第107話 追わない足
砦の椅子へ腰を下ろすと、鬼太郎はしばらく靴を脱がなかった。
屈んで紐を解こうとすると、左肩と右腕の両方が痛む。先に背を預け、脚を伸ばした。
キーノが卓へ水を置いた。
「ゆっくりでいい。もう追ってこないぞ」
「ええ。それは、助かりますね」
杯を持つ指は動いた。押さえられた腕のところが、袖に擦れると痛かった。
サーシェスが、向かいの椅子を引いた。
「途中から、お前の腕だけ先に出てたな」
鬼太郎は水を飲み、顔を上げる。
「杖を向けるのは、間に合っていたつもりでした」
「手はな。その後で身体を運ぶ脚が、遅れてた。最後だけじゃねえぞ」
鬼太郎は杯を置いた。
グロブニクの爪が樹皮を削ったとき、自分は幹を回って逃げた。杖を向ける場所はあったが、唱える前に頭が戻ってきた。
腕の速さだけで、まだ同じように動けると思っていたのかもしれない。
帳面を開き、幹を丸で描いた。横に自分の足と、グロブニクの頭の位置を置く。
「この前からですか」
「そこじゃ、もう遅くなってた。足を出してから、身体が追いつくまでが長えんだ」
鬼太郎は丸の手前へ、もう一つ印をつけた。
脚が重くなったことには気づいた。
気づいた後でも、同じ間合いで間に合う方へ賭けた。
向こうは、それを待っていた。
「あの肩が来なければ、避けられたと思ったんです」
「来なけりゃ、な。お前がどっちへ出るか分かれば、噛みつくだけで済ませる理由もねえ」
サーシェスは、図の逃げる側へ指を置いた。
鬼太郎はその外に、肩の通った線を足した。
キーノが帳面を回し、最初の方の図へ戻す。
「枝を弾かせたときは、少し離れていた。お前は、その後で近づいたな」
「ザンで葉を巻いて、光を出したところですね」
「ああ。火は当たった。でも、近づかなければ、向こうが回ってくるまで少し待てた」
鬼太郎は、そのときの黒い胸を思い出した。
炎を当てる場所が見えた。
だから、自分からそちらへ行った。
「当てるために使った時間を、戻す方にも使えた、ということですか」
「使えるかは、やってみないと分からない。お前は、そっちを選ばなかった」
キーノは図から手を離した。
鬼太郎は、少し考えた。
できることが増えれば、試したいことも増える。杖で間をつなげられると分かってからは、その間へ次を入れることばかり考えていた。
サーシェスが笑った。
「隙がありゃ、毎回食いついてたからな。あいつも、面白がってたろ」
「僕も、面白かったです」
「知ってる」
キーノが答えた。
鬼太郎は、その下へ一行書いた。
枝を払わせた後、離れる。
当てられそうでも、足が戻るまで待つ。
書いただけなら、難しくはなかった。
◆
帰る支度を始める前に、もう一度休んだ。
脚の重さは少し薄れたが、立ってすぐ向きを変える気にはならない。鬼太郎は着替えを済ませ、肩の布へ新しく血が滲んでいないことを確かめた。
右腰へホルスターを戻し、ケストレルを収める。
今日は一発も使わなかった。昨日までに減った分が、戻ったわけではない。
キーノが荷物を閉じ、鬼太郎は窓口へ顔を出した。
ボグダンは帳面を開いたまま、細い金具を布で拭いていた。
「戻るのか」
「ええ。こちらを離れる前に、何か伝えておくことはありますか」
「昨日帰ってから、新しく回す話は来てない。お前が外した罠は、書いてある」
彼は金具を置き、沢と窪地の記載を指した。
辿っていない方には、何も足されていない。
鬼太郎は場所を確かめ、帳面を返した。
救出された二人は、仲間のところで休んでいると聞いた。自分たちが運んだ檻は、ほかの者にも見せるらしい。
サーシェスは、回収品を置いた部屋から出てきた。
「杖と道具は、分けてある。売れるかどうかも含めて、俺が見とく」
「お願いします。まだ分からないものは、そのままで」
「値がつく前から、買ったつもりになるなよ」
「それは、そちらもですね」
サーシェスは口の端を上げ、門の内側までついてきた。
鬼太郎は帰還場所の線を確かめ、金属の輪を出した。キーノと一緒に触れる。
森の空気が消え、足元が引かれた。
学校外の指定場所へ降りたとき、右脚へ重みが掛かりすぎた。鬼太郎は一歩で支え直し、隣のキーノを見る。
「大丈夫か」
「ええ。少し、ゆっくり歩きましょう」
輪を収め、二人は城へ向かった。
◆
荷物を置いた後、鬼太郎は先に医務室へ寄った。
肩の傷を見せ、右腕を押さえられたところも伝える。マダム・ポンフリーは、傷が閉じていると聞いただけでは帰してくれなかった。
指を動かし、腕を上げ、痛むところを答える。
「今夜は、その腕で練習しないこと。痛みがある間は、無理に振らないでください」
「はい」
大広間へ着く頃には、夕食が始まっていた。
ロンが手を上げる。
「お帰り。今日は遅かったね」
「荷物を置いてから、少し寄り道をしました」
鬼太郎は席へ座り、皿を取った。
