神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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第二章 杖の持ち主
叔母と甥


第11話 叔母と甥

 左腕の糸を抜く間、医者は一度も鬼太郎から目を離さなかった。

 

 小さな鋏で結び目を切り、皮膚へ埋まりかけた糸を引く。消毒液の冷たさに続いて、傷の奥がちくりと痛んだ。

 

「動かすなよ」

 

「動かしていませんよ」

 

「これから動かすなと言ったんだ」

 

 鬼太郎は右手を膝へ戻した。抜かれた糸が、皿の中へ一本ずつ置かれていく。

 

 ニコラ・ペトロフを倒してから十日が過ぎていた。頬の傷は細い線になり、脇腹も着替えのときに布が擦れる程度になったが、左腕だけは、寝返りを打つたびに自分の不自由さを思い出させた。

 

 その間、仕事は受けなかった。買い手から指名の依頼があると聞かされても、内容を尋ねるだけで断った。英国へ行く金は揃っている。今から腕を使えなくして、さらにここへ留まる理由はない。

 

「肘を曲げてみろ」

 

 最後の糸を抜いた医者が、腕から手を離した。

 

 鬼太郎は左手を胸の前へ上げた。縫い目のあった場所が引きつれる。顔をしかめるほどではなかったが、何もなかった頃と同じようには動かない。

 

「日常には使っていい。重いものを持つな。銃を支えるのにも、あと一週間は使うな」

 

「歩くのは構いませんね」

 

「どこまでだ」

 

「英国まで」

 

 医者は鋏を皿へ置いた。

 

「車で行け」

 

「そのつもりです」

 

「なら、歩くなんて言うな。傷が腫れたら向こうで医者を探せ。熱が出てもだ。布を巻いて我慢すれば治ると思うなよ」

 

 鬼太郎は言われたことを覚え、袖へ腕を通した。袖口を引く動作にも、まだ右手を使う。

 

 診療所を出ると、曇った空の下で荷馬車が通り過ぎた。車輪の軋む音を聞きながら、鬼太郎は通りの端へ寄った。

 

 休んでいる間に、あの青い装束の人影が何度か浮かんだ。刃を交える場面もあれば、隣へ立っている場面もある。どちらでも、自分は相手が次にどう動くかを知りたがっていた。

 

 だが、名前を思い出そうとすると、その前に顔がぼやけた。

 

 鬼太郎は追うのをやめ、作業場へ続く角を曲がった。思い出せない相手の前へ戻る方法は知らない。ペタルの店なら、この先にある。

 

     ◆

 

 作業台には、分解された〈シュライク〉が並んでいた。

 

 ペタルは鬼太郎が入ってきても顔を上げず、細い部品へ布を当てていた。椅子を顎で示され、鬼太郎はいつもの場所へ座る。

 

「曲がっていませんか?」

 

「銃はな」

 

 ペタルの視線が左袖へ移った。

 

「今朝、糸が抜けました」

 

「それで、撃ってもいいと言われたか」

 

「左手で支えるのは、あと一週間待つようにと」

 

「右だけならいいとは言われてないんだな」

 

 鬼太郎は答えず、台の上を見た。煤の跡は拭われているが、外側についた細い傷までは消えていなかった。

 

 発電所で手から落とさず持っていた銃だった。あのときは握りを確かめる余裕もなかったが、こうして置かれていると、傷の位置がよく分かる。

 

「まだ使えますね?」

 

「そのために見ている」

 

 ペタルは部品を戻し、手元で動きを確かめた。それから銃を布の上へ置き、鬼太郎の方へ押した。

 

「銃で足場を落としたそうだな」

 

「留め具を撃ちました。人へ当てるより、少し簡単でしたよ」

 

「足場が落ちた先には?」

 

「人がいました」

 

「そのための銃じゃない」

 

「おかげで戻ってこられました」

 

 ペタルは鬼太郎の顔を見たあと、作業台の下から弾薬と予備の弾倉を出した。

 

 鬼太郎は右手で品物を寄せ、頼んだ分が揃っていることを確かめた。代金を置き、〈シュライク〉を取る。握ったときの収まりは変わっていなかった。

 

「英国へ行けば、気軽には直しに来られん」

 

「ええ。ですから、先にお願いしました」

 

「壊れる話だけじゃない。お前の手は大きくなる」

 

 ペタルは鬼太郎の指先を示した。

 

