた。

 

 クィレルは椅子へ手をつきかけ、そのまま前の列へ身体を崩した。

 

 隣の生徒が、振り向く。

 

 鬼太郎は、ハリーを見た。

 

 跳ね上がりかけた箒が、途中で揺れた。

 

 今までのように、腕が振り切られない。

 

 ハリーの肘が、曲がった。

 

 もう片方の手が柄へ届く。

 

 次に観客席を見たとき、黒いローブの裾に火が上がっていた。

 

 スネイプが立った。

 

 周りの生徒が椅子を離れ、誰かが叫ぶ。黒い袖が炎を叩き、火のついた裾が揺れた。

 

 鬼太郎は、二つの場所を見比べた。

 

 先に、クィレルが倒れた。

 

 箒の動きが弱まった。

 

 それから、火が見えた。

 

 火のついた瞬間まで見たわけではない。立った生徒の背で、隠れたところもある。

 

 それでも、見えた順番を、逆に覚えておく必要はなかった。

 

「戻ったぞ!」

 

 キーノが手すりを掴んだ。

 

 ハリーは柄へ胸を寄せていた。

 

 片脚を上げ、身体を引き戻す。

 

 箒は、今度はそれを振り払わなかった。

 

     ◆

 

 座席の縁が、クィレルの額へ当たった。

 

 宿主の痛みと、急に変わった視界が、ヴォルデモートの集中を断った。

 

 継いでいた声が途切れる。

 

 残った呪いを、スネイプの反対呪文が抑え込んだ。

 

 クィレルは肘をつき、身体を起こそうとした。

 

 その横で火が上がる。

 

 スネイプも詠唱をやめ、席から立った。

 

 もう一度、ハリーへ力を向けるだけの間はあったかもしれない。

 

 だが、逃げようとした生徒の脚が宿主の肩へぶつかり、身体がまた傾いた。空に戻った視界では、双子がハリーのそばへ寄っていた。

 

 ヴォルデモートは、呪文を継がなかった。

 

 クィレルが額を押さえる。

 

 痛みに歪んだ顔を、そのまま、何が起きたか分からず怯える教師の顔へ変えた。

 

     ◆

 

 ハリーは、柄へ両手を置いていた。

 

 指が震えている。

 

 開くのが怖くて、しばらく握ったままでいた。

 

 ニンバスは、揺れなかった。

 

 右へ傾けると、右へ動く。

 

 少し下へ向けると、身体も滑らかに下がった。

 

「ポッター! 操縦できるか?」

 

 フーチが近づいてきた。

 

「はい。今は、もう……動きます!」

 

 声が思ったより大きく出た。

 

 フレッドとジョージも、箒の左右へ来る。片方が、ハリーの手を覗いた。

 

「本当に大丈夫か?」

 

「うん」

 

 ハリーは、もう一度柄を下へ向けた。

 

 いつものニンバスだった。

 

 さっきのことが嘘だったように、身体を運んでくれる。

 

 観客席で、ロンが腕を振っていた。

 

 ハリーは小さく頷いてから、競技場へ顔を戻した。

 

 まだ試合中だった。

 

 緑の選手が運ぶクアッフルが、ウッドの守る方へ向かっている。

 

 その動きへついていきかけ、やめた。

 

 自分が探すのは、別の球だ。

 

     ◆

 

 ハーマイオニーが戻ると、ロンは彼女の通る場所を空けた。

 

「やったじゃないか! 止まったよ!」

 

 彼女は息を切らし、手すりへ片手をついた。

 

「ローブに、火をつけたの」

 

「見えた! あれでスネイプがやめたんだ!」

 

 キーノが、彼女の腕を取った。

 

「怪我は?」

 

「ないわ。大丈夫」

 

 ハーマイオニーはハリーを見上げた。

 

 ちゃんと、箒へ座っている。

 

 両脚が柄を挟んでいるのを見て、ようやく肩の力が抜けた。

 

 鬼太郎は、教師たちの席を見た。

 

 スネイプは焼けた裾を離し、また空へ顔を向けている。

 

 クィレルは、額を押さえていた。

 

 そばの生徒へ何か答え、落ち着きなく顔を動かしている。

 

 さっきの目は、もうなかった。

 

「戻れて、よかったですね」

 

 鬼太郎が言うと、ハーマイオニーは頷いた。

 

「あのままだったら、落ちてたわ」

 

 どちらの教師が何をしていたにせよ、彼女が動いた後で、ハリーは箒へ戻った。

 

 鬼太郎は、それを見ていた。

 

 隣へ来たキーノが、小さな声で尋ねる。

 

「さっきの顔は?」

 

「後で、お話ししましょう」

 

 鬼太郎は答えた。

 

 ここでクィレルを指すつもりはなかった。

 

 疑っている相手にも、こちらがどこを見ているかは分かる。

 

     ◆

 

 手を離すのは、まだ怖かった。

 

 ハリーは指を一本ずつ動かし、柄を握り直した。

 

 肩の痛みも残っている。

 

 それでも、空を見ることはできた。

 

 試合着の赤と緑が、下を行き交う。

 

