第109話 低い杖先
帰省する生徒の荷物が、玄関へ集まっていた。
ハーマイオニーは本の袋を抱え直し、出発の列へ入る前に振り返った。
「フラメルのこと、忘れないでね。違う本を見つけたら、どれを調べたかも覚えておいて」
「分かってるよ。君のその袋には、まだ調べてない本も入ってるの?」
ロンが尋ねると、彼女は持ち手を握り直した。
「これは休暇に読む分。全部じゃないわ」
「全部なら、持てないだろ」
キーノが言った。
ハーマイオニーは袋を見てから、少し笑った。
「そうね。じゃあ、また休暇の後に」
「ああ。またな」
鬼太郎も挨拶をし、列へ戻る彼女を見送った。
少し離れたところで、セドリックが手を上げていた。
「先生との練習、戻ったら聞かせてよ」
「ええ。お話しすることが、たくさんありそうですね」
「その分、こっちも考えてこないとな」
セドリックは鞄を持ち、扉の向こうへ出た。
荷物を引く音が遠ざかる。
鬼太郎たちが階段へ戻る頃には、玄関にいた人数は随分減っていた。いつもは人の声に重なる自分の靴音が、天井の高いところまで響いた。
◆
昼食の後、ロンは談話室でチェス盤を開いた。
向かいにハリーが座り、キーノは横から駒を覗く。
「その端の駒は、斜めへ行かないのか」
「ルーク? 縦か横だよ。途中に駒がなければ、何マスでも進める」
ロンが、白い駒から盤の奥まで指を動かした。
キーノは途中のポーンを見た。
「じゃあ、こいつがどけば、向こうまで来るんだな」
「そういうこと。だから、今そこを動かすと――」
「言わないでくれよ」
ハリーが盤へ顔を寄せる。
鬼太郎は、机の上の帳面を鞄へ入れた。
「では、行ってきます」
キーノが顔を上げた。
「今日が、先生とやる日か」
「ええ。終わったら、どんなふうだったかお話しします」
「聞くことが多そうだな」
彼女は鬼太郎の顔を見てから、盤へ目を戻した。
ハリーが、不思議そうに尋ねる。
「休暇なのに、授業がなくても練習に行くんだね」
「今日は、先生に相手をしていただけますので」
鬼太郎は答え、黒檀の位置を確かめた。
最初に武装解除を見せられたときから、あの杖の向かいへ立ってみたかった。
廊下へ出ると、教室へ向かう足が、いつもより少し早くなった。
◆
フリットウィックは、床の線の端で待っていた。
机は壁へ寄せられ、小さな空き箱も片づけられている。
「来ましたね。休暇の課題は、進んでいますか」
「今日の分は、済ませてきました」
「結構。では、鞄を置いてください」
鬼太郎は机へ荷物を置いた。
先生が、使える呪文を一つずつ挙げる。
武装解除、全身金縛り、くすぐり。
今日は浮遊術を含めず、鬼太郎はその三つだけ。先生も、初めは武装解除だけで相手をする。
「杖が取られたら終了です。私が止めたときも、すぐに下げなさい」
「はい」
「それから、今日は何を確かめたいですか」
鬼太郎は先生へ向き直った。
「呪文を当ててみたいです。先生がどう避けて、どこへ返されるかも」
「両方見られるか、やってみましょう」
その声は、教室で羽根の動きを見ていたときと変わらなかった。
フリットウィックが、線の内側へ入る。
鬼太郎も位置へついた。
先生の杖が、上がった。
「構えなさい、墓場」
声が、静かになった。
大きくも、荒くもない。だが、聞いた途端に鬼太郎の指が握りを確かめた。
小さな身体の下で、足が定まっている。
杖は軽く持たれているように見えた。なのに、あの手が遅れる場所を想像できない。
「私から、目を離さないように」
鬼太郎は、先生の胸と肘、床に置かれた足を見た。
相手を見るつもりで来たのに、先にこちらの足を見られていた。
