神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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西へ続く道

第十話 西へ続く道

 

「鞄が最優先だ」

 

 買い手は、三枚のうち鬼太郎が選んだ依頼書を机の中央へ置いた。

 

 写真には、痩せた男が写っている。

 

 頬骨が高く、顎には短い髭が生えていた。

 

 名前は、ステファン・ミハイロフ。

 

「この男は、西から荷物を運んでいた。途中で同行していた運び屋を殺し、現金と荷物を持って逃げた」

 

「荷物とは?」

 

「革の書類鞄だ」

 

 買い手は、別の写真を出した。

 

 黒い革で作られた、角の擦れた鞄だった。

 

 蓋には二本の留め具があり、持ち手の近くに小さな金属板が打ちつけられている。

 

「中身は何です?」

 

「知らなくていい」

 

「開けても?」

 

「駄目だ」

 

 買い手は即座に答えた。

 

「留め具には封がある。切れていれば、何も盗っていないと言っても依頼人は信じない」

 

「鞄を開けず、中身も失わずに持ち帰る。それが一番大切なのですね」

 

「そうだ。ステファンは生きていても死んでいても構わない」

 

「鞄が燃えた場合は?」

 

 買い手が、報酬の書かれた紙を指で叩いた。

 

「ほとんど出ない」

 

「中身が一部だけ失われた場合は?」

 

「依頼人が残った中身を見て決める」

 

「随分と曖昧ですね」

 

「だから、鞄ごと持ち帰れ」

 

 鬼太郎は写真を手に取った。

 

 男の顔。

 

 革鞄の形。

 

 金属板の位置。

 

 よく似た別の鞄を渡されないよう、角に残った擦れ跡の位置まで覚える。

 

「死亡の確認は、どうしますか?」

 

「西の町に、こちらと取引している男がいる。ステファンを殺したなら、場所を知らせろ。顔を確認させる」

 

「僕が連れて帰る必要はないのですね」

 

「六歳の子供が、死体を抱えて戻ってきたら余計な騒ぎになる」

 

「生きていても、抱えるのは難しいでしょうね」

 

「今回は連れて帰る必要がない」

 

 鬼太郎は報酬の下に書かれた、もう一つの数字を見た。

 

「これは?」

 

「移動にかかる金だ」

 

「報酬から引くのですか?」

 

「西へ行く荷物車に乗せる。歩いて行きたいなら、引かない」

 

「何日かかります?」

 

「歩けば分からん。車なら二日だ」

 

「では、車にします」

 

「帰りも、決めた日に同じ場所を車が通る。それに乗れ」

 

「それまでに終わらなければ?」

 

「自分で帰ってこい」

 

「待ってはいただけないのですね」

 

「荷物を運ぶ車だ。お前を迎えるために走るわけじゃない」

 

 鬼太郎は、出発日と帰りの車が通る日、乗り降りする場所を確認した。

 

 町へ着いてから帰りの車が来るまでは、五日。

 

 その間にステファンを探し、鞄を回収し、現地の男に結果を確認させる。

 

「お受けします」

 

 鬼太郎は依頼書と二枚の写真を鞄へ入れた。

 

     ◆

 

「四発」

 

 ペタル・ヴァルチェフは、作業台の上へ弾を並べた。

 

「これ以上は撃つな」

 

「相手の人数は分かっていませんよ」

 

「分かっていないからだ」

 

 ペタルは〈シュライク〉の弾倉を外した。

 

 スライドを引き、薬室と内部を確認する。

 

 鬼太郎が整備した後だったが、同じ箇所をもう一度確かめている。

 

「撃てるだけ撃てば、手首が先に駄目になる。帰ってくるまで、俺は見て止められん」

 

「四人より多ければ?」

 

「全員を撃つ必要はない」

 

「火を使えと?」

 

「逃げろと言っている」

 

「なるほど」

 

 鬼太郎は、作業台の上の弾を弾倉へ収めた。

 

