第百十五話 澄ました声も、空にほどける
試合の前日、談話室では、宿題よりも明日の話をしている者が多かった。
誰が何点取るか。スリザリンの選手が、どんな反則をするか。
暖炉のそばを通った上級生がハリーの肩を叩き、別の生徒が、期待しているぞと声を掛けていった。
ハリーはそのたびに顔を上げ、頷いた。
膝の上の本は、同じ頁が開いたままだった。
「明日は、何時からでしたか」
鬼太郎が尋ねると、ロンが椅子の背から身体を起こした。
「十一時。早く行かないと、いい席がなくなるよ」
「選手は、全員が同じ球を追うんですか」
ロンが口を開けた。
「……君、ルールも知らないの?」
「ええ。箒に乗って行う競技、ということくらいですね」
鬼太郎は素直に答えた。
ロンの顎が、少し上がった。
「それじゃ、見ても分からないじゃないか。僕が教えるよ」
空いていた羊皮紙を引き寄せ、羽根ペンを取る。
いつも教科書を説明されるときより、ずっと手際がよかった。
「一チーム七人。チェイサーが三人、ビーターが二人、キーパーとシーカーが一人ずつ。ハリーはシーカーだ」
「それぞれ、役割が違うんですね」
「もちろん。まず、クアッフル。赤い球で、チェイサーがこれを相手のゴールに投げ込む。一回で十点。ゴールは三つあるから、キーパーが守るんだ」
ロンは紙へ輪を三つ描いた。
丸の大きさが揃っていなかったが、説明する本人は気にしない。
「ビーターは、ブラッジャーから味方を守る。黒い球が二つあって、選手を箒から叩き落とそうとするんだ。バットで打ち返す。フレッドとジョージは、それをやる」
「球が、自分で襲ってくるのか」
隣で聞いていたキーノが顔を寄せた。
「そう。だから、ぼんやり飛んでたら危ないよ」
ロンは彼女にも紙を向けた。
「それで、ハリーが追うのはスニッチ。小さな金の球で、羽がついてる。捕まえると百五十点。それで試合が終わる」
鬼太郎は、紙の輪からハリーへ目を移した。
「十五回、ゴールへ入れた分ですか」
「そういうこと」
ロンが頷く。
鬼太郎は少し考えた。
「でしたら、かなりの差がつくまでは、ハリーさんが捕まえれば勝てるんですね」
「だから、シーカーはすごく大事なんだ」
「皆さんで球を運ぶより、そちらを捕まえる方に、人を増やしたくなりますね」
「スニッチを捕まえていいのは、シーカーだけだよ」
ロンはすぐに答え、紙の端に小さな丸を描き足した。
「それに、そんなに簡単じゃない。速いし、見つけるだけでも大変なんだ。何日も終わらない試合だってあるんだから」
「何日も?」
キーノが眉を寄せる。
「帰れないのか」
「明日の試合がそうなるって言ってるんじゃないよ。とにかく、ほかの選手がいらないわけじゃないんだ。先に点を取られすぎたら、捕まえても負けるし、ブラッジャーにやられたら、探すどころじゃないだろ?」
説明する声が弾んでいた。
ハーマイオニーが本から目を上げる。
「ロン、そんなに紙を引っ張らないで。インクが倒れるわ」
「分かってるよ。今、大事なところなんだ」
言いながら、インク瓶だけは遠ざけた。
鬼太郎は、ロンが書き足した選手の位置へ目を落とした。
飛びながら球を運び、別の球を避ける。仲間を守り、相手の進路を妨げ、その間に小さな球を見つける。
得点の比重には偏りがあるが、ただ一人が速ければ済むものでもなさそうだった。
「なるほど。実際の動きを見ると、分かりそうですね」
「そうさ。明日、僕の隣に座りなよ。見逃したら教えてあげる」
ロンが胸を張った。
キーノが鬼太郎の顔を見て、口の端を上げる。
「よかったな。先生が見つかったぞ」
「ええ。頼りにしていますよ、ロンさん」
ロンは、もう一度ペンを取った。
好きな競技の話は、まだ終わりそうになかった。
◆
寝室へ戻っても、ハリーには談話室の声が残っていた。
期待している。
スリザリンに勝ってくれ。
顔を知らなかった上級生まで、今日は名前を呼んだ。
四柱式のベッドへ腰を下ろし、箒を見た。
ニンバス二〇〇〇は、練習のときと変わらずそこにある。
乗れば、どちらへ動かしたいかが分かった。スピードが上がるほど、考えるより先に身体が動くこともあった。
