第114話 枕元の青灰色
鏡の中で、笑っていた自分が片手を上げた。
その先には、こちらへ迫る人影があった。人間もいる。角や翼を持つ、そうではないものもいた。
炎が走る。
鬼太郎は、杖を握ったまま目を細めた。
今のアギとは違っていた。避けた相手のすぐ後ろまで火が広がり、その隣の敵にも足を止めさせる。鏡の中の自分は、火の行く末を見届けずに動いていた。
別の手から、雷が放たれた。
向かってきたものが地面へ倒れる。その向こうへ逃れた敵にも光が続いた。
足元を覆う氷へ、一体が踏み込む。そこから冷気が走り、次の足を置く場所まで白く変えた。
敵が身を引いたところへ、風が抜ける。
薄い枝に切れ目をつける程度のものではなかった。逃れるはずの道を断たれた敵が、また、大人の自分の前へ出された。
鬼太郎はその手を見ていた。
身体が違う。
動きが違う。
放った後に残る力も、今の自分とは比べものにならない。
だが、相手が避けた先を見て、次を向けるときの顔には見覚えがあった。
楽しいのだ。
攻撃を防がれ、別の手を選ぶことさえ、笑う理由になっていた。
敵の足元へ、黒い影が広がる。
捉えられた者が、崩れるように倒れた。火傷も、凍った跡もなかった。
次には、白い光が降った。
受けた敵は、その場で動かなくなる。
鬼太郎は、息を細く吐いた。
火や雷で傷つけるのとは、違う。
そう分かったところで、鏡の中の左右へ、二つの姿が現れた。
一方が、敵の振り下ろしたものを受け止める。もう一方は、その陰から抜けて、空いたところへ入った。
大人の自分が身体をずらす。
二体も、同じ相手へ向き直った。
敵ではなかった。
鬼太郎は、一歩近づきかけた。
よく知っている動きだった。自分の攻撃が来る場所へは入らず、こちらが動けば、空いたところを埋める。
姿を見れば、分かる。
そのはずだった。
名前を呼ぼうとしても、何も出てこなかった。
鬼太郎は口を閉じ、二体の顔を順に見た。輪郭を、手足の形を、動くときの癖を覚えようとした。
その後ろにも、仲魔たちがいた。
自分の前へ出るもの。敵を横から追い込むもの。倒れた相手を越え、次の敵へ向かうもの。
一人で、戦っていたのではなかった。
大人の自分も、その者たちがいる方へは、ためらいなく背を向けていた。
その一体が、腕を失った。
鬼太郎の指が、黒檀の柄を握り直す。
鏡の中の自分が手を向けると、柔らかな光が傷へ集まった。血を止めるだけではない。失われた形が戻り、やがて指が一本ずつ動いた。
仲魔は腕を確かめ、再び敵へ向かった。
ディアでは、あそこまではできない。
鬼太郎がその動きを追っている間に、別の仲魔が倒れた。
今度は、起きない。
周りが動いても、その身体だけが取り残されていた。
大人の自分が、そちらを振り返る。
先ほどの治癒とは違う力が、倒れた身体へ注がれた。
動かなかった胸が、上下した。
目が開く。
仲魔が腕をつき、自分の足で立ち上がった。
鬼太郎は、息を止めていた。
失った腕を戻すことと、今見たものとは違う。
死んだ者を、呼び戻している。
鏡の中では、驚く者はいなかった。立ち上がった仲魔も、自分を戻した者の隣へ進み、また同じ方を向く。
大人の自分が片手を上げると、特に近くにいた二体が動いた。
ほかの仲魔たちも、道を空けていく。
残った敵が、こちらへ迫った。
炎でも、氷でもないものが集まっていた。
雷のように走るのでも、風のように抜けるのでもない。
大きな光が、戦場を覆った。
逃れようとした敵の姿まで、その中へ消える。
鬼太郎は目を細め、それでも見続けた。
光が引いた後、向こう側に立っている敵は、一体もいなかった。
二体の仲魔が戻ってくる。
ほかの者たちも集まる。
その中で、自分が笑っていた。
鬼太郎は、ゆっくり息を吐いた。
知っている。
そう思う断片は、幾つもあった。
けれど、今見た戦いの全てを、いつ、どこで経験したのかは分からなかった。映っているからといって、そのまま思い出だと決められるものでもない。
火を放つ直前の手を見ても、そこへどれだけの力を、どう集めたのかは掴めなかった。
働きは見えた。
呼び方も、使い方も、戻ってはいない。
鬼太郎は、鏡へ伸びかけた左手を下ろした。
右手には、今の自分の杖があった。
この細い腕で、空の樽を揺らさず運ぶにも、まだ時間が要る。相手を見失えば、残った力を使う場所さえなくなる。
それは、あの姿を見ても変わらなかった。
だが、今は、杖の呪文も学べる。
浮かせたものの形を変えられたとき、自分が困った理由も知っている。前の力に、そのような手を加えることもできるだろう。
鬼太郎は口元を緩めた。
同じところへ戻るだけで、終える必要はなかった。
「何が見えた?」
隣から、ハリーが尋ねた。
