第百十七話 甘い杯にも、問いは沈まない
談話室の扉を開けると、ハリーの名前が聞こえた。
暖炉の前には、いつもより多くの椅子が寄せられている。卓には菓子の包みと飲み物が並び、赤と金のマフラーを外す前に、杯を取っている者もいた。
ハリーが入った途端、奥から声が上がった。
「今日のシーカーが来たぞ!」
誰かが杯を持ち上げる。
ハリーは入口で足を止め、次に、少し照れた顔で笑った。
ウッドが背中を押した。
「さあ、入れ。皆、待ってる」
フレッドとジョージが、彼の両側から続く。
「次も口で取るのか?」
「先に飲み込む練習をしといた方がいいな」
「飲み込んでないってば」
ハリーが答えると、周りが笑った。
ロンは、そのすぐ後ろで両手を広げた。
「本当に、すごかったんだ。スニッチがこんな高さを飛んでて、ハリーが、こう――」
「ウィーズリー。飛ぶなら、飲み物のない場所にしてくれ」
上級生が杯を避ける。
ロンは手を引いたが、話すのはやめなかった。
鬼太郎も、空いている杯を受け取った。
中には甘い果汁の匂いがした。
キーノが同じ卓から菓子を選び、ハーマイオニーへ包みを向ける。
「これ、食べるか」
「ありがとう。半分でいいわ」
二人が割って分けたところへ、また乾杯の声が来た。
グリフィンドールの勝利に。
ハリーの初試合に。
キーノも杯を上げた。
鬼太郎は、杯越しにハリーを見た。
空にぶら下がっていたときの顔とは違う。
肩を叩かれ、質問され、返事をする間にも、次の声が掛かっていた。
鬼太郎は一口飲んだ。
舌に残った甘さの向こうで、観客席にあった目を思い出した。
◆
キーノが窓際へ来たのは、ロンが三度目の捕球の説明を始めた頃だった。
鬼太郎は、卓の端に杯を置いていた。
窓の下には、少し暗くなった庭が見える。暖炉の前から離れると、笑い声も言葉の切れ目が曖昧になった。
キーノは隣の椅子へ座った。
「さっきの話」
鬼太郎が顔を向ける。
「クィレル先生のことですね」
「ああ。何が気になったんだ」
彼女は杯を両手で持った。
鬼太郎は暖炉の方を一度見てから、声を落とした。
「スネイプ先生は、何かを唱えていました。ただ、ハリーさんが落ちるのを待っている顔には見えませんでしたね」
「必死だったのか」
「ええ。どうにかしようとしているように見えました。その隣で、クィレル先生もハリーさんを見ていたんですが」
鬼太郎の指が、杯の縁をなぞった。
「あの目は、殺そうとしている者の目でした」
キーノが杯を下ろした。
大きな声は出さなかった。
「……そんなふうに、見てたのか」
「怯えている顔とも、落ちるのを心配している顔とも、違います。あのまま手が離れるのを、待っていました」
鬼太郎は窓へ目を向けた。
銃口の先で、相手が崩れる瞬間を待つ。
杖を振り終え、呪文が届くまで目を離さない。
依頼の中で何度も見た。
自分へ向けられたことも、誰かを狙う者の横顔に見つけたこともある。
鬼太郎自身が、そうやって相手を見たこともあった。
「何をしていたかまでは、分かりません。ただ、あれを恐怖で片づけるのは、無理がありますね」
キーノは彼の顔を見た。
「それなら、箒を呪ってたのは……」
「クィレル先生の方ではないかと、思っています」
鬼太郎は答えた。
「ハーマイオニーさんがぶつかって、先生が身体を崩した。その後で、箒の動きが弱まりました。スネイプ先生の服に火が見えたのは、僕が見た限りでは、その後です」
「でも、ハーマイオニーは、スネイプの呪文を止めたと思ってるぞ」
「ええ。僕も、何の呪文だったか聞き取れませんでした。全部の動きが見えていたわけでもありません」
鬼太郎は杯から手を離した。
「ただ、表情も、箒が変わった順番も、クィレル先生の方が気になります」
暖炉の前で、また笑い声が上がった。
キーノはそちらを振り返った。
ハーマイオニーはハリーの隣で、何かを話している。
「私たちの授業も、あの先生だ」
「そうですね」
「校長に言わないのか」
鬼太郎は、少し間を置いた。
「あの方は、もう何かご存じのような気がします」
「聞いたのか?」
「いいえ」
鬼太郎は首を振った。
「あれだけの力がある方ですから。学校で起きていることを、何も知らずに見過ごしているとは、思いにくいんです」
校長室で向けられた、穏やかな顔を思い出す。
トロールが歩いた学校にも、ダンブルドアはいた。
どうして教師が間に合わなかったのかと尋ねたとき、何もかも単純な見落としだったとは答えなかった。
学校側で確かめることもある。
あの返事は、残っている。
だからといって、今日の箒について何を知っているかまで、分かるわけではない。
「校長にも、考えていることがありそうです。何を待っているかは、知りませんが」
「知ってるなら、安全だってことにはならないだろ」
キーノが言った。
