第百十一話 閉じた傷にも、熱は残る
キーノは、濡れた床で足を滑らせないよう踏み直した。
手洗い場を砕いた棍棒が、持ち上がっていく。
灰色の巨体が入口を塞いでいた。
「リクタスセンプラ!」
松の杖から放たれた呪文が、トロールの胸へ当たった。
厚い皮膚の上で光が散る。
相手は身をよじらなかった。笑いもしない。小さな目をこちらへ向け、棍棒を握り直した。
効いていない。
キーノは奥のハーマイオニーへ目を向けた。
彼女も杖を持っていたが、腕が上がらない。灰色の手が動くたび、肩が震えた。
教室では、何を唱えれば何が起きるか、先に説明があった。
ここでは、知っている呪文を使っても、相手が止まらなかった。
光を灯しても、錠を開けても、この身体を退かすことはできない。
浮かせる練習をしたのは、羽根だった。
棍棒へ目が行ったが、握られているこれを、自分が引き離せるとは思えなかった。
「下がれ、ハーマイオニー!」
キーノは後ろへ声を投げた。
棍棒が動き始める。
そのとき、入口の脇に黒い杖が見えた。
「こちらですよ」
柔らかな声がした。
トロールの肩へ、呪文の光が当たった。
相手が首を捻る。
振り下ろすつもりだった腕が横へ動き、棍棒が個室の仕切りを叩いた。
木片が散った。
キーノはハーマイオニーを引き、手洗い場の陰へ寄せた。
「鬼太郎!」
彼は二人を見て、目を戻した。
「怪我は?」
「まだ、してない」
「では、入口へ出られるよう、そちらで待っていてください」
鬼太郎は灰色の顔を見上げた。
「言葉は分かりますか。二人を外へ出したいのですが」
返事は、喉の奥から出た低い唸りだった。
「通していただけませんか」
棍棒が上がった。
鬼太郎は横へ動いた。
先ほど立っていた床へ、重い木の先が落ちる。
水と破片が跳ねた。
話は続かなかった。
◆
森に来たトロールは、取引の内容を聞き、返事をした。
目の前のものは、声へ顔を向けても、言葉を返さない。
違う種なのだろうか。
鬼太郎は身体と頭の釣り合いを見た。
知っている相手の動きを、そのまま当てはめるのはやめた。
この巨体との戦いは、初めてだ。
入口は背後にあった。自分だけなら出られるが、二人は相手を挟んだ向こうにいる。
ハーマイオニーの目が、こちらへ向いていた。
鬼太郎は左手を開きかけ、戻した。
杖でできるものから、使う。
足へリクタスセンプラを当てた。
皮膚の上で呪文が散り、トロールの脚は動きを止めなかった。
キーノが使ったときも、同じだった。
胸より薄い場所なら違うかと思ったが、足を退かせるほどには働かない。
鬼太郎は倒れた仕切り板へ杖を向けた。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
板が浮いた。
顔の前へ持ち上げる。
トロールが棍棒で叩き落とした。
板が割れ、床へ散る。
鬼太郎は、その腕が下へ振られた間に、入口と二人を結ぶ側へ動いた。
相手が身体ごと向きを変える。
足が通り道へ入った。
ただ顔の前に物を置くだけでは、二人が抜ける時間までは作れなかった。
鬼太郎は床の木片を見る。
厚い皮膚を破れる呪文は、授業では教わっていない。修復で腕を挟めても、あの力なら薄い仕切りは砕かれる。
できることと、ここで足りることは、同じではなかった。
棍棒が横へ来た。
鬼太郎は身体を沈めた。
頭の上を通った木の先が、壁を削る。
トロールは唸り、腕を引き戻した。
小さな目が、動く鬼太郎を追っていた。
次には、目だけが先へ動いた。
手洗い場の向こう。
壁へ背をつけたハーマイオニー。
トロールが、そちらへ向き直った。
◆
キーノは、相手の足がこちらを向くのを見た。
鬼太郎へ振っていた棍棒が、上がる。
狙われている。
「動け!」
ハーマイオニーへ叫んだ。
彼女は壁から身体を離そうとしたが、目が棍棒から離れなかった。
足が、床に留まっている。
