第百十六話 祝う声の底で、目が語る
ハリーの靴底が、何もない空を蹴った。
片手で掴んだ柄へ、もう片方の手を伸ばす。
指が触れた瞬間、箒が跳ねた。
身体が振られ、手が離れる。
「ハリー! 離すな!」
ロンが叫んだ。
聞こえているかは分からなかった。
ミネルバの杖先が、ハリーの箒を追っている。
柄が横へ向いた。
彼女が息を吸い、口を開きかける。
次の瞬間、箒が縦に跳ね上がった。ぶら下がるハリーの肩が、杖先の向いていた場所を横切る。
ミネルバは詠唱を止めた。
「動きが……」
低く呟き、杖の角度を変える。
箒を止めたいのだろうと、鬼太郎は思った。
だが、身体と柄が重なっては離れ、そのたびに狙いがずれる。止めるために放った呪文が、ハリーへ当たりかねなかった。
フーチが箒で近づいた。
ハリーの箒は、彼女の手が届くより先に高く上がる。
赤い試合着の二人も追いすがった。
一人が柄へ手を伸ばすと、暴れる穂が顔の前を薙ぎ、身を引かされる。
「フレッドとジョージだ」
ロンの声が掠れた。
鬼太郎は杖を握ったまま、ハリーの下にある芝を見た。
落ちる場所は、まだ定まらない。
浮遊術で助けるなら、手を離した後では遅いかもしれなかった。だが、今の距離で本人へ掛け、暴れる箒から安全に引き離せるかも分からない。
近くにいる教師でさえ、手を出せずにいる。
鬼太郎はミネルバの杖先へ目を戻した。
どの呪文を、どこへ使えば止められるのか。
それを知る者が、ほかにもいるはずだった。
◆
クィレルの身体を通して、ヴォルデモートは空を見ていた。
小さな手が、箒の柄を掴んでいる。
離れれば、それで終わる。
強く跳ねさせた柄が、また僅かに鈍った。
ヴォルデモートは、宿主の奥で呪文を継いだ。
声は低く、ターバンの布と競技場の騒ぎに紛れていた。
クィレル自身の口は動いていない。
命じられたとおりに座り、ハリーへ顔を向けているだけだった。
その隣にいるセブルス・スネイプの唇は、休まず動いていた。
こちらの呪いへ、別の力が重なる。
柄を跳ねさせれば抑えられ、振り払おうとすれば引き止められる。
弱い宿主に唱えさせているのではない。
それでも、今のヴォルデモートには、抵抗をまとめて踏み潰せるだけの身体がなかった。
スネイプを排除しようとすれば、ハリーへ向けた力を途切れさせることになる。
今は、あと一本の腕が離れればよかった。
ヴォルデモートは詠唱を続けた。
クィレルの指が、膝の上で固く組まれる。
宿主の顔にも、内にある殺意が滲んでいた。
◆
「貸して、ハグリッド!」
ハーマイオニーが双眼鏡を受け取った。
ハリーへ向け、次に、周りの席へ視線を走らせる。
鬼太郎は、その動きを横目で見た。
双眼鏡を止めた彼女の指が、強く縁を掴む。
「スネイプだわ」
ロンが振り向いた。
「何?」
「ハリーを見ながら、何か唱えてる。箒を呪ってるのよ!」
鬼太郎は、彼女が見ている先へ目を向けた。
実況台から少し離れた席に、スネイプがいた。
クィレルも、その隣に座っている。
周りの生徒が立ち上がっても、スネイプは席を離れず、空を見据えていた。
ハーマイオニーが双眼鏡をハグリッドへ返す。
「私、行ってくる」
「ハーマイオニー、待って」
ロンが手を伸ばす。
彼女はもう、列の間へ身体を入れていた。
「スネイプを止めなきゃ!」
立った生徒の後ろを抜け、通路を走っていく。
キーノが一歩追いかけ、混み合う列の端で止まった。
「あいつ、何をするつもりだ」
鬼太郎はスネイプを見ていた。
唇が動いている。