「今日、ハリーは落ちかけたぞ」
「ええ。ですから、安心して忘れるつもりはありません」
鬼太郎は彼女へ顔を戻した。
「ただ、僕からクィレル先生を問い詰めたり、後を追ったりする必要も、今はありませんね」
「余計なことを始めないなら、その方がいい」
「しばらく、様子を見ましょう。授業で接するときも、覚えておいてください」
キーノは頷いた。
ハリーへ向いていた殺意が、ほかの生徒へ向くとは限らない。
だからといって、無警戒に近づく理由もなかった。
◆
「それとは別に、調べたいことがあります」
鬼太郎が言った。
「まだあるのか」
「今日、箒に何が起きていたか、僕には分かりませんでした。呪いなら、どう止めるのかも」
キーノは自分の杯へ目を落とした。
「私も、杖を出すくらいしか思いつかなかった」
「スネイプ先生が唱えていても、攻撃なのか、止めようとしているのか、見ただけでは分からない。知らない呪文が、まだ多すぎますね」
「一年生なんだから、当たり前じゃないのか」
「授業の順番に合わせて、相手が待ってくださるなら、それでもいいんですが」
鬼太郎は微笑んだ。
キーノが、呆れた顔で彼を見る。
「図書館へ行くんだな」
「ええ。呪文と呪いについて、教科書以外でも読んでみようと思います」
「また、読んだものを全部試すつもりじゃないだろうな」
「全部は、必要ありません。今使っているものと、何が違うかを見たいんです」
鬼太郎は、森で浮かせた丸太を思い出した。
持ち上げることはできた。
グロブニクは止められなかった。
操作している間に、相手を見失いかけた。
リクタスセンプラも、当てるところまではできている。
それでも、爪は近づいてきた。
「相手を止めるもの。杖を使えなくするもの。防ぐものも欲しいですね。調べて、練習する呪文を選びましょう」
「火や銃じゃ、足りないのか」
「使う必要のないところで、わざわざ使うこともありません。選べる方が、便利ですよ」
学校で覚えた呪文が効けば、それで終わらせられる。
効かなければ、ほかを選ぶ。
最初から同じ手札しかなければ、相手にも見抜かれやすかった。
キーノは菓子の残りを口へ入れた。
「先に、宿題は終わらせろよ」
「もちろんです」
「その返事、あとで忘れるな」
彼女が杯を持って立った。
暖炉の方から、ハリーが二人へ手を振っていた。
「鬼太郎! キーノも、こっちに来ない?」
キーノが顔を上げる。
「行くぞ」
「ええ」
鬼太郎も杯を取った。
◆
「あの球、口へ入るとは思いませんでしたね」
鬼太郎が言うと、ハリーは笑った。
「僕もだよ。手を伸ばしたつもりだったんだけど」
「手じゃなくても、ちゃんと捕まえたんだ」
ロンが口を挟む。
「誰も、あんな取り方できないよ」
「次も、同じように取れるとは思わないけどね」
ハリーは自分の掌を見た。
指をゆっくり曲げる。
鬼太郎は、その手へ目を向けた。
「箒が戻ってからも、よく追えましたね。あれだけ振り回されていたら、飛ぶだけでも難しくなりそうですが」
「まだ試合が続いてたから」
ハリーは答え、少し考えた。
「でも、金色のものが見えたら、そっちへ向かってたんだ」
「見つけてから、動き出すのが速かったです。相手のシーカーが近づいても、迷いませんでしたね」
ハリーが顔を上げた。
鬼太郎は、見ていた動きをそのまま話した。
速い箒に乗っているだけでは、あの追い方にはならない。
ハリーの口元が、また緩んだ。
「ありがとう」
ロンが杯を持ち上げた。
「じゃあ、もう一回! ハリーに!」
「何回やるんだ」
キーノが言いながら、杯を上げる。
今度は鬼太郎も、皆の杯へ自分の杯を近づけた。
触れ合った音は小さかった。
笑い声の中で、ハリーはようやく背もたれへ身体を預けた。
◆
翌日、鬼太郎は宿題を終えてから図書館へ向かった。
キーノも、本を返すためについてきた。
扉を開けると、紙と革の匂いがした。
談話室の騒がしさは、廊下に置いてきた。
パンス夫人の机で返却を済ませ、鬼太郎は閲覧できる書架について尋ねた。
「呪文や呪いの種類と、対処について読める本を探しています。一年の教科書より、少し詳しいものを」
夫人は鬼太郎の顔を見た。
「どの分野か、決めてから探しなさい。端から持ち出して、机へ積むものではありません」
「では、拘束する呪文と、武装解除についてからお願いします」
示された書架へ行く。
鬼太郎は背表紙を確かめ、目次を見て、二冊を選んだ。
キーノは別の本を手に取り、隣の席へ座った。
卓へ帳面を開く。
最初の頁には、森での手合わせについて書いた記録が残っていた。
鬼太郎はその次に、空白を一頁取った。
相手が近づいているとき、動きを止める。
杖を向けられる前に、武器を奪う。
二つを書いてから、本へ目を落とした。
◆
全身金縛りの呪文。
