第112話 ガラスに触れる手
最初の雪玉は、ロンの肩へ当たった。
城を出てまだ幾らも歩いていなかった。振り返ったロンが文句を言うより先に、双子のもう片方が次を放る。避けた頭の向こうで、白い塊が石壁へ砕けた。
「二人がかりは、ずるいだろ!」
「ハリーがいるじゃないか」
「後ろにも、あと二人」
鬼太郎が足を止めたときには、キーノはもう屈んでいた。手袋で雪を寄せ、両手の間で丸めている。
「こちらも入るんですか」
「そのつもりで、外に出たんだろ」
彼女が投げた雪玉は、双子の一人の脇を抜けた。相手が笑いながら拾い始めると、キーノは次を作らず横へ移る。
鬼太郎も雪を掴んだ。
地面に近いところは、上より硬い。指先に触れた小石を除き、柔らかい部分だけ寄せて握る。
投げる直前、ハリーが目の前を横切った。
鬼太郎は手を止めた。向こうへ狙い直す間に、首の下へ冷たいものが当たる。
青灰色の毛糸へ、白い粉が散っていた。
「考えすぎだぞ!」
フレッドかジョージか、まだ見分ける前に、その顔が石壁の陰へ消えた。
鬼太郎は雪を払い、笑った。
次は壁の端へ近づいてから、相手が顔を出すのを待った。
やがて談話室へ戻るころには、外套の裾まで濡れていた。
ロンの髪から落ちた雪が、暖炉の前で水になる。ハリーは手を擦り合わせながら、双子に当てた最後の一投の話をしていた。自分がその前に何発も受けたことは、省かれている。
鬼太郎は首のマフラーをほどいた。
外では暖かかったが、端には雪が染み込んでいた。絞ろうとして、毛糸の編み目を見直す。強く捻るのはやめ、乾いた布で水気を取った。
キーノも隣で葡萄色のものを広げる。
「そこだと、片方が火に近すぎる」
「こちらへ寄せましょうか」
「ああ。そのくらい」
二本を離して椅子の背へ掛けると、キーノは毛先に残った雪を払った。
鬼太郎は窓の外を見た。白い地面には、皆で行き来した跡が幾重にも残っている。
姿が見えなくても、雪を踏めば窪みはできるのだろう。
朝見た布を思い出したが、ハリーはもう、ロンの広げた盤を覗いていた。鬼太郎もそちらへ目を戻した。
「お前、やってみる?」
ロンが駒を並べながら尋ねる。
「ええ。教えていただけますか」
「動かし方は?」
「キーノさんから少し。まっすぐ進む駒と、斜めに進む駒は分かります」
「じゃあ、ナイトからだな」
ロンは馬の形の駒を取り、空いたところへ置いた。縦へ二つ、そこから横へ一つ。指で升目を辿ってみせる。
「向きを変えてもいい。間に何かいても、こいつは越えられる」
「ほかの駒とは、違うんですね」
「そこを忘れると、急に取られるぞ」
鬼太郎は馬を元へ戻した。
駒が、置き方が乱暴だと小さく文句を言った。落としたわけではないので、鬼太郎は少しだけ顔を寄せる。
「命じた場所へ、行かないこともあるんですか」
「行くよ。下手だと思われると、うるさいけど」
ロンは、自分の駒を見た。
「ちゃんと考えてるって分かれば、静かになる」
「では、しばらくは叱られそうですね」
向こうでハリーが笑った。
キーノが隣へ座る。鬼太郎は白い駒を選び、最初のポーンを進めるように言った。
小さな足が、盤の上を歩く。
初めのうちは、次に動かせるものを探すだけで時間が掛かった。斜めに来るビショップを避けようとして、別の線上にいるルークを忘れる。ロンに示されてから、自分の駒が間に入っていたことに気づいた。
やがて、敵のポーンを取れる場所ができた。
鬼太郎はビショップの前の升目を辿った。進めた先へ相手の駒が来ても、こちらには取り返せる駒がある。
「それ、取るのか?」
キーノが言った。
「こちらで、守れると思います」
「取った後の王様は?」
鬼太郎は、もう一度盤を見た。
動かしかけたビショップが、低い声で不満を言っている。
その斜め後ろに、自分のキングがいた。ビショップをどかせば、ロンのクイーンとの間に駒がなくなる。
鬼太郎は手を引いた。
