第百十九話 小さな手に、間合いは宿る
呪文学の教室には、長い床ができていた。
机は壁際へ寄せられ、中央には誰も座っていない。奥に厚い敷物があり、その手前で、木製の人形が短い棒を握っていた。
鬼太郎が扉の前で足を止めると、キーノが脇から中を覗いた。
「昨日と、ずいぶん違うな」
「練習には、十分ですね」
セドリックは既に来ていた。鞄を机へ置き、袖口を確かめている。
「こんにちは。二人とも、準備はいい?」
「ええ。よろしくお願いします」
「私も、本は読み直してきた」
キーノが答えると、教卓の向こうからフリットウィックが顔を出した。
「結構。では、本と鞄は机へ。杖だけ持って、こちらへ来なさい」
鬼太郎は帳面を置いた。
先生は三人へ、使える呪文を尋ねた。
鬼太郎はルーモス、ノックス、レパロ、ウィンガーディアム・レビオーサ、リクタスセンプラを挙げる。前世の魔法には触れなかった。
「ルーモスは、以前、かなり強く光らせたことがあります」
「それは今日、相手の目へ向けないように。狭い教室ですからね」
「分かりました」
キーノとセドリックの返事も聞き終えると、先生は床に引かれた線を示した。
「手合わせでは、この内側を使います。私が止めたら、その場で杖を下げること。杖が飛んでも、拾おうとして急に屈まないように。まず相手を見て、練習を止めたことを確かめなさい」
セドリックが頷いた。
「はい、先生」
「それでは、武装解除から。ディゴリー、少し手伝ってください」
先生が教卓から離れた。
鬼太郎は、その足元を見た。
◆
フリットウィックの声は、普段と変わらなかった。
羽根を浮かせた生徒へ拍手を送るときと、同じ声だ。
だが、セドリックへ向き直った姿は違った。
小さな身体が、床の上で静まる。
杖を握る手にも、肩にも、余計な力が見えない。かといって、相手が動いたときに、そのまま押し倒せそうな緩みもなかった。
鬼太郎は、先生の手から足へ、もう一度目を移した。
杖を向ければ、その瞬間に何かが返ってくる。
まだ何もされていないのに、そう思えた。
「いつもどおり構えてください。抵抗しようと、指を固く握り込む必要はありませんよ」
セドリックが杖を持ち上げる。
「エクスペリアームス」
赤い光が走った。
セドリックの杖が手を離れ、宙へ跳ねた。
鬼太郎がその軌道へ目を向けたときには、先生の杖先は既に下がっていた。落ちる杖を空いた手で受け取っても、目はセドリックから離れていない。
「このように、手にしている杖を奪います」
先生が杖を返した。
鬼太郎は笑みを浮かべた。
「もう一度、見せていただけますか」
「今度は、何を見たいですか?」
「唱える前の動きを。僕は、杖が飛んでから目で追ってしまいました」
フリットウィックの目が細まった。
「では、ゆっくりやりましょう。手首だけを真似せず、杖先がどこを向くかも見てください」
今度は説明が入った。
鬼太郎も、杖を持つ。
先生が隣へ来て、握りと手首の位置を直した。
先ほど向かいに立った姿を、鬼太郎はまだ覚えていた。
間近に来た先生は、いつもの小柄な教師だった。
それでも、その手が自分の杖へ触れると、鬼太郎は自然に指の力を抜いた。
◆
最初の光は、人形の肩を掠めた。
握られた棒は動かなかった。
「終わりを急ぎましたね。狙ったところへ杖先を収めてから、力を送りなさい」
鬼太郎は杖を下ろした。
銃なら、引き金を引く前に狙いをつける。
だが、この呪文では、杖を動かしている途中にも、しなければならないことがある。狙いだけを先に整えれば済むわけではなかった。
説明された動きを、声を出さずに繰り返す。
隣ではキーノも、先生に手首を直されていた。
「エクスペリアームス」
次の光は、棒を握る手へ届いた。
棒が小さく跳ね、指の間から抜け落ちる。
「ええ、今のは発動しました。もう一度、同じようにできるか確かめましょう」
人形が棒を拾い直した。
鬼太郎はすぐに唱えようとし、止まった。
直前と同じつもりで構えても、手首が少し上がっていた。
戻す。
