第106話 爪の下で
朝食の後、鬼太郎は杯を置き、左手を開いた。
昨夜よりは軽い。だが、握ってから指を伸ばすと、掌の奥に使った後の重さが残っていた。
すぐに出発せず、食器を片づけてから庭を歩いた。根を越え、片足へ重みを掛け、向きを変える。足は普段どおり動いた。
部屋へ戻ると、キーノが戸口から腰を見た。
「銃は?」
「今日は、置いていきます」
ケストレルは、外したホルスターごとしまってあった。
「杖と、こちらの力を続けて使ってみたいので」
鬼太郎が左手を上げると、彼女はその指へ目を向けた。
「昨日の分は」
「少し残っています。歩く方は、確かめました」
「途中で駄目なら、明日でもいいだろ」
「ええ。出てきていただけなければ、それも同じですね」
キーノは自分の杖を携え、戸口を空けた。
庭では、サーシェスが二人を待っていた。
「俺も見に行くぞ。昨日あれを見せて、あいつがどう返すか気になる」
「では、来ていただけるかも、聞いてみます」
「追い返されたら、お前の負ける音だけ聞いてるさ」
鬼太郎は笑い、門の脇にいたボグダンへ行く先を伝えた。
白い石までは、三人で歩いた。
沢へ下りる分かれ道で、昨日の足跡が見えた。鬼太郎はそちらへ向かわず、谷への道を進む。近づくほど、枝の間に残る朝の冷たさが濃くなった。
石の外で止まり、声を掛ける。
「グロブニクさん。来ました」
返事はすぐにはなかった。
キーノが足元の細枝を踏まない場所へ移り、サーシェスは少し離れた幹へ寄った。鬼太郎は黒檀を抜かずに待った。
やがて、奥で葉が擦れた。
黒い頭が、低い枝の下から現れる。古傷のある左目の反対で、暗赤色の右目が三人を順に見た。
「昨日の続きか」
「ええ。今日は銃を持ってきていません。杖と、火や雷を使いたいんです」
グロブニクは、鬼太郎の腰へ鼻先を向けた。
「我は、どちらも受ける」
「どちらかが終わりと言ったら、そこで。こちらの二人は、離れて見ていてもよろしいですか」
「木の向こうへ回せ。逃げる先へ立たせるな」
サーシェスが幹から離れた。
グロブニクは身体を返し、石より奥へ進んだ。
「入れ」
鬼太郎は、その後へ続いた。
◆
地面の広いところへ出ると、グロブニクは奥へ回った。
鬼太郎は枯れ葉の下を靴で確かめた。根の露出した場所と、土の柔らかい窪みがある。前に枝を浮かせたときとは、少し場所が違った。
腕ほどの長さの、細い枯れ枝を拾う。
「それも使うのか」
「使えるところがあれば」
鬼太郎は枝を根の横へ置いた。太さも重さも、学校で動かしていたものと大きくは違わない。
キーノとサーシェスが、示された木の向こうへ離れる。
鬼太郎は右手に黒檀を持ち、左手を空けた。
「お願いします」
グロブニクが、前脚を開いた。
鬼太郎は横へ動きながら、肩の少し後ろへ杖先を向ける。
「ペトリフィカス・トタルス」
光が、黒い毛へ届いた。
肩が沈む。
止まったのかと思った次の瞬間、前脚が土を蹴った。
鬼太郎は斜めに退いた。
人間の腕と脚が揃ったときとは、まるで違う。あの身体が硬いまま倒れることを待っていたら、もう牙の前だった。
左手を、足元へ向けた。
「ブフ」
湿った葉が白くなり、下の土まで凍りつく。
グロブニクの前脚が乗った。
横へ、滑った。
鬼太郎は右へ回ったが、黒い身体は倒れなかった。後ろ脚が氷の外へ広がり、爪が土を掴む。低い姿勢のまま、頭だけがこちらへ向いた。
「ジオ」
左手から放った雷が肩へ走った。
毛が逆立つ。
それでも、前脚は来た。