 残りの弾薬も持っていく。

 

 四発しか持たないという意味ではない。

 

 一度の戦いで、四発を超えて撃たないという意味だった。

 

「遠くへ行くからといって、身体が大きくなるわけじゃない」

 

「二日ほど車に乗れば、大きくなっているかもしれません」

 

「なっていたら、医者へ行け」

 

 ペタルは〈シュライク〉を鬼太郎へ返した。

 

 鬼太郎は弾倉を入れ、スライドを引いた。

 

 それから、上着の下のホルスターへ収める。

 

「壊さずに持ち帰りますよ」

 

「銃だけじゃない」

 

 ペタルの視線が、鬼太郎の右手へ落ちた。

 

「ええ。分かっています」

 

     ◆

 

 西へ向かう荷物車の荷台には、木箱と麻袋が積まれていた。

 

 鬼太郎は、木箱の間に敷かれた古い毛布へ座った。

 

 運転席との間にある小さな窓が開く。

 

「酔ったら、荷物へ吐くなよ」

 

 運転手が言った。

 

「吐きそうになったら、先にお伝えします」

 

「止まれる場所ならな」

 

 窓が閉じた。

 

 車が動き始める。

 

 最初のうち、鬼太郎は荷台の後ろから道を見ていた。

 

 街を離れる。

 

 建物が減り、畑が増える。

 

 曲がった場所を数えた。

 

 橋を渡った回数を覚えた。

 

 鉄道と並んで走った距離を見た。

 

 だが、日が落ちるころには何も見えなくなった。

 

 荷台は道の窪みを踏むたびに跳ねた。

 

 木箱が軋む。

 

 鬼太郎は荷物へ身体を預け、眠れるときに眠った。

 

 翌日の昼、車は道端で止まった。

 

 鬼太郎は荷台を降り、水を飲んだ。

 

 運転手は車輪を調べている。

 

「この道は、どこまで続いているのです?」

 

「町をいくつも越える」

 

「その先は?」

 

「国境だ」

 

「越えられますか?」

 

 運転手が手を止めた。

 

「その書類じゃ無理だ」

 

 鬼太郎は現在使っている身分証明書を持っている。

 

 だが、買い手に用意させたそれは、この国の中で六歳の子供が存在することを示すためのものだった。

 

 一人で国境を越えられることまでは証明しない。

 

「書類以外の方法もありますね」

 

「俺に聞くな」

 

「ご存じないのですか?」

 

「知っていても、お前には教えん」

 

「なぜです?」

 

「買い手を通さずに、仕事の道を売ったと思われたくない」

 

 鬼太郎は運転手を見た。

 

 何も知らないとは言わなかった。

 

 道はある。

 

 ただし、運転手一人を脅して聞き出せば使えるものではない。

 

「では、買い手を通せば教えていただけますか?」

 

「俺じゃない。国境を越える人間を運ぶ奴がいる」

 

「英国まで?」

 

「一人でそこまで運ぶ奴はいない。何人も使う。国を越えるたびに、別の奴へ渡す」

 

「荷物と同じですね」

 

「人間の方が面倒だ。勝手に動く。喋る。腹も減る」

 

 運転手は立ち上がった。

 

「それに、信用のない奴は途中で売られる」

 

「僕を売る方が、目的地まで運ぶより高くなる場合もありますか?」

 

「お前なら、買った奴が後悔する」

 

 運転手は荷台を顎で示した。

 

「乗れ」

 

 鬼太郎は再び荷物の間へ入った。

 

 英国まで一本で続く道はない。

 

 だが、何人もの手を渡れば、たどり着ける。

 

 必要なのは金だけではない。

 

 途中で売られないための信用か、売ろうとしたことを後悔させる力だった。

 

     ◆

 

 二日目の夕方。

 

 車は西の町が見える丘の手前で止まった。

 

「ここから歩け」

 

 運転手が言った。

 

「町の中まで行かないのですか?」

 