「その銃は、今の手に合わせてある。合わなくなったのを、構えだけで誤魔化すな。握りを替えるだけで済む場合もある。だが、そのうち銃そのものが小さくなる」

 

 鬼太郎は握りを少し緩め、自分の指を見た。

 

 前世の感覚に今の身体を合わせようとして、腕を痛めたことがあった。今度は、身体が変わる方を待たなければならないらしい。

 

「そのときは、また作っていただきます」

 

「海の向こうから戻るのか」

 

「こちらまで来なければ、手を測れないでしょう?」

 

「測るだけなら、ほかにも職人はいる」

 

「同じものを作れるとは限りません」

 

 ペタルは返事をせず、鬼太郎が鞄へ弾薬を入れるのを見ていた。

 

 空の銃をホルスターへ収め、上着を下ろす。左腕を背へ回す動きには少し手間取ったが、今度も手は貸されなかった。

 

「お世話になりました」

 

「金はもらった」

 

「ええ。次も、そのつもりで伺います」

 

 鬼太郎が扉へ向かうと、背後で金属を置く音がした。

 

「銃だけ送ってくるなよ」

 

 振り返ると、ペタルはもう別の道具を手にしていた。

 

「お前がどう使っているか、見なければ分からん」

 

「分かりました」

 

 鬼太郎は扉を開けた。冷たい外気の中へ出ても、しばらくは作業場の油の臭いが服に残っていた。

 

     ◆

 

 買い手の机に広げられた地図は、前に見たものより大きかった。

 

 鬼太郎が知る街は端に小さく記され、その西へ国と道が続いている。海まで指を動かすと、買い手がその途中を押さえた。

 

「一人で、この全部を通るわけじゃない」

 

 机の脇に立つイリーナが、革の封筒を開いた。出来上がった書類を取り出し、机へ順に並べていく。

 

「車も途中で替える。運ぶ相手は、その場所でしか会わない者もいる」

 

「相手が来なければ?」

 

「決めた時間だけ待つ。それで来なければ、次の場所へ移る。お前が探しに行く必要はない」

 

「先に払ったお金は、どうなります?」

 

「会えなかった理由による。取り返すために戻りたいなら、自分で戻れ。英国へ行く話とは別だ」

 

 鬼太郎は地図から顔を上げた。

 

「では、先に英国へ行きましょう」

 

 買い手は、初めからそう答えると思っていたように、イリーナへ書類を渡した。

 

 キリル・ヴァシレフ。その名前の綴りを、鬼太郎も確かめる。

 

 書類上の叔母は隣に立っている。国内の検問で一度使った関係だったが、今度は本当に国を出るために使う。

 

「道中で聞かれたことには、知っている分だけ答えろ」

 

 イリーナが言った。

 

「傷は転んだ。私と親戚を訪ねる。それ以上を、お前から話すな」

 

「料理の話もですか?」

 

「それは、もう忘れろ」

 

 鬼太郎は口元を緩めたが、イリーナは笑わなかった。書類の一枚を裏返し、印の欠けや紙の端まで調べている。

 

 鬼太郎も残りの金を出した。渡航費を払い終えると、鞄へ戻す紙幣は薄くなった。ニコラとの戦いで得た額の大半が、目の前の紙と、この先の車や人へ変わっていた。

 

「英国で会う相手には、お前の仕事を書いてある」

 

 買い手が封筒の口を閉じた。

 

「だが、ここの話を読めば、そのまま信じるとは限らん」

 

「確かめれば、分かるでしょう」

 

「向こうが、何を確かめるつもりかは知らんぞ」

 

「そのときに、お聞きします」

 

 買い手は鬼太郎をしばらく見てから、封筒をイリーナへ渡した。

 

「ここから先で揉めても、俺の名前で片づくと思うな」

 

「困りましたね。こちらでも、そう思ったことはありませんよ」

 

「だったらいい」

 

 鬼太郎は椅子から下りた。初めてこの部屋へ入ったときには、誘拐犯の後ろにいた。今は、その男を売った金より多くの金を、自分で払って出ていく。

 

「書類と経路と同行者。約束のものは受け取りました」

 

「ああ」

 

「ありがとうございました」

 

 買い手は机の紙を片づけ始めた。鬼太郎も返事を待たず、鞄を持った。

 

     ◆

 

 翌朝、イリーナの車は日が昇る前に街を離れた。

 

 鬼太郎は後部座席で、空になった鞄の底を確かめていた。父の書類は座席の下へ、銃と弾薬は別の隠し場所へ収められている。衣服の間に包んだ細い棒だけが、手元に残っていた。

