第百八話 磨く手に、それぞれの空がある
鬼太郎が談話室へ戻ると、キーノは窓辺の卓で教科書を開いていた。
入ってきた彼を見つけ、羽根ペンを置く。
「どうだった」
「近づかないように、言われました」
鬼太郎は向かいの椅子へ座った。
「教師の方たちが用意した罠で、生徒が力を試すためのものではないそうです。あの犬にも、そこでの役目があるのでしょうね」
キーノは彼の顔を見た。
「じゃあ、戦う話は終わりか」
「今は、手を出す理由がありません」
「今は、な」
「何か起きた場合は別です。ただ、こちらから会いに行くつもりはありませんよ」
鬼太郎が答えると、キーノは少し肩の力を抜いた。
「先に聞きに行って、よかったな」
「ええ。向こうのお仕事を壊してから、お話をするところでしたら、面倒になったでしょう」
彼は鞄を下ろした。
中から教科書と、授業で書いた紙を出す。
キーノも自分の頁へ目を戻しかけたが、途中で手を止めた。
「何の罠なのかは、聞いたのか」
「そこまでは、教えていただいていません」
「気にならないのか」
「気になりますよ」
鬼太郎は答え、教科書を開いた。
教師たちが準備したという罠。
その中へ置かれた、大きな犬。
学校が何を隠し、そのために何を使っているのか。
知りたいことの一つにはなった。
ただ、今すぐ確かめるために、手元の課題を置くほどではなかった。
◆
少し離れた卓で、ハリーがロンと話していた。
ハーマイオニーも本を抱えて立っている。
犬の話が出ると、彼女は向かいの椅子を引いた。
「何かを守っているのは、確かだと思うの。でも、あの下まで見に行くなんて駄目よ」
「行こうって言ってないだろ」
ロンが答えた。
「何があるんだろうって話してるだけだよ」
「ハグリッドなら、あの犬のことも知ってるかな」
ハリーが言う。
「学校にいる生き物だし、森番なんだから」
鬼太郎は、開いた頁の端へ指を置いていた。
三人とも、あの扉のことを忘れてはいない。
考えを並べ、本を開き、話を知っていそうな者を挙げている。
ある程度は、調べるだろう。
彼らが知った頃に、何が分かったか尋ねればよい。
今の自分には、その間に進められるものがある。
鬼太郎は紙へ目を落とした。
同じ呪文を唱えても、手の動きと結果が毎回揃うとは限らない。
教師から教わった説明を、実際の動作へ直すところには、まだ時間が要った。
小さな針を細かく整えることも、思ったとおりにはできていない。
先に確かめたいものは、卓の上に並んでいた。
キーノが彼を見た。
「あっちへ加わらないんだな」
「分かったことがあれば、後で伺いたいですね」
「お前は、今はこっちか」
「ええ。こちらには、直接教えてくださる方もいますから」
鬼太郎は教科書へ目を戻した。
キーノも羽根ペンを取る。
向こうの卓では、ロンが何か言い、ハーマイオニーが首を振っていた。
鬼太郎は三人へ調査を頼まず、彼らが話しているところへも入っていかなかった。
◆
翌朝、大広間へ長い包みが運ばれてきた。
何羽ものふくろうが、その重さを分けて持っている。
ハリーは頭上を見た。
包みは、こちらへ下りてくる。
ロンが自分の皿を寄せた。
食卓へ置かれると、近くの生徒たちまで身を乗り出した。
「君の?」
ロンが尋ねる。
ハリーは添えられていた手紙を開いた。
マクゴナガルからだった。
今夜、ウッドとの練習に持っていくこと。
食卓では開けず、大切に扱うことも書かれている。
ハリーは包みの形を見た。
先生が手配すると言っていたものだ。
「箒だ」
ロンの目が明るくなった。
「何の箒?」
「ニンバス2000だって」