キーノはその腕をつかんだ。
引くだけでは、ついてこない。
肩へ自分の身体を当て、横へ押した。
二人で、倒れた仕切りの方へ崩れる。
棍棒が壁へ落ちた。
石の割れる音がした。
キーノの左腕を、何かが走った。
熱い。
それから、痛みが来た。
制服の袖が裂けていた。
鋭い石片が腕の外側を切り、血が肘へ流れる。
ハーマイオニーが息を呑んだ。
「キーノ、腕が——」
「見なくていい。こっちへ来い」
キーノは、右手で彼女を起こそうとした。
その目が、腕から動かなかった。
裂けた皮膚の縁が、寄り始めている。
血はまだ落ちていた。傷も消えきってはいない。
けれど、さっきまで開いていた線が、少しずつ細くなっていく。
ハーマイオニーは何も言わなかった。
何も言わず、それを見ていた。
キーノの手が止まった。
終わった。
胸の奥へ、冷たいものが落ちた。
黙っていれば、普通に隣へ座っていられた。
教科書を開き、分からないことを尋ね、同じ部屋で眠っていた。
今、その相手の前で、普通ではない傷の戻り方を見せている。
ハーマイオニーが口を開いた。
何を言うのか、聞く前に顔を逸らしたくなった。
その向こうで、鬼太郎の足が止まっていた。
◆
鬼太郎は、キーノの腕から落ちる血を見た。
棍棒の直撃は避けた。
それでも、壁を砕いた破片が届いた。
キーノがハーマイオニーを庇うと決めたことは、見ていた。
彼女の判断だった。
だからといって、彼女の腕を裂いた相手を、そのまま扱えるわけではなかった。
不快だった。
まだ二人が通れる位置を探し、見せる力を選んでいた自分の手間も、ひどく腹立たしかった。
トロールが棍棒を引き上げる。
鬼太郎は、杖を持つ右手を上げた。
「もう、結構ですよ」
声は変わらなかった。
キーノがこちらを見る。
彼の目から、先ほどまでの試すような余裕が消えていた。
「そこから、動かないでくださいね」
鬼太郎は二人へ告げた。
左手は空いている。
銃を抜く手順も、皮膚の外からどこへ撃つかを選ぶ時間も、今は要らなかった。
棍棒の腕は上がりかけている。
その下へ入る。
鬼太郎は、トロールへ近づいた。
◆
ハーマイオニーには、彼が自分から届くところへ入っていくように見えた。
キーノの右手が、自分の袖をつかんでいる。
左腕の傷は、まだ動いていた。
何が起きているのか、考えが追いつかない。
鬼太郎が、トロールの顔の下へ来た。
相手が頭を下げる。
歯の並んだ口が開いた。
「ルーモス」
目のすぐ前で、白い光が弾けた。
ハーマイオニーは顔を背けた。
光はすぐに消えた。
目を戻したとき、鬼太郎の左腕が、トロールの口の中へ入っていた。
◆
鬼太郎は掌を、口の奥へ向けた。
こちらを見失った相手が、顎を閉じる。
歯が腕へ食い込んだ。
骨に近いところまで、圧が来る。
痛みは分かった。
手を引かなかった。
「アギ」
掌から、炎を放った。
小さく整えて使うときより、深く、速くMAGを流す。
出せる火を、口の奥へ叩き込んだ。
灰色の喉が膨らむ。
トロールの唸りが、途中で途切れた。
棍棒を握る手が動く。
鬼太郎は肩を相手へ寄せ、長い柄が身体の外を通る位置へ入った。
腕は、まだ噛まれていた。
顎が強く閉じようとするたび、歯が傷を深くする。
掌から火を送り続けた。
厚い皮膚の外へ当ててはいない。
喉から内側へ、炎が進んでいる。
奥で空気が弾け、口の隙間から黒い煙が噴いた。
熱が頬へ来る。
トロールの空いた手が、鬼太郎の肩をつかもうとした。
指が制服へ触れ、握る前に力を失う。
膝が落ちた。
鬼太郎は相手の身体が傾く方を見た。
二人のいる側ではない。
自分の左腕を、緩み始めた顎から引き抜く。
歯に袖が引っかかった。
布を捨て、腕を抜いた。
棍棒が床へ落ちる。
続いて、巨体が横倒しになった。
水が跳ね、床に残った陶器が砕けた。
鬼太郎は距離を取り、呼吸と手足を見た。
動かない。