 

 いずれもイリーナが隠した。鬼太郎が指示をしたのは、父の書類と武器を同じ場所へ入れないことだけだった。

 

 銃がなければ戦えなくなるわけではない。だが、父の書類まで失えば、英国へ行ったあとに確かめられることが減る。

 

「もう触るな。何も入ってない」

 

 鏡の中からイリーナに見られ、鬼太郎は鞄を閉じた。

 

「確認しているだけですよ」

 

「この先で毎回やれば、鞄の外に何か隠したと教えるようなものだ」

 

 鬼太郎は手を離した。窓へ顔を向けると、見慣れた通りはもうなかった。低い家がまばらになり、畑の向こうへ薄い明かりが広がっている。

 

 昼を過ぎて着いた国境には、車の列ができていた。

 

 制服姿の男が書類を受け取り、別の男が荷台へ上がる。前の車では、布袋が地面へ下ろされていた。係官がその中へ手を入れ、底まで探っている。

 

 鬼太郎は自分の足元を見た。ここから座席の下へ手を入れても、すぐには留め具を外せない。銃は、さらに遠い。

 

「叔母さん」

 

「何だ」

 

「調べる方が、多いですね」

 

「今日はそういう日だ」

 

 イリーナは前を見たまま答えた。

 

「昨日なら少なかったのですか?」

 

「昨日ここを通った者に聞け」

 

 車が一台分進んだ。鬼太郎は膝の上へ両手を置いた。

 

 順番が来ると、イリーナは窓を開けた。書類を渡し、係官の質問へ答える。男は紙と彼女の顔を見比べ、それから後部座席を覗いた。

 

「名前は」

 

 鬼太郎はイリーナを一度見た。

 

「キリル・ヴァシレフです」

 

「何歳だ」

 

「六歳です」

 

「どこへ行く」

 

「叔母さんと、親戚を訪ねます」

 

 係官は頬の傷も尋ねた。走っていて転んだと答えると、男は今度はイリーナへ質問した。

 

 鬼太郎は続きを聞いていたが、口を挟まなかった。

 

 やがて二人とも車を降ろされた。別の係官が鞄を開き、衣服を外へ出す。包んだ棒が現れたとき、鬼太郎は男の手を見た。

 

「これは?」

 

「この子が拾ったんです」

 

 イリーナが答えた。

 

「捨てろと言っても、持っていくと聞かなくて」

 

 係官が布から引き出す。陽光の下に出されると、古い木の棒にしか見えなかった。

 

「なぜ、こんなものを持っている」

 

「気に入っています」

 

 鬼太郎が答えると、男は棒の両端を持った。

 

 左手の指が、膝の横で少し開いた。

 

 折られるのかと思った。両親を襲った者が手にしていた、使い方も分からない道具だった。だが、別のものでは代わりにならない。

 

 肩へイリーナの手が置かれた。

 

 鬼太郎は動かなかった。係官の指が木の表面を擦る。曲がるか確かめようとしたらしいが、男は力を入れきる前にやめた。

 

「荷物を戻せ」

 

 棒が衣服の上へ放られた。

 

 鬼太郎はすぐには拾わず、イリーナの手が肩から離れるのを待った。それから服を畳み、棒を包み直した。

 

 車内の確認も終わった。書類へ印が押され、遮断棒が上がる。

 

 イリーナは車を進めた。検問所が鏡の端から消えるまで、二人とも何も言わなかった。

 

「あれを折られたら、どうした」

 

 しばらく走ってから尋ねられた。

 

「困りますね」

 

「困っただけで済ませろ。一本の棒のために、あそこから歩いて逃げるつもりか」

 

 鬼太郎は鞄を見た。

 

 炎を出せば、あの男の手を止めることはできただろう。その先で何人が集まり、どの道へ逃げられたかは分からない。

 

「あなたは、折らないと分かっていたのですか?」

 

「知らん。押さえておくのは、お前の方だと思った」

 

 鬼太郎はイリーナの横顔へ目を向けた。

 

「よい判断でしたね」

 

「自分で止まれれば、もっとよかった」

 

 車は西へ進んだ。窓の外で標識の文字が変わっても、鞄の中の棒は、まだ同じ布に包まれていた。

 

     ◆

 

 ユーゴスラビアの町で一夜を過ごし、二日目の昼には車を替えた。

 

