第百六話 隔たる段に、牙の噂を聞く
階段へ出る前に、ハーマイオニーが足を止めた。
廊下の先を見てから、手近な窓へ顔を向ける。昼間なら目印になった景色も、今は暗く、ガラスに自分たちの姿が映るばかりだった。
「ここを上がれば、さっきの廊下へ戻れるはずよ」
ロンが階段を見上げた。
「来るときと、向きが違う気がする」
「だから、今確かめてるの」
ハリーは二人の間から、踊り場を見た。
壁際の明かりが、石の手すりへ届いている。
上には、廊下へ続く入口があった。
「とにかく、ここに立ってるよりは」
ハリーが言うと、ハーマイオニーは頷いた。
三人が先に上がる。
鬼太郎とキーノは、少し後ろから続いていた。
踊り場へ足を掛けたところで、ハリーは床の奥から響く低い音を聞いた。
石が擦れる。
ロンが手すりへ手をついた。
「また動くぞ」
ハリーは振り返った。
上がってきた階段が、踊り場から離れていく。
下の段へ足を置いていたキーノが立ち止まり、鬼太郎も手すりの内側へ寄った。
二人のいる階段が、ゆっくり横へ回る。
ハリーは一歩戻りかけた。
石の縁の向こうに、空間が開いていた。
「飛び移らないでください」
鬼太郎の声がした。
ハリーは足を止めた。
向こうから、キーノもこちらを見ている。
距離は、まだ話せるほどだった。
だが、階段の上端は別の廊下へ向かい、元の踊り場へは戻ってこない。
ハーマイオニーが手すりへ寄る。
「そっちから、戻れる?」
鬼太郎は下と、階段の向かう先を見た。
「別の廊下へつながりそうです。寮で合流しましょう」
声を張らずに言えるのは、そこまでだった。
階段がさらに回り、壁が二人の姿を隠す。
ハリーは離れた縁から足を引いた。
踊り場の後ろには、一本の廊下がある。
ほかの階段は、つながっていなかった。
◆
キーノは、階段が止まるまで手すりを握っていた。
足元の振動が消える。
上端が、新しい廊下へ接した。
「三人は、向こうへ行くしかないな」
「ええ。こちらへ跳ぶよりは、その方がよさそうです」
鬼太郎は答え、段を上がった。
キーノも続く。
廊下の壁には、昼間にも見た細長い絵があった。
その先の角からは、別の階段へ行ける。
「こっちなら、分かる」
キーノが言った。
「授業から戻ったとき、通ったところだ」
鬼太郎も角を見た。
数日前、帰り道を確かめながら歩いた場所だった。
「では、先に戻って待ちましょう」
二人は足音を抑え、廊下を進んだ。
途中でキーノが振り返ったが、階段は止まったままだった。
元へ戻るのをここで待っても、三人が同じ場所で待っているとは限らない。
彼女は前へ顔を戻し、鬼太郎に並んだ。
◆
ハリーは、踊り場から廊下へ入った。
ハーマイオニーが壁を見ている。
古い扉と、燭台。
角を曲がると、見覚えのない鎧が立っていた。
「ここ、三階じゃない?」
彼女が小声で言った。
ロンが止まる。
「三階の、どっち側だよ」
ハリーは廊下の先を見た。
歓迎の宴で聞いた、校長の注意を思い出す。
右側の廊下には入らないこと。
今いる場所が、そこかもしれなかった。
「戻ろう」
ハリーは言った。
踊り場へ戻れば、階段がまた来ることもあるかもしれない。
三人が向きを変えたところで、向こうから足音がした。
自分たちとは違う、ゆっくりした足音だった。
ハーマイオニーが杖を身体へ寄せる。
角の先に、細い明かりが揺れた。
「ノックス」
ハリーは囁き、自分の杖を消した。
ロンが壁へ寄る。
足音が近づく間に、低い声まで聞こえてきた。
「こっちだ、ミセス・ノリス」
フィルチだった。
ハリーはロンと目を合わせた。
今、戻ろうとした方にいる。
ハーマイオニーが先の廊下を指した。
三人は鎧の陰を離れ、奥へ向かう。
歩く速さが上がった。
だが、その先にも、すぐ逃げ込める角はなかった。
ハリーは壁際の扉へ手を伸ばした。
取っ手を回す。
開かない。
「鍵が」
ロンがもう一度引いた。
金具が小さく鳴る。
「どいて」
