第百十八話 閉じた頁にも、道は続く
授業が終わっても、ハリーの耳には、まだ試合の歓声が残っていた。
廊下ですれ違った上級生が親指を立てる。ロンが代わりに大きく頷き、ハリーは少し照れながら手を上げた。
しかし、窓から競技場が見えると、掌へ別の感触が戻った。
滑りかけた箒の柄。
指だけで身体を支えていた重さ。
「ハグリッドに、ちゃんと話そう」
ハリーが言うと、ロンはすぐに頷いた。
「スネイプのことだろ。あの場じゃ、信じてなかったからね」
「何を見たか、順番に話すのよ」
ハーマイオニーは鞄の紐を肩へ掛け直した。
「ハリーの箒を調べてもらうことも、考えなきゃ」
三人は玄関を出た。
芝は湿り、靴底を置くたびに土の匂いが上がった。小屋の煙突から細い煙が流れている。
扉を叩くと、ファングが吠えた。
「おお、来たか。入れ、入れ」
ハグリッドが身体を横へずらす。
卓には大きなカップが四つあった。暖炉のそばに長靴が置かれ、片方の底には黒い泥が厚くこびりついている。
「授業、終わったんか。茶を淹れようと思ってたところだ」
声はいつものハグリッドだった。
けれど、椅子を引く手が止まり、窓の外へ顔を向けた。森を見ている。
「何かあったの?」
ハリーが尋ねると、ハグリッドは髭を撫でた。
「ああ……森でな」
湯を注いだカップを置く。
「ユニコーンが一頭、殺されてた」
ロンが椅子へ腰を下ろしかけた姿勢で止まった。
「ユニコーンを?」
「俺が見つけたときには、もう手遅れだった。綺麗なやつだったんだ。人の足音を聞くと、木の陰から顔だけ出してな」
ハグリッドは、自分のカップを持たなかった。
大きな指が、卓の木目を一度擦る。
「どうして、そんなことを……」
ハーマイオニーが小さく言った。
「分からん。だから、確かめにゃならん」
ハグリッドは三人の顔を見た。
「お前さんたちは近づくなよ。何がいるか、まだ分かっとらんからな」
ファングがハリーの膝へ鼻を押しつけた。
ハリーはその頭を撫で、窓から見える木々へ目を向けた。日があるのに、幹の間は暗かった。
◆
同じ頃、鬼太郎は図書館の卓で、借りた本を開いていた。
昨日書き留めた二つの呪文のうち、今日は武装解除の説明へ戻っている。
キーノの帳面には、全身金縛りの名称があった。
彼女は本の図と自分の書いた線を見比べ、ペンを止める。
「この動き、どこまで大きく振るんだ」
「図だけでは、分かりにくいですね」
鬼太郎は自分の紙へ、その問いを加えた。
「だから、先生に見てもらうんだな」
「ええ。違う動きで覚えてしまう前に」
詠唱を読み取ることはできた。
しかし、どこへ力を込め、杖の動きをどこで終えるかは、文字と線だけでは掴みきれない。授業でフリットウィックが手首の向きを直した途端、羽根が浮いた者もいた。
鬼太郎は昨日の記録へ目を落とした。
使えるようになってから知りたいことも多い。
だが、今は最初の一回がまだだった。
「鬼太郎?」
低い声がした。
顔を上げると、黄と黒のネクタイが見えた。セドリック・ディゴリーが、本を二冊抱えて立っている。
「こんにちは、ディゴリーさん」
「また会ったね。隣、座ってもいい?」
「どうぞ」
ディゴリーは椅子を静かに引いた。
向かいのキーノへ顔を向ける。
「初めまして。セドリック・ディゴリー。ハッフルパフの三年生だよ」
キーノもペンを置いた。
「キーノ・ファスリス・インベルンだ。キーノでいい」
「じゃあ、僕もセドリックで。よろしく、キーノ」
「ああ。よろしく」
ディゴリーが笑う。
鬼太郎は二人の挨拶が終わってから、キーノへ言った。
「以前、廊下でお会いした方です。練習の相手を、と話してくださいまして」
