第10話 狩人の死角
鬼太郎は左手の炎を、床へ落とした。
油の染みを伝い、細い火が機械室へ走る。廊下へ伏せてくる煙を見ながら、鬼太郎は頭上へ手を向けた。
「火を出せば、自分も焼けるぞ」
階段の上で、ニコラが言った。
「その前に、少し場所を変えていただきたいのですが」
錆びた足場の端には、金属の留め具があった。支えの一本が腐食し、配管の脇へ斜めに伸びている。
「アギ」
火球が留め具へ当たり、赤い炎が包んだ。
鬼太郎が狙う先を見て、ニコラの靴が動いた。
「建物ごと落とす気か」
「足場だけで結構ですよ」
熱を受けた金属が鳴る。床を伝った火も、その下へ近づいていた。
銃声がした。
鬼太郎は手を引き、床へ伏せた。直前まで左腕のあった場所を弾が通り、配管が鳴る。
伏せたまま、右手の〈シュライク〉を上げた。
赤く照らされた留め具へ、一発。
火花が散り、支えが外れた。足場が傾いて配管へぶつかる。
ニコラは崩れきる前に、機械室側へ走った。
鬼太郎は、その足音を聞いた。
次に、階段手前の糸を留める固定具を撃った。糸が跳ね、階段の上で何かが弾けた。
金属片が壁から飛び出す。
鬼太郎は最後の破片が落ちるまで待ち、階段へ走った。
肩を動かすたび、左腕が痛んだ。手を身体へ寄せ、右手の銃だけを前へ向ける。
上まであと少しというところで、煙の向こうが光った。
鬼太郎は脇の踊り場へ身体を投げた。
上着の脇を弾丸が裂き、皮膚へ熱が走った。左肩から床へ落ち、巻いた布の内側で傷が引かれる。
倒れたまま、一発撃った。
金属が鳴った。当たっていない。
鬼太郎はすぐに転がり、発電機の陰へ入った。先ほどいた床を、ニコラの弾が叩く。
その直後、頭上で大きな音がした。
片側の支えを失った足場が、重みに耐えられず折れた。板と手すりが落ち、機械室へ錆と埃を降らせた。
向こう側で、短く息をのむ声がした。
「生きていますか?」
鬼太郎は、発電機へ背を寄せたまま尋ねた。
「確かめに来い」
「お元気そうですね」
床近くの隙間から見ると、崩れた足場の下に長銃が挟まっていた。その横で、ニコラが柱につかまって立っている。
右脚から血が流れていた。
それでも、拳銃は鬼太郎が出てくる場所へ向けられている。取れなくなった長銃を見ようともしなかった。
「遠くから撃てなくなりましたね」
「お前も両手では撃てない」
鬼太郎は左腕の布を見た。血が染み出し、肘へ伝っている。
「お互いに、不便になりました」
「同じだと思うか」
「いいえ」
鬼太郎は、煙の向こうの銃口を見た。
「まだ、あなたの方が上手そうです」
◆
床の油が燃え、煙が機械室へ広がっていた。
鬼太郎は発電機の陰を移った。顔を出していないのに、次の角を弾丸が削る。
足音を読まれている。
動くたびに同じ幅で歩けば、何歩で角へ着くか分かるのだろう。鬼太郎は途中で止まり、銃を下げた。
ニコラも動いていた。
姿が見えない間も、鬼太郎は手すりの欠けた端から離れた。そこへ顔を出せば、相手へ撃てる場所を一つ教える。
足音を聞きながら、右手を少し下げる。構え続ければ、近づかれたときに照準が揺れる。それを待っているのかもしれなかった。
一歩目は短く、二歩目で金属を擦る。次の音まで、少し間があった。
負傷した右脚をかばっている。
鬼太郎は、その間隔を覚えた。
何かが左側へ転がってきた。金属片が発電機へ当たる。
銃口を向けかけ、止めた。
音のするところに本人がいるとは限らない。先ほど、自分も同じことを試した。
反対側で煙が揺れた。
鬼太郎はそちらへ一発撃ち、すぐに隠れた。銃声が重なり、顔を出した場所を弾が通る。
足音が一度、乱れた。
「当たりましたか?」
「見に来い」
苦しそうな声ではなかった。
鬼太郎は、ここまで撃った数を思い返した。先ほどの廊下から外した分も含め、予備の弾へ替える時期が近い。
左手を使えば、傷を動かす。手間取れば、その間に近づかれる。
鬼太郎は銃を握り直した。
ニコラの足音が遠ざかった。出口へではなく、煙と炎の薄い方へ向かっている。
追わせたいのかもしれない。
だが、鬼太郎もここで煙を吸い続けるわけにはいかなかった。
床へ落ちた細長い金属片を足で動かした。つま先で持ち上げ、前へ滑らせる。
軽い音が何度も鳴る。
その間に、発電機の反対側へ回った。
煙の向こうに、人影が見えた。
鬼太郎は左手を上げた。傷が引きつれ、頭の奥には、先ほど使った力の痛みも残っている。
長く止める必要はなかった。
見えたものを疑うのなら、別のものを信じるはずだった。先ほどは鬼太郎の足音が、その手掛かりになった。
