第百十話 祝う灯の外で、牙が待つ
十月の朝は、寝台の外へ出るまでに少し時間が要った。
ロンは毛布を肩まで引き上げ、ハリーが鞄を閉じる音を聞いてから顔を出した。
「もう行くの?」
「朝ごはん、食べたいから」
ハリーは答えた。
昨夜は練習から戻って宿題を終えた。遅くなった分を、今朝の空腹まで我慢して取り戻すつもりはなかった。
向こうの寝台では、鬼太郎が紙の束を鞄へ収めていた。
授業で学んだ呪文は、もう、発動するかどうかを毎回心配するものではなくなっていた。灯す、消す、直す、開ける。課題で求められた変身も、普通に行える。
今、紙へ残しているのは、その先だった。
同じ錠を開けるにも、杖を持ち直せば一拍遅れる。修復を終えた手が次へ動きにくい位置にあれば、戻す手間が要る。
授業では許されるその間が、相手のいるところでも残ってよいとは思わなかった。
ただ、新しく習うものまで、知っているつもりにはならない。
今日も、聞いてから試すものがある。
鬼太郎が鞄を持つと、ロンもようやく毛布を離した。
「待って。僕も行く」
窓の外で、枯れ葉が一枚、風に持ち上がった。
◆
ハロウィーンの呪文学では、机の上に羽根が置かれていた。
キーノは、隣に座った鬼太郎へ顔を向けた。
「今日は、これを直すのか」
「まだ、壊れていないようですね」
鬼太郎が答えると、前の方でフリットウィックが手を上げた。
教室の声が静まる。
今日扱うのは浮遊術だった。
杖の振り方と、呪文の発音。教師は一つずつ示し、自分の前に置いた羽根を浮かせた。
軽いものが、卓から離れて上がっていく。
キーノは顔を上へ向けた。
何も支えていない。
箒へ乗ったときには、自分の下に柄があった。今は、羽根だけが空中へ留まっている。
教師が下ろすまで、落ちなかった。
「まず、杖の動きを確かめてください。勢いよく振ればよいというものではありませんよ」
フリットウィックが言った。
キーノは松の杖を持ち、示された動きをなぞった。
鬼太郎も、すぐには唱えず、手首の返しを確かめていた。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
彼の前の羽根が動いた。
軸が机を離れ、柔らかな先端が遅れて上がる。鬼太郎は杖を振り直さず、その位置を見続けた。
羽根は目の高さより少し低いところで止まった。
「上がったな」
キーノが言った。
「ええ。下ろすところも、確かめましょう」
鬼太郎は教師の説明を思い返し、羽根を机へ戻した。
勢いよく落ちることはなかった。
キーノは、自分の羽根へ向き直った。
同じように唱える。
先端が持ち上がり、すぐに戻った。
「今の動きは、途中で止まりましたね」
鬼太郎が彼女の手元を見て言った。
「羽根が動いたから、そっちを見た」
「最後まで動かしてから、確かめてみてはいかがですか」
キーノは頷き、やり直した。
今度は、羽根全体が浮いた。
机から指二本ほどの高さで、ゆっくり揺れている。
息を止めかけ、彼女は静かに吐いた。
「できた」
鬼太郎は頷いた。
向こうの机では、ロンが杖を振っていた。
その隣で、ハーマイオニーが眉を寄せる。
「ロン、そんなに大きく振らなくてもいいの。先生が見せた動き、覚えてるでしょう?」
「やってるよ」
「それに、伸ばすところが違うわ。最後まで一息で言ってしまうと——」
「じゃあ、君がやってみれば?」
ロンが椅子へ身体を戻した。
ハーマイオニーは唇を結び、羽根へ杖を向けた。
はっきり唱える。
羽根が上がった。
キーノのものより高く、揺れも少ない。
フリットウィックが、その机へ顔を向けた。
「よくできました、グレンジャー!」
ハーマイオニーの顔が明るくなる。
ロンは、動かない自分の羽根を見ていた。
◆
授業が終わると、生徒たちは鞄を持って廊下へ出た。
ロンはハリーの隣を歩きながら、声を落とした。
落としたつもりだった。
「何でも、ああやって教えたがるんだ。ちょっと間違えると、すぐ言ってくる」
