第113話 隣からは見えない
ロンが目を覚ます前から、ハリーは窓を見ていた。
昨夜の暗い廊下とは違い、外は明るい。屋根の雪が朝の光を返していた。次に暗くなるまでには、まだ長い時間がある。
向かいの寝台で、鬼太郎が鞄の留め金を閉じた。
「おはようございます」
「おはよう」
ハリーは顔を上げた。
鬼太郎は青灰色のマフラーを腕へ掛けている。何か尋ねられるかと思ったが、彼はロンが起きたのを見て、先に下りていると言っただけだった。
扉が閉まる。
ハリーはすぐに、隣の寝台へ身体を向けた。
「昨日の夜、マントを使ったんだ」
ロンの欠伸が止まった。
「一人で? どこへ行った?」
「図書館。禁書の棚なら、フラメルのことが分かるかと思って」
「何か見つかったのか?」
ハリーは首を振った。
本を開いた途端に叫び出したこと、ランプを倒し、フィルチから逃げたことを話す。ロンは毛布から足を出し、話の途中で、もう一度寝台へ座り直した。
「そんな本、あるのかよ」
「閉じても、やまなかったんだ。それで、逃げた先にスネイプがいて」
「捕まったのか?」
「ううん。クィレル先生と話してた」
ロンの顔が変わった。
ハリーは、壁際へ詰め寄られていたクィレルを思い出した。今なら声を出せるが、あの廊下では、見つからないように息を抑えるので精いっぱいだった。
「隠れて動けると思うな、とか、次も言い逃れをするなら考えろって。何の話かは、分からなかった」
「やっぱり、スネイプじゃないか。クィレルに何かやらせようとしてるんだ」
「クィレル先生は、怖がってた」
「きっと三階のことだよ。あの犬の先へ行くのに、先生の協力がいるんじゃないか?」
ハリーは頷きかけた。
犬のことは、聞こえなかった。けれど、ロンの言うことは、スネイプの険しい顔へうまく重なった。
フィルチが来た後、クィレルは逃げるように離れていった。
その話をすると、ロンはますます眉を寄せた。
「それで、お前はどうしたんだ?」
「近くの教室へ入った。二人が来たら、マントを被っててもぶつかるから」
そこで、ハリーは一度口を閉じた。
話したかったのは、その先だった。
「部屋に、鏡があったんだ」
「鏡?」
「僕の家族が、映ってた」
ロンは、すぐには何も言わなかった。
ハリーは自分の膝を見た。昨夜、鏡の前で抱えていたところだった。
「母さんと父さん。それから、ほかにも大勢。母さんの目が、僕と同じだったんだ」
「でも、お前の……」
「分かってる」
思ったより強い声が出た。
ハリーはロンを見た。ロンは驚いた顔をしていたが、馬鹿にしてはいなかった。
「振り返っても、誰もいなかった。でも、鏡にはいたんだ。僕の肩に、母さんが手を置いてた」
「話したのか?」
「声は聞こえなかった」
それでも、何度も頷いてくれた。
父も、隣で笑っていた。
ハリーは寝台の縁へ寄った。
「今夜、一緒に来てよ。僕の家族を、見せたいんだ」
ロンは少し迷ってから、頷いた。
「分かった。だけど、今度はフィルチに気をつけろよ」
「うん。図書館へは行かない。場所は、覚えてる」
ロンが着替え始めても、ハリーは道を思い返していた。
鎧のある廊下。大きな額縁。取っ手の回った扉。
そこへ着けば、また会える。
◆
朝食の席で、ロンがベーコンの皿を寄せた。
ハリーは一切れ取ったが、冷めた後も、ほとんど残っていた。キーノに皿を使うかと聞かれ、慌てて向こうへ押す。
鬼太郎は向かいで、ロンと昨日のチェスの話をしていた。
「端のポーンを、そのままにしていたところです」
「あれ、もう少し早く動かせばよかったんだよ。ナイトばっかり見てたろ」