 次は木箱を積んだ車だった。そのあとには羊毛を運ぶ幌付きの貨物自動車にも乗った。イリーナは乗り換えるたびに書類と武器を別々に移し、鬼太郎は彼女が終えるまで荷物の脇で待った。

 

 オーストリア、西ドイツ、フランス。地図で聞いた国の名前を、実際に通り過ぎていく。

 

 途中の倉庫で、運転手に追加の金を要求された。

 

「子供がいるとは聞いていない」

 

「書類には二人とある」

 

 イリーナが答えても、男は車の扉を開けなかった。

 

「女と荷物だ。子供は別に払え」

 

 鬼太郎は、男の背後にある車を見た。銃も父の書類も、まだ前の車に隠されている。ここで別の運び手を待てば、その分だけ到着が遅れる。

 

 男はイリーナが黙るのを、迷っていると受け取ったらしい。

 

「払わなければ、ここまでだ」

 

「車は、使えそうですが」

 

 鬼太郎が言うと、男は初めてこちらを見た。

 

「お前に聞いていない」

 

「運転手がいなくなるだけでしょう?」

 

 男の右手が上着へ寄った。鬼太郎はその手と顔を見ていた。今の距離なら、炎は届く。

 

「その手を下ろせ」

 

 イリーナが半歩前へ出た。

 

「あんたには向こうで受け取る金がある。私には運ぶ荷物がある。決めたとおりにすれば、どちらも困らない」

 

「このガキを黙らせろ」

 

「乗せれば、後ろへ座らせる」

 

 男は鬼太郎を睨んだあと、後部座席の扉を開けた。

 

 乗り換えが終わり、倉庫が見えなくなっても、運転手は何度も鏡を見た。鬼太郎がその視線を返すと、すぐ前へ向き直る。

 

 イリーナからは、話を増やすなとだけ言われた。

 

 鬼太郎は窓の外へ目を戻した。追加の金は払わずに済んだが、誰がどう動くかを決めていたのは彼女だった。

 

 土地の言葉も、次の車が来る場所も知らない。相手を倒せたとしても、その先を自分で運転できるわけではなかった。

 

 国境では、キリルという名前に答えた。質問が続けばイリーナを見る。繰り返すうちに、知らない男から名を尋ねられても、口にする前の間が短くなった。

 

 旅の六日目、車窓の向こうへ灰色の水面が現れた。

 

 ル・アーヴルへ着いたのだと、イリーナが教えた。

 

     ◆

 

 海へ出た船は、岸にある建物より大きかった。

 

 鬼太郎は甲板で、濡れた手すりから少し離れて立っていた。風が上着へ入り、左腕の傷が僅かに疼く。

 

 船内には車があり、隠した品も一緒に運ばれている。ここまで来れば、道を間違えたと言って別の通りへ曲がることはできなかった。

 

 遠ざかる港の灯を見ていると、背後で扉が開いた。

 

「落ちるなよ」

 

 イリーナが隣へ来た。

 

「泳げても、この海では助からん」

 

「落ちる予定はありませんよ」

 

「転ぶ予定もなかったことになっている」

 

 鬼太郎は頬の傷へ触れかけ、手を下ろした。

 

「よく覚えていましたね」

 

「甥のことだからな」

 

 その言い方が少し面白く、鬼太郎は彼女を見た。イリーナは海ではなく、甲板に出ているほかの客を見ていた。

 

「向こうで聞かれたら、親戚を訪ねる。港はポーツマスだ。英語は父親から習ったと言っていたな」

 

「簡単な会話と、少しの読み書きです」

 

「分からなければ、私を見ろ。分かったふりはするな」

 

「英国へ着けば、あなたの仕事も終わりですか?」

 

「紹介先へ渡すまでだ。それから先は、自分でやれ」

 

 鬼太郎は港へ目を戻した。街の灯が小さくなり、見分けられた建物も、もう黒い塊になっている。

 

 ペタルの作業場は、この海の向こうではない。買い手の事務所も、家の焼け跡も、今は見えない陸のずっと先だった。

 

 持ってきた本と家族の書類、細い棒。それから、ここで稼いだ金と銃。自分で抱えられるものは、それほど多くなかった。

 

 イリーナが扉へ歩き始めた。

 

「戻るぞ、キリル」

 

 鬼太郎は、その名前で振り返った。

 

 今は、彼女の甥として海を渡ればよい。

 

「はい、叔母さん」

 

 イリーナは返事をせず、扉を押さえて待っていた。

 

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