「ロン——」
「息が詰まるよ。友達ができないのも、分かる気がする」
ハリーが、ロンの肩の向こうを見た。
ハーマイオニーがいた。
抱えた本を胸へ寄せ、二人の横を通り抜ける。
顔を伏せたとき、目の縁が濡れているのが見えた。
ロンも気づき、口を閉じた。
少し後ろで、キーノの足が止まった。
「おい」
声を掛けると、ロンが振り向いた。
「今の、何だ」
「君に言ったんじゃないよ」
「誰に言ったかは分かってる。教えてくれた相手に、そんなことを言うのか」
キーノは、立ち止まったロンへ近づいた。
声が硬くなる。
「言い方が嫌なら、そう言えばいいだろう。友達がいないなんて、お前が決めることか」
「だって、いつも——」
「私は、あいつと話してる」
キーノが遮った。
「分からないことも聞いてる。勝手に、誰もいないことにするな」
ロンは目を逸らした。
先へ進んでいた生徒が、こちらを見ている。
「泣かせるつもりじゃなかったんだ」
「もう聞こえた後だ」
キーノは言い、ハーマイオニーが曲がった角へ向かった。
鬼太郎は、その背中を見た。
ロンを叱るためには立ち止まったが、返事を待ち続ける方を選ばなかった。
今、行く相手はあちらだと、決めている。
「キーノさん」
呼ぶと、彼女は振り向いた。
「鞄も、持っていくのですか」
「ああ。どこへ行ったか、見てくる」
鬼太郎は頷いた。
キーノが角の向こうへ消える。
ハリーは、その後を見てからロンへ顔を戻した。
「あれは、言わなくてよかったよ」
ロンは答えなかった。
◆
女子トイレの扉の前で、キーノは足を止めた。
中から、鼻をすする音が聞こえた。
「ハーマイオニー」
返事はなかった。
「私だ。キーノ」
少し待つ。
奥で衣擦れがした。
「授業へ行って。私は、後で行くから」
声は、いつものようには続かなかった。
キーノは扉へ手を置いた。
「入ってもいいか」
今度は、長い間があった。
やがて、小さな返事が来た。
「……うん」
キーノは中へ入った。
ハーマイオニーは奥の個室にいた。扉が少し開き、赤くなった目が見える。
キーノは手洗い場の近くで立ち止まった。
「あいつには、怒ってきた」
ハーマイオニーが顔を伏せる。
「そんなこと、しなくてもよかったのに」
「私が腹を立てたんだ」
キーノは答えた。
ハーマイオニーは袖で頬を押さえた。
「分からないままだと、うまくいかないと思ったの。だから、言っただけで……」
「私は、教えてもらって助かった」
キーノは鞄を足元へ置いた。
「今日のも、前のも」
ハーマイオニーは、すぐには顔を上げなかった。
泣くのをやめようとするたび、息が引っかかるようだった。
キーノは何か言おうとして、やめた。
自分が言葉を足せば、その分だけ早く立てるようになるわけではないらしい。
しばらく、そこにいた。
◆
午後、キーノは一度だけハリーたちの前へ戻った。
ハーマイオニーは女子トイレにいると告げた。
鬼太郎が、昼を食べたか尋ねる。
「少しは食べた。あいつは、まだ戻りたくないって」
「キーノさんも、そちらへ?」
「ああ」
キーノは短く答え、ロンへ目を向けた。
ロンは何か言いかけた。
彼女はその場で続きを求めず、廊下へ戻っていった。
鬼太郎は歩いていく背中を見送った。
話を聞く相手を、自分で選んだのだ。
戻ってくれば、今日できたことの続きを聞ける。
そのときは、昼間より機嫌がよいかもしれなかった。
◆
夕方の大広間には、かぼちゃの灯りが浮いていた。
頭上を小さな影が飛び交い、食卓には普段より賑やかな声が重なる。
ハリーは空いている席を見た。
ハーマイオニーも、キーノも来なかった。
ロンは皿へ目を落としていた。
鬼太郎は入口を一度見てから、手元の食事へ戻った。
キーノは、この日を楽しみにしていた。
まだ来ないなら、後で何か食べられるか確かめておこうと思った。
大広間の扉が開いた。
クィレルが駆け込んできた。
