第118話 血の頁
放課後、城を出たところで、キーノが競技場の方を見た。
「審判を見ていて、スニッチを見失ったら仕方がないな」
「ハリーはスニッチを探すでしょう。先生を見る人は、客席にもいます」
「お前もか」
「ええ」
鬼太郎は、昨夜の談話室で聞いた話を思い返した。次のクィディッチの試合では、スネイプが審判を務めるらしい。ロンは、ハリーを箒から落とすには都合がいいと言い、ハーマイオニーは、審判にもできることとできないことがあると言い返していた。
前の試合で、スネイプは客席にいた。
唇の動き。クィレルのいた位置。ハリーが落ちかけた時と、持ち直した時。
覚えているものはある。しかし、あの時スネイプが唱えていた呪文を、鬼太郎は知らなかった。
審判になれば、今度は別の場所にいる。それだけで見え方も変わる。
「ハリーには、ウッドの言う通り、早く捕ってもらいたいですね」
「そう都合よく出てくるものか、あれは」
「そこまでは僕にも」
競技場へ向かう道を離れ、二人は斜面を下った。
ハグリッドの小屋の煙突から、細い煙が上がっていた。
「聞くだけだぞ」
扉の前でキーノが言った。
「森の様子です」
「その次に、面白そうな相手はいないかと聞くなよ」
「そこまで僕の質問を決めなくても」
「決めておいた方がよさそうだからな」
鬼太郎が扉を叩くと、内側で大きな物音がした。続いて犬の声が一つして、扉が開いた。
「おお、お前さんたちか。入れ、ちょうど湯が沸いたところだ」
ハグリッドは大きな手で二人を招いた。
ファングは扉の方へ来かけ、鬼太郎を見ると足を止めた。そのままハグリッドの脚の後ろへ回る。
「どうした、ファング。取って食われるわけじゃあるまい」
鬼太郎は手を伸ばさず、空いている椅子へ座った。
卓上には革の手袋と、泥のついた紐があった。ハグリッドはそれを脇へ寄せ、二人の前に茶を置いた。
「学校の方はどうだ。キーノ、魔法は慣れてきたか?」
「浮かせることなら、前よりは」
「そりゃ結構だ」
「ただ、下ろす時に傾く。空の箱でも、角が先に机につくことがある」
キーノは茶碗の底を見てから、卓上へ置いた。
「底の片方だけを見ていると、反対側が下がるんです。全部を見ようとすると、今度は下ろす場所を見るのが遅れる」
「最初からうまくいくもんでもないさ。箱の中身が卵になる前に、空っぽでやっとけばいい」
ハグリッドは笑った。キーノも、少しだけ口元を緩めた。
鬼太郎は茶を一口飲んだ。
「最近、森の方はどうですか」
「森か?」
「雪が解けると、動物の通る場所も変わるでしょう。学校の近くでも、何か変わったことがあるのかと思って」
ハグリッドの笑みが薄くなった。
太い指が茶碗の取っ手を包んだまま止まる。
「……いい変わり方ばかりならいいんだがな」
鬼太郎は次の言葉を待った。
「ユニコーンがやられた」
キーノが顔を上げた。
「死んだんですか」
「ああ。傷を負ったのもいる。あいつらを傷つけるなんざ、まともな奴のすることじゃない」
ハグリッドの声が低くなった。
「逃げ足も速いし、森を知ってる。そう簡単につかまる生き物じゃないんだ。それを……」
「何に襲われたんです?」
「それが分かれば、俺だって黙っちゃいないさ」
ハグリッドは茶を飲まずに置いた。
「校長先生もご存じだ。俺も見て回ってる。それに今は、学校の仕事を手伝ってる奴もいるからな」
「他の先生ですか」
「先生じゃない。サーシェスって男だ。今年から来てる。森でユニコーンを守る仕事をな」
鬼太郎は取っ手から指を離さなかった。
隣で、キーノが茶碗を持ち直した。
「そうなんですか」
