第百三話 温かな卓にも、影は残る
昼食を終えて談話室へ戻ると、鬼太郎は窓に近い卓へ教科書を置いた。
地下で書いた紙を、その横へ広げる。
教科書の材料名には、授業前につけた印が残っていた。そこへ、使う部位と処理を確かめること、名前が違っていても同じ植物を指す場合があることを書き足した。
キーノも向かいで本を開いている。
「ここは、順番まで覚えないとな」
彼女の指が、ヤマアラシの針を加える工程で止まった。
「ええ。火から下ろした後ですね」
鬼太郎は答え、自分たちの鍋に浮いていた泡を思い返した。
火を弱めるよう言われる前と、後。
文章だけを読んでいたときには、あの違いまでは分からなかった。
余白へ短く記すと、キーノが覗き込んだ。
「次は、先生に言われる前に気づけるか」
「同じ状態なら。ただ、違う薬でも同じとは限りませんからね」
「じゃあ、また聞くことが増えるな」
「そうなりそうです」
鬼太郎は笑った。
暖炉の方では、ロンがハリーへ何か話していた。午前中より声は落ち着いているが、スネイプの名が出ると、ハリーの眉が寄る。
鬼太郎は紙を読み終え、教科書の間へ挟んだ。
次に開いたときにも、どの説明と一緒に聞いたか分かるようにしておく。
キーノも帳面を閉じた。
「そろそろか」
窓から射す光は、卓の端まで移っていた。
鬼太郎は頷き、二人へ声を掛けた。
◆
城の外へ出ると、ハリーは深く息を吸った。
芝生を渡る風が、頬に触れる。
教室の場所を探すときと違い、今日は案内板や階段を気にする必要がなかった。ハグリッドの小屋は、禁じられた森の近くに見えている。
ロンが隣を歩き、少し後ろに鬼太郎とキーノが続いた。
「ずいぶん近いんだな、森まで」
キーノが言った。
ハリーは黒く重なる木々を見た。
「入っちゃいけないって、校長先生が言ってたよね」
「どんなものがいるかも、知らないしな」
ロンは森から目を外し、小屋の方へ顔を向けた。
扉のそばには、大きな靴が置かれていた。
ハリーが戸を叩く。
すぐに、内側から太い吠え声が返ってきた。
ロンが半歩下がる。
「犬?」
爪が床を引っかく音がした。
ハグリッドの声が、それに重なる。
「待て、ファング。ちょいと下がってろ」
扉が開いた。
隙間から、大きな黒い頭が出てくる。
垂れた頬と、濡れた鼻。ハリーが顔を引くより先に、犬は彼の手へ鼻先を寄せた。
「よく来たな、ハリー。さあ、みんな入ってくれ。こいつはファングだ。でかい図体してるが、臆病なやつでな――」
犬が動きを止めた。
ハリーの脇から、後ろを見ている。
鬼太郎が、扉の前へ来ていた。
ファングの耳が伏せられた。
喉から漏れた音は、さっきの吠え声とは違った。短く鼻を鳴らし、前脚を引く。大きな身体がハグリッドの脚へぶつかり、それでも後ろへ下がろうとした。
「おい、どうした」
ハグリッドが首輪へ手を添える。
ファングは鬼太郎から目を離さず、尻尾を脚の間へ巻き込んだ。
鬼太郎は立ち止まっていた。
杖も出していない。手は身体の横にあり、ただ犬を見ている。
「驚かせてしまったようですね」
その声がすると、ファングはさらに身を低くした。
ハグリッドの後ろへ回り、戸口から離れる。
ハリーは鬼太郎を見た。
いつもの、穏やかな顔だった。
さっきまで自分の手を嗅いでいた犬が、なぜそこまで怖がるのか分からない。
「嗅いだことのねえ匂いでもしたか?」
ハグリッドは犬へ目を落としたまま言ったが、首を傾げていた。
「無理に、近づかない方がよさそうです」
鬼太郎が脇へ寄る。
ハグリッドはファングを奥へ行かせ、それから扉を大きく開けた。
「まあ、座ってくれ。茶なら、もう用意してあるぞ」
◆
鬼太郎は、犬から離れた椅子を選んだ。
ファングは寝床へ入ったものの、伏せきらずにこちらを見ている。視線を返すと、すぐに顔を背けた。
自分から何かした覚えはなかった。
それでも、扉の前で身体を縮めた様子は、明らかな怯えだった。
キーノが隣へ腰を下ろす。