「ええ。教えていただいたばかりでしたから」
ハリーはその声を聞きながら、母親の顔を思い出した。
同じ卓へ座っていたら、何を話しただろう。
食事を終えても、夜にはならなかった。
窓の外へ雪を見に行き、談話室へ戻り、ロンと盤を挟んだ。駒が動くたびに、今度こそ見ようと思った。
気がつくと、母親が手を置いていた肩へ触れていた。
「ハリー。お前の番だぞ」
「ああ、ごめん」
盤へ目を戻す。
どの駒を動かすつもりだったか、思い出すのに時間が掛かった。
夜、寝室の灯りが消えると、ハリーは昼間よりはっきり目が覚めていた。
マントを広げ、ロンが隣へ入るのを待つ。
「足、出てない?」
「お前の肘が当たってる。もう少し寄れよ」
「寄ってるよ」
頭を覆ったまま扉を抜けると、布の下で肩がぶつかった。
一人で歩いたときより狭い。
ハリーが早く進もうとすれば、ロンの足が遅れる。階段では片方が裾を踏みかけ、二人とも止まった。
物音がすると、ロンが袖を引く。
「今、聞こえたろ」
「大丈夫。遠くだよ」
「大丈夫って、何がいるか分からないじゃないか」
ハリーは待った。ロンが先へ進めるようになってから、再び歩き始める。
昨夜見たはずの絵が、なかなか出てこなかった。
一度、違う階段を下りた。戻る途中で、ハリーは額縁の形が似ているだけだったと気づいた。
「まだか?」
「もう少し」
ロンの指が、マントの端を握り直した。
「寒いよ。明日にしたって……」
「あった。あの鎧だ」
ハリーは声を上げかけ、慌てて抑えた。
次の角の向こうに、扉があった。
◆
教室へ入ると、ハリーはすぐに布を外した。
鏡があった。
前へ立つと、母がこちらを向いた。父も隣にいる。
昨日だけのことではなかった。
「ほら。母さんと父さん」
ハリーはロンの袖を引いた。
ロンが、肩越しに鏡を覗く。
「どこに?」
「僕の後ろだよ。すぐ、ここに」
「お前しか、見えないぞ」
ハリーは顔を向けた。
ロンは少し困ったように、もう一度鏡へ目をやった。嘘をついている顔ではなかった。
ハリーが向き直ると、両親はまだいた。
「もっと前へ来て。僕のいるところ」
横へ退き、ロンへ場所を譲る。
ロンは鏡へ近づいてから、動かなくなった。
しばらくして、口が開く。
「……僕だ」
「父さんたちは?」
「いない。でも、僕が、大きくなってる」
ロンは自分の胸へ手を当てた。
「首席のバッジだ。ビルが付けてたのと同じ。僕、首席になってる」
声が弾んだ。
「カップも持ってる。寮のと、クィディッチの。主将にもなってるんだ!」
ハリーは鏡を見た。
そこには、寝間着のロンがいた。バッジもカップもなかった。
「一人で?」
「ああ。兄貴たちは、誰もいない。僕だけだ」
ロンが背筋を伸ばす。
いつものように、兄の話をしているのではなかった。鏡の前で笑っているのは、ロンだった。
ハリーも少し笑った。
だが、顔を戻すと、両親の姿はなかった。
ロンがどけば、また見えるのだろうか。
「これ、未来を見せるのかな」
ロンが言った。
「どうして? 僕の家族は、もう……」
言い切る前に、ハリーは鏡へ寄った。
「少し、代わって」
「もうちょっと。昨日は、お前がずっと見てただろ」
「分かってる。でも、僕も見たいんだ」
ロンは、ハリーへ顔を向けた。
また鏡を見る。それから、名残惜しそうに横へ退いた。
ハリーがその場所へ戻ると、母親が現れた。
胸の奥から、息が抜ける。
見えなくなっていたのは、ほんの少しの間だった。けれど、ようやく帰ってこられた気がした。
膝を折って座る。
母も、父も、その近くへ寄っていた。
