第120話 聞こえなかった返事
ウッドに呼び戻されたハリーは、まだ箒を抱えていた。
「先に行ってて。着替えて、これを片づけたら戻るよ」
「僕たちは医務室だ。その後でな」
ロンは鼻へ布を当てたまま答えた。勝ったと騒いでいる間は忘れていたらしいが、今は歩く振動でも顔をしかめる。
ネビルも、段差を下りる時には脇腹へ手を添えていた。
鬼太郎はキーノの隣を歩いた。
彼女は足を引きずってはいない。ただ、競技場へ来た時より、一段ずつ確かめて下りている。
「見なくても歩けるぞ」
「先ほどは、見ずに座席へぶつかっていましたから」
「あれとは違うだろ」
言い返す声には、いつもの張りがあった。
医務室へ着くと、ポンフリーはまず、ロンの顔を見た。
「あなたは選手ではなかったはずですが」
「観客席で、ちょっと……」
「取っ組み合いになったんです」
ハーマイオニーが答えた。
ロンが彼女を見た間に、ポンフリーは布を外した。
「じっとして。説明は鼻を動かさずにできる時になさい」
ロンは口を閉じた。
次にネビルが呼ばれ、どこをぶつけたか尋ねられる。深く息を吸ってみるよう言われると、座席へ当てた脇腹を押さえた。
キーノは最後だった。
「歩くと痛むのは、ここですか?」
「そこは、触ると痛い。歩く時は、膝のこっちが少し」
彼女は自分で場所を示した。
鬼太郎は横から答えず、少し離れたところで待った。曲げられるかと聞かれたキーノが、ゆっくり膝を曲げる。
診察と処置が終わる頃には、ロンの鼻血も止まっていた。
三人とも大きな怪我はなかったが、今日は激しく動かないように言われた。
「もう一度同じことをしに行かないように」
ポンフリーが付け加える。
「だって、あいつが――」
「鼻の治療が済んだことと、次も怪我をしてよいことは別です」
ロンは途中で黙った。キーノも何か言いたそうだったが、結局は頷いた。
鬼太郎と目が合うと、少し眉を寄せる。
「笑うな」
「まだ何も言っていませんよ」
◆
ハリーが控室を出た時には、競技場からずいぶん人が減っていた。
着替えても、体はまだ温かい。箒小屋へ歩きながら、さっきの降下を何度も思い返した。
自分で見つけ、自分で飛んで、捕まえた。
あの瞬間のことなら、何を聞かれても答えられそうだった。
城の方で、人影が動いた。
正面の階段を下り、にぎやかな道を離れていく。フードで顔は見えなかったが、歩き方には見覚えがあった。
スネイプだ。
ハリーの足が止まった。
向かう先には、禁じられた森がある。
昨夜聞いたユニコーンの話が頭をかすめた。あそこには、獣を傷つける何かがいる。
それなのに、スネイプは一人で入っていこうとしていた。
誰かを呼びに戻れば、もう見えなくなる。
ハリーは腕の中のニンバスを見た。片づける前だった。
周囲へ一度目をやり、箒に跨る。
城を回って追いついた時、黒い姿は木々の間へ入ったところだった。ハリーは高く上がりすぎず、枝の上をゆっくり進んだ。
下を覗いても、幹と影しか見えない。
速度を落とす。
引き返そうかと思った時、声が聞こえた。
ハリーは箒を傾け、太い枝へ寄った。幹を掴んで足を置き、箒がずり落ちないよう腕で挟む。
枝の重なる隙間から、下を覗いた。
スネイプがいた。
向かいに、ターバンを巻いた教師が立っている。
クィレルだった。
「こ、こんな場所で話す必要が、あ、あるのかい、セブルス」
風に揺れる枝の間から、声が届いた。
「城では、誰が聞いているか分からん。賢者の石について、生徒に知られるわけにはいくまい」
ハリーは幹を掴む手に力を入れた。
石。今、確かにそう言った。
クィレルが答えたが、声が小さい。残った葉の擦れる音に混じり、言葉にならなかった。
スネイプが一歩近づく。
「ハグリッドの犬を越える方法は、分かったのか」
「ぼ、僕は……」
「言い逃れはよせ、クィレル」
ハリーは頭を低くした。
スネイプは、やはり犬の先へ行きたいのだ。
「私を敵に回したいのか」
クィレルの肩が動いた。
また何か言った。ハリーは身を乗り出しかけ、足元の枝が軋むのを感じて止まった。
近くで鳥が鳴く。
スネイプの声が一部消え、クィレルの魔法に触れる言葉と、待っているという声だけが届いた。
「少し考える時間をやろう。誰に従うべきかも、よく考えておくことだ」
黒い裾が翻った。
スネイプが木々の間へ消えても、ハリーは動かなかった。
クィレルはしばらく立ったままだった。ようやくその姿も見えなくなってから、ハリーは箒を抱え直した。
◆
医務室を出た五人が階段の踊り場へ着くと、ハリーが駆けてきた。
箒は持っていない。頬を赤くして、こちらの顔を順に見る。
「聞いてほしいことがある」
「どうしたんだよ。みんな、祝う準備してるぞ」
ロンが言った。
「その前に。誰もいないところで」
鬼太郎はハリーの顔を見た。
