第102話 杖のない一歩
教室の中央から、机がなくなっていた。
壁際へ寄せた机の向こうに、セドリックがいる。床には長い線が引かれ、その奥には、鬼太郎の背ほどの木製人形が立っていた。
片方は短い棒を握り、もう片方の後ろには、厚い敷物が敷かれている。
「本当に、用意してくださったんですね」
鬼太郎が言うと、教卓の向こうでフリットウィックが顔を上げた。
「転んでもよい場所を、先に決めておきませんとね。本と鞄は机へ。今日は、杖だけ使います」
鬼太郎は鞄を下ろし、帳面をその上へ置いた。
右腰の銃には、手を伸ばさない。
黒檀を右手に持って進むと、先生は使える呪文を尋ねた。
灯すものと消すもの、修復、浮遊、くすぐり。授業の解錠と、マッチ棒を針へ変えるところまでを伝える。
「ルーモスは、一度に強く光らせることもあります」
「今日は、相手の目へ向けてはいけません。狭い教室で見えなくなれば、壁にぶつかりますからね」
「分かりました」
キーノとセドリックにも確かめてから、先生は床の線を指した。
「手合わせは、この内側で行います。私が止めたら、すぐに杖を下げること。杖が飛んでも、拾うために急に屈まない。まず相手を見て、練習が止まったと確かめなさい」
三人の返事を聞くと、フリットウィックは教卓から出てきた。
「では、武装解除を。ディゴリー、お願いします」
セドリックが、杖を持って向かいに立つ。
鬼太郎は先生の手を見た。
そのまま、足元にも目が向いた。
小さな身体だった。
普段と同じ声で話し、肩に力も入っていない。それでも、向かいへ踏み込んだら、こちらの動き始めを取られそうだった。
「いつもどおりに。わざと指を固く握り込まなくて結構ですよ」
セドリックが構える。
「エクスペリアームス」
赤い光が走った。
杖が手を離れる。
鬼太郎が、宙へ上がったそれを見たときには、先生は空いた手で受け取っていた。
目は、セドリックへ残っている。
「今のように、手にしている杖を奪います」
フリットウィックは杖を返した。
「もう一度、見せていただけますか」
鬼太郎が頼むと、先生は彼を見た。
「何を見たいですか?」
「唱える前と、唱え終わるところを。今は、飛んだ杖を追ってしまいました」
「では、ゆっくり。今度は、杖先がどこへ収まるかも見てください」
先生は実演を区切り、鬼太郎とキーノに、声を出さずに動きを確かめさせた。
◆
鬼太郎の最初の光は、人形の肩を掠めた。
棒は、指の間に残っていた。
「終わりを急ぎましたね。今、杖先はどこへ向いていましたか」
鬼太郎は、自分の右手を見た。
「握っている手より、上でした」
「ええ。動き終わる前に、力を送ろうとしています。今度は狙う位置へ収めてから」
鬼太郎は杖を下げ、教わった動きを声なしで繰り返した。
銃なら、狙いがついてから引き金を引く。
こちらでは、狙うところへ杖先を運ぶ動作そのものも、呪文の一部だった。最後の形だけ揃えればよいわけではない。
「エクスペリアームス」
次の光は、棒を持つ手へ届いた。
棒が跳ね、床へ落ちる。
「発動しましたね。同じようにできるか、続けて確かめましょう」
人形が棒を拾い直した。
鬼太郎は唱えかけ、自分で止まった。成功したところを見続けていた手が、先ほどより高く上がっている。
位置を戻すと、先生は何も言わずに頷いた。
キーノの棒が飛んだのは、その後だった。
最初は光が届いても、棒が揺れるだけだった。先生に最後の音が途切れていると指摘され、彼女は呪文の後半を、杖を下げたまま言い直した。
「……アームス」
「そう。急いで終わりを飲み込まないように」
動きと声を合わせ直す。
今度は棒が手を離れた。
キーノは落ちた先を見てから、鬼太郎へ顔を向けた。
「できたぞ」
「ええ。ちゃんと、取れましたね」
彼女は自分の杖を見た。
喜びのまま繰り返しかけず、一度、手首の位置を確かめている。
◆
全身金縛りの実演では、人形の腕が脇へ寄った。
脚も揃う。
硬くなった身体が傾き、後ろの敷物へ倒れた。
鬼太郎は、頭の落ちた場所を見た。
「向こうがこちらへ倒れてきたら、避けなければいけませんね」
「ええ。動けなくしたら、そこで見ていてよいとは限りません」
先生は人形へ杖を向け、解除を実演した。
「フィニート・インカンターテム」
揃っていた腕と脚が、離れた。
「人を相手にしたら、解くと声を掛けなさい。固まっていても、聞こえていますよ。今日は、今掛けた拘束を解くところまで練習します」
キーノが昨日写した図を出した。
「矢印の終わりは、ここか」
「紙の線を大きくなぞろうとして、手首が返りすぎていますね。少し戻しましょう。そう、最後に杖先が相手から外れないところまで」
先生の指が彼女の手へ添えられた。
