第103話 肩の癖
夕食の後、キーノは帳面を開き、全身金縛りの下に書いた言葉を指した。
「解く方は、二つ目が長いな」
鬼太郎も、隣から覗き込む。
フィニート・インカンターテム。
教室では唱えられたが、ここで読み返すと、最後を急いだところまで思い出した。
「インカン、ターテム。いったん分けて、確かめましょうか」
キーノが、小さな声で繰り返した。
二つに分けてから、続ける。
今度は、途中で帳面へ目を戻さずに言えた。
「先生の前だと、早く終わらせようとしてた」
「僕は、動く相手に急がされました。急いで、余計に当たらなくなりましたが」
鬼太郎は自分の記録へ目を落とした。
相手を追って、大きく振らない。
その下には、くすぐりが当たっても、足と杖は止まらなかった、とある。
それを指でなぞりかけたとき、窓際からロンの声が聞こえた。
「こっちにも、いないよ。フラメルなんて」
「人名索引は、見た?」
ハーマイオニーが尋ねた。
「見てる。ニコラスだろ?」
「まず姓の方。フラメルで探して。ニコラスだけなら、別の人かもしれないわ」
ロンが、厚い本の後ろを開き直した。
ハリーは隣で、別の本の目次を追っている。
鬼太郎はペンを置いた。
「どなたかを、お探しなんですか」
ハリーが顔を上げた。
「ニコラス・フラメル。知ってる?」
「いいえ。初めて聞くお名前ですね」
ハリーは椅子を寄せ、小屋で聞いた話をした。
三階の犬は、フラッフィーという名前で、ハグリッドが連れてきたこと。
犬の守るものに、ダンブルドアとフラメルが関わっているらしいこと。
「ハグリッドは、忘れろって言ったけど。名前が分かれば、何を守ってるかも分かるかもしれないだろ」
「スネイプが、何を盗もうとしてるのかもね」
ロンが付け加えた。
キーノが顔を上げ、鬼太郎へ一度目を向ける。
鬼太郎はその視線を受けてから、ハリーに尋ねた。
「金庫から運ばれたものを、学校で守っていると思っているんですね」
「うん。七月に、ハグリッドが小さな包みを出したんだ。あの金庫へ侵入した誰かは、もう空になってたから、盗めなかった」
鬼太郎は、三人の前にある本を見た。
探しに行く場所が分からなくても、名前なら、頁の中に残っているかもしれない。
扉の下に何があるのか、鬼太郎も知らなかった。
知っているのは、あそこへ入ってはいけないと言われていることと、その学校で、既に何度か危険なものへ出会ったことだった。
トロール。
その前にいた、二匹の悪魔。
競技場で、ハリーへ向けられていた目。
全てが同じものを目指しているとは、まだ言えない。
だが、一度失敗した相手が、次も同じ方法で来るとは限らなかった。
「グレンジャーさん。見つかったら、僕にも聞かせていただけますか」
ハーマイオニーが、開いた本から顔を上げた。
「あなたも、気になるの?」
「ええ。ただ、同じ本を僕も探すより、あなたにお願いした方がよさそうです」
「どうして、私?」
鬼太郎は、彼女の膝にある紙へ目を向けた。
本の名前と、確かめるところが、いくつも書いてある。
「入学前から読んで、実際に試していたと、汽車で伺いましたね。授業でも、分からないところへ戻れる方ですから」
ハーマイオニーの指が、紙の上で止まった。
「今も、一冊で見つからなかったからといって、そこでやめていません。一人で何冊も選ぶより、あなたが確かめたことを聞かせていただきたいんです」
彼女は、少し姿勢を起こした。
「見つかったら、話すわ。でも、あなたは何をするつもり?」
「練習を、続けようと思います」
ロンが、鬼太郎の帳面へ目を落とした。
「今日、セドリックとやったんだろ。どうだった?」
「杖を取られました」
「負けたの?」
「ええ。呪文は当たったんですが、それで止まると思ったところへ、返されまして」
ハリーが、帳面の最後の一行を見た。
「次に何かあったら、その人と戦うつもりなの?」
「何が相手かも、まだ分かりませんよ。ただ、今日できなかったことが、そのときもできないままでは、困りますので」
鬼太郎は帳面を少し引き寄せた。
「何をしているか知らずに杖を向けるのも、よくありません。ですから、調べて分かったことは、教えてください」
「勝手に、三階へ行ったりしないでね」
ハーマイオニーが言った。
「今は、そのつもりはありません」
「僕らだって、もう一度あの犬に会いたいわけじゃないよ」
ロンは本へ目を戻し、姓の並ぶ頁を指で辿った。
ハリーも自分の本を開く。
鬼太郎は、三人のそばでペンを取り直した。
くすぐりが当たった後も、相手は動いた。
その一行の下へ、相手が止まると決めて、次を急いだ、と書き加えた。
◆
翌日、セドリックは廊下の窓辺に、チョウを見つけた。
待っていた恋人へ歩み寄ると、彼女は挨拶より先に、彼の顔を覗いた。