食卓の端へぶつかりそうになり、よろめいて止まる。
「ト、トロールが……地下に……!」
声が裏返った。
教師たちが立ち上がる。
クィレルは何か続けようとし、そのまま床へ崩れた。
一拍遅れて、広間に悲鳴が上がった。
椅子が鳴る。
鬼太郎はもう立っていた。
女子トイレ。
ハーマイオニーのところへ戻ったキーノ。
二人は、今の報告を聞いていない。
鬼太郎は卓の脇を抜けた。
「鬼太郎?」
ハリーが呼んだ。
「キーノさんたちのところへ行きます」
返事をしたときには、次の椅子の横を通っていた。
ダンブルドアの声が、生徒たちの頭上へ響く。
「静まれ!」
鬼太郎は出口へ進んだ。
声が止んだところへ、寮へ戻るための指示が続く。監督生が生徒を集め始め、教師たちは地下へ向かう者と、帰路を守る者に分かれた。
フリットウィックは出口付近の生徒を立ち止まらせ、前の列が進むのを待たせている。別の教師は先に廊下へ出て、曲がり角の向こうを確かめた。
その動きを背に、鬼太郎は一人、廊下へ出た。
◆
ミネルバは、大広間を出る前にフリットウィックへ声を掛けた。
「生徒が寮へ着くまで、通る廊下を確保してください。取り残された者がいないかも確認を」
「分かった。こちらは任せて」
監督生だけに任せて、教師全員が地下へ向かうわけにはいかなかった。スリザリンの生徒には、地下へ戻る道を確かめる必要もある。
ミネルバはスネイプたちと先へ進み、地下へ下りたところで異臭を感じた。
先の角から、重いものを引きずる音がする。
スネイプが杖を上げた。
灰色の大きな身体が現れた。
頭は身体に比べて小さい。手には、通路の幅を大きく占める棍棒が握られていた。
「下がって」
ミネルバは後ろから来た教師へ告げた。
トロールが棍棒を持ち上げる。
杖から放たれた光が、その腕へ届いた。
振り下ろす向きが逸れ、壁へ棍棒がぶつかる。
石の欠片が散った。
ミネルバは自分の前へ飛んだ破片を退け、足場を確かめた。
ここで止めなければ、階段を通って生徒のいる場所へ上がられる。
背後へ回るための場所も、広くはなかった。
「セブルス、階段へ近づけないように」
「分かっている」
スネイプが位置を変え、トロールと上階への道の間へ杖を向けた。
ミネルバは相手の足元を狙った。巨体の動きを止め、ここから連れ出せる状態にする。その間も、背後の経路を空けてはおけない。
上では、まだ生徒たちが移動していた。寮ごとに異なる道へ送り、途中の教室や廊下に残った者がいないか確かめる教師も要る。
報告されたトロールは、今、目の前にいる。ほかにもいるという知らせは、まだ届いていなかった。
ミネルバは棍棒の動きを追い、杖を握り直した。
◆
鬼太郎は、階段へ続く通路の手前で速度を落とした。
向こうに二つ、影がある。
低い位置に頭があり、二本の脚で立っていた。身体を覆う毛の間から、握った刃物が見える。
一匹がこちらを向いた。
「オイ、キタゾ。ニンゲンだ」
言葉だった。
もう一匹が歯を見せる。
「ヘッ、コゾウがイッピキ。オレのエモノだ」
鬼太郎は黒檀の杖を抜いた。
相手の視線が、その手へ寄る。
同時に、二匹の間隔を見る。
一匹は左の壁に近く、もう一匹は少し奥にいた。奥の方が先に動けば、手前の身体に攻撃が隠れる。
通路の向こうへ抜けるには、二匹の横を通らなければならない。
「そこを空けていただけるなら、先へ行きたいのですが」
鬼太郎が言うと、手前の一匹が笑った。
「テメェ、ドコへイク。ソノツエも、テメェのニクも、ココにオイテケ!」
刃が上がる。
鬼太郎は左手を開いた。
「ザン」
短い風が、手前の一匹の顔と肩を横から打った。
首が捻れ、踏み出した足が壁の方へずれる。
倒れはしなかった。
壁へ押しつけられた一匹が、鬼太郎の左手を睨んだ。杖を持つ右手ではなく、ザンを放った手を見ている。
「グッ……テメェ、マホウツカウジャネエカ! ハナシガチガウゾ!」
風を受けた肩を起こしながら、牙を剥いて吠えた。
「ウルセェ、オレがヤル!」