ロンは包みへ顔を寄せた。
ハリーは手紙を畳み、包みの紐へ伸びかけた手を止める。
「ここで開けないようにって」
「そりゃ、みんな集まってくるよ」
ロンは周りを見て言った。
もう、向こうの席からこちらを見ている者がいる。
キーノが包みの端を眺めた。
「横丁に飾ってあったのか」
「そう。あれだよ」
ハリーが答える。
鬼太郎も、紙の下の形へ目を向けた。
箒を使えるようにはなっていない。
それでも、訓練用に並んでいたものと、この新しいものがどう違うのかには、関心があった。
ハリーは朝食を急いで終えた。
ロンが立ち、包みの片側を持つ。
鬼太郎とキーノも、食べ終えてから席を離れた。
◆
大広間を出たところで、マルフォイが来た。
長い包みを見て、歩く速さが変わる。
「箒か?」
ハリーは包みを抱え直した。
「そうだよ」
「一年生は、自分の箒を持てないはずだろう。君だけ、規則を知らないのかな」
「先生が送ってくれたんだ」
マルフォイは口元を歪めた。
「名前が有名だと、何でも許されるんだね」
ロンが前へ出かける。
そこへ、フリットウィックが廊下を歩いてきた。
マルフォイはすぐに彼を呼び止めた。
「先生。ポッターが箒を持っています」
フリットウィックは包みを見て、ハリーへ顔を向けた。
「ああ、届いたんだね。マクゴナガル先生から話は聞いているよ」
マルフォイの顔が止まった。
「練習が始まるんだろう? 楽しみだね、ポッター」
「はい、先生」
ハリーが答えた。
フリットウィックは笑みを浮かべ、先へ進んだ。
ロンが肩を揺らす。
マルフォイは教師の背中を見てから、ハリーへ目を戻した。
「箒の上でなら、勝てるつもりなのか」
ハリーの笑みが少し消える。
真夜中の決闘を、相手も覚えている。
「これから、練習するんだよ」
ハリーは言った。
マルフォイは返事を待たず、クラッブたちの方へ戻っていった。
鬼太郎は、ハリーの持つ包みへ目を向けた。
昨日まで使えなかったものが、今日から使えるわけではない。
だが、使えるものを、よりよい道具で磨く者はいる。
ハリーの手が、包みを握り直していた。
◆
寮へ戻って紙を外すと、磨かれた柄が現れた。
ハリーは文字の刻まれたところへ指を寄せる。
触れる前に、一度止めた。
店の前で見上げたときには、自分がこれを持つとは思っていなかった。
ロンが小枝の揃った先を見ている。
「すごいな。学校の箒とは、全然違う」
キーノも覗き込んだ。
「持ってみてもいいか」
「うん」
ハリーが渡すと、彼女は両手で柄を受けた。
少し傾け、重さを確かめてから返す。
鬼太郎も、許可を得て手に取った。
傷のない表面と、手へ収まる形。
飛ばそうとはせず、そのままハリーへ戻した。
「使い心地は、今夜分かりそうですね」
ハリーは頷いた。
まだ、授業へ行く時間だった。
新しい箒を置き、鞄を持つ。
部屋を出る前にもう一度振り返ると、寝台の上に、磨かれた柄が見えた。
◆
呪文学の教室では、机の上へ小さな材料が配られた。
折れた木片だった。
キーノは二つの断面を見比べた。
フリットウィックが、修復の練習について説明する。
「戻したい形を確かめてから、唱えてください。終わった後も、接ぎ目をよく見てごらん。つながったように見えても、ずれていることがあるからね」
キーノは木片を机へ置いた。
鬼太郎が扱っていた呪文だった。
授業で習ったときの動きを思い出し、松の杖を出す。
「レパロ」
片方が動いた。
もう片方へ寄り、断面が触れる。
キーノは少し身を乗り出した。
接ぎ目の一方だけ、縁がずれていた。
「くっついたが、変だ」
鬼太郎が隣から見た。