「何か、いいことがあったの?」
「どうして?」
「さっきから笑ってるもの」
セドリックは、自分の頬へ一度触れた。
「昨日、フリットウィック先生に練習を見てもらったんだ」
「それで、そんなに?」
「一年生と、少し手合わせもしてね。前に話した、グリフィンドールの墓場鬼太郎だよ」
二人は、階段へ向かってゆっくり歩いた。
セドリックは、最初の武装解除を避けられたことを話した。
戻ってくるところへ狙いを移すと、今度は逆に、近づいてきたことも。
説明する手が、身体の脇で少し動いた。
チョウが、その手を見た。
「今も、続き?」
「ああ……そうかもしれない」
セドリックは手を下ろした。
「呪文は少ないんだ。でも、こっちがいつ向けるかを、よく見てる。近づいてくると、唱え終わってから避けようとしても、遅れそうになる」
「あなたが勝ったの?」
「最後は、僕が杖を取ったよ。その前に、くすぐりを当てられたけど」
「勝った話なのに、ずっと相手の話をしてるわね」
セドリックは、一度口を閉じた。
それから笑った。
「思っていたのと、違ったからかな。覚える手伝いができればと思ってたんだけど、自分が直したいことも増えた」
「何を直すの?」
「近づかれたときの動き方。それに、僕が何を見ていたかを、向こうも見てたから。同じようには、できないと思う」
チョウは、彼の隣へ少し寄った。
「よかったわね。次に会うのが、楽しみな相手ができて」
「うん」
返事をしてから、セドリックは昨日の教室を思い出した。
杖を返された一年生は、取られた理由を、すぐ帳面へ書いていた。
次の準備をしているのは、自分だけではないだろう。
◆
呪文学の授業で、鬼太郎の羽根は、同じ高さに留まりながら先を揺らしていた。
止めようと、指へ力を入れる。
揺れは、むしろ大きくなった。
「今、握り直しましたね」
そばへ来たフリットウィックが言った。
「はい。動いてしまうので」
「では、握り潰さないくらいに、少し緩めてみましょう。手首まで固くすると、小さく直したい動きも大きくなりますよ」
鬼太郎は、親指の力を抜いた。
杖を落とすほどではない。
握っておくための力と、揺れを押さえようとして足した力を、分けてみる。
羽根の先が、一度横へ動いた。
鬼太郎は追いかけすぎず、同じ高さに残す。
しばらくしてから、机へ下ろした。
「武装解除でも、ここが固くなっていましたね」
先生が自分の手首を指す。
「ええ。速く戻そうとすると、また力が入ります」
「速くしようとする前に、戻れる動きにしましょう」
隣では、キーノが低く浮かせた羽根を下ろしていた。
机へ触れる手前で、ゆっくりにする。
先だけが滑りかけたが、今度は、大きく戻そうとはしなかった。
授業の後、二人は教室での自主練習を尋ねた。
先生は予定を確かめ、使える時間を決めた。
「用意した人形への練習だけです。人を相手にするのは、私が見られるときに。今日の復習も、先に済ませなさい」
渡された紙には、羽根の揺れを直そうとしたとき、変えた動きと、その後の羽根の様子を書く欄があった。
鬼太郎は、談話室へ戻ってから記入した。
握る力を緩め、手首まで固めないようにした。揺れを見て、すぐ逆向きへ戻そうとしなかった。
キーノは隣で、下ろす直前に速さを落としたことと、横へ滑っても戻しすぎなかったことを書いた。
同じ授業でも、直したところは同じではない。
二人は自分の紙を鞄へ入れ、練習へ持っていく帳面を開いた。
◆
次に教室を使ったとき、鬼太郎は、棒を奪った後の足までを一度の練習にした。
「エクスペリアームス」
棒が、人形の手を離れる。
鬼太郎は肩の辺りを見たまま、横へ動いた。
そこで、次の構えを取る。
初めから二つ続けて唱えようとすると、先へ急ぐ声が最初の呪文を乱した。棒が揺れただけで終わり、足だけが次の場所へ出てしまう。
鬼太郎は、杖を下げた。
「取れたことにして、進んでいたな」
自分の練習を休めたキーノが言った。
「ええ。まだ、持たれていましたね」
鬼太郎は帳面へ、棒が手を離れたかを確かめる、と書いた。
杖を目で追わないことと、効いたか見ないことは違う。
もう一度構える。
今度は一つだけ唱え、棒のなくなった手を見てから、足を出した。
キーノも、同じように試した。
動こうとするあまり、最後の音をまた飲み込みかける。そこで一度声だけを確かめ、杖を向け直した。
棒が落ちた。
彼女は床の音を聞きながら、人形へ目を残す。
鬼太郎は既に、自分の立ち位置を変えていた。
前の手合わせで、中央へ戻ろうとした場所だった。
あそこへセドリックが立っていたら、こちらが出る先は、どう見えるだろう。
床の線を見てから、相手の高さへ目を戻す。
◆
キーノは、その横顔を見た。