キーノは、直された位置から、もう一度だけ動かした。
鬼太郎の初回は、人形へ光が届いても、腕が揃わなかった。
先生は、唱え終えた後で杖を横へ流していると指摘した。
鬼太郎は人形の正面へ向き直り、最後まで狙いを残した。
「ペトリフィカス・トタルス」
腕が、体側へついた。
人形が後ろへ倒れる。
鬼太郎はすぐに歩み寄らず、先生を見た。合図を受け、習った解除を唱える。
片脚が横へ開き、木の手が敷物へついた。
起き上がったところまで見届ける。
キーノも、何度か姿勢を直してから、同じように倒した。
「これから、解くぞ」
人形に声を掛け、解除を唱えた。
動き始めた腕を見ると、息を吐く。
「自分で戻せたな」
「ええ」
鬼太郎が答えると、キーノは人形の肩へ目を向けた。
「近づかれる前に、止めるものができた」
誰かの前へ身体を差し込むだけでなく、離れたところから使えるものが。
鬼太郎には、彼女が何を思い出しているか、少し分かった。
「当てる練習も、要りますね」
「分かってる。だから、来たんだろ」
セドリックが笑い、杖を持ち直した。
「じゃあ、次は僕が歩く番だね」
◆
歩く相手には、同じように当たらなかった。
鬼太郎が狙った手は、唱え終える頃には、横へ進んでいる。
追いつこうとして杖を大きく動かすと、今度は先生から声が来た。
「墓場。先ほど、人形へ使った動きから変わっていますよ」
鬼太郎は、杖を下ろした。
「もう少し、ゆっくりにしようか」
セドリックが尋ねる。
「いえ。その速さでもう一度、お願いします」
撃てると思う瞬間は、ある。
だが、そこから今の呪文を始めると遅い。慣れた手段なら間に合うところへ、同じつもりで押し込もうとしていた。
相手の歩幅を見て、今度は早く準備を始めた。
「エクスペリアームス」
杖が、セドリックの手を離れた。
鬼太郎は、その顔を見たままだった。
相手は立っている。
杖の飛んだ方へ、まだ歩ける。
「そこまで。今の動きを覚えておきなさい」
先生が杖を受け止め、持ち主へ返した。
キーノの番でも、光は何度も手の横を抜けた。
一度だけ当たったときには、彼女はすぐ先生へ向いた。
「今のは、最後に追いかけなかった」
「ええ。手首も大きく返していませんでしたね」
キーノは杖を下げ、直前の動きを小さく確かめた。
窓から入る光が、床へ長く伸びていた。
先生は二人を休ませ、水を飲む時間を取った。
「この先は、次にしましょう。疲れて崩れた動きを繰り返すより、できたところを残して帰る方がよいですよ」
鬼太郎が杯を置くと、フリットウィックは彼とセドリックを見た。
「短い手合わせも、するのでしたね」
「お願いできますか」
「ええ。ただし、墓場は、今日の二つと解除を使いません。今は発動を確かめた段階です。これまで使ってきた呪文の範囲で」
「分かりました」
「僕の武装解除は?」
「ディゴリーは構いません。ほかも、先ほど確認したものだけです」
キーノが線の外へ出る。
鬼太郎は杯を戻し、右手へ黒檀を持った。
「また、顔が変わったぞ」
「そんな顔ですか」
「ああ。さっきまで、人形を睨んでたのに」
向かいでセドリックが笑った。
「誘ってよかったよ。そんなに楽しみにしてくれてたなら」
「ええ。とても」
鬼太郎は一礼し、足を置き直した。
◆
「始め」
「エクスペリアームス!」
赤い光が、鬼太郎の右手のそばを抜けた。
斜めへ踏み出した足を止めず、杖を向ける。
「リクタスセンプラ」
セドリックは身を引いた。
ただ後ろへ逃げたのではない。次に杖を振れる位置へ足を置き、もう鬼太郎を見ている。
次の赤い光が来た。
鬼太郎は横へ避け、床の線へ近づいた。
セドリックは追ってこない。
中央へ半歩進み、こちらが戻る場所へ杖先を向けた。
鬼太郎の口元が緩んだ。
避けた先まで、使われている。
後ろへ退き続ければ、線を越える。内側へ戻るところを、相手は待っていた。
「リクタスセンプラ」
唱えながら、前へ出た。
セドリックが横へずれる。
鬼太郎はその方へ身体を向け、距離を縮めた。
相手の目が、こちらの杖へ落ちる。
鬼太郎は手を引いた。
まだ光は来ていない。それでも、出したままにしておけば、狙われると思った。
引いた分だけ、唱え始めるのが遅れる。
「エクスペリアームス!」
今度は、低い。
鬼太郎は身体を捻った。
大きな黒檀のそばを、赤い光が抜ける。
足を置き直す前に、セドリックは次の構えへ戻っていた。
◆
フリットウィックは、二人の足を見た。
ディゴリーは、同じところへ撃ち続けなかった。避ける向きを見て、相手が戻る場所を狭めている。
墓場も、それには気づいた。
後退をやめ、呪文を返しながら近づく。
目と足に、杖の動きが追いついていない。
しかし、間に合わないと分かれば、途中で捨てて避けられる。
