第101話 余白に残した問い
窓際の椅子へ座ると、暖炉の前の話が聞き取りにくくなった。
キーノは杯を卓へ置き、鬼太郎の方へ膝を向けた。
「クィレル先生のことだな」
「ええ」
「何が気になったんだ」
鬼太郎は、近くの椅子が空いていることを確かめた。
「ハリーさんが、落ちるのを待っている顔でした」
キーノの指が、杯から離れる。
「……助けが来るのを、じゃなくてか」
「はい。スネイプ先生とは、違っていましたね。あちらも険しい顔でしたが、箒が跳ねると、ますます必死になっていました」
キーノは、暖炉の方を振り返った。
ハリーのそばに、ハーマイオニーがいる。ロンが腕を振ると、彼女が杯を遠ざけ、何か言った。
「ハーマイオニーは、スネイプの呪文を止めたと思ってる」
「そうですね。ただ、僕が見たときは、クィレル先生が倒れた後で、箒の動きが弱まりました。服の火が見えたのは、その後です」
「なら、あの先生がやってたんじゃないのか」
「その方が、気になります。ですが、火のついた瞬間まで見たわけではありません。何を唱えていたかも、聞こえませんでした」
鬼太郎は、杯を卓の奥へ寄せた。
落ちる身体を待つ目なら、知っている。
それが、どんな呪文を使っていた証拠になるかは、別だった。
「私たちも、あの先生の授業を受けるぞ」
「ええ。覚えておいてください。何も知らずに近づくよりは、よいでしょう」
「校長に言わないのか」
鬼太郎は、少し考えた。
「あの方にも、何かお考えがありそうですね」
「今日のことを、知ってるのか?」
「伺ってはいません。トロールのときも、全部が見落としだったとは、おっしゃいませんでしたので」
「でも、悪魔は知らなかったんだろ」
鬼太郎はキーノを見た。
「ええ。そちらは、ご存じありませんでした」
「だったら、今日も知ってるとは限らない。知ってたとしても、ハリーは落ちかけたぞ」
暖炉の前で、乾杯の声が上がった。
鬼太郎は、杯を上げずに答えた。
「安心して忘れるつもりはありませんよ。校長先生とお話しするときも、僕が見た順番のまま、お伝えする方がよさそうですね」
「顔だけで、犯人だと言うんじゃなくてか」
「はい。ただ、あの顔を見なかったことにする必要もありません」
キーノは、しばらく彼を見ていた。
「あいつを追ったりするのか?」
「今は、そのつもりはありません。誰かがハリーさんへ何かをしていた。それ以上のことは、こちらから確かめに行くほど、まだ分かっていませんので」
「なら、いい。私にも、分かったことは言えよ」
「もちろんです」
キーノが杯を取り直した。
鬼太郎も一口飲む。甘さの残る口で、続けた。
「別に、調べたいこともできました」
「今度は何だ」
「箒を止めるためなのか、暴れさせるためなのか、唱えているところを見ても、分かりませんでした。僕は、知らないものが多すぎますね」
「一年生だろ」
「相手も、一年の授業に合わせてくださるなら、助かるんですが」
キーノが鼻を鳴らした。
「図書館へ行くんだな」
「ええ。それと、近づかれる前に止めるものや、杖を奪うものを。枝を浮かせるだけでは、間に合いませんでしたから」
「本を読んだら、すぐ試すつもりじゃないだろうな」
「先生へ相談する紙が、ありますよ」
「書いたままにするなよ」
鬼太郎が返事をしたところで、ハリーが二人へ手を振った。
キーノは立ち、空いた杯を持ち上げる。
「行くぞ。今日は、あいつが勝った日だ」
鬼太郎も、その後へ続いた。
◆
翌日、図書館で鬼太郎が探したのは、呪いを端から覚えるための本ではなかった。
動きを止める呪文と、相手の武器を奪う呪文。その二つを説明すると、パンス夫人は閲覧できる書架を示した。