だが明日は、練習ではない。
全校の前で、失敗するかもしれない。
「ハリー、まだ起きてる?」
着替えを終えたロンが、ベッドの柱から顔を出した。
「うん」
「ウッドが選んだんだから、大丈夫だよ」
「マクゴナガル先生が、先に決めたんだ」
「じゃあ、先生とウッドの二人だ。なおさらだろ」
ロンはそう言って、自分のベッドへ戻った。
ハリーは少し笑った。
灯りが落ち、カーテンを閉じる。
目を閉じても、明日の観客席が浮かんできた。
大勢の顔を一つずつ想像しかけて、やめた。
ウッドに教わったとおり、高い場所から探す。
見つけたら、追う。
ハリーは、布団の中で指を握った。
箒の柄を握るときのように、力を入れすぎないよう、少し緩めた。
◆
翌朝、大広間へ入ると、ハリーのために席が空けられた。
食卓にはいつもの料理が並んでいたが、皿へ取った卵はなかなか減らなかった。
「少しは食べた方がいいわ」
ハーマイオニーが言った。
「分かってる。でも、あまり入らないんだ」
「スニッチを探す途中で、お腹が鳴ったら困るだろ」
ロンがトーストを寄せた。
ハリーは一口かじった。
鬼太郎は、皿を見てから彼の顔へ目を向けた。
「初めての授業で飛んだときも、最初から上手でしたよ。あのときは、試合のために練習していたわけでもありませんでしたね」
「ネビルの思い出し玉を取ろうとしただけだよ」
「ええ。今日は、追うものも決まっています」
ハリーはトーストを飲み込んだ。
向かいで、キーノがカップを置く。
「応援はする。だから、観客席ばかり見て落ちるなよ」
「そんなこと、しないって」
答えたときには、少し声が戻っていた。
やがてウッドが迎えに来た。
ハリーは立ち、箒を持ち直した。
「じゃあ、後で」
「頑張れよ!」
ロンが言った。
ハリーが選手たちと大広間を出るまで、周りの生徒は次々に声を掛けた。
鬼太郎は最後の一口を食べ、ナイフを置いた。
窓の外には、雲の少ない空が広がっていた。
◆
競技場へ続く道は、色とりどりのマフラーで埋まっていた。
冷たい風に押され、ローブの裾が脚へまとわりつく。
観客席へ上がる階段を登ると、城で見下ろす庭とは違う広さが目の前に開けた。
芝の競技場を囲んで、高い席が並んでいる。両端には、輪を載せた柱が三本ずつ立っていた。
キーノが手すりへ近づき、下を覗く。
「ずいぶん高いな」
「選手は、この高さも飛ぶんですね」
鬼太郎は、反対側の席まで目を走らせた。
空を動く相手を、遮るものなく見られる。
同時に、自分たちの席から競技場へ下りるには、長い階段を戻らなければならなかった。
「早く座ろうよ」
ロンが空いている列を指した。
ネビル、シェーマス、ディーンも近くへ集まり、ハーマイオニーはキーノの隣へ腰を下ろした。
鬼太郎が座ると、斜め前に実況のための場所が見えた。
そこで羊皮紙を広げている生徒の隣に、ミネルバが立っている。
「ジョーダン。実況を任せたのは、あなたの個人的な意見を学校中へ聞かせるためではありません」
よく通る声が、風の合間に届いた。
「分かってます、先生」
「両チームのプレーを公平に伝えなさい。選手を侮辱したら、すぐに交代させます」
「まだ何も言ってませんよ」
「先に言っておく必要があるのです」
ミネルバはきっぱり告げ、席へ着いた。
背筋は伸び、組んだ指は膝の上に置かれている。
鬼太郎は、その姿を見てからロンへ尋ねた。
「寮の先生でも、試合では公平に見るんですね」
ロンは彼を見た。
少し迷ったように口を動かし、それから競技場へ顔を戻す。
「……始まれば、分かるよ」
選手の名が呼ばれた。
赤い試合着の一団が姿を見せると、ロンが立ち上がった。
鬼太郎も目を向ける。
ウッドのそばにいるハリーは、箒をしっかり握っていた。
歓声の中で、大きな手が背後から振られた。
「間に合ったな」
ハグリッドだった。
人を押さないよう身体を横へ向け、後ろの広い場所へ収まる。
「ハリーは、もう出とるか?」
「あそこだよ。ウッドの隣!」
ロンが示すと、ハグリッドは嬉しそうに頷いた。