ハーマイオニーが杖を向けた。
「アロホモラ」
錠の中で、音がした。
ロンが取っ手を回し、今度は扉が動く。
ハリーが隙間へ身体を入れ、二人も続いた。
最後に入ったハーマイオニーが、音を立てないよう扉を押す。
廊下の光が細くなり、消えた。
◆
ハリーは、扉のすぐ内側で息を抑えた。
ロンが肩へぶつかる。
狭かった。
何か大きなものが前にあり、それ以上進めない。
上の方から、温かい空気が下りてきた。
濡れた匂いがする。
低い音が、床まで震わせた。
ハリーは顔を上げた。
暗がりの中に、目があった。
一つ、二つ。
その横にも、また二つ。
もう少し先にも、光を受けた目が動いた。
窓から差す夜の明かりが、大きな鼻の輪郭を照らす。
犬だった。
だが、ファングとは比べものにならない。
目の前の頭だけでも、ハリーが抱えきれる大きさではなかった。
その左右に、同じ身体から生えた別の頭がある。
三つとも、こちらを見ていた。
真ん中の唇が持ち上がる。
牙が、露わになった。
ロンが何か言おうとしたが、声にならなかった。
ハリーは後ろへ手を伸ばす。
扉が、背中のすぐ近くにあった。
左の頭が下がる。
鼻先が、ロンの上へ近づいた。
「開けて」
ハリーは声を絞った。
ハーマイオニーが取っ手へ手を掛ける。
犬の前脚が動いた。
太い爪が床を擦り、肩の筋肉が盛り上がる。
ロンがハリーの腕を掴んだ。
扉が外へ開く。
三人は、ほとんど同時に廊下へ出た。
背後から、唸り声が追ってくる。
ハリーとロンが扉へ手をついた。
押し戻す。
閉じる直前、大きな鼻先が隙間へ向いた。
ハリーは両腕へ力を込めた。
扉が、枠へ収まる。
金具が鳴った。
ハリーはその場から離れた。
中で足が動く音を聞くだけで、背中が冷えた。
ロンはもう先へ走り出していた。
ハーマイオニーも、壁から離れてついていく。
ハリーはフィルチのいた方を見た。
今は、角に明かりが見えない。
犬の前へ戻る方が、ずっと嫌だった。
三人は来た道を引き返した。
踊り場まで戻ると、離れていた階段が、今度は別の方向から動いてきていた。
ロンが先へ出かけ、ハーマイオニーが袖を掴む。
「止まってから」
石の縁が接するまで、ハリーも待った。
後ろの廊下を見て、それから足元を確かめる。
階段が止まると、三人は揃って段へ移った。
◆
寮の入口まで来ると、キーノは立ち止まった。
肖像画の婦人が、二人へ目を向ける。
「ずいぶん遅いお帰りね」
キーノは返事をする前に、後ろを見た。
三人は、まだ来ていない。
鬼太郎が合言葉を伝える。
婦人は口元を尖らせたが、入口を開けた。
二人は談話室へ入った。
暖炉には、小さな火が残っていた。
椅子の並びも、出ていったときと同じだった。
誰も起きていない。
キーノは入口に近い椅子を引いた。
「ここで待つ」
「ええ」
鬼太郎も座り、鞄を足元へ置いた。
決闘の紙は、中に収まっている。
今夜、見たいと思っていたものは見た。
ハリーとマルフォイの動きは、まだ細部まで覚えていた。
ただ、三人が戻る時間は、その紙には書かれていない。
鬼太郎は入口へ目を向けた。
キーノも同じ方を見ている。
しばらくすると、彼女が腕を組み直した。
「ハーマイオニーがいるから、道は探すだろうが」
「僕たちが来た方は、途中からつながらなくなりましたね」
鬼太郎は答えた。
階段の向こうに残った廊下は、こちらからはよく見えなかった。
三人がどこを通っているのか、今ここで決めつけることはできない。
キーノは脚を組むのをやめ、両足を床へつけた。
入口は、まだ動かなかった。
◆
ハリーは、見覚えのある肖像画を見つけて足を緩めた。
ロンが壁へ手をつく。
ハーマイオニーは息を整えながら、合言葉を告げた。
婦人が三人を見た。
「今夜は、何が起きているの?」
ハリーは答える余裕がなかった。
入口が開く。
三人が入ると、暖炉の近くからキーノが立ち上がった。
「遅かったな」
鬼太郎も椅子から立つ。