鬼太郎は跳び退き、爪の届く先から抜けた。足をついたところで膝を曲げ、次の一歩をすぐ出せるよう身体を起こす。
グロブニクが向きを変えた。
肩へ当てても、昨日の男の腕のようには下がらない。
鬼太郎は、杖を持ち上げた。
「リクタスセンプラ」
脇へ届いた光が、毛を揺らした。
やはり、笑いも足の乱れも出なかった。
だが、その間に鬼太郎は横へ動いていた。効いたかどうかを見るため、立ったまま待つことはしなかった。
黒い前脚が、さっきまでいた場所へ落ちる。
鬼太郎は根のそばへ足を置き、低い枝へ杖を振った。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
片端が遅れて持ち上がった。
水平には揃わない。それでも土から離れた枝を、根の上へ低く滑らせる。
鬼太郎は両端を見続けなかった。
こちらへ曲がってくる黒い頭を見る。
グロブニクは、枝のあるところへ足を出しかけた。途中で爪を横へ払い、軽い木を弾く。
枝は根へ当たり、乾いた音を立てた。
壁にはならない。
鬼太郎が欲しかったのは、その前脚を一度、別の方へ使わせることだった。
杖を下げ、空いた左手を向ける。
「ザン」
地面を舐めた風が、落ち葉と乾いた土を巻き上げた。
黒い顔の前へ、茶色い葉が広がる。
その向こうで、鼻が鳴った。
鬼太郎は左へ出た。
グロブニクの頭も、同じ方へ向く。
見えなくすれば、自分も相手の足を見られない。しかも、向こうには鼻がある。
鬼太郎は距離を詰めすぎず、葉の薄いところへ右手を伸ばした。
「ルーモス」
強い光を、短く放つ。
グロブニクは右目を細め、顎を引いていた。
前にも受けた光だ。
止まるとは思わなかった。鬼太郎は声を出した場所から足を動かし、同時に灯りを消す。
「ノックス」
払われた爪が、袖の外を抜けた。
左手を、胸元へ向ける。
「アギ」
炎が毛の表面へ広がった。
グロブニクが後ろへ跳び、頭を振る。焦げた匂いが葉の間から流れた。
鬼太郎は追わず、氷を踏まない方へ回った。
大きく離れてから杖を戻すより、次を出しやすい。
それでも、セドリックの杖を避けたときと同じ幅では足りなかった。牙の横には肩があり、避けた先へ前脚が伸びる。
鬼太郎はグロブニクの胸と、土へ置かれる足を見た。
黒い身体が、低くなった。
◆
今度は、真っすぐ来なかった。
グロブニクは幹の横へ回り、鬼太郎が広い側へ逃げる道を斜めに横切った。
鬼太郎は向きを変える。
その先には、自分で作った氷があった。
踏めない。
足を止めず、根の外へ出した。
頭が来た。
「ペトリフィカス・トタルス」
光は肩へ当たったが、勢いは止まらなかった。
鬼太郎は身体を捻った。
牙は避けた。
左肩で、布が裂けた。
熱い線が走り、遅れて痛みが来る。前脚の爪が、引いた肩の外側をかすめていた。
鬼太郎は地面を蹴り、幹を間へ入れた。
左腕は、上がる。
だが、掌を向けると肩の皮膚が引かれた。
グロブニクは幹を回ってきた。
この場で治している時間はない。
鬼太郎は左手を下げたまま、冷気を地面へ送った。
「ブフ」
根の前が白く凍る。
グロブニクは踏み込む前に前脚を開き、氷の両脇へ爪を立てた。
さっきは、乗ってから滑った。
今度は、乗らない。
鬼太郎は笑った。
こちらの使う場所を見ている。
左肩の痛みも、その笑みを消すほどではなかった。
凍った場所を避けるため、黒い胸が少し横を向いた。鬼太郎はその外へ抜け、右手を口元へ向ける。
「ペトリフィカス・トタルス」
光が、鼻の下へ当たった。
閉じかけた顎が、一瞬遅れた。