緑の試合着も競技場へ入った。
歓声と野次がぶつかり、ジョーダンの声がその上を渡る。
ミネルバは、まだ座っていた。
◆
笛が鳴った。
選手たちが一斉に地面を離れる。
赤と緑が空へ散り、投げ上げられたクアッフルへ伸びた手の中から、一人が球を奪って抜け出した。
「グリフィンドール、ジョンソンがクアッフルを取った!」
ジョーダンの声に、ロンが拳を振った。
アンジェリーナ・ジョンソンは前へ進みかけ、緑の選手が寄せると、身体を傾けて横へ球を投げた。
受け取った赤い選手が、さらに高く上がる。
「行け! そのまま突っ込め!」
ミネルバが立っていた。
鬼太郎は、そちらへ顔を向けた。
膝の上に組まれていた手は、今、手すりを掴んでいる。
「何をもたもたしてるんだい! 左が空いてるだろう!」
キーノが、ハーマイオニーの袖を引いた。
「今、叫んだの、先生か?」
「……そうね」
ハーマイオニーも目を丸くしていた。
クアッフルが、もう一度アンジェリーナへ渡った。
彼女は輪へ向かって腕を振る。
赤い球が通り抜けた。
観客席が跳ねた。
「グリフィンドール、先制!」
「よし! いいぞ、ジョンソン!」
ミネルバの声も、その中に混じっていた。
鬼太郎はロンへ顔を寄せた。
「先ほど、公平に、とおっしゃっていましたね」
「実況には、そう言うんだよ!」
ロンは笑いながら答えた。
試合はすぐに動いた。
緑の選手がクアッフルを運び、追ってきた赤い選手の前で急に速度を落とす。後ろの仲間へ球を渡し、その選手がウッドの守る輪へ突っ込んだ。
ウッドが横へ飛ぶ。
球は、伸ばした指の先を抜けた。
「スリザリンも得点、これで同――いてっ!」
乾いた音がした。
ミネルバの手が、ジョーダンの背中から離れる。
「何やってるんだい! そんな球、止められるだろうが!」
「先生、僕は飛んでません!」
「分かってます! ちゃんと実況なさい!」
「今、してたんですけど!」
ジョーダンは肩を引き、少し距離を取った。
ミネルバは競技場を睨んでいる。
鬼太郎の口元に笑みが浮かんだ。
「なるほど」
「何が分かったんだ」
キーノが尋ねた。
「始まるまで待つ必要があった理由です」
キーノはもう一度ミネルバを見て、吹き出した。
◆
鬼太郎は、球を追う選手から、少し高い位置にいるハリーへ視線を移した。
赤い試合着の小さな身体は、クアッフルへ寄っていかない。
周りを見ながら飛び、選手の集まる場所から距離を取っている。
黒い球が向かうと、ハリーは振り返ってから避けるのではなく、箒を傾けて高度を変えた。
そのすぐ後を、ブラッジャーが抜けた。
別の赤い選手が追いつき、バットを振る。
強く打たれた球が、緑の選手へ向かって飛んでいった。
「今のは、フレッド!」
ロンが教える。
「ハリーさんも、よく見えていますね」
「だろ? あのブラッジャーが当たったら大変だよ」
鬼太郎は頷いた。
飛んで逃げられるからといって、安全な距離があるわけではない。
上下にも相手がいて、球は背後から来る。
ハリーは小柄な身体を箒へ寄せ、速さを保ちながら空を見ていた。
地面に立って杖を向け合った夜とは、動きがまるで違う。
鬼太郎は手すりへ肘を置かず、少し身を乗り出した。
金色の光が、競技場の端を横切った。
ハリーが動く。
緑の試合着の一人も、同じ方向へ箒を向けた。
「見つけたのか!」
ロンが叫んだ。
ハリーの箒が速くなる。
その進路へ、大柄な緑の選手が割って入った。
肩がぶつかった。
ハリーの身体が横へ流れ、箒の先が大きく逸れる。
「おい! 今のはフリントが、わざと――」
「何してやがるんだ、あの馬鹿!」
ジョーダンより先に、ミネルバが怒鳴った。
キーノの笑いが止まり、口が開いた。
「あんな言い方、するのか……」
ミネルバは聞いていない。
「笛を吹きなさい! 球も見ずに突っ込んだだろうが!」
フーチが笛を鳴らした。
観客席から怒号が上がる。
ジョーダンが反則を伝え、グリフィンドールへのペナルティーを告げる。
ハリーは姿勢を立て直していた。
箒を握る手も離れていない。
ただ、金の光はもう見えなかった。
