第百七話 穏やかな返事に、余白がある
数日後、変身術の授業が終わってから、鬼太郎は教卓の前へ行った。
ミネルバは、生徒たちが片づけた机を確かめていた。
顔を上げ、こちらを見る。
「墓場。質問ですか」
「ええ。ダンブルドアさんへ、お話を伺いたいのですが、面会をお願いするには、どのようにすればよろしいでしょうか」
ミネルバの手が、教卓の端で止まった。
「校長へ直接、話したいことがあるのですね」
「はい。一度、確認してからにしたいことがあります」
鬼太郎は答えた。
彼女は鞄へ目を向け、それから顔へ視線を戻す。
「急ぐことですか」
「お時間のあるときで構いません」
「分かりました。私から伝えます。返事があるまでは、待ちなさい」
「ありがとうございます」
鬼太郎は頭を下げた。
扉の近くで、キーノが待っている。
彼女のところへ戻ると、何の話かを尋ねる目が来た。
「取り次いでいただけるそうです」
「じゃあ、返事を待つんだな」
「ええ」
二人は廊下へ出た。
キーノは鞄を掛け直し、次の教室の方を見る。
「その間に、自分で見に行くなよ」
「確認するために、お願いしたのですから」
鬼太郎が答えると、彼女は頷いた。
◆
面会の時間を告げられたのは、その翌日だった。
鬼太郎は指定された場所でミネルバと合流し、校長室へ向かった。
見覚えのある廊下から、まだ通ったことのない角へ進む。
石像の前で、彼女が足を止めた。
短く合言葉を告げる。
像が脇へ動いた。
その奥の階段が、ゆっくり上へ運んでいく。
鬼太郎は段へ乗り、足元の動きを見た。
これも、自分で魔力を働かせて進めるものではない。
石は、彼を乗せたまま動いていた。
上の扉が見える。
ミネルバが戸を叩くと、中から返事があった。
「お入り」
校長室へ入ったのは、初めてだった。
壁には肖像画が掛かり、机の周りには用途の分からない器具が並んでいる。
細い管から、煙が一筋上がった。
机の向こうで、ダンブルドアが顔を上げる。
「来たのう、鬼太郎」
鬼太郎は挨拶をした。
ミネルバは校長へ一言伝え、部屋を出ていく。
扉が閉じると、ダンブルドアは向かいの椅子を示した。
「まあ、座りなさい。学校の暮らしはどうじゃ」
◆
ダンブルドアは、椅子へ座る少年を見た。
最初に森で会ったときよりも、制服が身体へ馴染んでいる。
鞄を椅子の横へ置く動きにも、校長室へ招かれたことで身構える様子はなかった。
教師たちからの報告は、悪くなかった。
ミネルバは、変身に成功した後も結果を観察し、次に確かめることを尋ねていたと話した。
フリットウィックは、質問が具体的で、説明を聞いた後に書き加える習慣があると評価している。
セブルスの声は、いつもどおり冷たかった。
警戒を解いたわけではない。
それでも、無断発言を叱った後は許可を待ち、調合中の指示にも従ったと認めていた。
教えたことを実際に使うつもりで聞いている、という言葉もあった。
それは、ダンブルドアにもよく分かる。
「教わることが多いですね。説明を聞いた後で本を読むと、前には気づかなかったところも見えます」
鬼太郎は答えた。
「魔法史も、こちらにいる種族同士が、何を争ってきたか知る手掛かりになりますし」
「ビンズの授業を、そうして聞いておるか」
「名前が多いので、後で読み直すところもあります」
少年は笑った。
退屈だからと、知ることを捨てた顔ではなかった。
ダンブルドアは卓へ菓子の皿を寄せた。
「ほかの生徒とは、どうじゃ」
「ハリーさんたちと同じ寝室ですし、授業の後でも話しています。キーノさんも、ハーマイオニーさんと本を比べていますね」
鬼太郎は一つ菓子を取り、続けた。
「僕が分からないところを、あちらが知っていることもあります。聞ける相手がいるのは、助かります」
ダンブルドアは頷いた。
学校が、窮屈さだけを与えているわけではない。
教室で問い、寮で本を開き、同じ年頃の者と過ごしている。
キーノについても、馴染み始めている様子は報告されていた。
あの森から迎えた二人が、ここで暮らす道を見つけつつある。
そのことには、素直に安堵した。
◆
「ただ、箒は使えませんでした」
鬼太郎が言った。
ダンブルドアは頷く。
「フーチから聞いておる。取り替えても、動かなかったそうじゃな」
「ええ。こちらの魔力を箒へ働かせようとすると、もう一方が邪魔をする感覚がありました。杖を使うときには、そうならないのですが」
ダンブルドアは、少年の手へ目を向けた。
杖を使わず炎を生み、冷気や風、雷まで扱う力。
それと、杖を通して働かせる魔力は、本人の中でも別のものとして感じられている。
「無理に、力を押し込まんようにな」
「はい。その場では、やめました」
「それでよい。使えない理由を調べることと、今すぐ飛ぼうとすることは別じゃ」
少年は頷いた。
そこでも指示には従っている。
ダンブルドアは、皿へ手を伸ばした。