「この荷物を持って入る場所は、別だ」

 

 鬼太郎は荷台から鞄を下ろした。

 

「帰りは五日後。日が昇る前に、ここへ来い」

 

「僕がいなくても?」

 

「待たん」

 

「承知しました」

 

 車は脇道へ入り、木々の向こうへ消えた。

 

 鬼太郎は丘を下った。

 

 見知らぬ町だった。

 

 拠点としている街より小さい。

 

 石造りの建物が斜面に並び、その間を細い道が曲がっている。

 

 遠くに、削られた山肌が見えた。

 

 採石場があるのだろう。

 

 鬼太郎は、最初に宿を探した。

 

「子供だけでは泊められないよ」

 

 一軒目の宿で、女主人が言った。

 

「父が先に来ているはずなのですが、こちらには泊まっていませんか?」

 

「名前は」

 

 鬼太郎は、依頼対象とは別の名前を答えた。

 

 偽造された書類に記載されている父親の名前だった。

 

 女主人は宿帳を調べ、首を振る。

 

「いないね」

 

「では、父が見つかるまで、一晩だけでも」

 

「警察へ行きな」

 

「父は警察を嫌っています」

 

「そんなことを言ってる場合かい」

 

 鬼太郎は礼を言って宿を出た。

 

 二軒目でも断られた。

 

 三軒目の主人は、鬼太郎の鞄と服を見た後、先に二日分の金を求めた。

 

「父親が見つかったら、残りは返しませんよ」

 

 鬼太郎が言うと、主人は眉を寄せた。

 

「子供が値切るな」

 

「返さないのでしたら、一日分だけお支払いします」

 

 主人はしばらく鬼太郎を見ていたが、最後には鍵を出した。

 

 狭い部屋だった。

 

 寝台と小さな机しかない。

 

 鬼太郎は荷物を置いたが、〈シュライク〉は外さなかった。

 

     ◆

 

 翌朝から、ステファンを探した。

 

 写真を誰にでも見せることはしなかった。

 

 荷物を運ぶ車が止まる場所。

 

 町外れの酒場。

 

 長く滞在する者へ部屋を貸す家。

 

 逃げてきた男が必要とする場所から回る。

 

「父の仕事仲間です」

 

 鬼太郎は写真を見せた。

 

「父がこちらへ来た後、連絡がありません。この方なら、居場所をご存じかと思いまして」

 

 大半は写真を一度見て、知らないと答えた。

 

 写真へ目を落とす前に、知らないと言う者もいる。

 

 別の街から来た子供へ、余計なことを話したくないのだろう。

 

 食堂では、パンを一つ余分に渡された。

 

 酒場では、父親の名前と泊まっている宿を聞かれた。

 

 鬼太郎は、宿の名前だけを嘘で答えた。

 

 二日目の午後。

 

 古道具を売る店の前で、一人の男が写真へ長く目を留めた。

 

「見たことがありますか?」

 

「ない」

 

 男は写真を返した。

 

「今、考えていましたね」

 

「知らないと言っただろう」

 

「お金が必要ですか?」

 

 男の目が、鬼太郎の顔から鞄へ動いた。

 

「子供から金を取るほど困ってない」

 

「では、無料で教えていただけますか?」

 

 鬼太郎は立ち去らなかった。

 

 男も店へ入らない。

 

「いくら持っている」

 

「情報によります」

 

「町の北に、使われていない採石場がある。そいつに似た男が、夜になると出入りしてる」

 

「一人ですか?」

 

「そこまでは知らん」

 

「いつご覧になりました?」

 

「三日前だ」

 

「何をしに、夜の採石場へ?」

 

 男の顔が僅かに固くなった。

 

「近くを通っただけだ」

 

「そうですか」

 

 鬼太郎は硬貨を一枚出した。

 

 男が受け取ろうとする。

 

 鬼太郎は指を開かなかった。

 

「その採石場へ行けば、この方に会えるのですね?」

 

「いるかどうかまでは保証できん」

 