全身は固まっていない。
鬼太郎は効き具合を眺めず、左手を上げた。
「ジオ」
今度は、毛に覆われた肩ではなく鼻先へ。
電撃が走ると、グロブニクが短く喉を鳴らした。踏み出した前脚が曲がり、頭が下がる。
鬼太郎は、その外へ逃れた。
背中を向けず、杖先を相手へ残す。
グロブニクが、もう頭を上げていた。
次の爪へ備えて足を動かしたとき、鬼太郎は息の荒さに気づいた。
まだ、左手から力を出せる。
だが、向きを変えるたびに太腿が重かった。杖を使う間も、脚は休めていない。
グロブニクは、ゆっくり円を描いた。
鬼太郎も、同じだけ動く。
足元の根を避け、氷を背にしないよう歩く。近づけばすぐ来る相手が、今は半歩ずつ間を詰めていた。
鬼太郎が先に回ろうとすると、その側へ頭が寄る。
出させた足へ、次の足を合わせるのが遅れた。
グロブニクが踏み込んだ。
鬼太郎は大きく離れ、幹へ背をぶつけかけた。右足で支え、肩を横へ抜く。
爪が、樹皮を削った。
杖を振る場所は残ったが、唱える前に黒い頭が戻ってきた。
鬼太郎は、左手を口元へ向ける。
「アギ」
炎へ、牙が閉じる。
グロブニクが頭を引いた。
鬼太郎は幹の横を抜け、今度こそ距離を取った。
喉へ、冷たい空気を吸い込む。
昨日の男なら、この隙へ別の呪文を続けられた。
目の前の相手は、もう次の足を置いている。
「前より長えな」
木の向こうから、サーシェスの声がした。
鬼太郎は返事をしなかった。
する分の息も、今は脚へ回したかった。
◆
キーノは、鬼太郎の肩と足を交互に見た。
裂けた袖は赤くなっているが、血が流れ落ちるほどではなかった。
杖の光を出した後、左から火や雷が来る。
片方が効かなくても、もう片方で次へ進める。そのための右手を、逃げるときにも大きく引かない。
自分なら、先ほどの牙を見た後で、あそこへ杖を残せるだろうか。
キーノは腰の杖へ触れ、手を離した。
グロブニクが足を止めた。
鬼太郎の左足が、少し後ろへ流れる。
彼女は口を開きかけた。
まだ鬼太郎は、広い方へ足を置き直していた。狭い幹の間へ逃げ込まず、相手の顔を見ている。
キーノは、自分も半歩ずれた。
出てくる道の前へは、立たなかった。
◆
鬼太郎は、黒い肩が沈むのを見た。
来る。
左手へ力を集める。
グロブニクは低く跳び、鬼太郎が横へ出る方へ頭を振った。
「ザン」
落ち葉が、二人の間へ巻き上がる。
巨大な身体を押し戻せる風ではない。
鬼太郎は葉の横へ出ようとした。
脚が、思ったほど伸びなかった。
牙の下を抜けた先へ、黒い肩が来た。
衝撃で地面が傾き、背中が土へ落ちる。
息が、抜けた。
右腕を引こうとしたところへ、重みが載った。
グロブニクの前脚だった。
黒檀はまだ指の中にある。だが、腕ごと押さえられ、先端は相手の胸より外を向いていた。
熱い息が、首へ掛かった。
白い牙が見える。
噛めるところで、止まっていた。
鬼太郎は空いた左手を向けかけ、止めた。
ここから火を出すより、向こうが顎を閉じる方が近い。
しばらく、二人はそのままだった。
鬼太郎は息を戻し、笑った。
「……ここまでに、しましょうか」
グロブニクが口を閉じた。
前脚の重みが消える。
鬼太郎はすぐには起きず、空を見た。葉の間から落ちる光のそばで、まだ土埃が浮いていた。
「立つ前に、指を動かせ」
キーノの声だった。
鬼太郎は右手を開いた。
黒檀が土へ転がる。
痺れた指を一つずつ曲げ、伸ばす。手首も動いたが、腕の押さえられていたところが痛んだ。
「動きます」
「それと、平気なのは別だろ」
