第121話 手元までの距離
祝勝会の翌日から、ハリーはクィレルへ笑って挨拶するようになった。
ロンは、先生のどもりを真似した生徒へ、それは面白くないと言い返した。
二人の中では、クィレルがスネイプに屈せず、石を守っていることになっているらしかった。
鬼太郎は、その隣で授業を受けた。
どちらの先生にも、視線を向け続けることはしなかった。疑っている相手へ、見張っていると知らせたいわけではない。
授業が終われば課題があり、分からないことは、森で聞いた話以外にも出てくる。
図書館で、キーノが魔法薬の本と自分の羊皮紙を並べた。
「火を弱めるのと、火から下ろすのは、同じでいいのか?」
復習していたのは、吹き出物を治す薬の手順だった。キーノの答えには、ハリネズミの針を入れる前に火を弱める、とある。
ハーマイオニーが椅子を寄せた。
「そこは下ろすのよ。弱くても、鍋の下に火が残ってしまうでしょう」
「では、その前の加熱も止めるのか」
「その時は、まだ針を入れていないわ。前の工程も見せて」
鬼太郎が本を戻す。
三人で、材料がどこまで入っているかを確かめた。キーノは自分の答えの「弱める」を消し、「鍋を火から下ろしてから」と書き直した。
「同じ鍋でも、中に入っているものが違うんだな」
「ええ。火加減の言葉だけを抜き出すと、間違えますね」
鬼太郎は本を押さえていた手を離した。
「よく、前の工程まで覚えていましたね」
「私も最初、どこで加熱をやめるか迷ったの。だから、材料を入れるところに印をつけておいたのよ」
ハーマイオニーは自分の羊皮紙を見せた。
手順の横に、短い矢印がある。答えだけでなく、なぜそこを確かめたかも残っていた。
彼女が説明を持ってくる時には、そういう跡がある。
全部任せればよいとは思わない。それでも、ハーマイオニーが見つけたものなら、まず読んでみたくなっていた。
◆
数日後、別の棚で開いた『基本呪文集』の第四学年用に、鬼太郎は指を止めた。
「物を、自分の方へ呼ぶ呪文がありますね」
キーノが横から覗く。
「浮かせて運ぶのではなく?」
「ええ。こちらは手元へ来てもらうものです」
詠唱の名は、アクシオ。
浮かせた木の先を狼へ向ける間に、詰められたことを思い出す。近くの物を選び、杖を向け、持ち上げてから動かす。その始め方が、いつも相手に見えていた。
違う場所から物を動かせれば、相手に見せるものも変えられるかもしれない。
「何を呼ぶ気だ?」
「まずは、教えていただけるものからですね」
キーノは本から鬼太郎へ目を移した。
「その先を聞いたんだが」
「使えるようになったら、ご相談します」
鬼太郎は詠唱を帳面へ写した。頁を読んだだけで、物へ杖を向けることはしなかった。
フリットウィックに相談すると、先生は開いた巻を見て頷いた。
「先の学年で扱うものですね。今の浮遊術と組み合わせたいのですか?」
「はい。ただ、呼び寄せる時に、どこまで物の位置を確かめればよいのかも、まだ分かりません」
「では、見えている物から。今日は呼んで受け取るところまでにしましょう」
練習用に選ばれたのは、小さな空の布袋だった。
卓の上へ置き、数歩離れる。鬼太郎は右手に黒檀を持ち、左手を空けた。
「アクシオ」
袋の口が、僅かに動いた。
次には卓の上を滑ったが、端で止まる。
鬼太郎は杖を下げた。
「端から落ちる方へ、意識が移りました」
「落とさないことを考えたのですね。受け取る場所は、どこでしたか?」
左手を見た。
空けておいた。それだけで、そこへ届くまでを考えてはいなかった。
袋を見直し、自分の手へ向かってくるところまで思い描く。
「アクシオ」
今度は卓を離れた。
鬼太郎は左手を出した。布袋は胸の少し下へ届き、掌に収まる。
「来ましたね。では、置く場所を変えましょう」
フリットウィックは、すぐに別の卓を示した。
高くなると、手を出す位置が遅れた。少し遠くから呼んだ時には、近づく袋へ指を伸ばし損ね、足元へ落とした。
先生は袋を拾う鬼太郎を待ち、次に何がずれたかを尋ねた。