「ですが、出入りしていた」

 

「そう言った」

 

 鬼太郎は硬貨を渡した。

 

「ありがとうございます」

 

 男は硬貨をポケットへ入れ、足早に去った。

 

 鬼太郎は追わなかった。

 

     ◆

 

 日が落ちてから、採石場へ向かった。

 

 町の北側には、削られた岩壁が広がっている。

 

 使われなくなった小屋。

 

 錆びた道具。

 

 石を運んでいた荷車が、片方の車輪を失って倒れていた。

 

 鬼太郎は、足元を見ながら進んだ。

 

 土に靴跡が残っている。

 

 大人の男が、何度も小屋と岩壁の間を歩いた跡だった。

 

 小屋の中には、空の缶とパンの包みが落ちていた。

 

 だが、臭いが薄い。

 

 火を使った跡も冷え切っている。

 

 靴跡は目立つ場所にだけ残り、硬い地面へ入った途端に消えていた。

 

 隠れて暮らす人間が残したものではない。

 

 誰かがここにいると思わせるため、置かれたものだった。

 

 鬼太郎は小屋へ入らず、倒れた荷車の陰へ移った。

 

 写真を見せた男は、三日前の夜に偶然ここを通ったと言った。

 

 町から離れた、使われていない採石場の前を。

 

 それも、ステファンがいる時間に。

 

 嘘だった。

 

 男の目的は、鬼太郎から受け取る情報料ではない。

 

 鬼太郎をここへ向かわせたと伝え、ステファンから受け取る金の方が本命だったのだろう。

 

「出てこい」

 

 暗闇から、男の声がした。

 

「そこにいるのは分かってる」

 

 鬼太郎は返事をしなかった。

 

 声は、岩壁の方から聞こえた。

 

 もう一人いる可能性がある。

 

 鬼太郎は荷車の下を見た。

 

 向こう側の土に、影が伸びている。

 

 月明かりを背に、誰かが近づいていた。

 

 鬼太郎は〈シュライク〉を抜いた。

 

 身体を低くする。

 

 足が見えた。

 

 荷車の横から、銃を持った男が覗き込む。

 

 目が合った。

 

 男の銃口が下がる。

 

 その前に、鬼太郎は引き金を絞った。

 

 銃声が岩壁へ反響する。

 

 弾丸は男の胸へ入った。

 

 男は一歩後ろへよろめき、そのまま倒れた。

 

「ガキが!」

 

 別の場所から銃声がした。

 

 弾丸が荷車の板を貫く。

 

 鬼太郎は地面へ伏せた。

 

 木片が頬へ当たる。

 

 荷車の下から、岩壁の根元に積まれた木材が見えた。

 

 声がした場所との間にある。

 

 鬼太郎は左手を向けた。

 

「アギ」

 

 火球が地面すれすれを進む。

 

 木材へ当たり、乾いた表面を砕いた。

 

 炎が広がる。

 

 男が岩陰から飛び出した。

 

 火から離れようとしたのではない。

 

 突然現れた炎に驚き、隠れていた場所を自分から捨てた。

 

 鬼太郎は〈シュライク〉を向ける。

 

 男も銃を持っていた。

 

 だが、鬼太郎へ向けるより先に、地面へ落とした。

 

「待て!」

 

 鬼太郎は撃たなかった。

 

「ステファン・ミハイロフは、どこです?」

 

「知らない」

 

「では、必要ありませんね」

 

 鬼太郎が引き金へ指をかける。

 

「待て、知ってる!」

 

 男は両手を上げた。

 

 鬼太郎は荷車の陰から出なかった。

 

「どこです?」

 

「町の南だ。古い葡萄酒の貯蔵庫にいる」

 

「何人います?」

 

「ステファンだけだ。俺たちは、ここでお前を殺せと言われただけだ」

 

「僕が来ると、いつ知りました?」

 

「昼過ぎだ。ラドが、子供に写真を見せられたって」

 

