第百十二話 煙の向こうで、値がつく
ハリーが、壊れた入口へ駆け込んできた。
ロンも、その肩の向こうにいる。
「ハーマイオニー!」
呼びながら中へ足を出し、ハリーは止まった。
床に、トロールが倒れていた。
階段に残したものではない。
自分たちが向こうで棍棒を避けている間、ここにもいた。
口から、煙が出ている。
ロンが横へ来て、息を止めた。
「死んでるのか……?」
「ええ。もう、動きません」
鬼太郎が答えた。
声のする方へ、ハリーは目を向けた。
左の袖が裂けていた。腕にも、手にも血がついている。
キーノの袖にも赤い筋があった。
「二人とも、怪我を——」
「そこを空けなさい」
後ろから、ミネルバの声がした。
ハリーとロンが脇へ寄る。
彼女が杖を上げて入り、スネイプが続いた。
ミネルバは三人の位置を確かめた。
スネイプは、床に倒れた巨体へ向かう。
開いた口を見て、その足が止まった。
◆
「動けますか、キーノ」
ミネルバが尋ねた。
「ああ。足は、何ともない」
「腕は?」
キーノは左腕を少し持ち上げた。
「壁の破片で切った。今は、血も止まってる」
ミネルバは、裂けた袖と皮膚を見た。
血は、肘の方まで流れた跡がある。
しかし、今そこに見える傷は、ずっと浅かった。
彼女はキーノの顔へ視線を戻した。
「痛みや、気分の悪さはありますか」
「少し痛い。けど、立てる」
「立てることと、手当てが要らないことは違います。墓場、あなたの腕も見せなさい」
鬼太郎は左手を上げた。
指を動かす。
ミネルバは、その動きより先に血のついた範囲を見た。
「何に傷つけられたのですか」
「噛まれました」
彼女の目が、床のトロールへ動いた。
口には、子供の腕を深く挟めるだけの歯が並んでいる。
「このトロールに?」
「はい」
ミネルバは一度唇を結んだ。
「二人とも、ポンフリー夫人に診てもらいます。グレンジャー、あなたは?」
ハーマイオニーが首を横へ振った。
「怪我はしていません。キーノが、引っ張ってくれたので」
言ってから、彼女はキーノを見た。
キーノは、袖の端を右手で押さえていた。
裂けたところから見えていた皮膚が、今は少し隠れている。
ハーマイオニーは、その腕へ目を留めかけ、ミネルバへ戻した。
「棍棒が、私のいた壁に当たったんです。それで、破片が飛んで……」
「分かりました。あなたも、一緒に診てもらいなさい」
ハーマイオニーは頷いた。
スネイプは屈み、トロールへ杖を向けていた。
煙が、黒い袖の前を流れていく。
◆
「なぜ、ここにいたのですか」
ミネルバの問いに、ハーマイオニーの肩が小さく動いた。
ロンが目を伏せる。
「私が……戻らなかったんです」
ハーマイオニーが答えた。
「宴席にも、行っていませんでした」
「報告を聞いていなかったのですね」
「はい。トロールが来ているなんて、知りませんでした」
ミネルバはキーノを見た。
「あなたも?」
「ハーマイオニーといた。だから、聞いてない」
キーノは答えた。
ロンが顔を上げた。
「先生。僕が、余計なことを言ったんです」
声は、昼間より小さかった。
ハーマイオニーが彼を見た。
「授業の後で。ハーマイオニーに聞こえて、それで……」
ロンは、言葉を探すように口を閉じた。
何と言ったかを、今ここでもう一度口にすることはできなかった。
キーノも、彼へ顔を向けていた。
「私が勝手に残ったんだ」
ハーマイオニーが言った。
「キーノは、私を見に来てくれただけです」
ミネルバは二人の顔を順に見た。
今、細かく尋ねれば、昼間の言葉まで聞くことになる。
しかし、その話を血のついた袖のまま続けさせるつもりはなかった。
「そのことは、落ち着いてから聞きます」
彼女は告げ、残る三人へ向き直った。
「ポッター、ウィーズリー、墓場。あなたたちは大広間にいましたね。寮へ戻る指示を、聞いていなかったのですか」
「聞いてました」
ハリーが答えた。
「でも、二人はここにいて、知らせを聞いていないと思ったんです」
「それなら、教師へ知らせるべきでした」
ミネルバの声が硬くなる。
「生徒が寮にいないと分かって、こちらへ来ました。途中の階段にも、別のトロールがいたのですよ。あなたたちは、その前を通ってきたのでしょう」
ハリーは頷いた。
「鬼太郎が先に行って、僕とロンが引きつけてました」
「そのように、頼みました」
鬼太郎が続けた。
「向こうに二人がいるので、先に知らせに来たかったものですから」
ミネルバは彼を見た。
「一年生二人を、トロールの前に残したのですか」
「近づかずに引きつけていただくつもりでした。二人とも、引き受けてくださいました」
「僕が、先に行ってって言ったんです」
ハリーが言った。
ミネルバの視線が、彼へ移る。
