第百十三話 穏やかな席にも、綱はある
「傷が閉じたからといって、全部戻ったわけではありません」
ポンフリー夫人は、鬼太郎の左腕を寝台へ戻した。
血を落とした皮膚には、噛まれたところの赤みが残っている。指を動かせても、強く握れば疼いた。
「一日は安静にしていなさい。明日の様子を見て、起きてよいか決めます」
「分かりました」
鬼太郎が頷く。
夫人は、隣の寝台にいるキーノへも目を向けた。
「あなたもです。自分で戻る傷でも、休まなくてよいことにはなりません」
「ああ」
キーノは左腕を毛布の中へ入れた。
診察に必要な確認は、ほかの生徒から見えないところで受けた。夫人も、彼女の身体について、周りへ聞こえるように説明しなかった。
それでも、ハーマイオニーが見たものまで消えるわけではない。
少し離れた椅子に、彼女が座っていた。
ハリーとロンも、怪我がないか確認を受けている。
ミネルバがポンフリー夫人へ話を終えると、夫人は入口を示した。
「今夜のお話は、ここまでにしてください。二人を休ませます」
ハリーが寝台へ顔を向けた。
「また、来てもいい?」
「明日、こちらでよいと言ってからです」
夫人が答えた。
鬼太郎は椅子から立つ三人へ目を向ける。
「お話の続きは、また明日にしましょう」
ハリーは頷いた。
聞きたいものがある顔だった。
ロンも何か言いかけたが、ミネルバに促されて入口へ向かう。
ハーマイオニーは最後にキーノを見た。
「おやすみ。キーノ」
いつもと同じ呼び方だった。
キーノは、毛布の上に置いた右手を握った。
「……ああ。おやすみ」
扉が閉まった。
◆
灯りが落とされてからも、キーノはしばらく眠れなかった。
身体は疲れていた。
横になれば休めるのに、目を閉じると、腕を見ていたハーマイオニーの顔が戻ってくる。
口を開きかけた。
何も言わなかった。
それが、かえって分からなかった。
鬼太郎が隣で身じろぎした。
腕の位置を変えただけで、起き上がる様子はない。
「眠れませんか」
静かな声が来た。
キーノは天井を見たまま答えた。
「見られた」
「ハーマイオニーさんに、ですか」
「傷が戻るところだ。お前が治す前に」
鬼太郎は少し黙った。
「何か、言われましたか」
「何も。だから、どう思ってるのか分からない」
キーノは左腕へ目を向けた。
袖は替えられ、血も落とされている。
今見たなら、あのとき何が起きたか、分からないかもしれなかった。
しかし、見た相手は覚えている。
「明日、ほかの奴も知ってたら、どうする」
声が小さくなった。
「同じ部屋に、戻れなくなったら……」
鬼太郎が顔を向けた。
「学校から出ることにはならないと、書面にもありますよ」
「そういう話だけじゃない」
キーノは言った。
寝台があることと、その隣にいる相手が普通に話してくれることは、違う。
自分でも、そう思って入学したはずだった。
鬼太郎は、その顔を見ていた。
「何かあって、学校を辞めることになっても、僕もそのときは辞めますから。安心してください」
キーノは彼を見た。
鬼太郎は、ごく穏やかに言っていた。
冗談ではないらしい。
「……どこが安心できるんだ」
「戻る場所もありますし、キーノさんだけを残すことにはしませんよ」
「私は、ここへ戻れるかを心配してる。お前と二人で辞める話なんか、してない」
鬼太郎は目を瞬かせた。
キーノは呆れて、息を吐いた。
「本当に、お前は……」
「では、明日も普通に話せるか、確かめるところからですね」
「最初から、それを言え」
少しだけ、声が戻った。
鬼太郎は毛布へ手を戻した。
キーノも横になり直した。
安心したわけではない。
ただ、考えていた最悪のことより、隣にいる馬鹿へ言い返す方に、少し頭を使った。
◆
翌日、鬼太郎は寝台で大人しく過ごした。
朝食を取り、診察を受け、眠気が来れば目を閉じる。
杖を出して試すことも、MAGを動かす練習もしなかった。
午後、ハーマイオニーが本と羊皮紙を持ってきた。
ポンフリー夫人に許可を得てから、キーノの寝台のそばへ椅子を寄せる。
「今日、出された宿題よ。先生が、二人には回復してからでいいって」
紙を置いた。
キーノは彼女の顔を見た。
昨日のように、声が途中で引っかかることはなかった。
「ここ、何て書いてある」
キーノが一つの言葉を指す。
ハーマイオニーは紙を近づけた。
「教科書にもある言葉よ。ほら、この頁」
開いた本を示す。
キーノは、先に彼女の目を見た。
その目は、自分の顔ではなく、教科書の行へ向いている。
「この前のと、意味が違うのか」