犬を見てから、鬼太郎へ顔を寄せた。
「何もしてないよな」
「ええ」
「なら、追いかけるなよ」
「逃げている相手へ、挨拶を続けるつもりはありませんよ」
鬼太郎が答えると、彼女は椅子を卓へ寄せた。
小屋には、一つの部屋へ暮らしの道具が収められていた。
天井から下がるものも、壁際の寝台も、ハグリッドの身体に合っている。卓へ置かれたカップまで、鬼太郎が普段使うものより大きかった。
ハグリッドは皿を運びながら、皆の顔を順に見た。
「あの晩は、ろくに話もできんかったな。お前さんたち、名前を教えてくれるか?」
ロンが先に名乗った。
赤い髪へ目を向けたハグリッドの顔が、すぐにほころぶ。
「ウィーズリーか。お前さんの兄貴たちも、よく知っとるぞ。チャーリーは、生き物の扱いがうまくてな」
「今は、ルーマニアでドラゴンの仕事をしてるんだ」
「そうか、ドラゴンか! あいつなら、うまくやっとるだろうな」
ハグリッドが嬉しそうに頷く。
鬼太郎も名前を告げ、キーノが続いた。
「キーノ・ファスリス・インベルンだ。キーノでいい」
「鬼太郎と、キーノだな。さあ、遠慮せんで食べてくれ」
皿には、ごつごつした菓子が盛られていた。
キーノが一つ取り、端へ歯を立てる。
すぐに動きが止まった。
鬼太郎も、自分の分を指で割ろうとした。
割れなかった。
向かいでは、ロンが口を閉じたままハリーを見ている。
「どうだ?」
ハグリッドが聞いた。
ハリーはカップを取った。
「お茶も、もらうね」
キーノが鬼太郎の手元へ目を向けた。
彼は菓子を皿へ戻し、茶を一口飲む。
温かかった。
その間に、ハグリッドは大きな椅子へ座り、学校の様子を尋ね始めた。
◆
ハリーは、変身術の話から始めた。
ハーマイオニーと鬼太郎が、マッチ棒を一度で針に変えたこと。
呪文学の先生が積んだ本へ上がっていたことや、魔法史の先生が幽霊だったことも話した。
ハグリッドは相槌を打ち、ときどき笑った。
話しているうちに、午前の授業が近づいてくる。
「それで、今日はスネイプ先生だったんだけど」
ハリーはカップを置いた。
「僕のこと、嫌いみたいなんだ」
ハグリッドの笑みが少し止まる。
ハリーは質問に答えられなかったことを話した。それから、ネビルの鍋が壊れた後で、自分まで叱られたことも。
「隣にいただけだよ。僕たちだって、自分の薬を作ってたのに」
「そうだよ」
ロンが身を乗り出す。
「ハリーが何か入れたわけじゃないんだ。止めなかったって言われても、見てなかったし」
ハグリッドは髭へ手をやった。
「スネイプは、誰にでも厳しいからな。お前さんを嫌う理由なんて――」
「マルフォイのことは褒めてた」
ハリーは言った。
そこは、聞き違えていない。
ハグリッドは茶を飲んだ。
カップを下ろしてから、鬼太郎へ顔を向ける。
「お前さんたちも、同じ授業か」
「ええ。僕も一点、減点されました」
「お前さんもか?」
「先生がハリーさんへ質問している途中で、口を挟んでしまったので」
鬼太郎は答えた。
「その後、許可を待ってから尋ねたことには、答えていただけました。ただ、ハリーさんが隣の方の失敗まで望んでいたというお話は、僕にもそう見えませんでしたね」
ハリーは頷いた。
ハグリッドは彼の顔を見て、それから卓のカップへ目を落とした。
「まあ、まだ一週間じゃないか。そう気を落とさんでいい。これから、うまくいくこともあるさ」
学校の話は聞いてくれた。
だが、スネイプについては、それ以上話したくなさそうだった。
ハリーが口を開こうとすると、ハグリッドはロンへ、チャーリーから便りは来るのかと尋ねた。
◆
ドラゴンの話になると、ハグリッドは椅子の背から身体を起こした。
ロンは兄から聞いた話を、思い出しながら伝えている。
鬼太郎は二人の会話を聞き、その切れ目を待った。
「ハグリッドさん。ネズミについても、伺ってよろしいですか」
「ネズミ?」
「ええ。こちらの魔法界で飼われているネズミは、普通のものより長く生きるのでしょうか」