「割れた線が、途中でずれていますね」
「もう一回か」
「先生に、確かめていただきましょう」
彼は自分の杖を差し出さなかった。
キーノは手を上げた。
フリットウィックが来て、木片を手に取る。
彼女は、どこが気になったかを示した。
教師は頷き、戻る形をもう一度見直すよう助言した。
キーノは木目の線と、割れた端を見た。
先ほどは、二つが寄ればよいと思っていた。
元の一本では、どこが続いていたか。
そこまで考えてから、もう一度唱える。
接ぎ目が小さく動いた。
キーノは指を近づけ、教師の許可を待ってから、そっと持ち上げた。
今度は、縁が揃っていた。
「できた」
声を落としたつもりだったが、少し弾んだ。
鬼太郎が目を向ける。
「木目も、続いていますね」
キーノは頷いた。
もう一度、その線を確かめた。
◆
鬼太郎は、自分の木片へレパロを唱えた。
二つが寄り、接ぎ目が戻る。
この大きさなら、つなぐこと自体に時間はかからなかった。
ただ、発声から戻り始めるまでには、僅かな間がある。
その間、手はどこにあったか。
終わった後、杖先がどちらを向いていたか。
鬼太郎は紙へ短く記した。
フリットウィックが、その手元を見る。
「つながった箇所も、確かめたかな」
「ええ。次に使うときにも同じように動かせるよう、手の位置を残していました」
「よいね。ただ、速く終わらせようとして、最後の確認を省かないこと」
教師は木片を示した。
鬼太郎は接ぎ目を見直す。
浮いた縁はない。
持ち上げても、離れなかった。
結果を確かめてから、手順へ印を足す。
隣では、キーノが自分の記録を書いていた。
少し先でハリーも、戻った木片を見ている。
ロンは教師を呼び、離れたままの断面を示した。
成功した者も、しなかった者も、机へ戻って続きを確かめる。
鬼太郎は杖を置いた。
あの犬の強さは、まだ分からない。
ここにある材料へ、自分の力がどう働いたかは確かめられる。
今は、その違いだけで、どちらに時間を使うかを決められた。
◆
夕方、ハリーは箒を持って城を出た。
ウッドとの約束の時間が近づいている。
競技場の観客席は、教室から見えたときよりずっと大きかった。
高い輪が、空へ突き出している。
ハリーは広い芝生へ入った。
足元に、寝台の横で眺めたニンバス2000を置く。
周りに、ほかの選手はいなかった。
少しだけ飛んでみる。
地面を蹴ると、箒はすぐに応えた。
身体を前へ傾ける。
風が顔へ当たり、観客席の柱が横へ流れた。
学校の箒を動かしたときより、少ない動きで向きが変わる。
ハリーは少し速度を落とした。
新しい箒は、こちらが望んだところへ、思ったより早く来る。
慣れるまでは、その違いも覚える必要がありそうだった。
芝生の端で、ウッドが立ち止まっていた。
大きな箱を持っている。
ハリーは向きを変え、彼の近くへ降りた。
「早いね」
「少し、試してました」
ウッドは箒とハリーの顔を見て、満足そうに頷いた。
「じゃあ、今日は道具を見ながら、前に話したことを確かめよう」
◆
箱の中には、形も大きさも違うボールが入っていた。
ウッドは一つずつ示し、競技場の輪や、ハリーの立つ場所と結びつけて説明した。
クアッフルを運ぶ者。
輪を守る者。
選手へ向かってくるブラッジャーを、打ち返す者。
ハリーは黒いボールを留める金具へ目を向けた。
中で動こうとしている。
ウッドが扱いを見せる間にも、追ってくるものだということが、よく分かった。
最後に、小さな金色のボールが現れた。
銀色の羽が、細かく動いている。
「これを見つけて、相手のシーカーより先に捕まえる。君の役目だ」