鬼太郎は顔を向けた。教室の寒さが、頬へ戻ってきた。
「大人になった僕が、戦っていました」
「戦ってる?」
「ええ。今より、ずっと強くなっていました」
場所を空けると、ハリーはすぐに前へ戻った。
その顔から、張りつめていたものが消える。
鬼太郎には、ハリーの後ろに誰も見えなかった。
眼鏡の少年が、自分の肩へ手をやっている。
何もないところへ、指を重ねた。
そのとき、背後から声がした。
「二人とも、今夜は眠れぬようじゃな」
◆
ハリーは振り返った。
ダンブルドアが、扉に近いところにいた。
いつ入ってきたのか、分からなかった。
「先生……」
床へ置いたマントを見る。今から被っても遅い。
鬼太郎も校長へ身体を向けていた。その杖は、床の方へ下がっている。
ダンブルドアは、すぐには叱らなかった。
「見つけてから、何度も来ておったの」
「はい」
「今夜は、鬼太郎も一緒か」
「ロンさんから、ハリーさんの様子を伺いました。呪いの品かもしれないと思いまして」
鬼太郎が答えた。
「ご本人に伺って、連れてきていただきました」
校長は二人を見てから、壁際の椅子を引いた。
「では、何を見つけたか、話そう。ハリー、少しこちらを向いてくれるかの」
ハリーは、鏡から離れた。
椅子へ座ると、足先が冷えていることに気づいた。
「これは、みぞの鏡じゃ」
ダンブルドアが言った。
「何を映すか、考えてみたかね」
「僕には家族が見えました。でも、ロンには見えなかったんです。鬼太郎にも」
「ロンには、何が見えたのじゃ」
「首席になった自分が。クィディッチの主将にもなって、カップを持っていたって」
ハリーは、膝の上で手を重ねた。
「未来かもしれないって言ってました。でも、それなら、僕には……」
「うむ。未来を示すものではない」
ダンブルドアの声は、静かだった。
「この鏡が映すのは、見る者が心の奥で強く望んでおるものじゃ」
ハリーは鏡へ目を戻しかけた。
「僕が、そう思ってるから?」
「ハリーは、ご両親と共にいたいのじゃろう。ロンは、兄たちに隠れず、自分が優れた者として認められたいのかもしれぬ」
ハリーは、鏡の前のロンを思い出した。
兄たちがいないと言ったとき、嬉しそうだった。
同じ鏡に、自分とは違う人が立っていた。
「では、映った姿になると、決まったわけでもないんですね」
鬼太郎が尋ねた。
「そうじゃ。見続けたからといって、そこへ至る力が与えられるわけでもない」
鬼太郎は膝元の黒い杖を見てから、鞄へ収めた。
ハリーは、重ねた指へ力を込めた。
「でも、母さんと父さんは、僕を見てました」
言うと、胸が苦しくなった。
鏡のことを教えてほしかったはずなのに、その先を聞きたくなかった。
ダンブルドアは、ハリーが顔を上げるまで待っていた。
「そうじゃろうな。だからこそ、離れがたくなる」
ハリーは何も言えなかった。
「その前で時を失い、映るものに囚われた者もおる。見ている間に、ほかの暮らしへ戻れなくなってしまうのじゃ」
昼間のチェス盤が浮かんだ。
ロンの声は覚えている。母親がここで自分を待っているかもしれないと思いながら、駒を動かしていた。
「今、共に話し、心配してくれる友達もおる。その時間まで、鏡の前へ置いてきてはいけない」
ハリーは隣を見た。
鬼太郎は鏡へ戻らず、校長の話を聞いていた。
ロンに頼まれたと言っていた。それでも、自分が嫌がると思って、先に話をしに来た。
ハリーは唇を結んだ。
「鏡は、別の場所へ移す」
ダンブルドアが言った。
「もう、この部屋へ通ってはいけない。移した先を探すこともせぬように」
ハリーの指が動いた。
なくなってしまう。
あの前へ立つことさえ、できなくなる。
けれど、もう一晩だけと言えば、明日も、同じことを言う気がした。
長い間を置いて、ハリーは頷いた。
「……はい」
ダンブルドアは、その返事を聞いてから、鬼太郎へ目を向けた。
◆
「君には、どのような姿が見えたのじゃ」
鬼太郎は、鏡の方を一度見た。
今は正面に立っていない。仲魔も、大人の自分も、見えなかった。
「今よりずっと強くなった僕が、戦っていました」
「また、見たいとは思わぬかね」
「確かめたいところはあります。ただ、見ている間は、僕自身が練習できませんから」
鬼太郎は右手を開いた。
鏡の中の手より、小さかった。
「今の自分が、弱く見えはせんかったか」
「ええ。ずいぶん、離れていました」
そう答えても、悔しさで声が詰まることはなかった。
「でも、まだ教わることがあります。今使える呪文にも、直していただくところは残っていますし」
低い杖先から、そのまま手を狙われた。
浮かせた樽で、自分の目を塞がれた。
分かったことを、次に動けるものにするだけでも、明日にはやることがある。
「あれより、強くなるつもりです」