「前に読んだ文章とは、言葉の使い方が違うの。まず教科書の説明を読んで、それから宿題の文を見直してみて」
ハーマイオニーは教科書の用語説明を指し、それから宿題の文章へ指を移した。
キーノは本へ目を落とした。
知っている話し方だった。
少し早口で、キーノが質問しようとする間にも、説明が先へ進む。
「待て。今のところを、もう一回」
「あ、ごめんなさい。ここからね」
ハーマイオニーが戻った。
腕へ視線は来なかった。
傷がどう閉じたかも、なぜそんなに早かったかも、聞かなかった。
キーノは頁の端を押さえた。
尋ねたいことを、今なら言えた。
それは、自分の身体についてではなく、目の前の言葉についてだった。
鬼太郎は隣の寝台から、そのやり取りを聞いていた。
ハーマイオニーが帰るとき、キーノは本を閉じて言った。
「その続き、戻ってから聞く」
「うん。帳面も、持ってきてね」
ハーマイオニーは頷いた。
キーノの肩が、僅かに下がった。
◆
夕方、ポンフリー夫人がもう一度、二人を診た。
鬼太郎は腕を動かし、力を入れたときに残る痛みを伝えた。
夫人は頷き、激しく動かすことを禁じた。
キーノにも、今夜は早く休むよう告げる。
「校長先生へのお話も、長くならないように。途中で気分が悪くなったら、戻ってきなさい」
「はい」
鬼太郎は答えた。
校長室へ呼ばれた時間は、その後だった。
キーノは先に寮へ戻ることになった。
「変な約束を増やしてくるなよ」
別れる前に、彼女が言った。
「今日は、お話を聞かれる方でしょうね」
「聞かれなくても、お前は余計なことを言うだろう」
鬼太郎は笑い、鞄を持ち直した。
医務室を出ると、廊下の冷たさが頬へ触れた。
◆
ダンブルドアは、椅子へ座る鬼太郎の左腕を見た。
血に染まった袖は替わっている。
痛みは、まだあるらしかった。
「ポンフリー夫人の言うことは、聞いておったか」
「ええ。今日は休んでいました」
「それは、よかった」
ダンブルドアは菓子の皿を寄せた。
鬼太郎が一つ取り、机の端へ置く。
食べる前に、校長へ顔を向けた。
「昨日のお話ですね」
「うむ」
ダンブルドアは頷いた。
危険な少年だった。
痛みがあれば、立ち止まるとは限らない。相手を殺すことも、最後まで避けようとはしない。
しかし、危険であることだけで、今どこへ進もうとしているかまで決めつけるつもりはなかった。
教室では説明を聞き、失敗を比べ、知らないことを尋ねている。
得た力を使って生徒を従わせたり、誰かを傷つけるために学校で獲物を探したりはしていなかった。
知識を求め、勉学に励んでいる。
少なくとも今、悪の道へ踏み込んでいる者として扱う理由はない。
だからこそ、選び方を話す必要があった。
「昨日、お主があの力を使ったこと自体を、咎めるつもりはない」
鬼太郎が目を上げる。
「学校では、使わないようにというお話でしたね」
「むやみに使わせぬための約束じゃ。あの状況で、使えるものを使わず傷つけられろとは言わん」
ダンブルドアは左腕へ目を向けた。
「キーノさんとグレンジャーさんを、外へ出そうとしたのじゃな」
「はい。最初に使った呪文では、止められませんでした」
「その後、キーノさんが傷ついた」
「ええ」
短い返事だった。
声は柔らかい。
けれど、その箇所へ話が触れると、少年の目が僅かに変わった。
ダンブルドアは、それを見た。
キーノを学校の生徒として迎えることが、鬼太郎をここへ連れてきた。
彼女がここで過ごしたいと思うなら、鬼太郎にも、ここへ残る理由がある。
彼女は、彼をつなぎ留める枷になっている。
ただ、その枷へ乱暴に触れれば、引き戻すどころか、こちらへ牙が向く。
昨日の死体が、その境目を示していた。
◆
「じゃが、殺す必要までは、なかったじゃろう」
ダンブルドアが言った。
鬼太郎は、皿から取った菓子を見た。
「気絶させるところで、止められたかもしれませんね」
「そうじゃ」
「ただ、あのときは、動かなくなるまで待つつもりはありませんでした。口に入れた腕も、まだ噛まれていましたから」
鬼太郎は校長へ目を戻した。
「確かに終わったところで、やめました」
ダンブルドアは背もたれへ身体を戻した。
「終わったと判断するところを、死にだけ置いてほしくはない」
「あなたでしたら、ずっと前に止められたのでしょうね」
机の向こうが、少し静かになった。
鬼太郎は続けた。
「あの部屋へ入るより、前に」
ダンブルドアが眉を上げる。
「わしが、入れたと言いたいのかの?」
「いいえ。あなたがいらっしゃる学校で、あれほどのものが自由に歩いていたのが、不思議だっただけです」