だが、唱えているというだけでは、その呪文が箒を暴れさせているか、止めようとしているかまでは分からなかった。
ミネルバの杖は救出のために向けられている。
スネイプにも、別の止め方があるかもしれない。
「ハグリッドさん。僕にも、貸していただけますか」
差し出された双眼鏡を受け取る。
レンズの向こうに、スネイプの顔が大きくなった。
眉間に深い皺が寄り、顎には力が入っている。
唇が忙しく動く間にも、目はハリーを追い続けていた。
箒が大きく跳ねると、その顔が一層険しくなる。
必死だった。
思うようにならないものを、どうにか食い止めようとしている。
鬼太郎は、双眼鏡を少し横へ動かした。
クィレルの顔が入った。
同じ場所を見ている。
しかし、その目は違った。
鬼太郎の指が、双眼鏡の縁で止まる。
あの目を、知っていた。
銃を向けてきた者にも、杖を振った者にも、同じものがあった。
相手が足を滑らせる。防護が間に合わない。逃げ道が塞がる。
そういう瞬間を、息を詰めて待っている目だった。
人が落ちそうになっているから、顔が強張ったのではない。
落ちるところを待っている。
クィレルの唇は動いていなかった。
それでも、ハリーへ向けられた殺意は見えた。
鬼太郎は双眼鏡を下ろした。
「どうだ? スネイプがやってるんだろ?」
ロンが尋ねた。
「唱えているのは、見えました」
「だったら――」
「何を唱えているかは、聞こえませんね」
鬼太郎は答え、もう一度、教師たちの席へ目を向けた。
ロンがもどかしそうに口を開く。
上空でまた悲鳴が上がり、彼はそちらへ顔を戻した。
キーノだけが、鬼太郎の視線を追った。
「お前、誰を見てる」
「クィレル先生です」
「あの先生が、どうした」
「気になる顔をしていまして」
声を落として答える。
クィレルは杖を振っていない。
それだけで、何もできないとは思わなかった。
鬼太郎自身も、杖を使わずに力を放てる。
ただ、それと同じことを、あの教師が行っているかは分からない。
鬼太郎は双眼鏡をハグリッドへ返した。
通路を進むハーマイオニーが、一度、人の背に隠れた。
◆
指が痛かった。
ハリーは、柄を握る手から目を離せなかった。
力を込めれば、身体を引き上げられるはずだった。
だが、肩を上げかけるたびに、箒が暴れる。
指の位置がずれる。
肘を曲げるだけでも、掌が柄を擦った。
誰かが名前を呼んだ。
振り向く余裕はなかった。
地面が、靴の下で遠くなったり、近くなったりした。
ハリーは歯を食いしばり、空いた手を伸ばした。
もう少し。
箒が跳ねる。
指先が柄の下を掠め、腕が空を切った。
そのとき、握っていた手が滑った。
ハリーは悲鳴を上げかけ、息を止めた。
残っている指へ、力を集める。
落ちたくなかった。
まだ、離せなかった。
◆
ハーマイオニーの髪が、教師たちの席の後ろに見えた。
腰を屈め、人の間を抜けている。
鬼太郎は、空と席を交互に見た。
フーチが再びハリーへ近づこうとしている。
ミネルバは杖先を動かしながら、進路を空けるよう選手へ叫んでいた。
ハーマイオニーが、座っている生徒の脚を避けた。
通路へ突き出ていたクィレルの身体に、肩がぶつかる。
ターバンが傾いた。
クィレルは椅子の端へ手をつきかけ、その手が滑って、低く身体を崩した。
隣の生徒が振り向く。
鬼太郎は、すぐにハリーを見た。
箒の大きな跳ね上がりが、止まっていた。
まだ揺れている。
だが、柄を掴むハリーの腕が、それまでと違って曲がった。
もう片方の手が、ようやく届く。
観客席の陰で、橙色の火が上がった。
スネイプが立った。
黒いローブの裾を掴み、火を叩く。