「これでは、動かせませんね」
「王様を取られるところへ、自分から動かしちゃ駄目だからな」
ロンが言う。
取られるのが自分なら、近づいてきた相手へ手を出すこともできる。だが、この小さな王には、決められた動きしかなかった。
鬼太郎は別のポーンを進めた。
次のロンの手で、ナイトが跳んだ。
「チェック。そっちのルークも狙ってる」
教わったばかりの曲がり方だった。
鬼太郎は、王を逃がした後に取られる駒を見た。それから、キーノへ顔を向ける。
「こちらも、見ておくべきでした」
「私も、そっちまでは見てなかった」
彼女は腕を組み直し、盤へ近づいた。
対局はロンの勝ちで終わった。
二度目には、ナイトの届く場所を一つずつ数えた。その間に端のポーンが進み、別のところを崩された。三度目は、駒を残そうとして王の動ける場所がなくなった。
鬼太郎が盤を覗き込むと、ロンは楽しそうに、最後の数手を戻してみせた。
「こっちを残してたら、もう少し逃げられた」
「ええ。取られない方ばかり、選んでいました」
「全部残そうとすると、動けなくなるんだよ」
駒を並べ直すロンの手は、授業で羊皮紙へ答えを書くときより迷いがなかった。
鬼太郎は最後の位置を覚えてから、席をハリーへ譲った。
◆
夕食の後には、暖炉の前の椅子が埋まった。
双子の笑い声を追っていたパーシーも、やがて階段へ消える。ロンは腹を押さえ、もう一切れ食べなければよかったと繰り返していた。
鬼太郎は、乾いたマフラーを椅子から取った。
指を挟んで裏も確かめ、畳んで膝へ置く。キーノの本では、銀の星が頁の横へ下がっていた。
「今日は、帳面を出さないのか」
彼女が尋ねた。
「後で少し。盤の位置を、忘れないうちに」
「あれも書くんだな」
「次に、同じところで取られるのは惜しいですから」
「一回目と三回目で、違っただろ」
鬼太郎は、笑って認めた。
「では、三つともですね」
キーノは本を閉じかけ、途中で手を止めた。
栞を挟む場所を確かめてから、閉じる。指先が、膝に置いた葡萄色の毛糸へ触れた。
「お前が変な方へ行きそうになったら、私は止めるぞ」
鬼太郎は彼女を見た。
「変な方、ですか」
「戦いを続けすぎるときも、ほかのことでも。お前がよくても、私がよくないと思うことはある」
「この前も、そう言ってくださいましたね」
「ああ。またあれば、また言う」
キーノは本を膝へ載せた。
「黙って見てる方が、楽なこともあるんだからな。言ったら、ちゃんと聞けよ」
鬼太郎は、しばらく彼女の顔を見ていた。
止める声を無視して続ければ、その後にもここへ座って、同じように話せるとは限らない。
彼女が嫌だと言ったことは、既に幾つも聞いている。
「理由も、教えていただけますか」
「言う。分からなかったら、聞けばいい」
「では、そうします」
キーノはその返事を聞き、本を脇へ寄せた。
「今も、先生に負けたところを考えてたのか?」
「少し。樽を板に変えられた後を、どうするかと」
「また浮かせるのか」
「あのままでは、相手を見ながら動かせません。先に離れる方も、考えておきたいですね」
「離れたら、先生も動くだろ」
「ええ。ですから、そこからも」
隣で、キーノが小さく息を吐いた。
「今夜、もう一回始めるなよ」
「帳面の中でもですか」
「明日も、休みだろ」
鬼太郎は、卓へ伸ばしかけた手を戻した。
暖炉の向こうでは、ハリーが火を見ていた。ロンが何か言うと、少し遅れて顔を上げる。
キーノは畳んだマフラーを本の上へ置き、椅子の背へ身体を預けた。
鬼太郎も、しばらくはそのまま座っていた。
◆
寝室へ戻ってからも、ハリーは透明マントをしまえなかった。
寝台の上へ広げると、布は蝋燭の光を滑らせた。端を掴み、手首へ載せる。覆われたところだけが、なくなる。
父親も、これを持っていた。
どんなときに使ったのだろう。何を見に行ったのだろう。