「避けると、球を見失う。無理をすると、落とされる」
鬼太郎が呟いた。
ロンは競技場を見たまま言った。
「あいつ、いつもああなんだ。だから、スリザリンは――」
その先は、歓声に消えた。
赤い球が、スリザリンの輪を通った。
ミネルバが両手を叩いた。
「そうだよ! 取られた分は取り返せ!」
ジョーダンも声を張った。
数分後、スリザリンが球を奪い返した。
ウッドが一度は弾いたが、こぼれた球を緑の選手が拾い、別の輪へ投げ込む。
「スリザリン、追加点――あ痛っ!」
今度は肩だった。
ジョーダンが身体を縮める。
「だから、後ろを見ろと言ってるんだい!」
「ウッドに言ってくださいよ、先生!」
「ウッド! 後ろを見なさい!」
ミネルバは素直に叫び直した。
ロンが腹を抱えた。
ハーマイオニーまで口を手で押さえている。
ジョーダンはミネルバの手の届かない位置へ、椅子を少し引いた。
だが、次にスリザリンが得点すると、ミネルバは立ち上がり、実況台へ身を乗り出した。
逃げたはずの背中へ、また手が飛ぶ。
「いい加減にしろ! そんな好きに通すんじゃないよ!」
「僕まで叩かなくても、点は戻りませんって!」
「ジョーダン、私語を慎みなさい!」
「先生の手が、こっちへ来るんです!」
鬼太郎も笑った。
授業で見た猫のような静けさは、もう欠片もなかった。
キーノが、楽しそうに競技場と実況台を交互に見る。
「どっちを見ればいいんだ、これ」
「ハリーさんを見てあげてください。先生は、声でも分かりますから」
鬼太郎が答えたとき、ミネルバがまた何かを怒鳴った。
その言葉に、前の列の上級生が一斉に笑った。
◆
風が、ハリーの耳元を抜けていた。
ぶつけられた肩はまだ痛んだが、腕は動く。
スニッチが消えた場所へ戻ってみても、金色の球は見つからなかった。
下では、クアッフルを追って選手が飛び交っている。
フレッドかジョージのバットが鳴った。
ハリーは高度を上げ、もう一度、競技場を見渡した。
箒の柄が、小さく震えた。
最初は、風だと思った。
握り直し、穂の向きを確かめようとすると、柄が突然跳ね上がった。
身体が後ろへ引かれる。
ハリーは腹へ力を入れ、前へ戻した。
「何だよ……」
ニンバスが、また震えた。
右へ向けようとしても、動かない。
下へ行こうとしても、逆に高く上がる。
ハリーは柄を強く掴んだ。
箒が、身体の下で暴れた。
◆
鬼太郎は、ハリーが一度跳ねたところで、笑うのをやめた。
今、そばに選手はいない。
ブラッジャーも、離れた場所にある。
ハリーは箒へ身体を寄せようとしていたが、柄の先は、彼の肩の動きと合わずに上下していた。
「ロンさん。あれは、どういう動きですか」
ロンが顔を上げた。
「え?」
「ハリーさんの箒です」
もう一度、柄が跳ねた。
今度は周りの生徒も気づいた。
応援の声が途切れ、誰かが、どうしたんだと叫ぶ。
「ハリー?」
ロンが立った。
ハリーの箒が、左右へ激しく振れた。
「あんな飛び方、しないよ。あいつ……」
鬼太郎は、競技場を横切るフーチへ目を移した。
ミネルバも、空を見上げていた。
「マクゴナガル先生!」
鬼太郎が呼ぶと、彼女はすでに杖を出していた。
ジョーダンへの手も、止まっている。
「下がっていなさい!」
鋭く命じる声には、さっきまでの熱狂が消えていた。
ハグリッドが双眼鏡を持ち上げる。
「おかしいぞ。あの箒が、あんな……」
キーノも立った。
ハーマイオニーが両手で手すりを掴んでいる。
鬼太郎はハリーまでの高さを見た。
自分の浮遊術を、落ちてくる人間へこの距離で使ったことはない。
箒に乗って近づくこともできなかった。
手を伸ばすように杖を向けても、届くと決まったわけではない。
その間にも、ハリーは箒へしがみついていた。
赤い試合着が、柄の動きに振り回される。
一度、上がった。
次に、箒が強く身を捩った。
ハリーの脚が滑った。
身体が、柄の下へ落ちる。
観客席から悲鳴が上がった。
ハリーは、片手だけで箒にぶら下がっていた。
鬼太郎は黒檀の杖を抜き、もう一度、空を見上げた。
握り直そうとする小さな手の上で、箒はまだ暴れていた。