ハリーは目を近づけた。
思い出し玉より、小さい。
しかも、自分で動く。
空で、ほかのボールや選手を避けながら、これを探すことになる。
ウッドは得点と、捕まえたときに試合が終わることを説明した。
ハリーは頷き、金色の光を見続けた。
「今日は、これを飛ばすのはやめておこう。暗くなったら、見失いかねない」
箱が閉じられる。
代わりにウッドが出したのは、小さな白いボールだった。
ハリーには、見覚えがあった。
「ゴルフボール?」
「ああ。まずは、投げたものを追って捕まえるところからだ」
ウッドは袋を持ち上げた。
ハリーは箒へ手を伸ばした。
◆
白い点が、ウッドの手を離れた。
ハリーは箒を向けた。
右へ出たと思った次の球は、少し低いところへ投げられる。
身体を倒し、腕を伸ばす。
指が球へ触れた。
握ってから箒を起こす。
ウッドが声を掛けた。
「よし。次は、反対だ」
ハリーは球を戻し、また距離を取った。
風が耳の横を抜ける。
見つけたものへ、近づいていく。
足元の芝生が遠くなっても、箒の支える感覚は残っていた。
全て、同じように取れるわけではない。
腕を伸ばすのが早すぎると、届かないまま球が下へ抜けた。
ハリーは追って拾い、次には少し近づいてから手を出した。
ウッドも投げ方を変えていた。
ハリーが顔を向け直す前に、別の方向へ球を送る。
見失いかけた白い点を見つけ、箒を返す。
取れた。
掌の中の硬い感触に、ハリーは笑った。
真夜中の床では、脚が動かなくなった。
呪文を唱えようとして、口が追いつかなかった。
ここでは、見えたものへ身体を向けると、その先へ行ける。
うまくいかない動きも、もう一度試せた。
自分にできることが、一つずつ分かっていく。
ハリーは球を握った手を上げ、ウッドへ向けた。
◆
その頃、キーノは談話室で木片の図を描いていた。
授業中に確かめた接ぎ目へ、小さな印をつける。
鬼太郎が向かいから見た。
「直す前と後を、残しているのですか」
「ああ。明日になったら、どこがずれてたか忘れるかもしれないから」
キーノは線を一本足した。
「お前がやると、すぐ戻ったな」
「この大きさは、何度も練習していますので」
「私は、まだこれからか」
「今日、揃えられたところは覚えておけますね」
鬼太郎は彼女の図を見た。
キーノは頷き、その横へ短く書き加える。
ハリーとロンの席は空いていた。
ハリーは競技場へ行き、ロンはまだ戻っていない。
鬼太郎は自分の記録へ目を落とした。
授業で教わった呪文には、使うものと、まだ扱いを確かめるものがある。
名前を増やすだけでは、使いたいときに働くとは限らない。
発声から手を動かし、結果へ届くまでを、もっと短く、揃えていく。
それは、今夜も進められることだった。
キーノの帳面を閉じる音がした。
「ハリー、うまく飛べたかな」
「戻ってきたら、聞いてみましょう」
鬼太郎は答えた。
犬の話も、学校が隠しているものも、忘れたわけではない。
ただ、それを追う三人がいる。
こちらは、今使う力を磨く。
鬼太郎は読む頁へ指を置き、キーノと次の説明を確かめた。
◆
練習が終わる頃には、ハリーの指が少し冷えていた。
箒から下りると、両足に地面の重さが戻る。
ウッドが道具を片づけながら、次の練習について話した。
ハリーは頷いた。
授業も宿題も、そのまま続く。
そこへ、空で過ごす時間が加わる。
箒を持ち上げ、城へ向かった。
窓には、灯りが並んでいた。
そのどこかで、ロンたちも過ごしている。
戻ったら、今日のことを話そう。
ハリーは握り直した柄へ一度目を向け、それから明るい入口へ歩いた。