鬼太郎は菓子を手に取った。
口へ運ぶ前に、微笑む。
「何か、学校側のご都合もあるのかと思いまして」
ダンブルドアは、その顔を見た。
証拠を示しているわけではない。
彼の実力を知っているから、単純な見落としだったという説明へ乗らなかった。
ハリーの名も、地下へ続く道の話も、鬼太郎は口にしない。
そこまでは、知らない。
「学校側で、確かめることもある」
ダンブルドアは答えた。
「そのことと、お主がどう止めるかは、両方考えねばならん」
「ええ。次に使える方法は、増やしたいですね」
鬼太郎は菓子を食べた。
殺したことを悔いてはいなかった。
別の方法を学ぶことには、関心がある。
ダンブルドアは、その二つを聞き分けた。
◆
トロールが城へ入る動きには、ダンブルドアも気づいていた。
そこで全てを止めれば、生徒たちは何も知らず、宴席を終えただろう。
ハリーには、友のために動いた先で、自分の知恵と力を使う経験を残したかった。
見て見ぬふりをした箇所は、確かにあった。
教師たちを避難経路へ配置し、対応できる手を残しているという考えも、その選択を支えていた。
しかし、鬼太郎が選ぶ結末まで、自分の望む形にはならなかった。
そのことを、今ここで少年へ語るつもりはない。
「キーノさんは、学校を続けたいと思っておるようじゃな」
ダンブルドアは話を移した。
鬼太郎が頷く。
「ハーマイオニーさんとも、よく話していますね」
「ここで過ごしたい理由が、増えておる」
「ええ。ですから、安心して過ごせる場所であってほしいですね」
すぐに返ってきた。
ダンブルドアは、皿へ手を伸ばしかけて止めた。
「それを守るためにも、お主には教師を頼ってほしい」
「頼りにしていますよ。間に合うところに、いてくださるのでしたら」
「……お主、今日は随分と刺してくるのう」
「昨日は、僕も噛まれましたので」
鬼太郎は左腕を少し示した。
ダンブルドアが息を吐いた。
「軽く済んだ話にするつもりはない。教師の側で直すことも、ある」
「では、こちらも学べるところを増やしましょう」
鬼太郎は答えた。
目の前の相手を、信用していないだけではない。
頼れる力があると知っているから、その力が働くところを求めている。
ダンブルドアは菓子を一つ取った。
授業の話なら、これからも続けられる。
少年が今求めている道も、そこだった。
◆
「もう一つ、伺いたいことがあります」
鬼太郎が言った。
「昨日、トロールのところへ行く前に、通路で二匹、別のものと出会いました」
ダンブルドアの手が止まった。
「別のもの?」
「コボルトという、悪魔です。僕が以前いたところのものですね」
皿のそばで、指が動かなかった。
「以前、おったところの……」
「ええ。名前は、倒した後で思い出しました」
鬼太郎は、身体の形と刃物について話した。
言葉を話し、ザンを見たときに、聞いていた話と違うと叫んだこと。
二匹とも襲ってきたため、銃と魔法を使って倒したこと。
最後の一匹を倒したところで、ハリーとロンが来たこと。
ダンブルドアは、途中で口を挟まなかった。
「倒れると、身体が粒子になって消えました。刃物も残っていません」
「二人も、その様子を見たのじゃな」
「はい。最後の一匹が消えるところは、見ています」
「消えた場所は、分かるか」
「通った道ですので、ご案内できます」
ダンブルドアは机の上へ手を置いた。
声の調子が、先ほどと変わっている。
鬼太郎は、その返事の間を見た。
「こちらは、ご存じなかったのですね」
校長は彼を見た。
「知らなかった」
短く、答えた。
◆
ダンブルドアは、聞いた姿を頭の中で組み立てた。
刃を持ち、話し、杖を使わない風の力へ反応する。
殺されれば、身体ごと消える。
城に入ったトロールとは、違う。
あれには、この世界の魔力が働いた痕跡があった。
少年の言う悪魔には、同じ見方では捉えられないものがある。
鬼太郎が炎や風を使う力も、通常の杖魔法とは異なっていた。
その系統に属する現象が城内で起きていたなら、今までの確かめ方で気づけなかった理由はある。
理由があっても、気づかなかった事実は変わらない。
トロールを通すと決めた範囲の中へ、知らないものまで入っていた。
ダンブルドアは菓子を机へ戻した。
「その二匹が、お主を知っている様子はあったか」
「僕の名前は呼んでいません。小さい人間だと、言っていましたね」
「魔法を見て、話が違うと?」
「ええ。何を聞いていたのかまでは、分かりません」
誰かから、何かを聞いていた。