鬼太郎の口元が、緩む。
近くで見る方が、ずっとよかった。
「一礼」
頭を下げ、顔を上げる。
フリットウィックの杖は、もうこちらへ向いていた。
「始め」
◆
「ペトリフィカス・トタルス」
鬼太郎が先に唱えた。
先生が、半歩動く。
光は肩の外を抜けた。
鬼太郎は杖を残し、次を使う場所へ足を置き直した。
フリットウィックの先端が、こちらを向く。
鬼太郎は右へ身体をずらした。
先生の杖先が、僅かに向きを変える。
「エクスペリアームス」
赤い光が出たのは、その後だった。
避けたはずの場所へ、届く。
指が開き、黒檀が手を離れた。
鬼太郎は、次の詠唱に入れなかった。
「そこまで」
先生が杖を動かすと、飛んだ黒檀は床へ落ちる前に止まり、ゆっくり下りた。
鬼太郎は空いた手を下げ、フリットウィックを見た。
まだ、笑っていた。
「僕が動いてから、向け直されましたね」
「ええ。先に行く方を教えてくれましたから」
柔らかな声が戻った。
先生は、黒檀を拾うよう促した。
鬼太郎は杖を取った。
呪文を知っているから避けられるのではない。
知っていても、相手が出す場所を変えられるなら、そこへ自分から動くことになる。
「もう一度、お願いできますか」
「何を変えますか」
「最初に向いたところだけで、避ける方を決めないようにします」
先生が頷き、中央へ戻った。
◆
二度目は、鬼太郎からすぐには撃たなかった。
先生の手が動く。
今度は、杖がこちらを向いても、まだ同じ足に重みを残した。
フリットウィックが、少し横へ移る。
鬼太郎も身体の向きを変えた。
杖先が低くなった。
右手へ来るのか。
鬼太郎は肘を寄せ、黒檀を身体の近くへ引いた。
先生が、一歩近づく。
鬼太郎は、間合いを保つため後ろへ出た。
フリットウィックは、そのまま追ってこなかった。横へ移り、鬼太郎が戻したかった場所へ向きを取る。
鬼太郎も動いた。
床の線が、足の近くへ来た。
もう一歩下がれば、範囲から出る。
横へ戻ろうとしたところへ、先生の杖があった。
ここで、使う。
「リクタスセンプラ」
鬼太郎が黒檀を向け直すと、先生は肩を引いた。
光が外れる。
「エクスペリアームス」
引いた手を、出し直したところだった。
黒檀が飛んだ。
鬼太郎は線の内側で足を止め、息を吐いた。
今度は、早く動かなかった。
それでも、取られた。
◆
フリットウィックは、杖を下げたまま最初の位置へ戻った。
「先ほど、あなたはここにいましたね」
鬼太郎も、向かいへ立つ。
「私が横へ動くと、あなたも向きを変えました。右手を守ろうとして、杖を引いた」
「はい」
「そこへ近づけば、下がりたくなる。下がった先へ私が追えば、あなたはまた同じ方へ動けたでしょう」
先生は、後を追わず横へ出た場所を示した。
鬼太郎は、自分が通った方を歩く。
確かに、そちらへ向き直した。
向かいに立とうとするたび、少しずつ端へ寄っている。
「戻るところにも、杖がありました」
「あなたが戻りたいところも、見ていましたからね」
誘われた経験がないわけではない。
武器を下げ、こちらが近づくのを待つ護衛もいた。セドリックにも、避けた後の位置を狙われた。
ただ、先生は一度の隙だけで待っていなかった。
この一歩なら、と選ぶ。
次も、戻れると思って動く。
繰り返すうちに、足を置く場所が減っていた。
「一つずつなら、すぐ次へ戻せると思ったんですが」
「戻した後で何をしたいかも、相手から見えます」
先生が、鬼太郎の黒檀を指した。
「あなたは杖を残し、小さく避けて返したい。それはよい手です。でも、相手が毎回そこへ残してくれるとは限りません」