ハグリッドは首を振った。
「普通のネズミなら、魔法使いが飼ったって寿命は変わらんぞ」
鬼太郎はロンへ目を向けた。
ロンが自分のポケットを押さえる。
「スキャバーズのことなんだ。パーシーのお下がりで、兄貴が学校へ入る前から、うちにいたから」
「今、連れてるのか」
「うん。寝てる」
ロンはポケットから、丸まったネズミを出した。
掌の中で、灰色の身体が少し動く。
ハグリッドは身を屈めたが、大きな指を伸ばして掴もうとはしなかった。
「そりゃ、ずいぶん長いな」
「だから、何か違うところがあるのではないかと思いまして」
鬼太郎が言った。
ハグリッドはネズミを見ながら、髭を撫でた。
「人の言うことが分かる、賢いやつはいるぞ。言いつけを覚えたり、飼い主の言葉に合わせて動いたりな」
「こいつも、汽車でゴイルに噛みついたよ」
ロンの声が少し明るくなった。
「僕のお菓子を取ろうとしたときに」
「ほう! ちゃんとお前さんの役に立ったじゃないか」
ハグリッドが笑う。
ロンは掌のネズミを見た。
スキャバーズは鼻を動かし、彼の指へ頭を押しつけた。
鬼太郎は、その背中へ目を留める。
「言葉が分かるほど賢くても、寿命まで違うというわけではないのですね」
「ああ、賢いのと長生きするのは別だ。もしかすると、ネズミに似た魔法生物かもしれんな」
「似たものが、いるんですか」
「マートラップなんか、ネズミによく似とるぞ。ただな、背中にイソギンチャクみたいな触手が生えとる。海岸にいるやつだ」
鬼太郎は、ロンの掌を見る。
背中には、灰色の毛が生えている。
ハグリッドもそこを見ていた。
「こいつには、そんなもんは生えとらんな。長生きしとるってだけじゃ、何の生き物かまでは分からんよ」
ロンがスキャバーズを持ち直した。
「家でも、ずっとネズミだって思ってたよ」
「家の人に聞いてみたらどうだ? いつからいたか、お前さんより覚えとるかもしれんぞ。お前さんが小さい頃の話だろう?」
「母さんなら、覚えてるかな」
「聞いてみてください。僕も、その答えは気になります」
鬼太郎が言うと、ロンは頷き、ネズミをポケットへ戻した。
キーノは自分のカップを持っていた。
「見ただけでは、分からないこともあるんだな」
「そりゃあるさ。似てるやつもいれば、同じ種類でも性質の違うやつがいる」
ハグリッドは答え、床へ目を落とした。
ファングは寝床の縁へ顎を載せていた。
こちらの視線に気づくと、顎を引き、ハグリッドの椅子の陰へ鼻先を隠す。
「どうしたんだろうな、こいつ。今日は妙に怖がっとる」
ハグリッドが呟いた。
鬼太郎は犬から目を外した。
ネズミについて得られた答えを、頭の中で整理する。
賢い個体はいる。
だが、普通のネズミなら、魔法界にいるというだけで長く生きるわけではない。
別の生き物かもしれないという可能性も、まだ確かめる手掛かりにすぎなかった。
詳しい相手に尋ねても、一度で全部が分かるとは限らない。
ロンの家族が知っていることを聞いてから、また考えればよさそうだった。
◆
ハリーは卓の端にあった紙へ目を向けた。
ティーポットの覆いの下から、新聞の切り抜きが覗いている。
グリンゴッツの文字があった。
ハグリッドはロンと話している。ハリーは紙を少し引き出し、見出しの下を読んだ。
銀行へ何者かが侵入した事件について、調査が続いているという記事だった。
七月三十一日。
ハリーの指が止まった。
自分の誕生日だった。
ハグリッドとダイアゴン横丁へ行き、グリンゴッツにも入った日だ。
続きを読む。
狙われた金庫の中身は、その日のうちに、すでに持ち出されていたらしい。侵入者が手に入れたものは、なかった。
暗い地下と、走るトロッコを思い出した。
自分の金庫から、別の場所へ行った。
七百十三番。
ハグリッドが取り出したのは、金貨ではなかった。
「ハグリッド」
呼ぶと、彼が顔を上げた。