 情報を売った男の名だろう。

 

「ステファンは、革の鞄を持っていますか?」

 

「持ってる。肌身離さない」

 

「貯蔵庫には、ほかの出口がありますか?」

 

「裏に一つ。地下から斜面へ出られる」

 

「入口はいくつです?」

 

「表と裏だ。それだけだ」

 

 鬼太郎は男の足元に落ちた銃を見た。

 

「後ろへ下がってください」

 

 男が一歩下がる。

 

「もう少し」

 

 男がさらに下がった。

 

 銃から離れる。

 

「そのまま、岩壁へ手をついてください」

 

「見逃すのか」

 

「あなたは依頼の対象ではありませんからね」

 

 男は息を吐き、岩壁へ向き直った。

 

 鬼太郎は左手を上げる。

 

「アギ」

 

 男の足元へ火球が当たった。

 

 炎が靴とズボンの裾を包む。

 

 男は悲鳴を上げて転がった。

 

 土へ脚を擦りつけ、火を消そうとする。

 

 男がすぐには立ち上がれないことを確かめ、鬼太郎は〈シュライク〉をホルスターへ戻した。

 

 それから、男の銃を拾った。

 

 弾倉を抜き、スライドを引いて薬室の弾を排出する。

 

 弾倉を離れた暗がりへ投げる。

 

 本体も反対側へ投げた。

 

「話が違う!」

 

「殺してはいませんよ」

 

「この脚で、どうしろっていうんだ!」

 

「朝になれば、どなたか通るでしょう」

 

 今すぐステファンへ知らせに走れなければ、それでよい。

 

 鬼太郎は燃える木材へ土をかけ、火を消した。

 

 それから、胸を撃った男の呼吸を確かめた。

 

 止まっている。

 

 鬼太郎は採石場を出た。

 

     ◆

 

 町へ戻る途中、鬼太郎は右手を開き、閉じた。

 

 痛みはない。

 

 一発しか撃っていない。

 

 それでも、次の場所へ着くまで銃を休ませる。

 

 南へ回る。

 

 葡萄畑の間を通る細い道を進むと、斜面の下に石造りの建物が見えた。

 

 窓は板で塞がれている。

 

 大きな木の扉の前には、使われなくなった樽が積まれていた。

 

 古い葡萄酒の貯蔵庫だった。

 

 正面へ近づかず、斜面を上る。

 

 裏の出口を探した。

 

 草に隠れた低い扉がある。

 

 最近、何度も開けられている。

 

 扉の前だけ草が倒れ、土が露出していた。

 

 鬼太郎は、扉から離れた岩の後ろへ座った。

 

 すぐには入らない。

 

 採石場で待ち伏せていた二人は、もう戻らない。

 

 ステファンが二人の帰りを待っているなら、それだけで異変に気づく。

 

 銃声がここまで届く必要はない。

 

 ステファンが状況を確かめるなら、ここから出てくる。

 

 しばらくすると、内側で金属の擦れる音がした。

 

 低い扉が僅かに開く。

 

 先に銃口が出た。

 

 続いて、男が顔を覗かせる。

 

 写真と同じ高い頬骨。

 

 短い髭。

 

 左手には、黒い革の鞄を持っている。

 

 ステファン・ミハイロフ。

 

 男は外へ出ると、採石場とは反対の方向へ走り始めた。

 

 鬼太郎は岩陰から立ち上がる。

 

 逃げる先は、葡萄畑だった。

 

 乾いた蔓を支える木の杭が、何列も並んでいる。

 

 鞄を燃やす可能性があるため、男へ直接アギは使えない。

 

 だが、進む道は変えられる。

 

「アギ」

 

 火球がステファンの前方へ落ちた。

 

 乾いた草が燃え上がる。

 

 男が足を止めた。

 

 炎の向こうへ進まず、貯蔵庫へ戻る。

 

 鬼太郎は追わなかった。

 

 ステファンは裏口へ飛び込み、扉を閉める。

 