先生は口を挟まずに待っていた。
◆
キーノの呪文で棒が飛んだのは、鬼太郎が何度か発動を繰り返した後だった。
彼女は棒の落ちた床を見て、それから自分の杖を見た。
「できた」
「ええ。最後の音が、先ほどよりはっきりしましたね」
フリットウィックが言った。
キーノは口の中で、もう一度呪文をなぞった。
鬼太郎は、次の人形へ向き直っていた。
こちらは棒を持たず、敷物の前に立っている。
全身金縛りの実演では、人形の腕が体側へ寄り、脚が揃った。そのまま後ろへ倒れ、厚い敷物が音を受け止める。
鬼太郎は倒れた身体を見た。
「掛かった後も、意識はあるんですね」
「人を相手にした場合は、そうです。動けなくても、あなたの声は聞こえます。解除すると伝えてから、解いてあげなさい」
先生は呪文を解き、人形を起こした。
キーノが、敷物の厚みへ目を落とす。
「硬い床なら、頭も打つな」
「そのとおり。掛ける場所も、効果の一部だと思っておくことです」
鬼太郎は頷いた。
動きを止めた相手が、自分の方へ倒れてくることもある。
足場によっては、目の前から消える。
帳面に書いた注意が、実際の動きになっていた。
◆
「ペトリフィカス・トタルス」
キーノの声が、教室へ通った。
人形の腕が揃った。
倒れる。
彼女は一歩進みかけ、先生を見て止まった。
「次は、解くんだな」
「ええ。先ほど練習したとおりに」
キーノは息を整え、解除の呪文を唱えた。
人形の腕が床から離れる。
起き上がるのを見届けてから、彼女の肩が下がった。
「鬼太郎」
「ええ。動きませんでしたね」
「これなら、近づいてくる前に止められる」
キーノは人形へ目を戻した。
トロールの前へ出たときには、身体を差し込むしかなかった。
同じ相手に、この呪文が通じるかは分からない。
それでも、誰かへ伸びる腕を止める手段が、自分にも一つできた。
「当てられれば、ですが」
鬼太郎が言う。
「分かってる。だから練習するんだろ」
キーノが返すと、セドリックが笑った。
「じゃあ、次は僕の番かな」
◆
セドリックは、最初はゆっくり歩いた。
鬼太郎が武装解除を唱える。
赤い光は、杖を持つ手の横を通り過ぎた。
移動先は読めていた。
しかし、杖を振り終える頃には、狙っていた位置から相手が進んでいた。
「歩く速さを、落とそうか?」
「いえ。もう一度、お願いします」
鬼太郎は構え直した。
「墓場。相手へ追いつこうとして、動きが大きくなっていますよ」
先生の声が入った。
「先ほど、止まった対象へ使った動きを思い出しなさい。速く唱えれば、そのまま速く使えるとは限りません」
鬼太郎は、上げかけた杖を戻した。
慣れた手段なら、ここで撃てる。
そう思う瞬間へ、新しい呪文を押し込もうとしていた。
詠唱を崩せば、そもそも発動しない。
セドリックの歩幅を見る。
今度は、もう少し早く準備を始めた。
光が走る。
杖が手を離れた。
「今のは、よかったですね」
先生が飛んだ杖を受け止めた。
鬼太郎の目は、セドリックへ残っていた。
相手は杖を失っても、まだ立っている。
その足が次に動くところまで、見えた。
◆
キーノが移動する相手への練習を終える頃には、窓の光が長く床へ伸びていた。
彼女の武装解除は、まだ外れることが多かった。
それでも、当たった一回の動きを先生に確かめ、杖を下ろしてからも、指で小さくなぞっている。
「今日は、ここまでにしましょう。疲れてから無理に繰り返すと、直した動きを崩してしまいます」
フリットウィックは二人を休ませ、水を飲む時間を取った。
鬼太郎が杯を置く。
先生は、その顔へ目を向けた。
「短い手合わせも、するのでしたね」
「お願いできますか」
「ええ。ただし、今習った二つは、まだ使わないこと。今日は、発動を確かめた段階です。動きながら繰り返すには、もう少し練習が要ります」
鬼太郎は頷いた。
セドリックも、杖を取る。
「僕は、武装解除を使っても?」
「あなたは構いません。ほかは、先ほど確認した範囲で」
先生が二人を床の中央へ呼んだ。
キーノは、線の外側へ移った。