添えられた紙には、名前がなかった。朝から何度見ても、父の品を預かっていたという言葉の先は分からない。
「明日、また試そうぜ」
ロンが寝台へ倒れ込みながら言った。
「うん」
ハリーは答え、布を畳んだ。
鬼太郎は自分の寝台で帳面を開いていた。端に小さな升目を描き、その上へ駒らしい印を足している。
ハリーは、二人を誘おうかと思った。
だが、今夜は、自分だけで使ってみたかった。
昼間なら閉じられているところへも、この布を被れば行ける。
図書館の奥には、まだ調べていない棚があった。ハーマイオニーが帰ってくる前に、フラメルのことが一つでも分かるかもしれない。
鬼太郎がペンを置いた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
灯りが消え、ロンの寝息が聞こえ始めても、ハリーは目を開けていた。
やがて、そっと毛布から出た。
床が冷たい。寝台の下からマントを取り、頭から被る。布の下へ手も収めてから、扉へ向かった。
姿が消えても、歩く音は残る。
朝の鬼太郎の言葉を思い出し、踵を強く下ろさないようにした。扉を開け、細い隙間を抜ける。
階段を下りると、談話室の暖炉には、まだ赤い火が残っていた。
誰も座っていない椅子の間を通り、肖像画の穴へ手を掛ける。
背後で、太った婦人の声がした。
「誰? こんな時間に」
ハリーは答えず、廊下の角を曲がった。
◆
扉が閉じた後、鬼太郎は寝台の中で目を開けた。
寝具の擦れる音と、ゆっくりした足音には気づいていた。
朝見た布を使ったのだろう。
ハリーは、皆が眠るのを待っていた。何をしに行くかは、聞いていない。
鬼太郎は身体を起こさなかった。
見つけたものを話したくなれば、明日、本人が話すこともあるだろう。
毛布を肩へ引き、目を閉じた。
◆
図書館には、明かりがなかった。
ハリーは小さなランプを灯し、棚の間へ入った。光を近づけると、金色の文字が浮かぶ。
ランプを持つ手は見えない。
自分で支えているのに、火の入った器だけが宙を進む。その眺めが落ち着かず、ハリーは本へ目を向けた。
フラメル。
名前の頭の文字を探しても、読める背表紙ばかりではなかった。
奥の禁書の棚を前に、足が止まる。
昼なら、ここで許可を求められる。今は誰もいなかった。
ハリーは、そっと仕切りの縄を跨いだ。
古い金具のついた本がある。題名のないもの、文字が擦れてしまったものもあった。普通の棚であれだけ探して見つからなかったのだから、こっちにあるのかもしれない。
下の段で、黒い表紙に銀の飾りのついた一冊が目に留まった。
ランプを床へ置き、両手で引き出す。
重かった。膝へ載せ、表紙を開く。
鋭い叫び声が、静かな図書館を裂いた。
ハリーは本を閉じた。
止まらない。
腕の中で、まだ叫んでいる。
後ろへよろめいた足に、硬いものが当たった。ランプが倒れ、火が消える。砕けた音の向こうから、今度は足音が来た。
「誰だ!」
フィルチだった。
ハリーは本を棚へ押し込み、ずれたマントを引き寄せた。
管理人の明かりが、入口から近づく。
床の破片へ屈んだその横を、ハリーはすり抜けた。伸ばされた腕が布へ触れそうになり、肩を縮める。
入口まで走った。
角を曲がっても、叫び声が耳に残った。
もう一つ角を曲がってから、自分がどこへ来たか分からなくなっていることに気づいた。見慣れた気もする鎧が、壁際に立っていた。
ハリーは足を止めた。
その先から、冷たい声が聞こえた。
「いつまで、その態度で通すつもりだ」
スネイプ。
ハリーは壁へ寄った。先を覗くと、黒い背の向こうに、ターバンが見えた。
「な、何のことだか、私には……」
クィレルの声は、小さかった。
「私の目を避けて、いつまでも動けると思うな」
スネイプが近づく。クィレルは後ろへ引いたが、すぐ壁に当たった。
ハリーはマントを握り締めた。
試合のときの、スネイプの顔が浮かぶ。ハーマイオニーが見たという呪いのことも。