「銀行に誰か入ったの、僕たちが行った日なんだね」
ハリーは切り抜きを示した。
ハグリッドの視線が、紙へ落ちる。
「ああ、あったな」
「中身は、先に持ち出されてたって」
ハリーは言い、彼の顔を見た。
「あの日、君も金庫から何か出してたよね」
ロンが二人を見る。
ハグリッドはカップへ手を伸ばしたが、持ち上げずに止まった。
「あれは、お前さんの買い物とは別の用事でな」
「分かってる。でも、あの包みは――」
「ハリー、あれは学校の大事な仕事で預かったもんだ。俺が勝手にしゃべるわけにはいかんのだよ」
声が、少し低くなった。
怒ってはいなかった。
それでも、続きを言うと困らせることだけは分かった。
ハリーは紙へ目を戻した。
金庫の番号は、記事には書かれていない。
同じ場所だと分かったわけではなかった。
だが、あの日の小さな包みが、急に気になってきた。
ハグリッドは皿を卓の中央へ押した。
「さあ、茶のおかわりはどうだ?」
ハリーは頷いた。
注がれるお茶へ目を落としても、あの包みの形が頭から離れなかった。
◆
帰る頃には、ファングは寝床から出ていた。
ハリーの椅子へ近づき、大きな鼻を彼の肘へ押しつける。
ハリーは頭を撫でた。
犬は気持ちよさそうに目を細めたが、鬼太郎が椅子を引く音には、すぐに頭を上げた。
立った彼を見て、ハリーの膝の陰へ退く。
鬼太郎はその場で待ち、キーノを先に通した。
「お茶を、ありがとうございました」
「また来てくれ。聞きたいことがあったら、遠慮せんで聞けよ。俺に分かることなら、教えてやるからな」
ハグリッドが言った。
「ええ。今日も、教えていただけて助かりました」
鬼太郎が戸口を出ると、ファングの爪が床を踏む音がした。
ハリーが振り返る。
犬はハグリッドの横まで出てきていたが、扉の向こうへはついてこなかった。
四人は城へ向かって歩き始めた。
ハリーのポケットには、帰り際に持たせてもらった菓子が入っている。
歩くたび、その硬い角が脚へ当たった。
「何の包みだったの?」
ロンが小声で尋ねた。
「分からない。学校の用事だって言ってたから」
ハリーは答えた。
「でも、金庫には、それしかなかったんだ」
「銀行へ入ったやつが、それを探してたかもしれないのか」
「そうかもしれない。ただ、同じ金庫だったかは、まだ分からないよ」
口にしてみても、気になることは減らなかった。
ロンは、木々の方を一度見た。
ハグリッドの小屋は、まだそこに見えている。
ハリーも振り返った。
温かいお茶を飲み、学校の話を聞いてもらえた。
午前中の嫌な気分は、来る前より薄れている。
それでも、ハグリッドが答えなかったことが、二つ残っていた。
スネイプと、あの包み。
城の入口へ目を戻すと、開いた扉の奥は暗く見えた。
◆
鬼太郎は、ロンのポケットへ目を向けた。
ネズミは、また眠っているらしい。
今日の答えでは、長く生きている理由までは分からなかった。
ハリーが見つけた記事にも、聞いただけでは分からない部分がある。
銀行へ侵入した者と、持ち出された品。
その品が同じものだったかさえ、今の話では確かめられていない。
ハグリッドが口を閉じた以上、ここで答えを増やすことはできなかった。
隣でキーノが、ローブの袖を整える。
「犬は、最後まで駄目だったな」
「ええ。僕が出た後は、動いていましたね」
「大きさの割に、怖がりだ」
彼女は言ってから、鬼太郎を見る。
「それにしても、何がそんなに嫌だったんだろうな」
「僕にも、聞いてみたいところです」
鬼太郎が答えると、キーノは小さく鼻を鳴らした。
ハリーとロンは、前でまだ包みの話をしていた。
鬼太郎は入口の段差へ足を掛ける。
小屋で聞いた生き物の名前は、覚えている。
図の載っている本なら、あの背中がどのようになっているかも分かるだろう。
今日の質問から、次に確かめるものが一つ増えた。
城へ入ると、石の壁が外の風を遮った。
背後で扉が閉まり、小屋の方から届いていた鳥の声が遠くなった。