「また、楽しそうな顔になってるぞ」
「そんな顔ですか?」
「ああ。始める前から笑ってる」
鬼太郎は小さく笑った。
向かいで、セドリックも口元を緩めた。
「楽しみにしてくれてるなら、誘った甲斐があるね」
「ええ。とても」
先生が二人の間から離れた。
◆
一礼を終えた瞬間、セドリックの表情が変わった。
笑みが消えたわけではない。
だが、鬼太郎を見る目は、図書館で帳面を覗いていたときよりも、ずっと細かく動いていた。
「始め」
「エクスペリアームス!」
鬼太郎は斜めへ踏み出した。
赤い光が、先ほどまで杖のあった場所を抜ける。
足を止めず、杖を向けた。
「リクタスセンプラ」
セドリックが身体を引く。
鬼太郎は、その足の置き方を見た。
ただ後退したのではない。
次に杖を振れるだけの位置を、残している。
二つ目の赤い光が来た。
鬼太郎はまた避けた。
今度は、床の線が近い。
セドリックは追いかけてこなかった。
中央へ半歩寄り、鬼太郎が戻る場所へ杖先を向ける。
鬼太郎の笑みが深まった。
避けた先まで、使われている。
「リクタスセンプラ」
鬼太郎は踏み出すと同時に唱えた。
セドリックが横へ動く。
鬼太郎も、その動きへ身体を合わせた。
距離が縮まる。
近づけば、相手の杖が向きを変えるまでに、自分の呪文を届けられる。
そう考えて出した杖へ、セドリックの目が落ちた。
鬼太郎は手を引いた。
まだ光は来ていない。
だが、そのまま出しておけば、奪われる。
引いた分だけ、次の詠唱が遅れた。
「エクスペリアームス!」
今度の光は、低かった。
鬼太郎は身体を捻った。
大きな杖の先端が、赤い光のそばを通る。
足を置き直す前に、セドリックはもう次の構えへ移っていた。
◆
フリットウィックは、二人の足を見ていた。
ディゴリーは、最初の武装解除を避けられた後、同じ場所へ撃ち続けなかった。
相手がどちらへ動きやすいかを見て、立つ位置を変えた。
墓場は、その誘導へすぐに気づいた。
後退を続けず、呪文を返しながら間合いを詰めている。
足と目の働きに、杖が追いついていない。
それでも、間に合わないと分かれば、その動きを途中で捨てられる。
先生は、腰の杖へ指を添えた。
教室の床に、昔の練習場が重なった。
順番を待つ生徒。
負けた直後、相手へ何を見ていたのか尋ねる声。
次の週には、その失敗を直して戻ってくる者たち。
決闘クラブが残っていれば。
この二人には、ぜひ参加してもらいたかった。
腕前だけの話ではない。
相手がいるからこそ、変えられる動きがある。
その面白さを、既に二人とも知っている。
鬼太郎が、線の内側へ戻った。
先生は思い出から目を離し、杖を持つ手を見た。
◆
鬼太郎は、セドリックの肩が動く前に踏み出した。
先ほどから、武装解除の前に同じ動きがある。
そちらを見ていれば、唱え終わるまで待つ必要はなかった。
「リクタスセンプラ」
光がセドリックの腕へ触れた。
息が短く漏れる。
肩が揺れた。
鬼太郎は、続けて杖を向けた。
しかし、セドリックの足は止まらなかった。
笑いを噛み殺すように口を結び、身体を横へずらす。
その手が持ち上がった。
「エクスペリアームス!」
赤い光が、鬼太郎の杖を捉えた。
指が開く。
鬼太郎は飛んだ杖へ手を伸ばしかけ、それを戻した。
セドリックから目を離さず、もう一歩、横へ動く。
「そこまで」
先生の声がした。
セドリックが杖を下げた。
鬼太郎も足を止めた。
大きな黒い杖は、床へ落ちる前に、フリットウィックの呪文で止まっていた。
教室に、二人の呼吸だけが残る。
セドリックが口元へ手を当てた。
「……今の、ちゃんと当たったね」
声に、まだ笑いが混じっている。
「ええ。ただ、止まりませんでした」
鬼太郎は答えた。
残念そうな声ではなかった。
先生が呪文の効果を解き、鬼太郎へ杖を返す。
「当てた後、すぐ次へ移れたのは結構です。ただ、相手がどれほど動けるかを見ずに、同じ速さで続けてしまいましたね」
「はい。もう少し、崩れるかと思いました」