ロンが帰ろうと言ったときも、ハリーは顔を上げなかった。
「少しだけ」
「さっきも、そう言ったぞ」
「もう少し」
肩へ、手が掛かった。
ハリーはそちらを見た。ロンだった。
鏡の中の手とは違い、セーターを掴む指が分かった。
「本当に、誰か来るよ。声だって、廊下へ聞こえるかもしれない」
ハリーは扉を見た。
閉じたままだったが、その向こうから明かりが来るところを思い浮かべた。昨夜は逃げ込めた。今夜も同じように逃げられるとは限らない。
立ち上がると、足が冷えきっていた。
マントへ入る前に、もう一度だけ振り返った。
◆
次の夜、ロンは寝台から出なかった。
「また行くのか」
ハリーはマントを持ったまま、振り向いた。
「僕は、もう一度見たいんだ」
「昨日も見ただろ。毎晩行くことないじゃないか」
「でも、そこへ行けば会える」
ロンは毛布を膝からどけた。
「今日だって、ずっとそのこと考えてたぞ。話してても、上の空で」
「そんなこと……」
「チェス、何を動かしたか覚えてる?」
ハリーは答えようとした。
駒は覚えている。盤も、椅子も、ロンがそこへ座っていたことも。
けれど、どんなふうに負けたのかは、出てこなかった。
「今夜は、寝ようぜ」
ロンが言った。
ハリーは、手の中の布を見た。
待っていれば、明日の朝になる。明日も、母親の顔を思い出して過ごすのだろう。
今なら、見られる。
「少しだけにする」
ハリーはそう答え、扉へ向かった。
背中へ、ロンの返事は来なかった。
◆
翌日の夕方、ロンは鬼太郎の卓へ来た。
鬼太郎は帳面に描いた盤を見ていた。最初にナイトを警戒した位置と、端のポーンが進んだ位置を、二つの図に分けてある。
「こちらを見ている間に、こちらが進んだんですね」
ペン先を動かしかけたところで、ロンが椅子へ手を置いた。
「なあ。ハリーのことで、ちょっと」
鬼太郎はペンを置いた。
ハリーは少し前に、寝室へ上がっていった。談話室へ残った人数は少なく、暖炉のそばには、二人で腰を下ろせる椅子も空いていた。
それでもロンは、こちらを選んだ。
「夜、出ていってるの、知ってる?」
「最初の夜は、気づきました。何をしに行くかは、伺っていませんが」
「やっぱり起きてたんだな」
ロンは隣へ座り、声を低くした。
「鏡を見つけたんだ。空き教室にある、大きいやつ。家族が映るって」
「ハリーさんの、ご家族ですか」
「ああ。僕も連れていってもらった。でも、僕には見えなかったんだ」
鬼太郎は、閉じかけた帳面から手を離した。
「何も、映らなかったんですか」
「僕には、僕が見えた。大きくなって、首席になってるんだ。クィディッチの主将にも」
話している間だけ、ロンの口元が緩んだ。
「カップまで持ってたんだよ。でも、横から見てたハリーには、そんなもの見えてなかった」
「立つ方によって、違うんですね」
「そうらしい。僕も、面白かったよ。だけど、ハリーは……」
ロンは、寝室へ続く階段を見た。
「毎晩、行きたがるんだ。やめようって言っても。昨日は、一人で出ていった」
鬼太郎は先ほどのハリーを思い返した。
ロンの呼びかけへ返事はしていた。だが、階段を上がる途中で、一度立ち止まっていた。上に何かあるのを待っているようにも見えた。
「昼間も、眠そうですね」
「それだけじゃない。夜になるのを待ってるみたいなんだ。僕、鏡を見せてもらう前は、こんなことになると思わなかった」
ロンは卓の端へ指を置いた。
「お前からも、言ってくれよ。僕じゃ、また同じ話になる」
鬼太郎は、少し考えた。
立つ者によって、違うものを見せる。
一度離れても、また前へ戻りたくなる。