「ああ。だが、お前さんたちまで気にして森へ入るんじゃないぞ。何がいるか分からんってのは、いつも言ってるが、今はなおさらだ」
ハグリッドの目が二人を順に捉えた。
「ユニコーンに手を出す奴がいるんだ。見に行くような真似はするな」
「森の様子を伺いに来ただけです」
鬼太郎が答えると、キーノも頷いた。
「中へ入るつもりはありません」
「ならいい」
それでも、ハグリッドの眉間の皺は消えなかった。
鬼太郎は、相手の姿や足跡について続けて尋ねることをやめた。ハグリッドが知らないと答えた以上、質問を重ねても、彼の怒りを長引かせるだけだ。
代わりに、怪我をした動物を見つけたら誰に知らせればいいかを聞いた。
「俺に言ってくれ。近寄らんでいい。助けようとして踏まれでもしたら、そっちも怪我人になる」
「分かりました」
ハグリッドはようやく茶碗を持ち上げた。
帰り際、二人はもう一度、森に入らないよう念を押された。
ファングは最後まで、ハグリッドの脚の陰から出てこなかった。
◆
小屋から離れ、窓の見えないところまで上ってから、キーノが口を開いた。
「名前が出たな」
「ええ」
「サーシェスの怪我も、あの仕事か」
「かもしれません。ハグリッドは、怪我の話まではしていませんでした」
学校の近くの森で、ユニコーンを守る仕事をしている。
それは今、初めて聞いたことだった。
肩を動かす前の短い停止と、頬に残っていた傷。それが何を受けてできたのかは、まだ分からない。
「ユニコーンを襲うような相手なら、弱くはなさそうですが」
「そこから先を聞くなと言ったんだ」
「今のは、あなたに言ったんですよ」
「私に言えばいいというものでもない」
キーノは城への坂を上りながら、杖のある懐に手を触れた。
「売るためか。角や、毛を」
「あなたの杖にも、尾の毛が入っていましたね」
「ああ。だが、どれくらい高いかまでは知らん」
オリバンダーの店で聞いた説明と、森で一頭を襲うことの間には、二人とも知らないことが多かった。
毛だけが要るなら殺す必要があるのか。角を取れば助からないのか。傷ついたものがどんな状態で見つかったのか。
最後の問いの答えは、本にはない。
それでも、前の二つなら調べられる。
「夕食までは、まだありますね」
鬼太郎が言うと、キーノは頷いた。
◆
マダム・ピンスに案内された棚には、角のある生き物を集めた本も、魔法薬の材料を扱う本もあった。
「飼育の本なら、その下。材料を探しているなら、こちらよ。抜いた場所を忘れないように」
「ありがとうございます」
鬼太郎は厚い本を二冊選んだ。キーノは、薄い生き物の本を取った。
空いている机に向かい合って座り、それぞれ索引を開く。
先に頁を見つけたのはキーノだった。
「……金色?」
囁きが聞こえ、鬼太郎は目を上げた。
キーノが指した挿絵には、白い成獣の脇に、小さな金色の仔が描かれていた。
「生まれた時から白いのではないのか」
「何と書いてあります?」
「仔は金色。育つと銀色になり、成獣になると白くなる」
キーノは行を確かめ、もう一度絵を見た。
「白い馬を探せば見つかる、というものでもないんだな」
「小さいものまで含めるなら、そうなりますね」
角のある白い獣。頭の中にあった一枚の姿が、少し変わった。
キーノは次の行へ指を移した。
「北ヨーロッパの森に棲む。人には容易に近づかない……ハグリッドが、つかまえにくいと言ったわけだ」
鬼太郎は材料の本を開いた。
尾毛と角には別の項目があった。尾毛には杖の芯としての用途があり、魔法薬に使う材料としての記述もある。角の項目へ移ると、今度は粉末にしたものの扱いが書かれていた。
鬼太郎は、持ってきた紙に「尾毛」「角」と分けて書いた。