奥の一匹が、その横から飛び出す。
鬼太郎はすでに左手を懐へ戻していた。
銃把をつかむ。
杖を向けていた相手へ、〈ケストレル〉の銃口が重なった。
引き金を引く。
乾いた音が通路を叩いた。
奥から出てきた一匹の胸が跳ね、身体が後ろへ傾いた。それでも脚が前へ残り、刃がこちらへ伸びる。
鬼太郎は右へ一歩ずれた。
振られた刃が制服の前を通る。
二発目を撃った。
今度は身体が折れ、石の床へ落ちた。
毛に覆われた背中が、細かな粒子へ崩れ始める。握っていた刃も輪郭を失い、同じようにほどけていった。
手前の一匹が、壁から姿勢を戻す。
消えていく仲間を見て、口を開いた。
「テメェ……ヨクモ!」
鬼太郎は銃口を向け直した。
相手はそれを見た。
まっすぐ来ず、左へ身体を沈める。短い脚で床を蹴り、杖を持つ腕へ刃を突き出した。
鬼太郎は腕を引き、相手の肩の外へ足を運んだ。
背中を見せるほど大きくは回らない。
黒檀の杖先を、相手が顔を向け直す位置へ置く。
「ルーモス」
一瞬の白い光が弾けた。
相手が瞼を閉じる。
それでも刃は止まらず、鬼太郎がいた位置を横へ薙いだ。
彼はその線から、もう半歩離れていた。
銃を持つ手を、振られた腕の下へ向ける。
三発目。
脇腹へ命中し、相手の上体が傾いた。
鬼太郎は足の動きを見た。
まだ立て直そうとしている。
銃口を上げ、四発目を撃った。
相手が床へ倒れた。
刃物の柄から、指が離れる。
その指先が、床へ触れる前に細かな粒子となった。腕も、肩も、握っていた刃も、後を追ってほどけていく。
鬼太郎は銃口を下げず、その変化を見た。
先に倒した一匹の身体は、もうなかった。
通路の後ろから、足音が来た。
◆
ハリーは角を曲がったところで、足を止めかけた。
鬼太郎がいた。
その足元で、毛に覆われた身体が崩れていた。
頭も、脚も、小さな粒へほどけていく。ハリーが見ている間に、石の床が露わになった。
最後に聞こえた破裂音が、まだ耳へ残っていた。
ロンが隣へ追いつく。
「何だよ、これ……」
鬼太郎の左手にあるものへ、ハリーの目が向いた。
銃だった。
テレビや、町で見た写真の中にあったものが、ここで彼の手に握られていた。
鬼太郎は二人を見た。
そして、杖を持つ手が止まった。
◆
黒檀の内側を、何かが通った。
鬼太郎は杖へ目を落とした。
自分が呪文を使うときの、魔力を送り出す感覚ではない。
二匹の身体が消えた場所から、粒子が流れていた。
薄れていく光の中に、力を感じる。細い流れとなったそれが、黒檀へ吸い込まれていく。
鬼太郎は何も命じていなかった。杖の方が、そのMAGを取り込んでいた。
MAG。
鬼太郎は息を止めた。
自分の中にもある、その力の感触。
消えた相手の姿が、記憶の中の輪郭と重なった。
低い身体。
歯を剥いて言葉を吐く口。
刃を握り、こちらへ向かってくる姿。
名前が、輪郭へ戻った。
コボルト。
悪魔だ。
鬼太郎は床へ目を戻した。
魔法生物について読んできた本にも、授業で聞いたこの世界の歴史にも、これまで出会った者の話にも、前世の悪魔たちはいなかった。
自分だけが、あちらの記憶と力を持っていると思っていた。
この世界には、存在しないはずなのに。
何故。
消えた二匹の姿を思い返しても、その先は戻らなかった。
誰がここへ連れてきたのか。
どこから来たのか。
杖が、何故この力を取り込むのか。
分からない。
ただ、今倒したものが何であったかは、分かった。
「鬼太郎、今の、何が——」
ハリーの声がした。
鬼太郎は顔を上げた。
まだ、二人のところへ着いていない。
左手の銃を専用ホルスターへ戻す。撃ったのは四発。後で必要になるかもしれない数を、頭の中へ残した。
「今は、二人のところへ行かなければいけませんよ」
声を出すと、いつもの高さへ戻った。
「お話は、その後にしましょう」
最後の粒子が、黒檀へ消えた。
床には身体も刃物も残っていない。何がここに立っていたかを示すものは、三人が見た光景のほかにはなかった。