何かが起きる前に力をつける、という話は、嘘ではないのだろう。
だが、今の彼を動かしているものは、それだけではなかった。
向かいに、もう一度立ちたい相手がいる。
そのための練習になると、失敗したところまで、次に試すものへ変わっていく。
キーノは小さく息を吐き、自分の人形へ向き直った。
自分にも、外した一回を、そのままにしたくない気持ちはあった。
◆
数日後、フリットウィックが見たときには、鬼太郎の最初の一回で棒が飛んだ。
少し違う位置へ立たせて、もう一度。
赤い光が手へ届く。
「前より、終わりの杖先が落ち着きましたね」
「大きく振ると、次へ戻すのも遅れますので」
鬼太郎は、自分の右手を見た。
「セドリックさんの呪文が来たとき、間に合いませんでした」
「よく覚えていましたね。では、こちらも」
全身金縛りを受けた人形が、敷物へ倒れた。
鬼太郎は声を掛け、解除まで終えた。
キーノの武装解除は、一度目には成功し、二度目は横へ外れた。
先生が尋ねるより先に、彼女は手を見た。
「下がった。最後に、手が」
「ええ。今度はそこを、確かめてみなさい」
直して唱えた光で、棒が飛んだ。
フリットウィックは二人の帳面を開いた。
できなかった、という一言の代わりに、どこへ杖先が向いていたかが残っている。
同じ一回の成功でも、最初の日とは、持ち帰ってきたものが違っていた。
◆
セドリックとは、その帰りに階段の踊り場で会った。
本を抱えて降りてきた彼は、二人を見て足を緩める。
「練習の帰り?」
「ええ。先生に見ていただきました」
「二つとも、使えるようになった?」
「止まっている人形には、前よりは。セドリックさんへ当たるかは、まだ分かりませんね」
「じゃあ、僕も考えておかないと」
鬼太郎は手すりの脇へ寄った。
「僕が近づいたとき、後ろへ下がり続けませんでしたね」
「追いかけやすいだろうと思って。横へ動けば、君も杖の向きを変えるから」
「なるほど」
「こっちも聞いていい? 最後、僕が唱える前に動いたとき、何を見てたの?」
「肩です。杖を向ける前に、少し動いていましたので」
セドリックは、自分の肩へ目を落とした。
「……気づかなかったな」
「では、次は違うかもしれませんね」
彼は顔を上げ、笑った。
「聞いたからには、同じままにはしておけないね」
キーノは、通りかかる生徒のため鞄を引いた。
二人は手を振って別れたが、鬼太郎は階段を上がってからも、少し考えていた。
帰れば、今のことも書き加えるのだろう。
キーノは、それを急かさずに待った。
◆
その夜、フリットウィックは答案を片づけ、古い引き出しを開けた。
綴じ紐の褪せた書類を取り出す。
決闘クラブの練習表だった。
参加者と、使わせる呪文。
組み合わせを変えた理由。
余白には、昔の自分が書いた注意が残っていた。
勝ちを急ぐ者には、発動前を見直させる。
負けを怖がる者には、できたことも伝える。
先生は、紙を押さえた。
ディゴリーは、予想しない動きをされても、相手を見続けた。
墓場は、奪われた杖を、自分の練習へ持ち帰った。
キーノも、最初の成功を喜ぶだけでなく、次に同じようにするため、手を確かめていた。
三人で続けるにも、時間を取らなければならない。
もっと多くの生徒へ広げるなら、場所と、組み合わせと、見られる人数を考える必要がある。
ほかの教師との相談も要るだろう。
フリットウィックは、新しい紙を置いた。
決闘クラブ再開について。
そう書いてから、まず自分の予定を開く。
まだ、誰かを集める知らせを出す段階ではなかった。
◆
談話室で、鬼太郎は帳面の余白へ一行を足した。
肩が動くのを待ちすぎない。同じ動きを、次にもするとは限らない。
セドリックに教えたから、というだけではない。
自分も、取られたところを変えようとしていた。
相手の方だけが、前のままでいるはずはなかった。
少し離れたところで、ハーマイオニーが本へ紙を挟んだ。
返すものと、まだ確かめるものを分けている。
今夜も、フラメルは見つからなかったらしい。
鬼太郎は自分の帳面を閉じた。
何を守っているのかは、まだ分からない。
次に向けられる杖も、今日の記録どおりではないだろう。
だから、明日も、同じ動きをただ繰り返すつもりはなかった。
「私は、もう寝るぞ」
キーノが立った。
「ええ。僕も片づけます」
鬼太郎はペンを収め、本を揃えた。
彼の口元を見て、キーノが鼻を鳴らす。
「まだ、やってる顔だな」
「考えるだけでしたら、杖も要りませんので」
「寝るのも、忘れるなよ」
鬼太郎は笑い、鞄を持った。
「おやすみなさい、キーノさん」
「おやすみ」
男子寮へ向かう階段で、右手の指を一度、緩めた。
次に構えたときには、ここから変えておこうと思った。