目次を確かめ、二冊だけ卓へ持ってくる。
キーノは向かいへ座り、一冊目を覗いた。
「全身金縛り?」
「ペトリフィカス・トタルス、というそうです」
鬼太郎は、帳面へ名称を書いた。
キーノが本と帳面を見比べる。
「石みたいになるのか。身体そのものが?」
「いえ。石に変えるのではなく、手足を揃えて、身体を動かせなくするようです」
「全身なら、目もか?」
鬼太郎は、その先の説明まで読み直した。
「目は動き、意識も残る、とありますね。固まっている間に何をされるかは、分かるのでしょう」
キーノの眉が寄った。
「それ、掛けられた方は嫌だな」
「ええ。ですから、自分で使えるようにしておきたいです」
鬼太郎は、名称の下へ書いた。
石への変身ではない。手足を含めた拘束。意識と目の動きは残る。
さらに一行、空ける。
「立ったまま固まったら、倒れるぞ」
キーノが言った。
「階段でも、同じでしょうね」
鬼太郎は、掛ける場所、と書き加えた。
動けなくなれば、それで無事に済むとは限らない。止めた相手を生かしておきたいなら、転ぶ先も考える必要があった。
グロブニク、と書きかけたところで、キーノがペン先を見る。
「また、あいつに試すのか」
「覚えて、相手をしていただければ。ただ、これも毛を揺らすだけかもしれませんね」
名前の横に、効くか未確認、と残した。
呪文の説明には、あの大きな黒い身体も、近づく爪も載っていない。
鬼太郎は、余白へ小さく、効かなければ下がる、と書いた。
二冊目には、武装解除があった。
エクスペリアームス。
名称を写し、手にした武装を奪うという説明を追う。
「身体を動けなくしなくても、杖がなくなれば、使えない呪文が増えますね」
「強く握ってても、取れるのか」
キーノが聞いた。
鬼太郎は前の頁へ戻ったが、知りたい条件を全て答える記述はなかった。
「どのくらい握っていたら難しくなるかまでは、分かりませんね。紐で腕へ繋いでいたらどうなるかも、伺いたいです」
「お前の銃も、取られるかもしれないな」
「手に持っているところを狙われたら、そうでしょうね」
自分が奪う場合の下へ、奪われた場合、と書く。
杖を失えば、今ここで読んでいる呪文も使えない。
鬼太郎には左手の魔法がある。それを知らない相手なら、武装解除で終わったと思うかもしれなかった。
同じように、相手にも、見えていない手段があるだろう。
「飛んだ杖を拾えば、いいのか」
キーノが尋ねた。
「拾いに行く間、持ち主も動けますね」
鬼太郎は、枝の両端を見ていた間に、黒い肩が迫ったことを思い出した。
「杖ばかり見ていたら、また近づかれそうです」
「今度は、杖ばかり見るな、か」
彼女の口元が上がった。
鬼太郎も笑いかけ、パンス夫人がこちらを見たので、声を落とす。
「ええ。同じことを、別の物で繰り返すところでした」
帳面に二つ並んだ名前へ、目を落とした。
奪うことと、止めること。
どちらも、まだ本で読んだだけだった。
キーノは全身金縛りの頁へ戻り、自分の紙にも名前を書き始めた。
◆
次の授業日の放課後、ハリーはロンとハーマイオニーを誘い、ハグリッドの小屋へ向かった。
廊下では、まだ試合のことを声に掛けられた。
だが、窓から競技場が見えると、ハリーの掌には、柄へしがみついていた感触が戻った。
あれが、もう一度起きたら。
扉を叩くと、ファングが吠えた。
ハグリッドは三人を招き、茶を淹れ始める。暖炉のそばには、底へ泥のついた長靴があった。
大きな身体が、窓の外へ向く。
「どうしたの?」
ハリーが尋ねた。
「森でな。ユニコーンが一頭、殺されてた」
ロンが、引きかけた椅子を止めた。
「誰かが、殺したの?」