鬼太郎が、ハリーの飛行について話し始める。
投げられた玉を追う動きと、地面へ近づいた後の戻し方を、よく見ていたらしい。
「ハリーさんには、扱いやすい道具だったようですね」
「うむ。ミネルバも、大層喜んでおった」
大層、では少し足りないかもしれなかった。
許可を求める話には、すでに選手を迎える準備を終えた者の勢いがあった。
鬼太郎は菓子を食べ終え、指についた欠片を払う。
「呪文で戦うときは、また違いましたけれど」
ダンブルドアの手が、皿の上で止まった。
「戦う?」
「マルフォイさんと決闘したときです。僕は、立会人として見ていました」
◆
鬼太郎は、夕食での約束から話した。
日時と場所、使うもの、開始と停止、勝敗の条件。
紙へ書き、二人に署名してもらったことも伝える。
ダンブルドアは、途中で真夜中という言葉が出たところで眉を上げた。
「その時間に寮を出てよいとは、言われておらんはずじゃが」
「ええ。許可はいただいていません」
鬼太郎は答えた。
「なぜ、立ち会おうと思った」
「同じ年頃の方が、相手の動くところでどのくらい呪文を使えるのか、知りたかったんです」
ダンブルドアは背もたれへ身体を戻した。
「昼間、教師に相談する方法もあったじゃろう」
「二人が、その時間で約束したものですから」
「それを止める方へは、考えなかったか」
鬼太郎は少し間を置いた。
「条件を揃えて、終わるところまで決めておきたいと思いました」
質問への答えにはなっていた。
ただ、ダンブルドアが期待した答えとは、少し違った。
少年は、興味を持ったものを見られる形へ整えた。
規則を知らずに出たのでも、挑発されて我を忘れたのでもない。
知ったうえで、観察する方を選んでいる。
「結果は?」
「マルフォイさんの勝ちです。ハリーさんは足を縛られて、立って続けられませんでした。決めた条件どおり、そこで終えました」
「同じ寮の者へ、肩入れはせなんだか」
「公平に判定すると、先に伝えましたから」
ダンブルドアは小さく頷いた。
約束を守るところは、変わっていない。
その約束を、何のために使うかも、変わっていなかった。
「決闘を教わりたいなら、まず教師へ相談しなさい。夜の城を、勝手に試合場へ変えるのは困る」
「分かりました」
鬼太郎は答えた。
ダンブルドアは机の端へ視線を落とした。
教師たちの評価を、疑う理由はない。
授業を受ける少年と、今ここで話す少年は、確かに同じ者だった。
◆
「今日、伺いたかったのは、その帰りに聞いたことです」
鬼太郎が言った。
ダンブルドアは顔を上げた。
「帰りに、何があった」
「動く階段で、僕とキーノさんは三人と離れました。僕たちは先に寮へ戻ったのですが、あちらは三階の廊下へ行ったそうです」
机の向こうが、静かになった。
鬼太郎は教師の顔を見る。
「立ち入りを禁じた廊下へ、入ったのか」
ダンブルドアの声が、少し低くなった。
「ええ。フィルチさんを避けようとして、鍵のかかった部屋へ入ったと伺いました。そこに、三つの頭を持つ大きな犬がいたそうですね」
ダンブルドアは鬼太郎を見た。
「お主は、見ておらんのじゃな」
「はい。戻ってきた三人から、聞いただけです」
鬼太郎は続けた。
「校長先生が入らないよう告げた場所にいるのでしたら、そちらで管理している生き物なのかと思いまして。どのような役目を持つものなのでしょうか」
問い終えて、返事を待つ。
菓子の皿には手を伸ばさなかった。
ダンブルドアも、しばらく黙っていた。
◆
ダンブルドアは、少年の問い方を聞いていた。
誰が管理し、何をさせているのか。
その順で確かめに来た。
無断で扉を開けるより、ずっとよい。
だが、知りたい理由まで穏当だとは、まだ言えなかった。
「役目を聞いて、どうするつもりじゃ」
「強い相手なのでしたら、力を試せるかと思いました。ただ、何かを守るために置かれているのなら、勝手に手を出すわけにもいきませんので」
鬼太郎の声は柔らかかった。
「周りに誰もいないところで向き合えるなら、使える力も増えます。ですが、話だけでは実際の強さも分かりませんし、まず確認したいと思いました」
ダンブルドアは、息を一つ吸った。
学校へ馴染んでいる。
それは間違いなかった。
馴染んだ学校の中で、次の戦いの相手まで探し始めている。
あの犬へ、自分の力を向けるつもりで、条件を考えていた。
教師たちの報告には、そこまでは載っていなかった。
「鬼太郎」
名前を呼ぶと、少年が顔を上げた。
「あれに近づいてはならん」
はっきり告げた。
「あの先は、教師たちが準備した罠じゃ。生徒のために用意したものではない。お主が力を試す場所でも、獲物を選ぶ場所でもない」
鬼太郎の笑みが、少し薄くなる。
不満を言うために口を開いたのではなかった。
今聞いた言葉を、確かめている顔だった。
「学校側の目的があるのですね」