競技場で、飛んだ道を教えてくれた時の笑みはなかった。
ハーマイオニーが近くの空き教室を確かめる。ネビルは先に寮へ戻ることにし、残る五人が中へ入った。
扉が閉まると、ハリーはすぐに話し始めた。
箒を片づける前にスネイプを見つけたこと。後を追い、森でクィレルと会っているところを見たこと。
ハーマイオニーの顔が強張ったが、話の途中へは割り込まなかった。
「石の名前を言ってた。ハグリッドの犬を越える方法も、聞いてたんだ」
「やっぱり!」
ロンが机を叩きかけ、途中で手を止めた。
「盗むつもりなんだよ。クィレル先生が断ってるから、脅してるんだ」
「その先生の魔法についても、何か言ってた」
ハリーは続けた。
「犬以外にも、守ってるものがあるんじゃないかな。クィレル先生も仕掛けを作っていて、それをスネイプが何とかしようとしてるのかも」
「解除させようとしているのね」
ハーマイオニーが言った。
鬼太郎はハリーへ向き直った。
「前に聞いた会話と違って、今回は石の名前が出たんですね」
「うん。そこは、はっきり聞こえた」
「犬については、どう尋ねていましたか」
ハリーは少し黙り、覚えている言葉を繰り返した。
「ハグリッドの犬を越える方法は、分かったのか、って」
「クィレル先生は?」
「僕は、って言って……その後は小さくて、よく聞こえなかった」
鬼太郎は、机に置いていた手を離した。
「石に関係する話をしていたのは、分かりましたね」
「だろ?」
ロンが身を寄せる。
「ええ。ただ、犬を越える方法を教えろという意味か、もう調べていることを知って問い詰めたのかで、話は変わります」
「問い詰めた?」
ハリーの眉が動いた。
「クィレル先生が犬の先へ行こうとしていると、疑っていた場合です。それなら、どこまで分かったか確かめることもあるでしょう」
「でも、敵に回したいのかって言ったんだよ」
「相手を止める時にも、使える言葉です」
ロンが、机から顔を上げた。
「スネイプをかばってるのか?」
「いいえ。僕もあの先生には、ずいぶん警戒されていますから」
鬼太郎は一度、口元を緩めた。
「ですが、僕への態度で、あの方が石を欲しがっていると決まるわけではありません。ハリーさんを嫌っていることだけでも、決まりません」
「脅してたんだぞ」
「そこは否定していません。その脅しで何をさせたいのかが、まだ一つに決められないんです」
キーノがハリーを見る。
「クィレルの返事を、全部聞けたわけではないんだろ」
「うん。鳥の声で、聞こえなかったところもある」
「なら、断ったかどうかも、分からないのか」
ハリーはすぐには答えなかった。
鬼太郎はその間、続きを促さずに待った。
「……何を答えたかまでは、聞こえなかった。でも、最後には、誰に従うべきか考えろって言われてた」
「それも、先生が実際に言った言葉なんですね」
「うん」
ハーマイオニーが唇へ指を添えた。
「石を知っていて、犬の先のことを話していた。そこまでは確か。でも、クィレル先生が何をしようとしているかは……」
言いかけて、ハリーを見た。
「返事も聞こえていればよかったのね」
「また聞きに行くという話ではありませんよ」
鬼太郎が言うと、ハーマイオニーはすぐに頷いた。
「もちろんよ。ハリー、次は一人で森へ入らないで。昨日、危ないって聞いたばかりでしょう」
「分かってる。でも、誰かを呼んでたら、見失ったと思う」
「見失ったら、戻れなくなる方が困るだろ」
キーノの声に、ハリーは顔を下げた。
鬼太郎は、別のことを尋ねた。
「追っていたことには、気づかれていませんか」
「たぶん。二人とも、こっちは見なかった」
「では、直接先生へ聞きに行くのは、避けた方がよさそうですね」
ハリーはそこには、すぐ頷いた。
ロンはまだ何か言いたそうだったが、教室を出る時には、廊下の先を確かめてから歩き出した。
◆
談話室の扉を抜けると、焼き菓子の匂いがした。
ハリーの姿を見つけたフレッドが声を上げる。ジョージまで来て腕を取り、皆のいる卓へ連れていった。
ロンも後を追った。ハーマイオニーはその鼻を一度見てから、ようやく笑って輪へ入る。
鬼太郎とキーノは、皿を受け取って窓際へ移った。
キーノが膝を曲げ、ゆっくり座る。
「クィレルは、試合では見つからなかったのに、森にいたんだな」
向こうの歓声に紛れるくらいの声だった。
「ええ。僕が別の席を見落としていた可能性はありますが、森で会っていたという話は新しいですね」
「二人とも、石を知っている」
「石を守る側なら、知っていても不思議ではありませんけれど」
鬼太郎はハリーの方を見た。
脅されるクィレルの姿は、容易に思い浮かんだ。授業でも、彼は小さなことに肩を跳ねさせる。
だが、前の試合で見た目まで、それで消えたわけではない。
ハリーが落ちるのを待つような、あの視線。転んだ後、箒の動きが変わり、それから火の方を見た順序。