 鬼太郎は斜面を下り、今度は正面へ回った。

 

 大きな扉は閉まっている。

 

 中から閂を外す音がした。

 

 ステファンは裏口を塞がれ、正面から出ようとしている。

 

 鬼太郎は、積まれた樽の陰へ入った。

 

 扉が開く。

 

 ステファンが飛び出した。

 

 右手には拳銃。

 

 左手には革鞄。

 

 鬼太郎は〈シュライク〉を両手で構えていた。

 

「動かないでください」

 

 ステファンが、鞄を胸の前へ持ち上げた。

 

「これが欲しいんだろ」

 

「ええ」

 

「撃てば、中身まで駄目になるぞ」

 

「そうですね」

 

 ステファンは鞄の陰から銃を向けようとした。

 

 鞄で隠れているのは、胸と腹だけだった。

 

 鬼太郎は、男の右脚を撃った。

 

 銃声。

 

 ステファンの膝が崩れる。

 

 身体が傾いた。

 

 それでも、銃は離さなかった。

 

 倒れながら鬼太郎へ銃口を向ける。

 

 鬼太郎は横へ動き、もう一度引き金を絞った。

 

 二発目は、ステファンの右腕へ入った。

 

 拳銃が土へ落ちる。

 

 革鞄も手から離れた。

 

 鬼太郎はすぐに鞄へ近づかなかった。

 

 ステファンが左手を上着へ入れる。

 

「まだお持ちですか?」

 

 鬼太郎は〈シュライク〉を向けたまま尋ねた。

 

 男の手が止まる。

 

「子供が……」

 

「はい」

 

「こんな真似をして、何になる」

 

「報酬がいただけます」

 

「鞄をやる。だから、見逃せ」

 

「元から鞄は持ち帰ります」

 

「金もある」

 

「あなたを殺しても、回収できますね」

 

 ステファンは、鬼太郎の後ろを見た。

 

 誰かがいるように目を動かしただけだった。

 

 鬼太郎は振り返らない。

 

 男の左手が上着の中で動く。

 

 鬼太郎は三度目の引き金を絞った。

 

 弾丸が胸へ入る。

 

 ステファンは仰向けに倒れた。

 

 鬼太郎はしばらく銃を向けたまま待った。

 

 男は動かない。

 

 近づき、上着の中を確認する。

 

 小型のナイフがあった。

 

 呼吸は止まっている。

 

 男の金には触れなかった。

 

 依頼されたのは革鞄であり、余計なものを持ち帰る必要はない。

 

 鬼太郎は〈シュライク〉を収めた。

 

 前方で燃えていた草へ土をかけ、火を消す。

 

 採石場で一発。

 

 ここで三発。

 

 合計四発。

 

 右手首に鈍い疲れはあるが、痛みはなかった。

 

 革鞄を拾う。

 

 二本の留め具。

 

 持ち手の近くの金属板。

 

 擦れた角。

 

 写真と同じものだった。

 

 留め具には細い封が残っている。

 

 切れていない。

 

 鬼太郎は中を開けず、自分の鞄から取り出した布で革鞄を包んだ。

 

     ◆

 

 買い手から指定された現地の男は、町の西側で小さな倉庫を持っていた。

 

 鬼太郎が名前を告げると、男は倉庫の扉を半分だけ開けた。

 

「お前が来るとは聞いていない」

 

「依頼を終えた場合は、こちらへ来るよう言われました」

 

「ステファンは」

 

「死にました」

 

 男は、鬼太郎の後ろを見た。

 

「誰が殺した」

 

「僕です」

 

「冗談を言いに来たのか」

 

 鬼太郎は革鞄の写真を出した。

 

「本人は、町の南にある古い葡萄酒貯蔵庫の前にいます。こちらが回収した鞄です」

 

 包みを少し開き、革の一部と金属板を見せる。

 

 男は手を伸ばした。

 

 鬼太郎は包みを閉じた。

 