ペトリフィカス・トタルス。
鬼太郎は名称を書き写し、説明を読み直した。
身体を石へ変えるわけではない。
腕と脚を含め、身体を動けなくする。
足だけを縛る呪文とは、働く範囲が違った。
キーノが帳面へ顔を向ける。
「何だ、それ」
「相手の身体を、動けなくする呪文です」
「私にも覚えられるか?」
「説明は、まだ追えそうですね。実際に使えるかは、練習してみませんと」
鬼太郎は、詠唱と杖の動きについての記述へ指を置いた。
これまでの授業で聞いた用語が、いくつかあった。
分からない言葉は、別の頁へ戻って確かめる。
最初から説明を飛ばし、呪文の響きだけを覚えるつもりはなかった。
相手を止めれば、近づかれるまでの時間が増える。
呪文が解ける前に、杖を取り上げることもできるだろう。
ただし、立っている者の全身が固まれば、倒れる。
階段や高所で使う場合は、場所も選ばなければならない。
鬼太郎は、用途の下へその点を記した。
さらに、グロブニク、トロール、と書く。
その横には、効くか未確認、と残した。
「また、グロブニクに試すのか」
キーノが小声で尋ねる。
「使えるようになって、相手が応じてくだされば。ただ、これも当たるだけで終わるかもしれませんね」
毛を揺らしただけで終わった呪文を思い出す。
鬼太郎はその下へ、効かなかった場合、と書いた。
何度も同じ呪文を唱え、効くのを待ってはいられない。
失敗したと分かった時点で、位置を変える。
森で得た課題は、新しい呪文を見つけただけでは消えなかった。
◆
二冊目には、武装解除の呪文が載っていた。
エクスペリアームス。
鬼太郎は、頁の端へ指を挟み、前の説明も読んだ。
相手が手にしている武装を奪う。
魔法使いなら、まず杖だった。
「これは、いいですね」
呟くと、キーノが目を上げた。
「さっきのより、気に入ったのか」
「相手が呪文を使うには、杖が必要なことが多いでしょう。身体へ通りにくい呪文でも、杖を奪えるなら、戦い方を変えられます」
鬼太郎は帳面へ名称を書いた。
魔法使いとの戦闘。
手に武器を持つ相手。
その下で、ペンが止まる。
どんな持ち方でも奪えるのか。
武器を身体へ繋いでいたら、どうなるのか。
自分の銃も、手に持ったところを狙われれば、奪われるのか。
本の記述だけでは答えが見つからず、問いとして残した。
「奪った後は?」
キーノが聞いた。
「取り戻させないことですね」
鬼太郎は答えた。
「飛んだ杖を見送っている間に、相手が別のものを出しても困ります。杖が落ちる場所と、相手の動きも見なければ」
「丸太ばかり見るな、か」
キーノの口元が上がった。
鬼太郎も笑いかけ、パンス夫人の視線に気づいて声を落とした。
「ええ。せっかく教わりましたので」
武装解除が成功しても、それで必ず終わるとは限らない。
自分なら、杖がなくなっても銃と魔法が残る。
相手にも、見えていない手段があるかもしれなかった。
鬼太郎は、全身金縛りの名前へ細い線を引いた。
杖を奪う。
動きを止める。
順番は、相手と距離による。
今はまだ、二つとも本の上で知った呪文だ。
使えるようになれば、合わせ方も確かめられる。
◆
キーノが自分の本へ戻った後も、鬼太郎は読み続けた。
呪いへの対処を扱う章では、止めるための呪文にも違いがあった。
掛かったものを解くことと、今も続いている力へ対抗すること。
説明を追ううちに、昨日のスネイプの唇が浮かんだ。
あの場で、何を唱えていたのか。
本を開いただけで、名前が分かるわけではなかった。
鬼太郎は分からない言葉を書き留め、参照先を記した。
箒への呪いについても、調べる頁を分ける。
その場で一つの答えへ当てはめず、まず種類を知る必要があった。
日が傾き、卓へ落ちる窓の光が動いた。
キーノが本を閉じる。
「そろそろ、戻るぞ」
「ええ。今日は、この二つからにしましょう」
鬼太郎は帳面を見直した。
全身金縛り。
武装解除。
名称と効果、詠唱、杖の動き。
使いたい場面と、まだ確かめていないこと。
書き写した文字だけでは、戦いの最中に動けない。
まず発動させる。次に、狙った相手へ当てる。
移動しながら使い、効かなければ別の動きへ繋ぐ。
鬼太郎は、その順番を最後に書いた。
練習する場所と、相手については、教師へ相談するための紙が既にある。
そこへ持っていく問いが、二つ増えた。
閲覧した本を戻し、借りられる一冊の手続きを済ませる。
キーノが先に鞄を持った。
「お前、また全部使えるようになるまで、夕食を忘れそうだな」
「食べないと、練習する力も出ませんからね」
「なら、早く来い」
鬼太郎は帳面を閉じた。
知らない力があるなら、調べる。
知った中から、必要なものを選ぶ。
扉の外でキーノが待っていた。
鬼太郎は本の重みを腕に感じながら、その隣へ歩いていった。