ロンは返事をせず、すぐそばの背もたれへ両手を置いた。
ハリーは自分の胸へ手を当てた。
まだ鼓動が速い。
「どうしました?」
鬼太郎が尋ねた。
キーノはハーマイオニーの顔を見る。
「誰かに見つかったのか」
「見つかってはいないわ。でも……」
ハーマイオニーは椅子へ腰を下ろした。
ハリーも座る。
暖炉の火が目へ入ると、あの暗がりの目が一瞬重なった。
「犬がいたんだ」
ハリーは言った。
キーノが眉を寄せる。
「犬?」
「すごく大きな犬。頭が、三つあった」
鬼太郎の視線が、ハリーへ止まった。
ロンが背もたれから手を離す。
「部屋いっぱいだった。あれ、僕たちを一口で食べられるよ」
自分で口にして、彼は顔をしかめた。
ハリーは頷いた。
鬼太郎が椅子を寄せる。
「どこにいたのですか」
「三階よ」
ハーマイオニーが答えた。
「校長先生が入るなと言っていた、右側の廊下。やっと意味が分かったわ」
◆
鬼太郎は、三人の話を聞いた。
階段が離れた後、進める廊下が一つしかなかったこと。
戻ろうとするとフィルチが来て、避けるうちに鍵のかかった扉へ行き当たったこと。
ハーマイオニーが開けた部屋には、三つの頭を持つ巨大な犬がいた。
ハリーは両手を広げかけ、すぐに下ろした。
その幅では大きさを伝えられないと、思ったらしい。
「真ん中の頭が、僕の前にいた。横のも、別々に動いてたんだ」
「一つの身体から、三つとも生えていたのですね」
「うん。どれもこっちを見てた」
鬼太郎は頷いた。
頭が三つなら、口も三つある。
ハリーが話した順番を、もう一度聞く。
唸り声。
近づいた鼻先。
扉を開けたときに動いた前脚。
聞いただけでは、速さも届く距離も分からなかった。
「部屋から、出てきましたか」
「出てないよ。扉を閉めた」
ロンが答えた。
「鼻が来そうだったから、二人で押したんだ」
鬼太郎は彼の手を見た。
今も、指が背もたれへ掛かっている。
ハグリッドの犬を思い出していたのではなさそうだった。
ハーマイオニーが、二人へ顔を向ける。
「あなたたち、足元は見た?」
ハリーが瞬きをした。
「足元?」
「牙を見てたよ」
ロンが言った。
「あれを見て、床を調べてる余裕があったの?」
「調べたんじゃないわ。扉を開けるとき、見えたの」
ハーマイオニーは膝の上で手を重ねた。
「あの犬、仕掛け扉の上に立っていたのよ」
鬼太郎は彼女を見た。
「床に、別の入口があったのですか」
「ええ。下へ開く扉。あの犬は、何かを守っていたんだわ」
ハリーが身体を起こした。
彼の目が、先ほどとは違う動きをする。
「守ってた……」
小さく繰り返し、ロンを見る。
「ハグリッドの包みかもしれない」
ロンが眉を上げた。
鬼太郎も、卓を挟んで聞いていた。
小屋にあった新聞の記事。
銀行へ侵入した者と、先に持ち出されていた品。
その話と、今夜見つけた床の扉を、ハリーはつなげようとしている。
「七百十三番の金庫にあった、小さな包み。ハグリッドは、学校の用事で預かったって言ってた」
ハリーは続けた。
「学校へ持ってきたなら、あの下にあるのかも」
「でも、中を見たわけじゃないでしょう」
ハーマイオニーが言った。
「うん。分からないよ」
ハリーは答えたが、考えるのをやめた顔ではなかった。
キーノが、鬼太郎の方へ顔を向ける。
彼はまだ話を聞いている。
ただ、目が留まるのは、包みについて話すハリーより、犬の大きさを説明したときの手元だった。
◆
鬼太郎は、暖炉の小さな火へ目を向けた。
三つの頭を持つ犬。
部屋いっぱいになるほどの身体。
聞いた話が正しければ、人間とは違う動きをする生き物だ。
どの程度の力があるのだろう。
今夜見た決闘より、ずっと気になった。
十分に強い相手なら、戦ってみたい。
周りに誰もいないときなら、力を出せる。狭いところにキーノやハリーたちがいれば、火や風を向ける先にも気を配らなければならない。
一人で向き合える条件を整えられれば、試せることは増えるだろう。