週末の外出については、校長の許可で森の様子を確かめに帰ると話してある。毎回、移動の方法や森の場所まで説明するわけではなかった。
「何かいた?」
ハリーが尋ねた。
「知らせがありましたので、確かめてきました。それから、練習も」
「先生に習ってるやつ?」
「ええ。動く相手へ使うと、違うところが見つかりますね」
キーノが、隣でパンを取った。
人間の男のことも、首の前に止まった牙のことも、鬼太郎は卓の上へ持ち出さなかった。
ハーマイオニーが、折った紙を広げる。
「フラメルは、まだ見つからないの」
紙の上には、調べた本の名前が並んでいた。
「人物索引も見たんですか」
「ええ。フラメルのところを先に探して、なかったらニコラスでも。でも、最近の人を載せた本に偏っていたのかもしれないわ」
「その名前だけでは、いつの方かも分かりませんからね」
「だから、時代で絞らない本も探すつもり。前に見た棚だけを、もう一度探しても同じだもの」
彼女は紙の余白へ、古い人物も、と書いた。
鬼太郎は、書き終わるのを待った。
「何か分かれば、聞かせてください」
「もちろん。あなたたちの練習は?」
「前より長く続きました。その分、脚が先に疲れましたね」
「長くやれば、そりゃ疲れるだろ」
ロンが言った。
鬼太郎は笑った。
「ええ。まだ使える、と思うのと、まだ同じように動ける、というのは違いました」
皿を寄せようとして、右腕に少し痛みが来る。
鬼太郎は持ち上げず、卓の上を滑らせた。
◆
数日は、走ったり、腕を強く振ったりする練習を控えた。
授業の羽根は動かしても、休み時間にまで回数を増やさない。帳面の図を直し、キーノが見ていた足の向きを書き足した。
次の指導の日までには、歩くときの重さが薄れ、普通に腕を動かしても痛まなくなった。医務室で改めて確認してもらい、放課後、キーノと教室へ向かう。
セドリックは、もう来ていた。
「今日は、どんな手を考えてきたの?」
「攻めない方を、少し」
彼が眉を上げたところへ、フリットウィックが帳面を受け取った。
鬼太郎は森の相手へ全身金縛りを当てた場所と、その後の動きを伝えた。肩では止まらず、口元では一瞬、顎が遅れたように見えたことも。
「その違いだけで、毛が原因だと決めないことです。相手も大きさも、人形や人間とは違いますからね。まず、当たった場所と、実際に動かなかったところを分けて残しましょう」
鬼太郎は、全身、と書きかけていた箇所を消した。
顎が一瞬遅れたように見えた、と直す。
「では、相手が固まることを待ってはいけませんね」
「ええ。効くはずだと思って待つより、動いている相手を見なさい」
先生は、次の頁へ目を移した。
「こちらは、疲れた後の相談ですか」
「はい。避けられた間合いでも、後では間に合いませんでした。足が遅くなったことは分かっていたんですが、動き方を変える方が遅れました」
フリットウィックは教室の中央へ向かった。
「では、疲れるまで続ける練習より先に、途中で整える時間を作ってみましょう」
◆
先生が床へ置いたのは、片手に載るほどの浅い空き箱だった。
薄い木でできていて、蓋も中身もない。鬼太郎が手に取ると、今まで動かした枯れ枝と比べても軽かった。
同じものが、もう二つある。
「高く上げたり、相手へ投げたりはしません。床の近くで動かし、印の上へ下ろします。まずは、今の重さで確かめてください」
鬼太郎は箱を戻し、杖を振った。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
箱が浮いた。
底の一角が遅れたので、鬼太郎は腕を大きく動かさず、傾きを直してから横へ送った。
床から、指二本分ほど。
印へ下ろすと、角が先についた。
「それで結構。今度は、箱から目を離した後に、自分の足を動かしましょう」
先生がセドリックを呼び、ゆっくり進むよう頼んだ。
鬼太郎は箱を動かし、その足のずっと手前へ置く。
セドリックは進路を少しずらし、ほとんど止まらずに通った。
鬼太郎も横へ動いたが、相手の杖はすぐにこちらへ向いた。
「箱を置くことが目的ではありませんね」
先生が言った。
「今は、避けても同じ向きへ進めました。自分はどこへ出たかったのか、先に決めてみなさい」
鬼太郎は床の線を見た。
箱を大きく回らせようとすれば、自分もその近くへ残りたくなる。
だが、今日は追いかけるために置くのではない。
次は、自分が広い側へ出られる位置を選んだ。箱が下りたら、相手がどちらを通るかを見る。
セドリックが、足を置く向きを変えた。
鬼太郎は、その反対へ離れた。
杖が向き直る。
今度は、それも見ていられた。
「足だけでなく、杖も動きますからね。箱の陰だから安全、とは考えないことです」
キーノも同じ練習をした。
最初は箱を下ろすところまで見届け、セドリックが曲がる方を見失った。