「俺が見つけたときは、もう手遅れだった。綺麗なやつだったんだがな」
ハグリッドは、カップを卓へ置いた。
「誰が何のためにやったか、確かめにゃならん。お前さんたちは近づくなよ」
森の奥は、窓からでも暗く見えた。
ハリーは膝へ鼻を寄せるファングを撫で、話し始めた。
「僕たち、試合のことを聞いてほしくて。スネイプが、箒に何かしてたと思うんだ」
「スネイプ先生が? そんなことをするわけがない」
「私、見たのよ」
ハーマイオニーが、唇を動かしていた教師と、ローブへつけた火について説明した。
火と聞くと、ハグリッドは目を見開いた。
「先生に火をつけたんか!」
「ほかに、止める方法が思いつかなかったの」
「ハリーが落ちそうだったんだよ。あのままじゃ――」
ロンが言いかける。
ハグリッドはハリーを見て、口を閉じた。
「……怖かったろうな」
ハリーは頷いた。
あの高さを説明しようとすると、指の痛みまで思い出しそうだった。
茶のカップが、そばへ寄せられる。
「だが、お前さんを嫌ってるからって、殺そうとするか?」
「三階の犬が守ってるものを、狙ってたら?」
ハリーが言うと、ハグリッドの手が止まった。
頭が三つある犬のことを話した途端、大きな声が小屋へ響く。
「フラッフィーのところへ入ったんか!」
「名前があるの?」
「そりゃある。俺が連れてきたんだからな。二度と近づくんじゃないぞ」
「床の扉を守ってるんでしょう?」
ハーマイオニーが尋ねた。
ハリーは七月に見た、小さな包みを思い出す。
「グリンゴッツから、持ってきたもの? 金庫に侵入した人は、あれを盗めなかったんだ」
ハグリッドは、髭へ手を当てた。
「スネイプも、それを――」
「スネイプ先生も、守る役目をしてるんだ。ダンブルドアとニコラス・フラメルの大事なことへ、首を突っ込むんじゃない」
そこで、言葉が止まった。
三人が顔を上げる。
「ニコラス・フラメルって、誰?」
ハグリッドは、カップへ目を落とした。
「今のは、忘れてくれ」
ハリーは温かい茶を両手で持った。
ニコラス・フラメル。
どこかで見たような名前だった。けれど、何に書いてあったかを思い出そうとすると、そこから先が出てこない。
小屋を出た後、ハーマイオニーは二人へ声を落とした。
「図書館で調べましょう。ダンブルドアと一緒に守っている人なら、何か載っているはずよ」
ロンが頷き、ハリーも続いた。
ハグリッドには忘れるように言われたが、三人とも、その名前を覚えていた。
◆
その頃、鬼太郎は図書館で、キーノの書いた線を見ていた。
全身金縛りの説明から写した、杖の動きだった。
「この矢印の先で、止めるのか。それとも、先まで動かしてから相手へ向けるのか」
キーノは本の図と、自分の線を順に指した。
「同じ線を描いても、そこが違えば、杖先の向きが変わりますね」
鬼太郎は、教師へ渡す紙へ問いを書き加えた。
終わる位置と、対象へ向ける時機。
空中で振ってみる代わりに、本を閉じる。
「鬼太郎?」
顔を上げると、セドリックが本を抱えて立っていた。
隣の席を尋ね、静かに椅子を引く。
キーノとは改めて名を交わした。セドリック・ディゴリー。キーノ・ファスリス・インベルン。呼び方を決めると、彼は卓の帳面へ目を向けた。
「武装解除と、全身金縛り。もう使えるの?」
「いえ。本で読んだところです。今日は、先生へ相談に行こうと思いまして」
セドリックの目が、名前の下へ動いた。
「奪われた場合も、書いてあるんだ」
「相手も、使うかもしれませんので」
「僕は、最初は当てることばかり考えてたな」
彼は顔を上げた。
「一緒に行ってもいい? この前の練習の話も、先生にお願いしたい」
鬼太郎が答えるより先に、キーノが言った。