「そうじゃ。そのために置いておる。犬にも、そこで果たす役目がある」
「では、僕の鍛錬に使えば、そのお仕事を邪魔することになりますね」
「うむ」
ダンブルドアは頷いた。
罠の先に何があるかまでは、語らなかった。
少年はそこを尋ね直さず、椅子の肘掛けへ指を置いた。
◆
ダンブルドアは、ハリーの顔を思い浮かべた。
まだ、自分に何ができるのかさえ、よく知らない子供だ。
だが、友のために箒へ乗り、飛んだ。
自分で動く理由は、すでに持っている。
その理由が、より大きな困難へ向かう力になるには、経験が要った。
知恵を使い、仲間と力を合わせ、恐れても進む。
最後に自分で選んだ一歩なら、その先で得たものは、ハリーの中へ残る。
地下へ続く道には、教師それぞれの手が入っていた。
通り抜けるまでに、できることも、ひとりではできないことも知るようになる。
その段階を踏ませたい者は、目の前の少年ではなかった。
鬼太郎なら、目の前の障害を壊すこと自体を、手応えとして受け取るかもしれない。
何が守られているかを知る前に、犬との戦いで満足してしまうこともあり得る。
それができるかどうかを、今確かめるつもりはない。
ただ、一つでも勝手に取り除かれれば、ハリーに残してある経験は、別のものになる。
ダンブルドアは机の上へ手を置いた。
ここで教え、導くこと。
それと、進ませる相手を選び、道を残すことは、彼の中で別々ではなかった。
英雄になる子には、その子自身が越えたと信じられる困難が必要だった。
鬼太郎へは、学校側の目的があるとだけ告げておけばよい。
生徒のためではない、と言ったとき、ダンブルドアは誰をその言葉から外したかを、自分で知っていた。
◆
鬼太郎は、ダンブルドアの返事を聞いて頷いた。
自分が自由に扱える生き物ではなかった。
ここには、ここで役目を持つ者がいる。
事情を聞く前から狩ると決めずに来たことで、余計な手間を避けられた。
「分かりました。何か問題が起きなければ、あちらへは行きません」
机の向こうで、ダンブルドアの指が止まった。
鬼太郎はその動きを見た。
「問題が起きなければ、か」
教師が繰り返す。
「ええ。今のお話でしたら、僕から手を出す理由はありませんから」
「その『問題』には、何を入れておる」
鬼太郎は少し考えた。
「こちらへ何か出てきたり、僕たちのいるところへ危険が及んだりした場合ですね。そのときまで、何もしないとは言えません」
声は穏やかなままだった。
犬が今そうする、と決めつけているわけではない。
ただ、先の状況を知らないまま、何があっても手を出さないとは約束できなかった。
「何か気づいたら、まず教師へ知らせなさい」
ダンブルドアが言った。
「危険があるからと、自分であの廊下へ入って処理しようとするのではない。学校で起きることには、我々が対応する」
「知らせる時間がありましたら、そのようにします」
鬼太郎は答えた。
ダンブルドアの眉が、僅かに寄った。
「また、条件がついたのう」
「目の前で起きたときに、待てるかまでは分かりませんので」
鬼太郎は教師を見た。
「ただ、今は何も起きていません。犬へ会いに行くために、問題を探すつもりもありませんよ」
ダンブルドアは、その顔をしばらく見ていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「そこは、覚えておこう」
◆
ダンブルドアは、少年が椅子から立つのを見た。
話を聞き、予定を変えることはできる。
無断で手を出してから理由を並べるのではなく、先に尋ねてきた。
その点は、確かに評価してよかった。
あの犬を、今すぐ相手にするつもりもない。
ひとまず、用意してある道は、そのまま残る。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
鬼太郎が言った。
「授業のことで、確かめたいものはまだ多くあります。そちらから進めますね」
「うむ。聞ける教師がいるのじゃ。存分に学びなさい」
ダンブルドアは答えた。
鬼太郎は鞄を持ち、扉へ向かった。
戸を開ける前に、室内の器具へもう一度目を向ける。
煙を出していたものは、今は静かだった。
その仕組みも気になるのだろうが、少年は手を伸ばさなかった。
挨拶をして、部屋を出る。
扉が閉まった。
ダンブルドアはしばらく、その扉を見ていた。
学校を楽しんでいる。
教師からの評価も、悪くない。
問題がなければ、危険な場所へも行かない。
どれも、聞きたかった返事だった。
ただ、何を問題と見なし、待てる時間があるかを決めるところには、鬼太郎自身の判断が残っている。
従う言葉の中で、その手までは預けていかなかった。
ダンブルドアは皿から菓子を取り、口へ運んだ。
甘かった。
安心してよいところまで、安心しよう。
その先まで同じ味だと思わぬように。
机の上へ視線を戻すと、まだ返事を書いていない書類があった。