「ああ。お前が言ってた」
「まだ誘っただけだけどね」
ディゴリーは抱えていた本を卓へ置いた。
「場所も、ちゃんと決めてなかったし。今、何を調べてるの?」
鬼太郎は帳面を少し向けた。
「全身金縛りと、武装解除です」
「授業で習った?」
「いいえ。使いたいので、本を探してみました」
ディゴリーの目が、名称から、その下の記録へ移った。
相手の武器が飛んだ後。
呪文が効かなかった場合。
移動しながらの詠唱。
指で文字を辿ることはせず、顔を近づけて読んでいる。
「覚える前から、次の動きも考えてるんだ」
「効くまで待っていられる相手ばかりでは、ありませんので」
「僕はまず、使えるようにすることばかり考えてたな」
ディゴリーは顔を上げた。
「面白そうなことをしてるね」
鬼太郎が微笑む。
「試してみなければ、分からないことも多いんです。これからフリットウィック先生に、練習の相談をしようと思っています」
「二人で?」
「私も覚える」
キーノが答えた。
「動けなくする呪文は、使えた方がいい」
その声は低かったが、曖昧ではなかった。
ディゴリーは彼女へ頷いてから、鬼太郎へ目を戻した。
「よかったら、僕も一緒に行っていいかな。練習に参加したい」
「相手をしていただけるんですか」
「先生がいいと言ってくだされば。君がどんなふうに使うのか、見てみたいしね」
鬼太郎は、卓の上にあるディゴリーの手を見た。
長い指が、本の縁へ自然に置かれている。
廊下で交わした誘いが、ようやく実際の相手へ変わりそうだった。
「それは、楽しみですね」
キーノが彼を見る。
「先に、使えるようになるんだろ」
「もちろんです」
「それを忘れなければ、いい」
ディゴリーが小さく笑った。
「順番は、先生に決めてもらおうか」
書架の向こうから、パンス夫人が顔を向けた。
三人は声を止めた。
キーノが先に本を閉じる。鬼太郎も紙を揃え、借りている本と帳面を鞄へ収めた。
◆
「スネイプが、ハリーを殺そうとしたんだ」
ロンが言った。
ハグリッドの眉が上がる。
「また、その話か。スネイプ先生がそんなことをするわけがない」
「でも、僕の箒は勝手に動いたんだ」
ハリーはカップから手を離した。
「最初は、故障かと思った。でも、直そうとしても、全然言うことを聞かなかった」
「私、見たのよ」
ハーマイオニーが続けた。
「スネイプ先生はハリーを見ながら、ずっと何か唱えてた。ローブに火をつけて、それを止めたら、ハリーは箒へ戻れたわ」
ハグリッドの顔が変わった。
「火をつけた?」
「小さな火よ。ほかに、止める方法が思いつかなかったの」
ハーマイオニーは答えたが、カップへ目を落とした。
ハグリッドは深く息を吐いた。
「先生に火をつけるなんて、危ねえことを……」
「ハリーが落ちそうだったんだよ」
ロンが身を乗り出す。
「先生たちもいたのに、なかなか助けられなかったじゃないか」
ハグリッドは口を閉じた。
湯気が、髭の前を通って消える。
「……怖かったろうな、ハリー」
ハリーは頷いた。
あの高さを、言葉にするとまた思い出しそうだった。
ハグリッドがカップを押し寄せる。
「だがな、スネイプ先生がやったとは、俺は思わん。お前さんを嫌ってるからって、殺そうとするか?」
「三階の犬が守ってるものを、狙ってるんじゃないの?」
ハリーが聞いた。
ハグリッドの手が止まる。
「犬?」
「頭が三つある犬だよ。僕たち、間違えてあの廊下に入っちゃったんだ」
ハリーは、階段で皆と離れた夜のことを話した。
扉の向こうにあった三つの頭。
唸り声と、床へ垂れた唾液。
「フラッフィーのところへ入ったんか!」