「だから安全だった、とはなりません」
ハリーは口を閉じた。
柱に棍棒が当たり、自分のいたところへ破片が落ちた。
避け続けられないと思ったから、背中へ飛びついた。
それを、安全だったと言うことはできなかった。
「どうやって、あれを倒したのですか」
「ロンが、棍棒を浮かせて落としました」
ハリーは答えた。
「僕が、肩にしがみついていた間に」
ミネルバはロンを見た。
「浮遊術で?」
「はい。今日、習ったので」
ロンの視線が、ハーマイオニーへ寄った。
彼女も、こちらを見ていた。
ミネルバは息を一つ吐いた。
「使った判断については、後で聞きます。今は、全員が歩けるか確かめましょう」
キーノが鞄を持った。
鬼太郎も入口の方へ身体を向ける。
その前へ、低い声が来た。
「墓場」
◆
スネイプが立っていた。
トロールの口から上がる煙は、細くなっている。
しかし、まだ熱が残っていた。
外側の皮膚には、死に至るほどの広い焼け跡がない。
内部は違った。
口の奥から、燃え尽きた組織の臭いが出ている。杖で確かめても、生命の反応はない。内側は、消し炭だった。
「これは、お前がやったのか」
「はい」
鬼太郎は答えた。
ハリーが、口を開けたまま動かない顔を見た。
階段のトロールは、まだ胸が上下していた。
こちらは違う。
「何をした」
「口の中から、火を入れました」
ロンの目が、鬼太郎の左腕へ動いた。
血のついた袖。
噛まれたと、言っていた。
「腕を入れたのか」
スネイプが尋ねる。
「はい。皮膚の外からでは、授業で習った呪文が効きませんでしたので」
「だから、顎の中へ腕を入れたと」
「目を眩ませてからです」
鬼太郎の声は、普段と同じだった。
教師の方へ顔を向け、尋ねられた順に答えている。
「ハーマイオニーさんへ狙いが変わりました。キーノさんが庇って、破片で怪我をしましたから、そこで終わらせました」
「その腕を失うかもしれないとは、考えなかったのか」
「噛まれることは、考えました」
スネイプは少年の目を見た。
「考えて、それでも入れたのか」
「手を引くより、相手を止める方が先だと思いましたので」
スネイプの唇が、僅かに動いた。
炎を使えることは、知っていた。
ダンブルドアから聞いた経歴にも、その力はあった。
だが、今聞いているのは、出来る技を試したという話ではない。
相手の内側へ火を通す。
歯に腕を挟まれても、先に焼き殺すまで離さない。
選んだ方法を、そのまま終わりまで続けた。
痛みで止まらず、死んだ身体を見ても声が変わらない。
スネイプは、鬼太郎の杖へ目を向けた。
「その火は、授業で教えたものではない」
「ええ」
「ダンブルドアから聞いている。お前が使う、杖を——」
「セブルス」
入口から、声がした。
◆
ダンブルドアが立っていた。
その向こうに、クィレルのターバンも見える。
ダンブルドアは壊れた扉と床を見て、それから生徒たちへ視線を移した。
鬼太郎の袖で、目が止まった。
「続きは、後にしよう」
スネイプが口を閉じた。
その目は、まだ鬼太郎を向いていた。
「校長。この死体を——」
「見えておる」
ダンブルドアは答えた。
開いた口から出る煙へ、短く視線を落とす。
「聞くべきことはある。じゃが、先に傷を診てもらわねばならん」
ミネルバが頷いた。
「二人とも左腕を傷つけています。グレンジャーも、診察へ連れていきます」
「うむ。ポンフリー夫人に任せよう」
ダンブルドアは鬼太郎へ向き直った。
「鬼太郎。後で、わしのところへ来なさい。話を聞きたい」
鬼太郎は教師の顔を見た。
先ほどの問いに、ここで答え続ける必要はなくなった。
校長へは、火のことだけでなく、伝えたいこともあった。
通路にいた二匹。
その姿が、消えたこと。
杖の中へ入った力。
「分かりました。診ていただいてから、伺います」
「時間は、知らせる。今はミネルバについていきなさい」
鬼太郎は頷いた。
ダンブルドアは、キーノへも顔を向けた。
「キーノさん。歩けますか」
「歩ける」
「では、急がずにな」
キーノは鞄を掛け直した。
ミネルバが先に廊下へ出て、五人を呼ぶ。
ハリーとロンは、床のトロールを避けて入口へ向かった。
ハーマイオニーがキーノの隣へ来た。
彼女は、腕について尋ねなかった。
キーノはその横顔を見てから、前へ目を戻した。
今は、同じ方へ歩いている。
それ以上のことは、まだ分からなかった。
◆
クィレルは、廊下の壁へ身を寄せていた。
生徒たちが出てくる。
鬼太郎が最後に入口を抜け、彼へ軽く頭を下げた。
クィレルは返そうとして、喉が詰まった。
少年は、そのままミネルバの後へ続く。
血のついた左手が、制服の脇に見えた。
クィレルは手を胸へ寄せた。