鬼太郎は、右肘を少し動かした。
反撃しやすいところへ置けば、その位置を狙うこともできる。
「では、次は戻るところも変えてみます」
「ええ。ただ大きく動けば解決する、と決めないように」
フリットウィックは、床の中央へ戻った。
◆
三度目は、くすぐりの呪文から始めた。
先生が避ける。
鬼太郎はその後で、前より大きく位置を変えた。
杖先が追ってくる。
まだ、声はしない。
鬼太郎は、足を止めずにもう一歩動いた。
向けられたところへ、同じ幅で収まらない。
「エクスペリアームス」
先生の手へ、赤い光を送った。
フリットウィックが横へ出る。
光は当たらなかったが、こちらを向いていた杖先も、一度別の方へ外れた。
鬼太郎は、その間に構えを戻した。
すぐには、近づかない。
先生の全身が見える距離で、足を置き直す。
フリットウィックの目が、靴から右手へ戻った。
「続けなさい」
静かな声だった。
鬼太郎の胸が、弾んだ。
一度避けられた後にも、まだ試せるものがある。
「ペトリフィカス・トタルス」
先生が、また小さく避けた。
そちらへ、次を重ねようとする。
だが、その足はもう戻り始めていた。
鬼太郎は、追うのをやめた。
先生が寄る。
鬼太郎は下がり続けず、横へ移った。
杖先が来る。
「リクタスセンプラ」
返した光も、肩の外を抜けた。
息が速くなっていた。
まだ、脚は出る。
鬼太郎は一度吐き、先生の構えへ目を戻した。
杖が、低い。
自分の手を狙うなら、少し持ち上げるはずだった。
その動きへ、先に使おう。
鬼太郎が黒檀を出した。
「エクスペリアームス」
低いままの杖先から、赤い光が走った。
上がらなかった。
鬼太郎は腕を引こうとした。
その前に、指が開いた。
三度目も、黒檀は手を離れた。
「そこまで」
鬼太郎は動くのをやめ、空いた右手を下げた。
◆
「今度は、少し長く続けられましたね」
先生の声が、柔らかく戻る。
鬼太郎は額を手で拭った。汗で、髪が少し張りついていた。
向こうの息は、ほとんど変わっていない。
「一度だけ、狙いを変えていただけました」
「ええ。最初に向けたところから、そのまま出ませんでしたね」
黒檀を受け取り、鬼太郎は低く持ってみた。
「最後は、先生が手を上げると思いました」
「私の高さで、その位置から向けるなら、上げ直す必要があったでしょうか」
フリットウィックが、同じ構えを取った。
鬼太郎も、さっき右手を出したところへ立つ。
先端は、既にそちらへ向いていた。
低く持っているように見えても、自分が差し出す手より下を狙っていたわけではない。
「もう、届く向きだったんですね」
「ええ。杖の高さと、向いている先を同じものにしないことです」
鬼太郎は、先生との身体の高さの差を見た。
相手が小さいことは、見えていた。
それでも、返してくる手の位置は、慣れた相手のものを待ってしまった。
「今日は、手合わせをここまでにします。今の位置を、ゆっくり確かめましょう」
「はい。お願いします」
先生は、最初の開始位置を指した。
三度の動きを、一つずつ辿り直す。
鬼太郎が早く出た右側へ、先生が遅れて向け直す。
次は、鬼太郎が杖を引いて下がり、戻ろうとしたところで止まる。
呪文を出さずに歩いてみると、何を選んだつもりだったかを、途中で確かめられた。
最後の図には、杖を持つ手と、その先端から伸びる線も描いた。
「向け直す前に見えるものは、何ですか」
先生が尋ねた。
「足を置いた方と、杖の出る場所です。ただ、その足へ次も戻るとは限りません」
「では、その先は」
「もう一度、見ます」