「フラッフィー?」
ロンが聞き返した。
「あの犬、名前があるの?」
「そりゃある。俺が連れてきたんだからな」
ハグリッドは言ってから、三人の顔を順に見た。
「お前さんたち、二度と近づくな。あれは生徒が入っていい場所じゃない」
「床に、扉があったわ」
ハーマイオニーが言った。
「犬は、その上に立ってた。何かを守ってるんでしょう?」
ハグリッドが椅子へ座り直した。
「何を守ってるかなんて、お前さんたちには関係ない」
「グリンゴッツから持ってきたもの?」
ハリーの声に、ハグリッドが目を見開く。
小さな包みは、今でも覚えていた。
七月、空になった金庫へ誰かが侵入した。
ハグリッドが品物を持ち出した後だったから、盗めなかった。
「誰かが、それを狙ってるんじゃないの。スネイプも――」
「スネイプ先生も、守る役目をしてるんだ」
ハグリッドが遮った。
「ダンブルドアとニコラス・フラメルの大事なことへ、首を突っ込むんじゃない」
言葉が途切れた。
ハグリッドは髭へ手を当てた。
ロンがハリーを見る。
ハーマイオニーは、カップを置いた。
「ニコラス・フラメルって、誰?」
「……今のは、忘れてくれ」
ハグリッドは三人から目を逸らした。
「茶が冷めるぞ」
ハリーはカップを持った。
温かさが指へ伝わったが、頭には、今聞いた名前が残っていた。
◆
呪文学の教室の扉は、少し開いていた。
中から、紙を揃える音がする。
ディゴリーが扉を叩いた。
「先生。少し、お時間をいただけますか」
「ええ、どうぞ」
フリットウィックは教卓の向こうで、答案を積み上げていた。三人を見ると、眼鏡の奥の目を細める。
「ディゴリー。それに墓場と、キーノ。珍しい組み合わせですね」
「呪文の練習について、ご相談に来ました」
鬼太郎は鞄から紙を取り出した。
教卓へ差し出すと、フリットウィックはそれを受け取り、名称を読んだ。
「武装解除と、全身金縛りですか。授業より先へ進みたいのですね」
「はい。キーノさんと本を読みましたが、まだ使ってはいません」
「私も、覚えたい」
キーノが言った。
フリットウィックは二人へ頷いた。
「本で読んだだけで、廊下の友達へ試さなかったのは、よい判断です。特に全身金縛りは、掛かった後の倒れ方にも気をつけなければなりません」
鬼太郎は、紙の端に書いた注意へ目を向けた。
「解くところまで、教えていただきたいです」
「もちろん。掛けたままにして帰っては、困りますからね」
先生の声は軽やかだった。
しかし、紙を読む目は、その先にある記録で止まった。
「動いている相手への練習も、したいのですか」
「ええ。止まったものへ使えても、相手が近づいていると、同じようにできるとは限りませんので」
鬼太郎は答えた。
「呪文が効かなかったときも、足を止めずに次へ移れるようにしたいんです」
フリットウィックが顔を上げた。
鬼太郎へ向けた視線が、少し長く留まる。
「なるほど」
先生は紙を教卓へ置いた。
「それで、ディゴリーも一緒に?」
「僕が相手をしたいと思っています。以前、練習に誘ったんです」
ディゴリーは答え、鬼太郎を見た。
「図書館で話していたら、僕にも勉強になりそうで」
「あなたが既に知っている呪文でも?」
「はい。使い方を比べてみたいです」
フリットウィックの口元が上がった。
「いいですね。学年が違えば、互いに気づけることもあるでしょう」
キーノが、鬼太郎の紙へ目を向けた。
「私も、その練習に入れるか」
「ええ。あなたもです。ただし、最初から三人で呪文を撃ち合うことはしません」
フリットウィックは教卓の脇から出てきた。