今は、金属片が別の場所へ向かっている。
鬼太郎は、相手の頭の中へ何を見せるかまでは選べなかった。ただ、迷った相手が音へ振り向く、その短い間を待った。
「プリンパ」
ニコラの銃口が、鬼太郎へ向いた。
だが、すぐには撃たなかった。
見えている相手を疑っている。先ほど一度、何もないところを撃ったことを忘れていなかった。
床を滑った金属片が、発電機へぶつかった。
ニコラが発砲した。
弾丸は、音がした方へ飛んだ。
撃った直後、男の顔が歪む。間違えたと気づき、銃口が戻ってきた。
鬼太郎は〈シュライク〉を上げた。
二つの銃声が、ほとんど同時に響いた。
頬へ熱が走った。
視界の端に血が散る。弾丸は皮膚を浅く削り、耳の横を抜けていた。
ニコラの右腕が跳ね、拳銃が床へ落ちた。
鬼太郎の弾は、前腕へ入っていた。
男は落ちた銃へ手を伸ばさなかった。
左手が腰へ回り、ナイフを抜く。
鬼太郎は後ろへ下がった。
背中が発電機へ当たった。
◆
ニコラは声を上げず、右脚を引きずりながら近づいた。
鬼太郎の左腕は使いづらい。右手だけの銃は、長く狙えば揺れる。弾を替える時間も与えなければよい。
相手は、そこまで見ている。
鬼太郎は銃を向けたまま待った。
指を伸ばせば届きそうな距離でも、手を出せば負ける。左腕を上げてナイフを受けることはできず、右手をつかまれれば銃も使えない。
避ける方向を探したが、発電機の角へ肩が当たった。
喉が乾いていた。息を吸うと煙で咳が出そうになり、唇を閉じた。相手の左手が動くのを、視線だけで追い続けた。
ニコラの左手が横へ動き、途中で切っ先が下を向いた。
腹を狙っている。
鬼太郎は横へ逃げなかった。狙いを追って動かせるほど、右腕に余裕はない。
男が確実に届く距離へ来るのを待った。
一歩。
傷ついた右脚が床へつき、身体がわずかに沈む。
そのとき、鬼太郎は銃口を上げた。
ナイフが上着へ触れた。
一発目が、ニコラの胸へ入った。
男の身体が止まる。
鬼太郎は離さず、二発目を撃った。
ニコラが膝をついた。ナイフは、まだ手から落ちなかった。
「お前は……何者だ」
血の混じる声で尋ねた。
「墓場鬼太郎です」
鬼太郎は銃を向け続けた。
「賞金稼ぎをしています」
ニコラの目が、銃から鬼太郎の顔へ動いた。
驚いた様子はなかった。
「次は……もっと遠くから撃て」
「ええ」
鬼太郎は、銃口を胸へ定め直した。
「次に活かします」
最後の銃声が、機械室へ響いた。
◆
ニコラが倒れても、すぐには近づかなかった。
ナイフは手に残っている。拳銃は離れた床の上にあった。
金属片を脚へ投げても、反応はない。手へ当てても、指は動かなかった。
鬼太郎は身体の周りに糸や針金がないことを確かめ、ナイフを足で遠ざけた。
脈はなかった。
上着を切って右肩を見ると、古い銃創があった。顔も、写真と同じだった。
依頼の相手で間違いない。
鬼太郎は〈シュライク〉を収めようとして、手を止めた。裾が引っかかり、左手で払おうとすると傷が引きつれる。
銃を落とさないように、先に右手で服をずらした。留め具をかけるだけの動作が、出発前とは違うほど長くかかった。
立ち上がろうとして、また左腕が痛んだ。
鬼太郎は息を吐き、発電機へ肩を預けた。頬も脇腹も熱く、布の下では腕が脈打っている。
勝った。
それでも、正面から歩けば撃たれ、罠を避ければ別の道へ誘われた。プリンパを受けた相手が、こちらの足音を待つことも知った。
知らないことを、何度も突きつけられた。
鬼太郎は、倒れたニコラを見た。
口元が緩んだ。
「久々に、血が滾る戦いでした」
声に出してから、自分の言葉に気づいた。
久々。
今世では、これほどの相手と戦ったことはない。
それなのに、今の喜びには、覚えがあった。
炎の向こうで、別の空が見えた。
赤黒い空の下に、青い装束の人影が立っている。
顔は分からない。手にした武器も、はっきりとは見えなかった。
鬼太郎も武器を向けていた。
一度ではない。何度も戦った相手だった。互いがどこへ踏み込むかを知り、それでも、次の一撃は予想を越えてきた。
鬼太郎は笑っていた。
場面が変わる。
同じ人影が、今度は隣にいた。鬼太郎が進めば背後を埋め、相手が前へ出れば、こちらがその隙間へ攻撃を通す。
敵だった。
共に戦う相手でもあった。
名前を呼ぼうとしたが、声にならなかった。
青い影が遠ざかる。
目の前へ戻ってきたのは、煙の立つ機械室と、ニコラの死体だった。
鬼太郎は、血に濡れた手を見た。