 輪へ向かうクアッフル。その脇から来る黒い球。

 

 もっと低いところで、金色の光が走った。

 

 ハリーは身体を伏せた。

 

 ニンバスが下がる。

 

 芝の近くを飛ぶスニッチへ、今度こそ目を合わせた。

 

 銀色の羽が震えている。

 

 視界の端に、緑の試合着が入った。

 

 ヒッグズだった。

 

 ハリーは前へ寄り、さらに速度を上げた。芝が迫り、眼鏡の縁へ風が押しつけられる。

 

 片手を伸ばした。

 

 指先を、銀の羽が掠める。

 

 スニッチが跳ね上がった。

 

 ハリーも顔を上げた。

 

 口元に、硬いものがぶつかった。

 

 息が詰まった。

 

 驚いて柄を引き、箒の先だけが上がる。

 

 身体は、そのまま前へ進んだ。

 

 芝へ肩から落ち、転がる。

 

 土の匂いがした。

 

 ハリーは肘をつき、咳をした。

 

 口の中で、何かが動いている。

 

 もう一度咳をして、手を当てた。

 

 金の球が、掌へ転がり出た。

 

 銀の羽が、指の間で震えていた。

 

     ◆

 

「落ちた!」

 

 ロンが乗り出しかけ、手すりへ両手をついた。

 

 鬼太郎も、芝へ目を凝らす。

 

 ハリーは起き上がっていた。そばへフーチが下りる。

 

 口へ当てていた手が、今度は高く上がった。

 

「スニッチだ!」

 

 ロンの声が裏返った。

 

 笛が鳴った。

 

 ジョーダンが、実況台へ身を乗り出す。

 

「ポッターが捕まえた! 口で――ともかく、スニッチはポッターの手にあります!」

 

 歓声で、その先が聞こえなくなった。

 

 ネビルとディーンが互いの肩を掴む。

 

 ハーマイオニーもキーノの手を取り、一緒に腕を上げた。キーノは引かれた手を見て、それから笑った。

 

 後ろのハグリッドが、両手を叩いている。

 

「百七十対六十! グリフィンドールの勝利!」

 

 ジョーダンの声が、ようやく届いた。

 

 箒へ皆の目が向いていた間にも、点は入っていたらしい。だが、今は、その差が何点だったかを気にする者はいなかった。

 

 ミネルバが、大きく息を吐いた。

 

 次には、手を叩いていた。

 

「よくやった、ポッター!」

 

 その手が、隣の肩へ落ちた。

 

「ジョーダン、勝ったんですよ!」

 

「分かってます! 今、そう言いました!」

 

 ジョーダンは肩を引きかけたが、ミネルバの手はしっかり掛かっていた。

 

 鬼太郎も笑った。

 

 競技場では、赤い試合着がハリーへ集まっている。

 

 ウッドが肩を抱き、双子が左右から何か言っていた。ハリーは立ち上がり、スニッチを落とさないよう持ち直した。

 

「口でも、いいんですね」

 

「捕まえたんだもの! 反則じゃないよ!」

 

 ロンが勢いよく答える。

 

「それなら、見事な勝ち方です」

 

 鬼太郎は、拍手を送った。

 

 落ちかけた後でも、ハリーはまた球を追った。

 

 手は、まだ痛むだろう。

 

 それでも、最後に伸ばしたのは、その手だった。

 

     ◆

 

 夕方、談話室の卓には、菓子と飲み物が並んでいた。

 

 ハリーが肖像画の穴をくぐると、暖炉の前から杯が上がる。

 

「今日のシーカーだ!」

 

 ハリーは入口で止まり、照れたように笑った。

 

 後ろのウッドが、背中を押す。

 

 フレッドとジョージも続いて入ってきた。

 

「次は、もっと大きく口を開けとけよ」

 

「夕食まで入るようにな」

 

「飲み込んでないってば」

 

 ハリーが言い返し、周りが笑った。

 

 ロンは既に、近くの一年生へ最後の急降下を説明していた。腕を広げた先から、上級生が飲み物を避ける。

 

 鬼太郎も、回ってきた杯を受け取った。

 

 甘い果汁の匂いがした。

 

 キーノが菓子の包みを開き、ハーマイオニーへ向ける。

 

「これ、食べるか」

 

「半分もらってもいい?」

 

 割って分けたところへ、また乾杯の声が来た。

 

 ハリーは杯を持ち替えた。

 

 空いた手の指を、そっと開いている。

 

 それを見たハーマイオニーが何か言うと、ハリーは握ったり開いたりして、笑って答えた。

 

 鬼太郎も一口飲んだ。

 

 ハリーがあの手を離さずに済んだことは、喜べた。

 

 ただ、クィレルは、同じことを喜んだだろうか。

 

 スネイプも、クィレルも、空にいるハリーを見ていた。

 

 待っている結末まで同じだったとは、鬼太郎には思えなかった。

 

 キーノが杯を持って、隣へ来た。

 

 何か言いかけた彼女へ、鬼太郎は窓際の椅子を示す。

 

 暖炉の前では、ロンがもう一度、腕を広げていた。

 

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