「確認だけと聞いています。鞄を渡す相手は、あなたですか?」

 

「違う」

 

「でしたら、お見せするのはここまでです」

 

 男は眉を寄せたが、それ以上は触れようとしなかった。

 

 二人で貯蔵庫へ向かった。

 

 男はステファンの顔と呼吸を確認した。

 

 落ちていた拳銃と上着の中も調べる。

 

「本当に、お前がやったのか」

 

「先ほど、そう申し上げました」

 

「一人で?」

 

「ええ」

 

 男の視線が、鬼太郎の上着へ落ちた。

 

 〈シュライク〉は見えない。

 

 だが、銃を持っていることは分かったのだろう。

 

「買い手には、本人と鞄を確認したと伝えてください」

 

「分かった」

 

 鬼太郎は、葡萄畑の向こうを見た。

 

 西へ向かう道が続いている。

 

「一つ、お尋ねしても?」

 

「何だ」

 

「人間を、西の国まで運ぶ方をご存じありませんか?」

 

 男は答えなかった。

 

「荷物ではなく、人間です。書類が足りない場合でも、国境を越えさせられる方を探しています」

 

「誰を運ぶ」

 

「僕です」

 

 男は、鬼太郎を上から下まで見た。

 

「どこまで行く気だ」

 

「英国まで」

 

「遠いな」

 

「ええ。ですから、今のうちに道を探しています」

 

「知っていたとしても、名前は教えられん」

 

「お金が必要ですか?」

 

「金だけじゃない。知らない人間を紹介して問題を起こされれば、俺の信用がなくなる」

 

「では、どうすれば紹介していただけます?」

 

 男は、地面に倒れたステファンを見た。

 

 次に、鬼太郎が抱えている革鞄を見る。

 

「買い手から話が来れば、考える」

 

「買い手の紹介が必要なのですね」

 

「それと、金だ。国を一つ越えるたびに払う。英国までなら、安くはない」

 

「金額は?」

 

「今ここで決められるものじゃない」

 

「そうですか」

 

 鬼太郎は、それ以上聞かなかった。

 

 男を脅せば、知っている名前を吐かせられるかもしれない。

 

 だが、名前だけを知っても、その相手が鬼太郎を運ばなければ意味がない。

 

 運ばせるために必要なのは、買い手からの紹介と金だった。

 

 どちらも、これから手に入れられる。

 

 残る日は宿代を一日ずつ払い、食料と帰路の準備を整えた。

 

     ◆

 

 五日目の朝。

 

 空が明るくなる前に、鬼太郎は町を出た。

 

 来たときに降ろされた丘まで歩く。

 

 革鞄は、自分の鞄の奥へ入れていた。

 

 上から布と食料を詰め、外から形が分からないようにしている。

 

 しばらく待つと、道の向こうから荷物車が現れた。

 

 同じ運転手だった。

 

 車が鬼太郎の前で止まる。

 

「間に合ったな」

 

「待っていただけないそうですから」

 

「仕事は」

 

「終わりました」

 

 運転手は鞄を見たが、何も尋ねなかった。

 

 鬼太郎は荷台へ乗った。

 

 二日かけて、元の街へ戻る。

 

 帰り道でも、橋と分岐を数えた。

 

 来るときには分からなかった道が、今度はどこへつながっているのか少し分かる。

 

 まだ一人で同じ道を進むことはできない。

 

 だが、もう見知らぬ方角ではなかった。

 

     ◆

 

 買い手は、革鞄の封を確認した。

 

 二本の留め具を外す。

 

 鬼太郎は机の向かいに座っていたが、中を覗こうとはしなかった。

 

 依頼人が何を取り戻したかったのかは、報酬を受け取るために必要な情報ではない。

 

 買い手は中身を一つずつ確かめ、鞄を閉じた。

 

「欠けていない」

 

「では、報酬を」

 

 机の上へ、数字の書かれた紙と現金が置かれた。

 