鬼太郎は杖を握り直し、先へ進んだ。
ハリーとロンも続いた。
◆
階段へ入ると、上から大きな足音が降りてきた。
鬼太郎は踊り場の手前で止まった。
手すりの向こうに、灰色の脚が見える。
その上へ、太い胴と小さな頭が続いていた。
棍棒の先が石段へ触れる。
異臭が流れてきた。
「トロール……」
ロンが息を呑んだ。
地下にいるという報告だった。
ここは、女子トイレへ向かう階段だ。
鬼太郎は、棍棒を持つ手と、踊り場から伸びる廊下を見た。
相手がこちらへ下りてくれば、上へ抜ける場所が塞がる。
ここで倒すまで戦えば、キーノのところへ着くのが遅れる。
「ハリーさん。ロンさん」
二人へ顔を向けた。
「こちらを、任せてもよろしいですか」
ロンが彼を見た。
「これを?」
「二人へ知らせに行く間、引きつけていただきたいんです。倒そうとして近づく必要はありません。棍棒の届くところへは、入らないでください」
トロールが、こちらへ頭を向けた。
鬼太郎はその目を見た。
話している間にも、一段下りようとしている。
「二人とも、向こうには来ていません。ここで待っている時間が惜しいんです」
ハリーは上の廊下を見た。
その先に、ハーマイオニーがいる。
キーノもいる。
自分たちが追ってきた理由は、そこだった。
「分かった。先に行って」
ハリーは杖を握った。
ロンが彼へ顔を向け、唇を舐める。
「こっちから呼べば、いいんだな」
「ええ。逃げられる方へ動きながら」
鬼太郎は答えた。
ハリーとロンは階段の下へ数段戻り、柱の陰へ位置を変えた。
「おい!」
ロンが声を上げる。
「こっちだ!」
トロールが首を動かした。
ハリーも手すりの向こうから声を掛け、すぐに身体を引いた。
棍棒が持ち上がる。
鬼太郎は上へ走った。
大きな身体の横には、壁まで人一人分の隙間があった。身体を低くし、棍棒を持たない側へ抜ける。
トロールの空いた手が動いた。
鬼太郎はその指が来る前に、踊り場を蹴った。
背後で、石が砕ける音がした。
振り向けば、足が止まる。
彼は廊下へ入った。
戻る余裕があるかどうかは、二人を見つけてからだ。
◆
女子トイレでは、キーノが鞄を拾おうとしていた。
ハーマイオニーは手洗い場に立っている。
顔を洗ったが、目の赤さは残っていた。
「もう、宴席が始まってるわね」
彼女が言った。
「今からでも、食べられるだろう」
キーノは答えた。
楽しみにしていたものを、一つずつ思い出す。
大広間の飾り。
いつもと違う食事。
ハーマイオニーが行く気になったのなら、二人で見に行けばよい。
キーノは鞄の紐を持ち上げた。
扉の向こうで、足音がした。
大きかった。
二人とも顔を向ける。
次の音が、さらに近くで鳴った。
キーノは鞄を下ろした。
「待て」
ハーマイオニーが動きを止める。
入口から、腐ったような臭いが入り込んできた。
扉が押された。
枠に、大きな肩がつかえる。
木が軋み、灰色の身体が中へ入ってきた。
キーノは、ハーマイオニーの腕を引いた。
入口と二人の間へ、棍棒が下りる。
手洗い場の端が砕けた。
陶器の破片が床を滑り、水が噴き出した。
ハーマイオニーが悲鳴を上げる。
キーノは松の杖を抜き、彼女を奥へ押した。
入口は、相手の身体で塞がっていた。
◆
廊下を走る鬼太郎の耳へ、砕ける音が届いた。
その後に、悲鳴。
彼は足を速めた。
女子トイレの入口が見える。
扉の片側が斜めに傾き、床へ水が流れ出していた。
中に、大きな背中がある。
鬼太郎は一歩だけ速度を落とした。
階段の相手は、後ろに残した。
ここにもいる。
別の一体だ。
「下がれ、ハーマイオニー!」
キーノの声がした。
棍棒が、もう一度持ち上がる。
鬼太郎は入口の脇へ踏み込み、杖を上げた。
灰色の身体の向こうに、松の杖を握ったキーノが見えた。
その後ろで、ハーマイオニーが壁へ背をつけている。
二人を見つけた。
相手の腕が、動き始めていた。