フリットウィックが頷いた。
鬼太郎は、足から先へ一気に引いていた矢印を消し、向きが変わったところで分けた。
線を一本増やすことより、そこで確かめる時間が要った。
◆
帰る頃には、帳面の見開きが二人の足跡で埋まっていた。
「次は、キーノの練習も見ましょう。来る日は、二人で確かめておいてください」
「ええ。伝えておきます」
鬼太郎は鞄を持ち、扉の前で向き直った。
「ありがとうございました。面白かったです」
フリットウィックは、三度杖を返した手へ目を落とした。
最初より長く動いた三度目も、相手へ呪文を当てたわけではない。
それでも、この生徒は負けたところを一つずつ持って帰る。
「次に、何を変えてくるか楽しみにしていますよ」
鬼太郎は一礼し、教室を出た。
談話室へ戻ると、キーノが暖炉のそばから顔を上げた。
「どうだった」
「三回、杖を取られました」
「先生が相手なら、そうなるよ」
ロンが盤から顔を向けた。
鬼太郎は隣へ座り、帳面を開く。
「ええ。でも、毎回違いました」
キーノが、最後の図へ目を寄せた。
「この線は?」
「先生の杖が向いていた先です。手が上がるのを待っていましたが、もう僕の手が出るところへ向いていました」
ハリーも、椅子から身を寄せる。
「先に分かってたの?」
「僕がそうしたくなるところへ、立たれていたんだと思います。次を全部知っていた、というよりは」
鬼太郎は、二度目の図を指で辿った。
「ここへ戻りたくなって、実際に戻りかけましたので」
キーノが図の端にある線を見た。
「お前が退けるところも、減ってたんだな」
「はい。一歩ずつなら、動けるつもりでした」
負けた話をしているのに、鬼太郎の口元は緩んでいる。
キーノはしばらく顔を見てから、自分も次に行く日を確かめ、図の続きを読んだ。
◆
夕食の後、鬼太郎は帳面を収めてから、別の袋を開けた。
紺色の栞と、銀色の星を出す。
紐を、すぐには切らなかった。
前には短すぎて、星の端が頁の間に残った。長くした後で、まだ結び目だけが少し余っている。
自分の本へ挟み、閉じる。
星が外へ出る位置で結び直し、余った先だけを短く切った。
もう一度開くと、紺の紙は読みかけの場所にあった。
鬼太郎は端を指で撫でた。
僅かに曲がっていた角を整え、本の下敷きになる部分に厚いものが残っていないか確かめる。
昼には、杖を出す位置を何度も直された。
今は、紙と紐の位置を直している。
実際に動かしてみなければ、頭の中の形だけでは分からないところがあった。
鬼太郎は栞を抜き、包む紙を広げた。
これは、相手を待たせるためのものではない。
キーノが好きなところで本を閉じ、また続きへ戻るために使う。
彼女が読んでいる間にも、紺色の紙は本のそばにあるだろう。
そう考え、鬼太郎は星の角が折れないよう、脇へ薄い紙を添えた。
少し離れた卓で、キーノが一度こちらを見た。
鬼太郎は包みを折っていた。
彼女は手元の本へ戻り、向かいのハリーへ頁を示す。
「人物の名前は、この後ろにあるんじゃないか」
「うん。フラメルが載ってるといいんだけど」
ハリーは巻末を開いた。
「どこかで見た気がするんだ。でも、どこだったのか思い出せなくて」
キーノは、索引の並びを目で追った。
彼女はもう一度だけ鬼太郎の卓を見たが、立ち上がらず、ハリーの開いた次の頁へ指を置いた。
鬼太郎は小さな紙へ、キーノの名前を書いた。
包みに添え、鞄の奥へ収める。
まだ、渡さない。
祝いの日に、彼女が自分で開く。
その隣には、今日の三度の敗北を記した帳面が入っていた。
次に先生の前へ立つ日も、この包みを渡す日も、今は楽しみに待てた。