何を隠しているのかは、ここまでの話では分からなかった。それでも、クィレルが脅されているのは分かった。
「次にも同じ言い逃れをするつもりなら、よく考えておくことだ」
スネイプの言葉へ、クィレルが口を動かす。
返事は聞き取れなかった。
「スネイプ先生!」
ハリーの背後から、フィルチの声がした。
クィレルが黒い衣の脇を抜け、反対側の廊下へ消える。スネイプは追わず、管理人へ顔を向けた。
「禁書の棚に、誰か入り込んだんです。ランプを割って逃げました」
「禁書の棚だと?」
足音が、こちらへ来る。
ハリーは下がった。
見えていなくても、ぶつかれば分かる。狭い廊下では、横へ避ける場所もない。
壁に沿って伸ばした手が、取っ手へ触れた。
回る。
ハリーは扉を僅かに開け、身体を押し込んだ。布の裾を引き入れて閉じると、足音がすぐ外を通った。
息を止める。
二人の声が、扉の向こうを遠ざかっていった。
しばらく待って、ようやく口を開いた。
部屋は暗く、壁際には机と椅子が寄せられていた。使っていない教室らしい。ハリーはマントを少し持ち上げ、冷たい空気を頬へ当てた。
まだ胸が速く動いている。
その音が収まるころ、窓の光を受けて、部屋の奥が光った。
金色の枠だった。
天井へ届きそうな、大きな鏡が立っていた。脚の先は獣の爪のようで、上の縁には文字が彫られている。
ハリーは近づき、読もうとした。
意味が分からない。
肩からマントを外すと、鏡の中へ緑色のセーターが現れた。
その後ろに、人がいた。
ハリーは飛び退き、振り返った。
誰もいない。
積まれた椅子と、暗い窓だけだった。
もう一度、鏡を見る。
大勢の人が、自分の後ろに立っていた。
ハリーは片手を背後へ伸ばした。何にも触れない。透明になっている人がいるのではなかった。
鏡のすぐ近くへ、一人の女性が寄った。
赤い髪が、肩へ掛かっている。
笑っていた。けれど、その目には涙があった。
自分と同じ緑色の目。
隣の男性は眼鏡を掛け、跳ねた黒髪をしていた。女性の肩へ腕を回し、こちらを見ている。
ハリーは口を開いた。
「母さん……?」
女性が、手を振った。
「父さん」
呼んでも、声は返らなかった。
ハリーは前へ出た。
鏡の中の母が、自分の肩へ手を置いている。そこへ触れようとして、ハリーも手を上げた。
セーターしかなかった。
顔を上げると、まだ、母の手はそこにある。
ハリーはガラスへ指を当てた。
冷たかった。
父も、母も、その向こうで笑っている。後ろの人々にも、似た目や鼻があった。名前は知らない。誰が誰なのか、聞いたこともない。
けれど、皆、こちらを見ていた。
ハリーはもう片方の手も鏡へ置いた。
どんな声なのだろう。
自分を呼ぶとき、どんなふうに名前を言ったのだろう。
母の口元を見つめた。動けば、声が聞こえる気がした。
何も聞こえないまま、ハリーは頷いた。
鏡の中の父も、こちらへ頷いていた。
手が冷えて下ろした後も、顔を上げれば二人はいた。ハリーはその前へ座り、膝を抱えた。
もう少しだけ、見ていたかった。
どれほど経ったのか分からなかった。
遠くで何かが鳴り、ハリーは初めて扉を見た。
帰らなければ。
そう思って立ったのに、足は鏡へ近づいた。今離れたら、この顔を忘れてしまうような気がした。
朝には、父が使った布を手に持っていた。
今は、その父が、目の前にいる。
「また、来るから」
ハリーは小さく言った。
マントを被ると、緑色の袖が消えた。もう一度鏡を見たい気持ちを堪え、扉を開ける。
戻る道では、鎧の形と、曲がり角の絵を覚えようとした。
図書館の本のことは、もう考えていなかった。
寝室へ戻っても、誰も起きなかった。
ハリーはマントを畳み、毛布へ潜った。冷えた指を握っても、なかなか暖かくならない。
目を閉じると、母の顔が見えた。
父が、その隣へ立っていた。
ハリーは忘れないように、二人の顔を、もう一度初めから思い浮かべた。