先ほど、そこにいた二匹も、同じ手を見ていた。
杖を使わず、風を放った手。
それが服の中へ戻ったと思った瞬間、見慣れない武器が現れた。
破裂音がした。
一匹が倒れた。
もう一匹は、白い光を顔へ受けた。その後にも、刃を振った。
少年はすでに、当たらないところへ動いていた。
また音がした。
最後の一匹も、倒れた。
あの場面を、クィレルは柱の陰から見ていた。
大広間で床へ倒れた後、教師たちが生徒の誘導と地下への対応に分かれたところで身を起こした。
混乱から離れ、様子を確かめに通路へ回った。
そこで、思いもよらないものを見た。
自分が呼び出した二匹が、一年生に殺された。
刃が来れば避け、相手が崩れれば次を撃つ。
躊躇して、杖先を止めることはなかった。
二匹が何であったか分からずとも、襲ってくるなら殺せる。
クィレルの背へ、冷たいものが這った。
ハリーとロンの足音が来たため、そのときはさらに奥へ退いた。
柱越しに見えた身体は、粒子になって消えた。
その残りが、黒い杖へ寄っていた。
何が起きたのか、クィレルには分からなかった。
分からないまま、少年が先へ進むのを見送った。
今、女子トイレには、別の結果が残っている。
クィレルは入口から中を見た。
スネイプが、死んだトロールを調べていた。
口の奥が黒い。
外側の厚い皮膚は、そのまま残っている。
腕を入れた。
中から、焼いた。
先ほどの説明を聞いても、すぐにはその動作を思い描けなかった。
あの歯へ、手を入れる。
噛まれても、火を止めない。
殺す方を先にする。
「クィレル」
ダンブルドアが呼んだ。
彼は顔を上げた。
「は、はい」
「地下で見たものについても、確認せねばならん。気分はどうじゃ」
「も、もう、大丈夫です。申し訳ありません、取り乱してしまって……」
クィレルは答えた。
声の震えは、作る必要がなかった。
ダンブルドアは、その顔をしばらく見た。
「無理はせんようにな。落ち着いたら、分かったことを聞かせてもらおう」
クィレルは頷いた。
壁から離れようとして、もう一度、死体を見た。
生徒がこんな殺し方をするなど、授業の様子からは考えなかった。
自分が教室で見ていたのは、問いを聞き、紙へ書き留める少年だった。
その同じ少年が、今夜は一度も助けを待たずに殺した。
◆
ヴォルデモートは、クィレルの恐れを感じていた。
あの少年を見たときから、宿主の呼吸が浅くなる。
面白かった。
呼び出した二匹は、城の混乱を広げるために置いたものだった。
役目の途中で殺されたこと自体は、望んだ結果ではない。
だが、代わりに見つけたものがある。
鬼太郎。
教師が呼んだその名を、ヴォルデモートは覚えた。
同じ背丈の生徒たちは、見知らぬものが倒れて消えるだけで立ち止まった。
あの少年は、消えた身体を見て一度止まった後、すぐに先へ進んだ。
殺したことを確かめるために、いつまでもその場へ残らない。
目的がある。
そのために邪魔なものを、取り除く。
刃を避ける位置も、白い光の後に動く位置も、自分で選んでいた。
杖以外の手段を、ためらわず使う。
風と、あの小さな武器。
さらに、トロールを内側から焼いた火。
厚い皮膚を破れないなら、破る必要のないところへ入れる。
自分の傷さえ、止める理由にはならなかった。
ヴォルデモートは、死体の口から漂う熱を、宿主を通じて感じた。
満足が深くなる。
無謀なだけの者なら、二匹の刃の前で死んでいた。
臆病なだけの者なら、トロールの歯へ腕を入れられない。
あれは、傷を負ってでも終わらせる手段を選び、実際に生きて帰った。
今は、まだ子供の身体だった。
力も、そこで完成してはいない。
育てれば、使える。
ダンブルドアの教室へ置いておくには、惜しい。
廊下の向こうへ、ダンブルドアが歩き出した。
スネイプは、死体を移すための指示を別の教師へ伝えている。
クィレルは壁の陰へ身を寄せ、誰もいない側へ顔を向けた。
その耳へ、低い声が届いた。
「あの子供は、使える」
クィレルの指が強張る。
「し、しかし、あれほどの——」
「だからこそだ」
声が、言葉を切った。
殺すことを恐れない。
必要なら、教師の教えの外へも手を伸ばす。
何を欲しがり、何を守ろうとするのか。
そこを知れば、こちらへ向ける道は作れる。
今夜、味方のために動いたのなら、その味方を大切にする性質まで、使い道があった。
従うかどうかは、まだ聞いていない。
それでも、ヴォルデモートの中では、迎える場所が先に決まっていた。
「私のもとへ来させる」
クィレルは、返事を飲み込んだ。
口から煙を出す死体が、入口の向こうに残っている。
あの少年は、今ここにいなかった。
いないところで、次に向けられる手だけが決まっていく。