自分は以前にも、戦いを楽しんでいた。
奪われないために強くなりたいだけではなかった。互いの命が届くところで、相手の次の手を見たいと思う。そのために、また前へ出る。
誰だったのかは、思い出せなかった。
だが、その者と戦ったときの喜びは、ニコラとの戦いより、さらに深かった。
「失くしたものは、力だけではないようですね」
鬼太郎は顔を上げた。
ニコラへ、もう一度目を向ける。
「楽しかったですよ」
返事はなかった。
◆
機械室に残る火を消すのには、時間がかかった。
砂を運ぶたび、左腕が痛んだ。長銃は足場の下へ挟まっていたが、取り出そうとは思わなかった。今の手で抱えて山を戻るには大きすぎる。
奥の管理室では、もう一人の死体を見つけた。
背中を撃たれ、開いた窓の近くに倒れている。窓から下りる縄と、足を置けそうな配管が残っていた。
逃げ道に見えたのだろう。
鬼太郎は近づかなかった。こちらにも、仕掛けが残っているかもしれない。
窓の向こうには外の明かりがあった。追われていれば、そこから逃げたくなる。入るときに自分が排水口を選んだのと、そう変わらない考え方だった。
銃で撃たれた場所だけが、ニコラの強さではなかった。
「気づくのが、少し遅かったのですね」
自分も同じ場所へ倒れていたかもしれなかった。左腕へ布を巻き直し、出口へ向かう。
帰り道では、安全を確かめた場所へ目印を残した。
老人が待っていたのは、石柱から少し離れた木の陰だった。鬼太郎を見て、持っていた銃を下げる。
「一人か」
「ええ。ペトロフは機械室です」
「死んでいるのか」
「そのために伺いましたので」
老人は左腕と頬を見た。
「罠は?」
「すべて見つけたとは言えません。僕が目印をつけたところだけ通ってください」
老人はしばらく考え、鬼太郎の後ろを歩いた。
ニコラの顔と右肩を確かめると、うなずいた。
「本人だ」
「では、依頼は終わりですね」
「その腕で、よく戻ったな」
「歩けましたから」
老人は何も言わず、鬼太郎を町の裏通りへ連れていった。
診療所の医者は、傷の理由を聞かなかった。
左腕の布を切り、傷を見て、縫うと告げた。
消毒液と針が痛んだ。麻酔をされても、完全には消えなかった。
「痛くないのか」
動かずにいる鬼太郎へ、医者が尋ねた。
「痛いですよ」
「だったら、少しくらい顔に出せ」
「出せば、早く終わりますか?」
「終わらん」
「では、そのままお願いします」
医者は糸を結び、腕へ布を巻いた。
「上げるな。傷が開く」
鬼太郎は、動かしかけた左手を止めた。
傷が塞がったわけではなかった。血が止まり、布が巻かれても、少し力を入れれば痛む。
寝るときの向きや、着替えのたびにも不便が残るのだろう。これで終わりだと立ち上がりかけた鬼太郎を、医者は座らせたまま、もう一度傷の扱いを言い聞かせた。
鬼太郎は最後まで聞いた。次に銃を向けられるときまで、この腕を使えないままでいるつもりはなかった。
◆
買い手の事務所では、報酬が用意されていた。
鬼太郎は左腕を吊り、右手だけで金を数えた。約束された額がある。
「ペトロフの銃は?」
「置いてきました」
「売れば金になった」
「取り出すために傷を開く方が、高くつきそうでしたので」
買い手は、鬼太郎の腕を見た。
金を鞄へ収めると、扉が開いた。入ってきたイリーナが、こちらを見て足を止める。
「何をした」
「仕事をしてきました」
「それは見れば分かる。その状態で検問を通る気か?」
鬼太郎は頬へ手を触れかけ、やめた。
「転んだことにしますか?」
「転んで腕を縫う子供がいるか」
「崖からでしたら、ありそうですが」
「余計な話を増やすな。傷が塞がるまで待つ」
鬼太郎は、素直にうなずいた。
キリルという名前で通る子供が、頬と腕に新しい傷をつけている。知人の家へ行くというだけの話に、別の説明を加えなければならなくなる。
名前と紙が用意できても、自分の身体まで別の子供へ替わるわけではなかった。
買い手が机へ地図を広げた。
国境から、その先へ。線は何人もの手を渡り、海の向こうへ続いている。
「足りなかった金は埋まった。次は国を出る話だ」
鬼太郎は英国の位置へ指を置いた。
紙と金だけでは届かない。道を知る者に頼み、今は腕が治るのを待つ。それでも、もう必要な額を眺めるだけではなかった。
発電所で見えた青い人影を、一度だけ思い返した。
名前は、まだ出てこない。
鬼太郎はその記憶を無理に追わず、地図へ目を戻した。
「お聞きします。どちらへ向かえばよいのでしょう?」
第一章 灰の向こう、西へ 完