「ディゴリーも、慌てずに動けました。苦しくても、先に杖を向けたところはよかったですよ」
セドリックが頷いた。
「当たるまで、あんなに近くへ来ていたと気づきませんでした」
鬼太郎は自分の杖を握り直した。
取られた瞬間にも、できることはあった。
だが、今日は杖と、決めた呪文での練習だ。
そこで武装解除を許した。
その事実は、消えなかった。
「もう一度、と言いたいところですが」
鬼太郎が先生を見る。
先生は笑った。
「今日は終わりです。今の手合わせで、腕にも力が入ったでしょう。まず、直すことを書き留めなさい」
◆
キーノが帳面を持ってきた。
鬼太郎が受け取ると、彼女はセドリックへ顔を向けた。
「当たっても、杖は使えるんだな」
「笑わされながら唱えるのは、簡単じゃないけどね」
セドリックは喉へ触れた。
「もう少し強かったら、あの返し方はできなかったと思う」
鬼太郎は、その言葉を記した。
強さを変えれば、発動までに要る時間も変わる。
相手が止まるほどの効果を狙うのか。
少し崩した間に、別の呪文を使うのか。
覚えている呪文にも、まだ試すことが残っていた。
「先生」
セドリックが言った。
「また、こういう練習をお願いできますか」
フリットウィックは、二人の顔を見た。
「ええ。授業や宿題に支障が出ないよう、日を決めましょう」
キーノも、一歩寄った。
「次は、私も動く相手へもっと当てたい」
「あなたは今日、できたときの動きを、よく確かめていました。その続きをやりましょう」
先生は教卓へ戻り、三人へ帳面を開くよう促した。
「以前は、こうした練習をする決闘クラブがあったのですよ」
鬼太郎が顔を上げた。
「今は、ないんですか」
「ええ。廃部になって、今は活動していません」
先生の指が、教卓の縁へ置かれる。
「今日の二人を見ていると、あの場所で練習させてあげたくなりますね。互いの動きを見て、変えようとする。決闘で伸びるには、大切なことです」
セドリックは鬼太郎を見て、少し照れたように笑った。
鬼太郎は、先生へ目を向けたままだった。
さっき、相手の前へ立った小さな身体。
飛んだ杖を受け取りながら、次の動きへ備えていた手。
あの先生が指導する場所へ、何人もの相手が集まる。
考えただけで、試したいことが増えた。
「それは、楽しそうですね」
「でしょう? けれど、まずは今日の練習です。墓場、最初の武装解除で、何を直したのでしたか」
鬼太郎は帳面へ目を戻した。
先生は答えを待っていた。
◆
教室を出る頃には、廊下に灯りがともっていた。
セドリックは階段の手前で足を止めた。
「次は、近づかせないようにしないとね」
「では、僕は近づく方法を考えておきます」
「それを先に言うんだ」
セドリックが笑う。
「またね。キーノも」
「ああ。またな」
別の廊下へ向かう背中を見送り、鬼太郎はキーノと歩き始めた。
「負けたな」
「ええ。杖を取られました」
「嬉しそうだぞ」
「面白かったですから」
鬼太郎は鞄の中の帳面へ触れた。
「ディゴリーさんは、僕が避けた後の場所まで使っていました。それに、先生も」
「先生?」
「普段の授業では、あんなふうに立たれませんね」
キーノが、少し考えた。
「杖を取るときは、速かった」
「ええ。ただ、速いだけではありませんでした。向かいに立ったら、何をしても見られている気がしそうです」
「お前、相手をしてもらいたくなったんだろ」
鬼太郎は答える前に笑った。
キーノが息を吐く。
「分かりやすい」
「でも、まずは教わったことからです」
杖を振る角度。
唱え始める時機。
効いた後も動く相手。
どれも、次に直したいことだった。
キーノは自分の杖を、鞄へ収め直した。
「私も、次までに発音を練習する」
「一緒に確かめましょうか」
「夕食の後でな」
大広間へ続く階段から、食器の触れ合う音が聞こえた。
鬼太郎は頷いた。
今日は、杖を奪われた。
その瞬間を、今度は自分の手で変えてみたかった。
隣では、キーノが新しい呪文の最初の音を、小さく口の中で繰り返していた