口だけが開き、煙が細く上がっていた。
中から炎が出ることは、もうなかった。
焼けた喉の奥は黒く、燃え尽きたものの臭いが、もともとの悪臭に重なる。
内側を焼き尽くされ、トロールは死んでいた。
その身体は、床に残った。
◆
少し前、階段ではハリーが柱の陰から飛び出していた。
棍棒が石へ当たった。
柱の端が欠け、ハリーのいたところへ落ちる。
ロンは反対側へ下がり、声を掛けた。
トロールがそちらへ向く。
下りた巨体は、踊り場を塞いでいた。二人が片側へ逃げれば、もう一人へ近づいてくる。
このまま動き続けても、いつまでも避けられるとは思えなかった。
ハリーは、相手の後ろの段へ回った。
棍棒を引き戻す隙に、背中の近くへ跳ぶ。
肩へしがみついた。
トロールが腕を伸ばした。
ハリーは杖を握ったまま、頭の向こうへ手を回そうとした。
身体が大きく揺れる。
杖先が、小さな鼻の穴へ入った。
トロールが吠えた。
「ロン!」
ハリーは叫んだ。
相手の顔が上がり、棍棒も上へ持ち上げられる。
ロンは、木の先を見た。
朝の教室が浮かんだ。
大きく振り回さない。
伸ばすところを、間違えない。
杖を上げた。
「ウィンガーディアム・レビオーサ!」
棍棒が止まった。
トロールの手から、柄が抜ける。
ロンは息を詰め、杖先を上へ運んだ。
重い木が頭の上へ浮いた。
ハリーが肩から離れ、段へ転がる。
ロンは棍棒を落とした。
鈍い音がした。
トロールの目が閉じる。
身体がぐらりと傾き、踊り場へ崩れた。
ハリーは段から起き上がった。
鼻から杖を引き抜く。
ロンが杖を向けたまま近づいた。
「気絶したのか」
「たぶん」
二人は、動かない身体を見た。
息をするたび、胸がゆっくり上下している。
上の廊下から、ものが砕ける音が届いた。
ハリーは顔を上げた。
「行こう」
ハリーは杖を握り直し、ロンと上の廊下へ向かった。
◆
キーノは、鬼太郎が振り向くのを見た。
左の袖は、ほとんど形を失っていた。
腕に歯の跡が並び、血が手首へ落ちている。
「お前、その腕——」
鬼太郎は彼女の前へ来た。
右手に持つ杖を下げる。
「左腕を、見せてください」
「私より先に、お前だろう!」
キーノが声を上げた。
鬼太郎は、自分の左腕を一度見た。
「指は動きます。先に、こちらを」
キーノは言い返そうとした。
その間に、彼が傷へ左手を近づける。
「ディア」
馴染みのある温かさが、裂けたところへ触れた。
自分で戻り始めていた傷が、さらに閉じていく。
疼きが薄れた。
腕に残った血までは、消えなかった。
鬼太郎は動きを確かめてから、手を引いた。
次に、自分の腕へ力を向ける。
歯が開けた傷が寄り、流れ続けていた血が止まっていった。
鬼太郎は左手をゆっくり握り、開く。
動いた。
痛みは残っていたが、先ほどより浅くなっている。
「大丈夫ですか、キーノさん」
「お前が、それを聞くのか」
キーノは彼の腕を睨んだ。
「私は、放っておいても戻る。お前はそうじゃないだろう。先に自分を治せ、馬鹿」
鬼太郎は、彼女の顔を見た。
怒っている。
声も、いつものように出ている。
「次は、そうした方がよさそうですね」
「次もやるつもりか」
キーノの声がさらに硬くなった。
鬼太郎は答えず、ハーマイオニーへ顔を向けた。
「そちらは、怪我をしていませんか」
彼女は首を横へ振った。
目がキーノの袖へ寄り、それから鬼太郎の左手へ戻った。
「あなたたち……」
続く言葉は出なかった。
キーノが腕を身体へ寄せた。
鬼太郎はその動きを見て、杖を持ち直した。
「まず、ここを出ましょう」
鬼太郎が入口へ顔を向けたとき、廊下から足音が聞こえた。
走ってくる、いくつもの足音。
その向こうで、硬い靴音も重なった。
キーノは裂けた袖へ右手を添えた。
鬼太郎は二人の前に立ち、杖先を下げる。
床に残った巨体の口から、煙が細く立ち上っていた。
足音が、壊れた入口のすぐ近くまで来た。