「同じユニコーンでも、何を使うかで違いますね。尾の毛を芯にする話と、角を粉にする話を一緒にすると、何のために狙うのかも曖昧になります」
「私の杖は、角ではなかった」
「ええ。尾毛です」
キーノは自分の杖を出さず、懐の上から軽く押さえた。
「この毛を取られた時も、そいつは死んだのか」
「この頁からは分かりません。毛が抜けても、それだけで死ぬわけではないでしょうけれど」
鬼太郎は本へ視線を戻した。
「だからといって、毛を狙った相手ではない、とも言えません。生きているものから安全に取るより、殺した方が楽だと考える者もいる」
「……そうか」
キーノは金色の仔の絵がある本を閉じずに、机の端へ寄せた。
鬼太郎が次の頁をめくると、本文より狭い幅で組まれた警告があった。
項目は、血だった。
銀青色。
瀕死の者の命をつなぎ留める。
その下を読み、鬼太郎の指が止まった。
「何だ」
キーノが身を寄せる。
鬼太郎は本を二人の間へ押した。
「ここを」
キーノの目が、指で示した行を追った。
命を救うために、無垢で無防備な獣を殺す。その血で生き延びた者は、唇に血が触れた時から呪われた生を送る。
「治るのでは、ないのか」
「死を遠ざける、と読む方が近そうです」
鬼太郎は前後の段落を確かめた。
失われた健康が戻るとも、病の原因が取り除かれるとも書かれていない。生きることはできる。しかし、それは元通りの体で暮らすという約束ではなかった。
さらに下には、その血に頼って命を保つ場合、一度の飲用だけで以後の生が保証されるわけではない、という注意があった。
次に必要となるまでの時間は、書かれていなかった。
「死んだ者は戻せないんですね」
鬼太郎が言った。
「まだ死んでいない者の、残りを延ばす」
キーノは血の項目の見出しへ目を戻した。
「そんなものを飲んで、呪いは怖くないのか」
「怖いでしょう」
「それでもか」
「呪われて生きるより、今ここで死ぬ方が怖ければ」
鬼太郎は自分の掌を見た。
傷を塞ぐことはできる。けれど、休まず動いた体を、傷のない朝の体へ戻すことはできない。サーシェスの肩の痛みを和らげた時にも、失ったものを全部返したわけではなかった。
まして、死ぬ寸前の者をつなぎ留めるという血を、治癒と同じものとして考えることはできない。
「僕が傷を治した後も、サーシェスさんには休む時間が必要でした。この血についても、生きているから元気に動ける、と決めない方がよさそうです」
キーノは黙って頷いた。
やがて、もう一度、呪いについての行を指した。
「ここには、どうなるかまでは書いていない」
「ええ。何が起きるか分からないまま、それでも飲むか決めることになります」
鬼太郎には、それを選ぶ者が想像できた。
目の前に延びる道が一本しかなければ、先に何があっても足を出す者はいる。出してから、次の道を探せばいい。
ただし、この血が与えるのは、探す時間までなのだろう。
「……賢者の石」
口にすると、キーノが目を上げた。
「石で作る薬なら、命を延ばせる」
「継続して飲めば、でしたね」
ハーマイオニーが開いた本を思い出す。フラメル。金への変成。そして、不老不死の薬。
「もし、石を欲しがっている者が、もう死にかけているとしたら」
鬼太郎は声を落とした。
「薬を作れるようになるまで、この血で待つことはできるかもしれません」
キーノは、閉じかけていた薄い本から手を離した。
「森にいる奴と、石を狙う奴が同じだと?」
「その場合なら、両方欲しがる理由はあります」
死を避けるための血と、その後も生きるための薬。
別々に聞いた二つの話が、一つの目的の下に置ける。
「それなら、一頭やられて終わりとは限りません。薬を手に入れられず、また血が必要になれば――」