 依頼人から支払われる額。

 

 買い手の仲介料。

 

 往復の移動費。

 

 鬼太郎が受け取る残り。

 

 鬼太郎は計算した。

 

「合っています」

 

「現地からも連絡が来た。ステファンの死亡を確認したそうだ」

 

「ええ」

 

「採石場でも、一人死んだ」

 

「待ち伏せされましたので」

 

「もう一人は脚を焼かれていた」

 

「殺害依頼ではありませんでしたから、生かしました」

 

 買い手は、以前にも聞いた答えを思い出したように鼻を鳴らした。

 

 鬼太郎は報酬を鞄へ入れた。

 

「西の町で、人を国境の向こうへ運ぶ方がいると聞きました」

 

 買い手の手が止まる。

 

「誰からだ」

 

「あなたの現地の協力者です。名前は教えていただけませんでした」

 

「当然だ」

 

「あなたから紹介されれば、考えるそうです」

 

「英国まで行くには、一人では足りん」

 

「途中で何人もの方へ渡されるとも聞きました」

 

「金も、そのたびに必要になる」

 

「どれほどです?」

 

 買い手が答えた金額は、今回の報酬より遥かに大きかった。

 

 これまで得た金をすべて集めても、十分ではない。

 

 偽造書類を整える費用も別にかかる。

 

「まだ足りませんね」

 

「金だけでもない」

 

「信用ですか?」

 

「途中で問題を起こす人間を、俺の名で紹介はできん」

 

「これまでの仕事では、問題を起こしていないと思いますが」

 

「今回の一件だけで、国をまたぐ道に名前を貸せると思うな」

 

 鬼太郎は、空になった机の上を見た。

 

 依頼された鞄は、封を切らずに持ち帰った。

 

 現地の確認も受けた。

 

 決められた車で戻った。

 

「では、あと何件ほど必要です?」

 

「数で決めるものじゃない」

 

「随分と曖昧ですね」

 

「金を貯めろ。西の仕事をこなせ。俺の名前を使わせても問題ないと判断したら、つないでやる」

 

「分かりました」

 

 鬼太郎は立ち上がった。

 

 断られたわけではない。

 

 必要なものが、金と信用だと分かった。

 

 どちらも、仕事を続ければ増やせる。

 

     ◆

 

 ペタルの作業場へ入ると、鬼太郎は〈シュライク〉を抜いた。

 

 弾倉を外す。

 

 スライドを引き、薬室が空であることを確かめる。

 

 それから、整備台の上へ置いた。

 

「何発撃った」

 

 ペタルが尋ねた。

 

「最初の場所で一発。次の場所で三発です」

 

「四発か」

 

「ええ」

 

「手を出せ」

 

 鬼太郎は右手を差し出した。

 

 ペタルが手首を曲げる。

 

「痛むか」

 

「いいえ。少し疲れているだけです」

 

「今日は撃つな」

 

「そのつもりです」

 

 ペタルは〈シュライク〉を手に取り、汚れを確認し始めた。

 

「仕事は終わったのか」

 

「無事に」

 

「なら、次まで休め」

 

「次も、西の仕事を選ぶつもりです」

 

 ペタルが顔を上げた。

 

「ここを出ていくのか」

 

「いいえ。依頼が終われば戻ります」

 

 鬼太郎は、整備台の上の〈シュライク〉を見た。

 

 買い手もいる。

 

 ペタルもいる。

 

 弾薬も、寝床も、今の鬼太郎に必要なものはこの街にある。

 

 捨てる理由はない。

 

「ただ、西へ行けば、その先へ進む道が見つかるようです」

 

 今回の往復で、英国へ着いたわけではない。

 

 国境すら越えていない。

 

 それでも、以前は方角しかなかった。

 

 今は、人を運ぶ者がいると知っている。

 

 紹介に必要な信用も、支払うべき金も分かった。

 

 道は、まだ遠い。

 

 だが、もう見えない道ではなかった。

 

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