言葉が示すところはあった。
だが、何者が何のために置いたかは、それだけでは決められない。
「この世界にいるはずがないと思っていました」
鬼太郎が言った。
「僕の知っているものが、なぜここへ来ているのか。調べたいですね」
ダンブルドアは頷いた。
その問いには、自分も答えを欲しかった。
◆
「消えた後、杖にも変化がありました」
鬼太郎は鞄から黒檀の杖を出した。
机へ置く。
「悪魔が残した力を、こちらが取り込んだようです。僕から、そうするように働かせたわけではありません」
ダンブルドアは杖を見た。
オリバンダーの店で、この少年を選んだものだった。
正体の分からない羽根を、芯に持つ。
「確かめても、よいか」
「はい。僕にも、何をしたのか分かりませんので」
ダンブルドアは杖を手に取った。
長く、硬く、重い。
外側に傷はない。
彼は向きを変え、魔力の反応を慎重に確かめた。
芯のある内側へ、目を向ける。
以前、この杖を通して少年の力が働くところを見ている。
そのときの手応えと、全く同じではなかった。
「一度、いつもどおりに灯してみなさい。強い光ではなく、普通の明るさで」
杖を返した。
鬼太郎が握り、ルーモスを唱える。
先に光が灯った。
ダンブルドアはその反応を見て、消してよいと告げた。
もう一度、杖を受け取る。
「……僅かじゃが、力が増しておる」
鬼太郎の目が上がった。
「杖の方が、ですか」
「うむ。大きな違いではない。以前を知らねば、見過ごす程度じゃ」
ダンブルドアは黒檀を机の上へ戻した。
「吸い込んだものが、ここへ残り、働いておるのかもしれん。ただ、どこでどう変わったのかまでは、分からん」
鬼太郎は杖を取った。
自分で見ただけでは、まだ普通に呪文が使えることしか確かめていなかった。
それより小さな変化を、目の前の相手は拾った。
「悪魔の力を、杖が使えるものにしたのでしょうか」
「今のところは、そういう可能性がある、とだけじゃな」
ダンブルドアは答えた。
「同じことがまた起きるかも、取り込めば必ず強くなるかも、まだ分からん」
鬼太郎は芯の位置へ目を向けた。
ただの道具ではない。
自分を選んだ理由にも、つながるのだろうか。
問いが、また増えた。
◆
「また悪魔が現れたら、わしにも知らせてほしい」
ダンブルドアが言った。
鬼太郎は杖から顔を上げた。
「今回のように気づかぬものを、そのままにはできん。城での確かめ方も、見直す必要がある」
「分かりました。こちらで見つけたものは、お伝えします」
鬼太郎は頷いた。
「そちらで分かったことも、教えていただけますか」
「全てを、そのままとは約束できん」
「では、僕が対処するために必要なところを。知らないまま出会うのは、困りますから」
ダンブルドアの眉が寄った。
「お主に対処を任せると言ったわけではないぞ」
「僕も、引き受けたとは言っていませんよ」
穏やかな返事が来た。
ダンブルドアは、しばらく少年を見た。
相手を探して退治する話ではない。
しかし、目の前へ出てきたとき、自分で動くところまでは手放さない。
その性質は、今夜も同じだった。
「生徒を危険から離すために必要なことは、伝える。お主からも、分かったことを隠さず聞かせてほしい」
「ええ。調べる方が増えるのは、助かります」
鬼太郎は答えた。
ダンブルドアは机の端へ紙を寄せ、聞いた場所を記した。
悪魔という名だけで、本にある闇の生物へ当てはめるわけにはいかない。
身体が消えた場所を確かめ、目撃した二人からも話を聞く。
次に現れるまで、同じ方法で見張っているだけでは足りなかった。
何を変えるべきかは、これから考えなければならない。
◆
面談を終えて、鬼太郎は椅子から立った。
杖を鞄へ収め、左腕に重さがかからないよう持ち直す。
「今日は、もう休みなさい」
ダンブルドアが言った。
「はい。キーノさんにも、そう言われそうですね」
鬼太郎が微笑む。
ダンブルドアも、小さく頷いた。
扉が閉まってから、机に残った記録へ目を落とす。
少年は危険だ。
だが、今も知ることを求めている。
そのためにここで学び、教師へ話しに来た。
キーノのいる学校で過ごすことと、強くなるために学ぶこと。その二つは、まだ同じ場所へ向いていた。
ここで教えられるものがあるうちに、教える。
こちらが知らないものは、知ろうとする。
ダンブルドアは、紙に書いた「二匹」のところへ指を置いた。
トロールについて返された軽口なら、まだ受け止められた。
その向こうを歩いていたものには、返す言葉さえ、まだなかった。