「待て」
キーノが、紙の端を押さえた。
「ハグリッドは、血を飲まれたと言ったか」
鬼太郎は口を閉じた。
小屋で聞いた言葉を、順に思い返す。
「……言っていません」
「殺されたことと、傷ついたことは聞いた。だが、何を取られたかは聞いていない」
鬼太郎は、紙の「血」の横へ伸ばしかけていた線を止めた。
「そうですね。血が目的だったことから、まだ確かめられていませんでした」
紙の空いているところへ、「血を飲んだ場合」と書く。
その下に、石を欲しがる理由を書き足した。
キーノが紙を離した。
「角や毛を売るためかもしれん」
「ええ。本に、面白いことが書いてあると、そちらへ寄せたくなりますね」
「自分で言うな」
「言われたので、覚えておこうかと」
鬼太郎は、血の項目に挟んでいた指を抜いた。
紙には、ハグリッドから聞いたことを先に書いた。ユニコーンに被害が出ている。襲った相手は不明。学校側は対応している。
サーシェスの名前は書かなかった。
彼の仕事を知ったことと、彼から仕事の話を聞き出してよいことは、別だった。
「石の薬なら、この呪いも治せるのか」
キーノが尋ねた。
「それは、まだどちらの本でも読んでいません」
「命が延びても、呪いは残るかもしれない」
「そうです。薬を欲しがる理由は考えられても、飲めば全部解決するとは言えません」
キーノはしばらく本を見つめていた。
「それでも、今日死ぬのは避けられる」
「そう考える者はいるでしょうね」
窓から入る光が弱くなっていた。
鬼太郎は書き終えた紙を畳んだ。
石を狙う者が誰なのか。森にいるものが何なのか。
スネイプが呪文を唱えていたことも、クィレルについて自分が気にしていることも、この頁には答えがない。
顔色や態度を思い浮かべただけで、死にかけていると決めることもできなかった。
「サーシェスに、ハグリッドから聞いたと言うか?」
キーノの問いに、鬼太郎は首を横に振った。
「それで話せるようになる仕事ではないでしょう。僕たちが知ったと言えば、彼は知っていることの境目から説明し直すことになります」
「……言えないところを、また聞くことになるな」
「ええ。必要なら、向こうから話すと思います」
少なくとも、昨日そういう付き合い方を選んだばかりだった。
鬼太郎は材料の本を閉じ、貸し出しの可否を確かめるために持ち上げた。キーノは薄い本を、抜いてきた棚へ戻した。
戻ってきた時、その手は一度、懐の杖の上で止まった。
今度は何も言わなかった。
◆
借りた本は、二冊の教科書より重かった。
廊下へ出ると、夕食へ向かう生徒の声が聞こえた。キーノが隣を歩きながら言った。
「ハリーたちには、森へ行かないように言っておくか」
「被害が出ていることは、伝えてよいと思います。ハグリッドも、僕たちに口止めはしませんでしたから」
「サーシェスのことは」
「言いません」
キーノは頷いた。
「石の話も、血を飲んだと分かってからだな」
「今言えば、ロンはスネイプが飲んでいると思うかもしれませんね」
「あいつなら言う」
大広間の方から、食器の触れ合う音がした。
鬼太郎は本を抱え直した。
血を飲んでいる者が、本当にいるかどうかさえ分からない。
けれど、もしそうなら、石を手に入れるまで何年でも待てる相手ではない。
その一行を、畳んだ紙の裏に書き足したくなった。
鬼太郎は足を止めなかった。まず夕食を食べてから、本の別の項目を読む。血で生き延びた後について、もう少し記述があるかもしれない。
大広間の入口で、キーノがこちらを見た。
「本を読んで歩くなよ」
「まだ開いていませんよ」
「食べている間もだ」
鬼太郎は抱えていた本を少し下げ、空いている席を探した。