ダンブルドアの目が、僅かに細くなった。
鬼太郎は、映った相手については言わなかった。
自分と並んだ二体のことも、傷を戻し、倒れた仲魔を起こしたことも。
話せば、どうしてそれを知っているかという問いへ続く。
今、そこまで話すつもりはなかった。
「では、明日の自分に、その続きをさせねばならぬな」
「はい」
鬼太郎が答えた後、ハリーが顔を上げた。
「先生には、何が見えるんですか」
ダンブルドアは少し眉を上げた。
それから、口元を緩める。
「厚い毛糸の靴下を持った、わし自身じゃよ」
「靴下?」
「いくらあっても困らぬのに、皆、わしには本ばかりくれるのでな」
鬼太郎は、鞄に入れた青灰色の毛糸を思い出した。
「先生も、足先が冷えるんですね」
「もちろんじゃ。長生きしても、そこは同じじゃよ」
ハリーが、小さく笑った。
だが、すぐには次の言葉を出さなかった。校長の顔を見た後、もう一度尋ねる代わりに、膝へ目を落とす。
鬼太郎も、靴下の話を続けなかった。
自分が答えなかったことと同じように、校長にも、話すものを選ぶ理由があるのだろう。
ダンブルドアが立ち上がった。
「さて。二人とも、今夜はよく眠りなさい」
◆
ハリーは床からマントを拾った。
広げてから、鏡へ顔を向ける。
もう一度、前へ立てば会える。
身体がそちらへ傾きかけた。
扉の近くで、鬼太郎が待っていた。急げとは言わず、こちらを見ている。
ハリーは、布を抱え直した。
「おやすみなさい、先生」
「おやすみ、ハリー」
教室を出ると、冷たい空気が頬へ触れた。
マントを被り、鬼太郎が隣へ入るのを待つ。来たときと同じように、足を揃えて歩き始めた。
角を二つ曲がるまで、どちらも話さなかった。
「ロンに、心配かけたね」
ハリーが言った。
「戻ったら、ハリーさんからも話していただけますか」
「うん」
足元の段差を越える。
行きには早く着きたかった階段が、帰りには、ずいぶん長く感じた。
「僕、まだ見に行きたいと思ってる」
鬼太郎は、すぐには答えなかった。
曲がり角で止まり、先へ耳を澄ませる。それから、ハリーへ顔を寄せた。
「ですが、今は帰っていますね」
ハリーは、隣を見た。
布の内側で、黒い髪が僅かに揺れた。
「……うん」
鏡の部屋への道は、分かっている。
それでも、次の角では、寮へ向かう方へ曲がった。
寝室へ戻ると、ロンが毛布から顔を出した。
「遅かったな」
「ダンブルドア先生がいたんだ」
ロンが起き上がる。
ハリーは寝台へ座り、校長から聞いたことを話した。望みを映す鏡で、未来を示すわけではないこと。もう別の場所へ移してしまうこと。
ロンは最後まで聞き、息を吐いた。
「それなら、よかった」
言ってから、ハリーの顔を見る。
「いや、お前には、よくないかもしれないけど」
「分かるよ」
ハリーは、マントの端を揃えた。
「心配かけて、ごめん」
ロンは口を開きかけ、やめた。
「明日は、チェスできる?」
「うん」
ハリーは答え、畳んだマントをしまった。
父親が使ったものだった。
この布まで、なくなるわけではなかった。
◆
鬼太郎は、自分の寝台で帳面を開いた。
炎と雷、氷、風。
黒い影と、白い光。欠けた身体を戻す力。死んだ仲魔を呼び戻す力。最後に敵を覆った大きな光。
見た順に、働きを短く書いた。
名前の欄は、空けておく。
近くで戦っていた二体の姿も、簡単な線で描いた。描き切れないところを、知っている別の形で埋めることはしなかった。
ペンを止め、自分の左手を見る。
鏡の手の形は覚えていた。だが、指を同じように曲げれば使えるものではない。力が集まる感覚さえ、見ていた間には戻らなかった。
鬼太郎は、手を膝へ戻した。
あれが全て、過去にあったことなのかも、まだ分からない。
望むものが映ると聞いた後では、なおさらだった。
次の頁には、校長との手合わせの図がある。
樽のあった場所。板の向き。氷で通れなくなったところ。
こちらは、自分で確かめたものだった。
鬼太郎は、その下へ一行を足した。
浮かせる物を見る時間を短くする。動かされたら、先に足を出せる道を残す。
どれだけ強い炎があっても、向ける先を失えば同じだ。
ペンを置き、帳面を閉じる。
枕元には、青灰色のマフラーがあった。
寝台を離れずに届くところへ、柔らかな毛糸が畳まれている。向こうでは、ロンがもう横になり、ハリーが毛布を引き上げていた。
キーノの本には、今夜も銀色の星が挟まっているだろう。
鬼太郎は、マフラーを少し寄せて杖を置いた。
「おやすみなさい」
ロンの返事があった。
少し遅れて、ハリーも答えた。
灯りが消える。
明日は、まず眠った身体を起こし、この手へ杖を持つ。
鬼太郎は毛布へ入り、目を閉じた。
第7章「鏡には映らない日々」完