校長へ話したことを、今日の伝聞だけで取り消すつもりはなかった。
「どちらだったとしても、簡単ではなさそうですね」
「相手にするのがか」
「ええ。先生ですから」
キーノは菓子を取る手を止めた。
「また、戦う方を考えているのか」
「向こうから何かしてきた時に、どうするかは考えますよ。サーシェスさんでさえ、怪我をして帰ってきましたし」
「あの怪我と、今の先生たちが同じ話かは、分からないぞ」
「もちろん。それは、まだ繋がっていません」
血を飲む者がいるかも分からない。森の被害を、石を狙う者の仕業と決めることもできない。
ただ、教師を相手にする時の自分の力なら、確かめたことがあった。
フリットウィックは、避ける先へ次の呪文を置いた。
ダンブルドアは、浮かせた樽そのものを大板へ変えた。保持を諦めて下ろすと、今度はその向こうの姿が見えなくなった。
「どちらの先生も、普段の授業で見えるところだけが、使える力の全部とは限りません。クィレル先生が怯えているからといって、弱いとも思えませんね」
「怖がっていても、強い呪文は使えるか」
「ええ。そもそも、見える通りに怖がっているかも、分かりませんし」
鬼太郎は皿を膝へ下ろした。
「今の僕が、無傷で勝てる相手だとは考えていません」
だから、もう一度自分から森へ追いかけていくつもりはなかった。
相手が動くまで何もしない、というつもりもない。
「明日の練習でも、直せるところはあります」
鞄から帳面を出し、グロブニクとの練習を描いた頁を開いた。
狼へ向けた尖った木と、下ろした後の向き。キーノの声がなければ、次に置こうとしていた足。
その線のそばへ、杖を戻す時の腕の向きが書いてある。
「ここで木を追わせようとして、戻すのが遅れました。二度目は、それを見られて、唱える前に来られましたから」
「先を刺す方へ向けるまで、お前の腕も戻ってこないんだな」
「ええ。持ち上がるだけでは、まだ使える位置になっていませんでした」
鬼太郎は自分の図へ短い線を足した。
浮かせた時ではなく、先端を向け終えた時。その後で杖を戻すまで。
あの狼が詰めたのは、そこだった。
「強くなれるまで、相手が待ってくれるわけではないぞ」
「ええ。明日動くとしても、その前に一つ直せるなら、直しておきたいんです」
キーノは図の氷へ目をやり、次の頁の端で視線を止めた。
「火は、どうなんだ?」
「少し、手応えが変わってきています」
鬼太郎は頁をめくった。
短く放つ時と、形を保っている時の記録がある。火を大きくした時に力を使ったことも、途中で形を崩したことも書いていた。
アギは、他の力を思い出すより前から使ってきた。
最初に掌へ現れた火。狙った場所へ届かせる火。銃を構え直す間に相手を動かし、風と合わせる時には、自分の手元で形が裂けた。
うまくいったことより、直した回数の方が多いかもしれない。
「前より大きくできる、というだけか?」
「いえ。大きくするだけなら、今までも力を増やしていました。ただ、最近は、集めた力が違う形にまとまりかけることがあるんです」
「火が変わったのか」
「変わる前に、繋がらなくなります。ですから、まだ、そうなりそうだというだけですね」
鬼太郎は記録の横へ、「最後まで形になっていない」と書き添えた。
名前は、浮かんでこない。
鏡の中で見た大きな術を、ここで使えるようになったのでもなかった。今の体で繰り返してきた火の扱いに、以前とは違う感触が出てきた。それ以上には、まだ言えない。
「他のものは?」
「同じ感覚はありません。火が一番、長く使っていますからね」
キーノは帳面から鬼太郎の掌へ目を移した。
「ここで確かめるなよ」
「さすがに、ここでは」
鬼太郎は笑い、何も集めていない手を開いて見せた。
「次に拠点へ戻った時、練習できるところで試します」
それで何かが形になったとしても、杖を戻す間が消えるわけではない。避けられれば、次に使う手も要る。
帳面の頁を、尖った木の図へ戻す。
キーノが氷の端へ指を添えた。
「こっちへ退くなら、この木の先は残せないな」
「ええ。下ろす場所まで、初めに選んでおく必要がありますね」
鬼太郎は、木を下ろせそうな位置に、小さく印をつけた。
実際に動けば、また違うところが見つかるだろう。少なくとも、同じ図のまま持っていくことはなくなった。
向こうで、ハリーが二人へ手を振った。
ロンが皿を持ち上げている。まだ菓子が残っているらしい。
キーノは立ち上がりかけ、今度は膝を急に伸ばさず、ゆっくり姿勢を変えた。
鬼太郎も帳面を閉じる。
「それは明日だぞ。今日は、動くなと言われた」
「はい。今日は、このくらいに」
ハリーが空いている椅子を引いた。ネビルもその隣で、小さな菓子を選んでいる。
鬼太郎は卓へ帳面を置き、差し出された皿を受け取った。