ロンは戻ることを選べた。ハリーは、ほかのことを考える時間まで取られ始めている。
「呪いの品かもしれませんね」
「やっぱり、そう思う?」
「まだ、分かりません。ご家族が見えるから離れがたいのか、鏡の方から何かされているのか」
鬼太郎は階段を見た。
「ですが、確かめずに、見に行かなくていいとだけ言っても、難しそうです」
「難しいよ。僕には、ちゃんと帰れって言う理由があるつもりなんだけど」
「ええ。それを、聞かないままでいるのは困りますね」
鬼太郎は帳面を閉じた。
「今夜、ハリーさんとご一緒してみます」
「行くのか?」
「見た後でどうなるかも、そばで確かめたいので。ハリーさんにも、先に伺います」
ロンは安堵したように肩を下げた。
その後で、もう一度顔を上げる。
「お前まで、毎晩行くなよ」
「何が見えるか、まだ分かりませんからね」
「そこは、大丈夫だって言えよ」
鬼太郎は笑いかけ、それから、閉じた帳面へ目を落とした。
自分にも、見たいものはある。
「戻ったら、お話しします。それで、いかがですか」
ロンは少し考えて、頷いた。
◆
誘いを聞いたハリーは、すぐには頷かなかった。
「ロンに聞いたの?」
「はい。鏡と、最近のハリーさんのことを」
鬼太郎は、寝台の横で足を止めた。
「見に行くなって、言いに来たんだね」
「どんなものか、僕も確かめたいんです」
「僕には、本当に見えるんだ」
「そのように伺いました」
ハリーは鬼太郎の顔を見た。
「嘘だと思わない?」
「ロンさんにも、ほかの姿が見えたそうですから。見えたことまで疑う理由は、今はありません」
鬼太郎は、少し間を置いた。
「ただ、ロンさんは心配しています。僕も、そこは気になります」
ハリーは目を下げた。
鏡をくだらないものだと笑うわけでも、家族がいるはずがないと言うわけでもなかった。
昨日のロンの顔が、また浮かんだ。
「分かった。夜になったら」
「ありがとうございます」
鬼太郎が離れると、ハリーは寝台の下の布へ手を伸ばした。
今夜は、もう一人に見せる。
ロンのときと同じように、見えないと言われるのかもしれない。それでも、あの前へ立てば、自分には父と母がいる。
指に触れたマントを、そっと押し戻した。
◆
布の内側では、隣の息が近かった。
ハリーが足を止めると、鬼太郎も止まった。階段で裾を持ち上げると、向こう側も僅かに上がる。
それでも、曲がるところでは肩が触れた。
「こちらですか」
鬼太郎が囁いた。
「うん。次の角を右」
鬼太郎は先へ出ず、ハリーが身体を向けるのを待った。
今夜は、道を間違えなかった。
鎧を過ぎ、大きな額縁の下を通る。教室の取っ手へ手を掛けるとき、ハリーは、もう鏡の前のことを考えていた。
扉を閉め、マントを外す。
鬼太郎は壁際の机と、入口の周りへ目を向けた。それから、金色の枠を見上げる。
ハリーは待てずに、前へ進んだ。
母がいた。
父も、こちらを見ていた。
「ほら。ここなんだ」
肩の後ろを示す。
鬼太郎は横から鏡を見た。緑色のセーターを着たハリーと、教室の中が映っている。
家族の姿は、なかった。
「僕の位置からは、ハリーさんだけですね」
「ロンもそうだった。でも、ここに立つと違ったんだ」
ハリーはもう一度鏡を見てから、脇へ退いた。
鬼太郎はその場所へ進んだ。
右手には、黒檀がある。
鏡へは触れず、枠から少し離れて正面に立つ。
自分の姿が、映った。
だが、鏡の中の頭は、今の自分より高いところにあった。肩の幅も、手足の長さも違う。
鬼太郎は、杖を握る指を止めた。
大人になった自分が、笑っていた。