先生は、腰の杖へ指を添えた。
昔、練習場で順番を待っていた生徒たちを思い出す。
負けた直後に、相手へ何を見ていたのか尋ねる者がいた。次に来るときには、同じところを取られないよう、動きを変えていた。
決闘クラブが残っていれば、この二人にも来てもらいたかった。
上手いから、というだけではない。
向かいに相手がいることで、自分を変えようとする。その面白さを、二人とも知っている。
鬼太郎が、線の内側へ戻った。
先生は、昔の練習場から目を戻した。
◆
セドリックの肩が動きかけた。
鬼太郎は、先に踏み出した。
武装解除の前に、何度か同じ動きがあった。唱え終わるところまで待たず、その手へ向ける。
「リクタスセンプラ」
光が、腕へ触れた。
セドリックの息が短く漏れ、肩が揺れる。
鬼太郎は、その間にもう一度杖を出した。
だが、相手の足は止まらなかった。
口を結び、笑いを堪えながら横へずれる。
杖を持つ手が上がった。
「エクスペリアームス!」
赤い光が、黒檀を捉えた。
指が開いた。
鬼太郎は飛んだ杖へ手を伸ばしかけ、戻した。
セドリックから目を離さず、もう一歩、横へ動く。
「そこまで」
先生の声で、足を止めた。
セドリックも杖を下げている。
黒檀は、床へ落ちる前に先生の魔法で止まっていた。
鬼太郎は、空いた右手を見た。
左手には、力を出せる余地がある。
右腰にも、銃はあった。
だが、今日は決めた呪文での練習だ。それを使って、杖を取られた事実を消すつもりはなかった。
「今の、当たったね」
セドリックの声には、まだ笑いが混じっていた。
「ええ。ですが、止まりませんでした」
鬼太郎は答えた。
先生がくすぐりを解き、黒檀を返してくれる。
「当てた後、次へ移ったのは結構です。ただ、相手がどれほど動けるかを、見ずに続けてしまいましたね」
「もう少し、崩れるかと思いました」
「ディゴリーは、足を止めずに杖を戻せました。苦しい間に、先に使ったのはよかったですよ」
セドリックが頷く。
鬼太郎は黒檀を握り直した。
「もう一度、お願いしたいところですが」
「今日は、終わりです」
先生は笑った。
「代わりに、今なら覚えていることを、書いておきましょう」
◆
キーノが持ってきた帳面へ、鬼太郎はペンを走らせた。
くすぐりが当たっても、足と杖は止まらなかった。
その下で、少し考える。
「もっと強ければ、どうでしたか」
尋ねると、セドリックは喉へ触れた。
「同じように返せたかは、分からないよ。今でも、唱えるのは苦しかった」
強くすれば、それだけよいのか。
そこへ力を込める間に、別の呪文が来るかもしれない。
鬼太郎は答えを決めず、余白へ残した。
先生が、最初の武装解除で直したことを尋ねる。
「杖の動きが終わる前に、力を送ろうとしていました。最後に、手を狙う位置へ収めてからです」
「ええ。動く相手では?」
「急いで追いかけず、準備を早く始めました」
鬼太郎は二つを分けて書いた。
隣ではキーノが、呪文の最後の音、と記している。
「また、練習をお願いできますか」
セドリックが聞いた。
「ええ。授業に支障が出ないよう、日を決めましょう」
「私も、動く相手へもっと当てたい」
キーノが言うと、先生は頷いた。
「今日、できたときの動きを確かめていましたね。その続きをやりましょう。以前は、こうした練習のための決闘クラブもあったのですよ」
「今は、ないんですか」
鬼太郎が顔を上げる。
「廃部になり、活動していません。今日の二人を見ていると、あそこで練習させたくなりますね」
先生の手が、教卓の縁へ置かれた。
「ですが、今はこの教室で、今日の続きからです」
鬼太郎は、実演のときの立ち姿を思い出した。
飛んだ杖を受け取っても、次の動きを見ていた手。
その先生に見てもらい、次の相手を待てる場所があったのだ。
「それは、楽しそうですね」
答えると、フリットウィックは目を細めた。
◆
廊下には、灯りがともっていた。
階段で別れる前に、セドリックが言った。
「次は、あんなに近づかせないようにするよ」
「では、僕は近づく方法を考えておきます」
「先に言うんだね」
彼は笑い、キーノにも手を上げて去っていった。
鬼太郎は、その足音を聞きながら歩き出す。
「負けたな」
キーノが言った。
「ええ。取られました」
「嬉しそうだぞ」
「面白かったですから。先生も、あんなふうに立たれるんですね」
「お前、先生ともやりたくなったんだろ」
鬼太郎は、返事より先に笑った。
キーノが息を吐く。
「まず、今日のことからだぞ」
「ええ。今日も、直すことが増えました」
右手で、鞄の紐を持ち直した。
杖のないまま踏み出した一歩も、覚えている。
次は、その前にできることを増やしたかった。