「まず、発音と杖の動きを見ます。次に、こちらで用意した対象へ発動。それができてから、人を相手にしましょう」
鬼太郎は頷いた。
「その後で、今使える呪文だけの手合わせも、お願いできますか」
「何を使えるか、先に聞かせてもらいますよ」
先生の目が、鬼太郎の大きな杖へ一度向いた。
「それと、私が止めたら、すぐに止めること。勝つために、決めた範囲を越えないこと。できますね?」
「はい」
鬼太郎が答えた。
ディゴリーも頷く。
「分かりました」
「私も」
キーノの返事を聞き、フリットウィックは満足そうに両手を合わせた。
「では、明日の放課後にしましょう。教室は私が整えておきます。今日は、この紙の質問を少し確認しましょうか」
鬼太郎の指が、鞄の留め金から離れた。
場所が決まった。
相手もいる。
しかも、呪文の名前だけでなく、その後にどう動くかまで聞いてくれる教師だった。
フリットウィックは帳面を開くよう促した。
「武装解除で飛んだ杖を目で追いすぎると、相手を見失います。そこへ気づいているのは、よいことです」
「先生は、決闘でも使われたんですか」
ディゴリーが尋ねた。
フリットウィックは、眼鏡を少し上げた。
「ええ。何度もね」
「若い頃、チャンピオンだったと聞いたことがあります」
キーノが顔を上げた。
鬼太郎も、先生を見た。
フリットウィックは小さく笑った。
「ずいぶん昔のことですよ」
その手が、腰の杖へ軽く触れた。
「それでも、杖を取り上げたからといって、勝負が終わったと思わないことは、よく覚えています」
鬼太郎は帳面へペンを置いた。
聞きたいことが、また増えた。
◆
小屋を出る頃には、風が冷たくなっていた。
ハリーはローブの襟を寄せ、二人と城へ向かった。
「フラメル。聞いたことある?」
ロンが尋ねる。
「どこかで、見た気がする」
ハリーは答えた。
名前の響きには、覚えがある。
けれど、顔も、何をする人物なのかも浮かばなかった。
「図書館で調べましょう」
ハーマイオニーが言った。
「ダンブルドアと一緒に、あれを守っている人なら、何か載っているはずよ」
「でも、ハグリッドは忘れろって」
「あなた、忘れられる?」
ロンは少し考えた。
「無理だね」
ハリーも、首を振った。
石段へ上がる前に、森を振り返る。
木々の向こうで、何かがユニコーンを殺した。
城の中では、何かが扉の下へ隠されている。
どちらも、ハグリッドは自分たちに近づくなと言った。
ハリーは森から目を離し、二人の後を追った。
◆
教室を出たとき、鬼太郎の帳面には、フリットウィックの説明が数行増えていた。
ディゴリーが扉を閉める。
「じゃあ、明日。僕も本を読み直しておくよ」
「よろしくお願いします」
「キーノも、また明日」
「ああ」
ディゴリーは手を上げ、階段へ向かった。
キーノが、その背中を少し見送る。
「話しやすいな」
「ええ。練習も、楽しみです」
「先生がチャンピオンだと聞いてから、顔が変わったぞ」
鬼太郎は彼女へ目を向けた。
キーノの口元が、わずかに上がっている。
「そんなに、分かりましたか」
「分かる」
二人は廊下を歩き始めた。
鬼太郎は、先ほど先生が杖へ触れた手を思い出した。
小さな手だった。
だが、その指が何度も相手の武器を奪い、勝負を決めてきたのなら、見たい動きは幾つもあった。
「明日は、よく見ておきたいですね」
「まず、お前が教わる日だろ」
「ええ。だからです」
キーノは呆れたように息を吐き、それから、鞄を抱え直した。
鬼太郎も帳面を収めた。
閉じた革表紙の中に、明日確かめることが残っている。
今度は、本の説明を読むだけではない。
廊下の窓へ、夕方の光が落ちていた。