周囲の生徒が声を上げ、椅子から逃げるように離れた。
鬼太郎は二つの場所を見比べた。
クィレルが倒れた。
箒の動きが弱まった。
その後で、火が見えた。
間は短い。
立った生徒や、席の手すりで見えなかった動きもある。
それでも、鬼太郎が目にした順番は、そのまま残った。
キーノが手すりを叩いた。
「戻ったぞ!」
ハリーが柄へ胸を寄せ、片脚を掛けていた。
箒はもう、彼を振り払おうとはしていない。
◆
クィレルの額に、席の縁が当たった。
痛みと、床が目の前へ迫る感覚が、宿主を通してヴォルデモートへ流れ込む。
姿勢が崩れた一瞬、継いでいた呪文が切れた。
残った呪いへ、スネイプの反対呪文が働く。
箒を押さえつけていた力が失われた。
クィレルが肘をつき、身体を起こす。
隣で火が上がった。
スネイプが詠唱をやめ、立ち上がる。
再びハリーへ力を向ける前に、生徒たちが席から動き、クィレルの肩へぶつかった。
宿主の息が乱れる。
ヴォルデモートは、そこで呪文を継ぐのをやめた。
クィレルは額を押さえた。
何が起きたのか分からない教師の顔を作るまで、僅かに時間がかかった。
◆
ハリーは箒へ座り直した。
柄を両手で握る。
指は痛んだ。
肩にも、腕にも、身体を支え続けた重さが残っている。
下へ向けると、ニンバスは今度こそ従った。
少し高度を落とした。
フーチが近くへ来る。
「ポッター! 操縦できるか?」
「はい! もう、大丈夫です!」
ハリーは答えた。
自分の声が、思ったより大きく出た。
フレッドとジョージもそばへ来て、箒とハリーの顔を確かめる。
「本当にか?」
「うん」
ハリーは頷いた。
まだ、怖かった。
箒の柄から手を離せば、また暴れ出すような気がした。
だが、少し右へ傾けると、箒は滑らかに曲がった。
いつものニンバスだった。
観客席が目に入った。
赤いマフラーの間で、ロンが両腕を振っている。
ハリーは小さく頷き、競技場へ顔を戻した。
クアッフルを追う選手たちが、低い場所を横切る。
試合は、まだ終わっていない。
◆
ハーマイオニーが戻ってきたとき、ロンは彼女へ身体を向けた。
「やったじゃないか!」
彼女は息を切らし、手すりへ手をついた。
「スネイプのローブに、火をつけたの」
「見えたよ! それで止まったんだ!」
キーノが、彼女の袖を掴んで顔を覗いた。
「怪我は?」
「ないわ。大丈夫」
ハーマイオニーは、空にいるハリーを見上げた。
箒へ座り、ちゃんと飛んでいる。
彼女の肩から、ようやく力が抜けた。
鬼太郎は、教師たちの席を見た。
スネイプは火の消えた裾を離し、競技場を見上げていた。
クィレルも席へ戻っている。
額を押さえ、近くの生徒へ何かを答えていた。
殺意のあった目は、今は落ち着きなく動いていた。
「止められて、よかったですね」
鬼太郎が言うと、ハーマイオニーは頷いた。
「あのままだったら、ハリーが落ちてたわ」
「ええ」
鬼太郎は、杖を下げた。
何を使えば助けられたか、まだ答えはない。
呪文の種類も分からない。
ただ、見た顔まで分からなかったことにするつもりはなかった。
隣でキーノが、小さく尋ねる。
「さっきの先生か」
「後で、お話ししましょう」
鬼太郎は穏やかに答えた。
キーノは教師たちの席へ目を向けてから、ハリーへ視線を戻した。
疑っている相手の前で、話を広げる必要はなかった。
◆
ハリーは競技場の端へ向かった。
一度深く息を吸い、吐く。
手の痛みを忘れようとしても、柄を握れば思い出した。
それでも、空を見ることはできた。
赤と緑の選手。
黒いブラッジャー。