鬼太郎の指が、椅子の肘掛けへ静かに掛かった。
ただ、三人が伝えたのは大きさと姿、それから扉の前での動きだった。
強さを確かめたわけではない。
犬が何者で、なぜその場所にいるかも分からなかった。
ハーマイオニーは、何かを守っていたと考えている。自分の守る場所へ人が入ってきたために、牙を向けたのかもしれない。
それなら、こちらを襲って回る敵と同じには扱えなかった。
ダンブルドアが、入らないよう告げた廊下にいる。
校長の管理下に置かれているのだろう。
誰かが役目を与えた生き物を、強そうだからというだけで狩れば、その者との関係も仕事も壊す。
それをしてまで得たいものがあるのか、今の話だけでは判断できなかった。
鬼太郎は火から目を戻した。
まず、ダンブルドアへ聞こう。
犬の来歴と役目。実際の強さ。そして、戦う余地がある相手なのか。
狩るかどうかを決めるのは、その答えを聞いてからだった。
◆
キーノは、鬼太郎の顔を見ていた。
犬の話を聞く前には、決闘の紙を片づけて座っていただけだった。
今は、口元に薄い笑みがある。
ハリーもロンも、まだあの部屋を思い出すと顔が硬くなる。
同じ話を聞いて、鬼太郎だけが違うものを考えているらしかった。
キーノは椅子を少し寄せ、声を落とした。
「戻るつもりか」
鬼太郎がこちらを見る。
「犬のことも分からないうちに、戻るつもりはありませんよ」
「戦いたそうな顔をしてる」
キーノが言うと、鬼太郎は僅かに笑った。
「一度、ダンブルドアさんへ確認したいですね。あの場所にいるのでしたら、校長先生が管理しておられるのではないかと思いますから」
「確かめるのは、犬のことだよな」
「ええ。どのような生き物で、何をしているのか。戦う相手になるかどうかも、それを聞いてからですね」
キーノは目を細めた。
「ただ、大きくて強そうだから狩る、というわけじゃないんだな」
「役目を持って置かれているのでしたら、そこも確かめる必要があるでしょう。勝手に手を出せば、ダンブルドアさんの邪魔になるかもしれませんし」
鬼太郎の返事は、穏やかだった。
「戦える相手でしたら、周りに誰もいないところで力を試してみたいですけれど」
彼が言葉を足すと、キーノはハリーたちへ一度目を向け、それから鬼太郎へ戻した。
「勝手に行くなよ」
「先に、確認します」
鬼太郎は答えた。
キーノは、その顔をしばらく見ていた。
少なくとも、すぐ立ち上がって扉へ向かうつもりはないらしい。
彼女は椅子の背へ身体を戻した。
◆
ハリーは、窓の暗いガラスを見た。
今夜は、マルフォイと戦いに行った。
決闘に負け、寮へ戻るだけのはずだった。
だが、頭の中へ残っているのは、三つの大きな鼻と、持ち上がった唇の下の牙だった。
あの床の下に、何があるのだろう。
ハグリッドは、自分に言えない仕事をしていた。
校長は、あの廊下へ入るなと言った。
ハリーは両手を膝へ置き、ゆっくり息を吐いた。
ロンが隣で立ち上がる。
「もう寝ようよ。朝になったら、また授業だ」
「そうね」
ハーマイオニーも腰を上げた。
それから、ハリーとロンへ顔を向ける。
「次は、あんなところへ行く前に考えて。今日だけでも、何度危ない目に遭ったと思ってるの?」
「犬がいるなんて、知らなかったよ」
ロンが言った。
「私だって知らなかったわ。だから、夜中に歩き回るのを止めたの」
ハリーは黙って立った。
キーノも椅子を戻し、ハーマイオニーと女子寝室へ向かう。
鬼太郎が鞄を持ち上げた。
彼は犬を見ていない。
それでも、話を聞くときには、誰より落ち着いていた。
ハリーは何か尋ねようかと思い、やめた。
今は、あの扉の前のことを、もう一度話したくなかった。
寝室へ続く階段を上がる。
鬼太郎が後ろからついてきた。
同じ話を聞いて、彼が何を考えていたのか、ハリーは知らなかった。
ただ、寝台へ入ってからも、床の扉と小さな包みのことは、なかなか頭から離れなかった。