彼女が屈み、鬼太郎の顔を覗いた。
鬼太郎は左肘をつきかけ、肩の傷に引かれてやめた。膝を曲げ、横へ身体を起こす。
キーノが拾った杖を差し出した。
鬼太郎は右手で受け取り、収めた。
「最後、まだ使えたろ」
サーシェスが言った。
「ええ。出す方は」
「脚の方が先だったな。逃げる回数も増えてりゃ、そうなる」
鬼太郎は、靴についた土を見た。
以前なら、あそこまで続かなかった。
今日は、続けられた後で足が出なくなった。
◆
鬼太郎は座ったまま、右の掌を左肩へ当てた。
「ディア」
傷の熱が和らぎ、布の下で血の滲みが止まっていく。
手を離しても、肩の奥には痛みが残った。息も、すぐには静かにならない。
グロブニクは、少し離れて立っていた。
胸の毛が焦げ、口元にも焼けた跡がある。
「そちらも、少し診せていただけますか」
右目が、掌を見た。
「胸ならよい」
鬼太郎は立ち上がり、近づいた。
前脚の間へ屈む前に、一度止まる。
グロブニクが、頭を横へ向けた。
許された胸の、焦げたところへ手を添える。
「ディア」
赤くなった皮膚が、少しずつ落ち着いた。
毛まで元に戻ったわけではない。鬼太郎も、さらに別の場所へ手を伸ばそうとはしなかった。
掌から力を引くと、朝よりはっきりと重さが残った。
「ここまでです」
グロブニクの鼻が、右手へ寄った。
匂いを確かめるように触れ、それから、ぐいと押す。
鬼太郎は半歩下がった。
「まだ、立っていられますよ」
「先ほどは、立てなかった」
サーシェスが笑った。
鬼太郎も笑い、手についた毛を払った。
グロブニクは近くの根元へ伏せた。前脚を伸ばし、こちらを見ている。
鬼太郎は弾かれた枝を拾い、道から外へ寄せた。
氷のそばには、深く土を掴んだ爪跡が残っていた。最初に滑ったところと、その後に両脇へ足を開いたところは、形が違う。
キーノが、その横へしゃがんだ。
「二度目は、踏む前に避けてた」
「ええ。同じところへ使ったので、見てから変えられました」
キーノは氷の向こうへ目を移した。
「金縛りは、当たっていたな。肩へ二度と、口のところへ」
「ええ。でも、人間に当てたときとは違いました。毛なのか、大きさなのか、僕の使い方なのか。それは、まだ分かりません」
「口は、少し止まったように見えた」
「僕にも、そう見えました。ただ、次に来るまで待てるほどではありませんでしたね」
キーノは自分の杖へ目を落とした。
「当てれば同じ、と思わない方がいいか」
「先生にも、今日の違いを聞いてみたいです」
「最後も、横へ逃げるのを待ってたぞ」
鬼太郎は、倒された場所を見た。
葉の下に、靴が土を擦った跡があった。牙を避ければ抜けられると思った側へ、肩が入ってきた。
「僕の足より、先に置かれていましたね」
杖で間をつなげても、相手を待たせ続けられるわけではない。
鬼太郎はグロブニクへ向き直った。
「次は、あの肩も避けたいです」
黒い尾が、枯れ葉をゆっくり払った。
「その脚で、今日のうちに戻ってくるな」
「ええ。今日は帰ります」
白い石まで戻る道で、キーノが歩幅を緩めた。
鬼太郎は、急いで追いつこうとはしなかった。肩の傷は閉じても、腕は振るたびに少し痛み、太腿には上り道の重さが来た。
サーシェスが先で足を止め、振り返る。
「帰ったら、その脚で勝負するか?」
「明日にしていただけますか」
「明日の脚を見てから言え」
鬼太郎は笑った。
右腕には、爪の下へ押さえられた重さがまだ残っていた。
今日は、そこまで届いた。
砦へ向かう道を、一歩ずつ歩いた。