「私も、入るぞ」
「もちろん。先生がよいとおっしゃれば」
セドリックが答えた。
鬼太郎は、二つの呪文を書いた紙を揃える。
教わるだけでなく、覚えた後に向ける相手もできそうだった。
◆
フリットウィックは、教卓で答案を揃えていた。
三人を迎え、鬼太郎の差し出した紙を受け取る。
「授業より先の呪文ですね。もう試しましたか?」
「いいえ。キーノさんと読みましたが、まだ使っていません」
「それは結構。特に全身金縛りを、廊下で立っている友達へ試してはいけませんよ」
先生の指が、掛ける場所、と書いたところへ来た。
「ここは気づいていますね。身体が固まっても、その場へ立ったまま留まるとは限りません」
「解くところも、教えていただきたいです」
鬼太郎が言うと、先生は頷いた。
「ええ。動けなくした相手を、そのまま置いて帰られては困りますからね」
キーノが、自分の写した図を差し出す。
「杖を止める場所も、見てほしい。ここで止めるのか、対象へ向け直すのか、図だけでは分からなかった」
フリットウィックは二枚を並べた。
「矢印を大きく真似するだけにならないよう、実際の手の動きを見ましょう。本から写した線を、今ここで急いで直すより、その方がよさそうです」
キーノは紙を見てから、顔を上げた。
「分かった」
鬼太郎の紙を読み進めた先生は、余白で目を止めた。
「効かなければ下がる。動いている相手にも、使いたいのですね」
「はい。浮かせる物を見ている間に、近づかれました。呪文を変えても、次にどうするかが要ると思いまして」
フリットウィックが、鬼太郎を見る。
「それで、ディゴリーも?」
「僕から誘いました。使い方を比べてみたいんです」
セドリックが答えた。
「学年が違っても、僕にも勉強になると思います」
「よいでしょう。ただし、最初から撃ち合いません。発音と杖の動き、次に用意した対象。そこから、人を相手にする練習へ進みます」
先生は、三人を順に見た。
「私が止めたら、すぐ止める。決めた呪文の範囲を越えない。勝ちたくなってから、約束を変えないこと。できますね?」
「はい」
鬼太郎が答え、セドリックとキーノも続いた。
「では、明日の放課後に。教室はこちらで整えておきます。使える呪文は、その前に聞かせてもらいますよ」
鬼太郎は、鞄の留め金から指を離した。
ようやく、場所と相手と、教わる順番が決まった。
フリットウィックは、もう一度紙を見る。
「武装解除で飛んだ杖を見すぎる心配も、もっともです。杖を持っていない相手にも、手と足はありますからね」
「先生も、決闘で使われたんですか」
セドリックが聞いた。
「何度も、使いましたよ」
「若い頃、チャンピオンだったと聞きました」
鬼太郎は、先生へ顔を向けた。
小さな手が、紙の端を揃えている。
「ずいぶん前のことです」
フリットウィックは笑った。
「それでも、武器を奪ったから終わりだと思って、慌てたことは覚えています。続きを忘れないのは、大事ですよ」
鬼太郎は帳面を開き直した。
奪った杖の下へ、相手の手と足、と書く。
その横に、まだ空いている場所を残した。
◆
教室を出てセドリックと別れると、キーノが鬼太郎の顔を見た。
「チャンピオンの話から、楽しそうだったな」
「そんなに、分かりましたか」
「分かる。先生へ向ける顔じゃなかったぞ」
鬼太郎は、閉じた帳面へ目を落とした。
明日は、まず教わる日だ。
だが、何度も相手の武器を奪ってきた手が、すぐ近くで動くところも見られる。
「よく見ておきたいですね」
「自分が杖を振るときまで、先生ばかり見るなよ」
鬼太郎は笑い、帳面を鞄へ収めた。
余白の続きは、明日、確かめてから書くつもりだった。