輪へ向かって飛んでいくクアッフル。
その下を、金の光が走った。
ハリーは箒を向けた。
光は芝のすぐ上を飛び、急に向きを変える。
ハリーも身体を傾けた。
緑の試合着が、視界の端から近づいた。
相手のシーカーだった。
ハリーは前へ身を伏せる。
ニンバスが速くなった。
風が眼鏡の縁を押し、試合着の袖を膨らませる。
芝が近い。
銀の羽が見えた。
ハリーは片手を伸ばした。
指が、届かない。
もう少しだけ、身体を前へ出す。
スニッチが上へ跳ねた。
ハリーも顔を上げた。
口元へ、硬いものがぶつかった。
息が詰まる。
驚いて柄を引き、箒の先が浮いた。
身体の方は、前へ進んだ。
ハリーは芝へ落ち、肩から転がった。
土と草の匂いがした。
咳が出た。
口の中で、何かが動いている。
ハリーは身体を起こし、口へ手を当てた。
また咳をする。
金色の小さな球が、掌へ転がり出た。
銀の羽が、指の間で震えていた。
◆
「落ちた!」
ロンが叫び、手すりへ乗り出した。
鬼太郎は、芝を転がったハリーが起き上がるのを見た。
そばへフーチが下りる。
ハリーは口へ手を当て、咳をしていた。
次に、その手が上がった。
指の間に、金の球が見える。
「スニッチだ!」
ロンの声が裏返った。
ジョーダンが身を乗り出す。
「ポッターが捕まえた! スニッチを――口で捕まえた!」
フーチが確かめ、笛を吹いた。
グリフィンドールの席から、声が爆発した。
ロンが跳び上がる。
ネビルとディーンが互いの肩を掴み、シェーマスは何度もハリーの名を叫んだ。
「勝った! 勝ったんだ!」
ハーマイオニーも立ち上がり、キーノの手を掴んだ。
キーノはつられて腕を上げ、それから、照れたように笑った。
ミネルバが実況台の横で、大きく息を吐いていた。
次の瞬間には、両手を叩いている。
「よくやった、ポッター!」
声が、競技場へ飛んだ。
ジョーダンが振り向きかけると、彼女の手がまた肩へ落ちた。
「ジョーダン! 勝ったんですよ!」
「分かってます! 今、そう言って――先生、痛いです!」
今度は喜びの手だった。
力の加減は、戻っていなかった。
鬼太郎は笑い、黒檀の杖を収めた。
競技場では、赤い試合着の選手たちがハリーへ集まっていた。
ウッドが箒を置き、ハリーの肩を抱く。
双子は二人とも笑っていた。
「口でも、いいんですね」
鬼太郎が言うと、ロンは勢いよく頷いた。
「捕まえたんだ! ちゃんと、ハリーが!」
「ええ。お見事です」
鬼太郎も、もう一度ハリーへ目を向けた。
暴れる箒にぶら下がっていた少年が、今は仲間に囲まれて笑っている。
握り続けた手は、きっと痛むだろう。
それでも、最後まで追った。
その飛行には、素直に拍手を送れた。
◆
帰りの階段は、上りよりも騒がしかった。
生徒たちは口々にハリーの飛び方を真似し、口で捕まえた瞬間を身振りで説明している。
ロンは数段下りるたびに振り向き、皆へ話しかけた。
鬼太郎はキーノの後ろを歩き、観客席を一度振り返った。
スネイプの必死な顔を思い出す。
その隣にあった、クィレルの目も。
どちらも、ハリーを見ていた。
だが、待っていた結末は同じには見えなかった。
あの殺意は、いつからあるのか。
箒へ何かをしたのか。それとも、別の者が仕掛けたものに、望む結末を見ていただけなのか。
確かめたいことができた。
「鬼太郎!」
下から、キーノが呼んだ。
「止まると、後ろが詰まるぞ」
「ええ。すぐに行きます」
鬼太郎は階段を下りた。
ロンの声が、また前から聞こえた。
皆と同じ速さで歩きながら、鬼太郎は、あの目を記憶に留めた。