「置けたか、気になった」
彼女が言うと、セドリックは箱の角を靴で指した。
「ちゃんと置けていたよ。でも、僕はその間も歩けた」
キーノは出発の線へ戻った。
次は底が床へ触れたところで目を戻す。箱が少し斜めになっていても、追って直さなかった。
セドリックが通る側を見てから、自分の足を出す。
「ええ。見た目を揃えるより、今見るべき相手を選べましたね」
キーノは、置いた箱を一度だけ見た。
少し曲がったままでも、使うことはできた。
◆
短い手合わせでも、使ってみることになった。
箱は床の近くで運び、相手の足へ落とさない。使える範囲は線の内側。杖の呪文と停止の約束は、前と同じだった。
鬼太郎は右手で黒檀を持ち、セドリックと向かい合った。
始めの合図が入る。
「エクスペリアームス!」
鬼太郎は横へ動き、くすぐりの呪文を返した。
相手が避ける。
次に中央へ寄ろうとする足を見て、鬼太郎は脇の箱へ杖を向けた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
低く運び、下ろす。
セドリックが箱の外へ足を置いた。
手が、狙えそうだった。
くすぐりをもう一度返せば、前のように腕を乱せるかもしれない。
鬼太郎の杖先が、その手を追った。
赤い光が来た。
身体をずらし、袖の外へ通す。
「止めましょう」
先生の声で、二人が杖を下げた。
「墓場。箱を下ろした後、何を見ましたか」
「当てられそうな手です」
「その間、自分の足は」
鬼太郎は、床を見た。
置いた箱から離れず、向こうへ踏み出しかけていた。
セドリックが、同じところへ視線を落とす。
「こっちへ来そうだったから、先に向けたんだ。箱は低いし、杖を振る邪魔にはならなかった」
「ええ。また、攻める方へ使いかけましたね」
鬼太郎は笑い、構え直した。
「もう一度、お願いします」
再開すると、今度は早く動きすぎた。
セドリックは、鬼太郎が避ける側へ狙いを直した。
鬼太郎は大きく離れ、箱を動かすことも見送る。
何でも早くすればよいのではない。
次の呪文は、杖の向きが決まるところまで見た。
避けながら、全身金縛りを返す。
セドリックは横へ出た。
光が外れる。
鬼太郎は、すぐ次の攻撃を重ねなかった。相手の進む側へ箱を置き、自分は反対へ動く。
セドリックが箱をまたいだ。
大きく回ってはくれなかったが、足を上げたところで身体の向きが変わる。
その上から、杖がこちらを向いた。
鬼太郎は射線の外へ一歩移り、息を吐いた。
肩を下げる。
靴底へ、重みを戻す。
追撃へ出すはずだった足が、今は自分の身体を支えていた。
セドリックが箱の向こうへ着地したとき、鬼太郎の黒檀は、もう構えへ戻っていた。
すぐには、近づかなかった。
セドリックも、一度足を止める。
待てば出てくる相手が、出てこない。
先に向こうが、横へ動いた。
鬼太郎は、その杖を見た。
次が来る。
笑みが、浮かんだ。
◆
同じ置き方を続けると、セドリックは箱の手前で止まり、そこから呪文を使った。
鬼太郎は避けたが、箱が自分の逃げる側にも近かった。足を引き直したところで、もう一度狙われる。
道を狭くしたのは、相手の方だけではなかった。
先生が位置を直させ、短い攻防を繰り返す。
途中で、息を吐けるところがあった。
箱を使わず、呪文を避けて離れるだけのときもあった。
最後は、二人とも杖を持ったまま止められた。
「今日は、ここまでにしましょう。途中で構えを戻せたところを、覚えておいてください」
鬼太郎は礼をし、杖を下げた。
「近づいてこられると、まだ、こちらからも出たくなります」
「出ることが悪いわけではありません。そのときに出せる足があるか、確かめることです」
セドリックが、箱を拾った。
「今日は、待っても来なかったね」
「その後で、そちらが動いてくださいました」
「うん。待つつもりでいた方も、変えないといけなかった」
鬼太郎は、その言葉を覚えておいた。
片づけは、一つずつ手で運んだ。キーノが薄い箱を重ね、セドリックが床の線の外へ寄せる。
鬼太郎は帳面を開き、今日の足の位置を描いた。
箱を下ろした後の矢印を、相手へ向けていたものから、自分が離れた方へ直す。
その先に、小さな印を置いた。
息を吐く。構えを戻す。
「そこなら、次を見てた」
キーノが図を覗いた。
「ええ。前へ出ないと、セドリックさんの方が何をするか、よく見えますね」
「それも面白いのか」
「はい」
鬼太郎は答え、帳面を閉じた。
廊下へ出ると、階段の向こうから生徒たちの声がした。
歩く足には、もう森の帰りほどの重さはない。
次にあの牙の前へ立つときにも、同じように待てるだろうか。小さな箱なら払い、飛び越えてくる相手のために、置く物も場所も考え直す必要がある。
鬼太郎は、それを次の頁へ残すことにした。
今は、足を急がせず、キーノと並んで談話室へ向かった。