一度届いたことで終わるつもりの指導ではなかった。
帰りにキーノへ話すと、彼女は空いている手を見た。
「自分のところへ来るなら、避ける方も要るな」
「ええ。石で始めなくて、よかったです」
「本当に、何を呼ぶつもりだったんだ」
鬼太郎は笑い、布袋を取り落とした位置も帳面へ残した。
◆
それから数週間、城に大きな異変は起きなかった。
ハリーたちは犬がまだ三階にいることを確かめ、スネイプが不機嫌なら石も無事なのだろうと話した。
鬼太郎は扉へ耳をつけに行かず、借りていた材料の本を読み終えて返した。
呼び寄せる練習は続いた。
布袋を違う位置へ置く。届く場所を確かめ、小さな木片にも替えてみる。フリットウィックの前で、選んでいない物まで一緒に来ることがないかも試した。
浮遊術へ切り替えた最初の一度は、呼び寄せた木片が床へ落ちた。
鬼太郎は、手前まで来てから次の詠唱を始めていた。
「もう、目の前でしたね」
「はい。受け取る癖が出ました」
先生の問いへ答え、距離を取り直す。
セドリックとの杖だけの練習でも、相手は待ってくれなかった。武装解除を斜めへ避け、足の置き場を見た途端、もう一度「エクスペリアームス」が飛んでくる。
赤い光が胸へ届き、黒檀が手を離れた。
フリットウィックが止めた後、セドリックが杖を下げた。
「避けた後、僕を見直していたね」
「ええ。足元を先に見てしまいました」
「僕もやるよ。だから、そこは待たないことにした」
止まったのを確かめ、鬼太郎は落ちた杖を拾った。
笑っている年上の少年へ、同じように笑い返す。
「では、次は見直さずに済む方を選びます」
うまくいかなかったことは増えたが、その分、次に試すことにも困らなかった。
◆
休日に砦へ戻ると、壁の陰だけに雪が残っていた。
学校外から門内へ、いつもの固定のポートキーで来た。ボグダンに預けた分を確かめ、帰還予定に変更がないことも伝える。
窓口へ、新しい侵入者の知らせは届いていなかった。
サーシェスは二人の帳面を見て、片眉を上げた。
「宿題が増えただけじゃねえようだな」
「試したいことも増えました」
「狼のところか」
「その前に、火を少し」
鬼太郎は銃をホルスターごと砦へ残した。鞄から水を取り、キーノと練習場所へ向かう。
燃え移る草や葉を脇へ除けた場所で、右手を空けた。
掌へMAGを集める。
いつものアギなら、もう放てた。
今日は、その形へ力を足すだけでは終えなかった。火になる時の感触を確かめ、まとまりかけていた先へ、もう少し通そうとする。
炎の中心が、一瞬、締まった。
鬼太郎の指が止まる。
保とうとした途端に外側が揺れ、形が崩れかけた。無理に繋がず、使い慣れた火へ戻す。
「アギ」
練習用の倒木へ放った。
表面に火が移る。余分に力を使ったため、普段より強く燃えたが、放った時の形はアギだった。
「今のは?」
「途中までは、近づいたと思います。でも、最後は戻しました」
もう一度、集め方を確かめた。
今度は火を形にする前に、感触がほどけた。鬼太郎は力を集めるのをやめ、手を下ろす。
「今日は、ここまでにします」
「狼と会う前に、使い切るなよ」
「ええ。まだ、今使える方が要りますから」
火は水と土で始末し、熱の残るところも確かめた。
座って水を飲んでから、鬼太郎は右手へ黒檀を持った。
◆
白い石の外で呼ぶと、グロブニクはしばらくして姿を見せた。
古傷のある左目の反対で、暗赤色の目が二人を見る。
「今日は、何を持ってきた」
「呼び寄せる呪文を、教えていただきました。杖とこちらの力で、お願いできますか」
鬼太郎は左手を開いた。
終わりと言えば切ること。キーノの声でも一度止めること。その条件を確かめると、狼は向きを変えた。
「入れ」
キーノは退路にならない外側へ移り、鬼太郎は地面を歩いて確かめた。
乾いた葉の溜まる窪みがある。離れたところには、拳ほどの石が転がっていた。白い境の石とは違う、小さな丸石だった。
狼がこちらを向くのを待ち、左掌を窪みへ向ける。
「ザン」
風に裂かれた葉が跳ねた。
「ザン」
その下へ風を送り、細かな葉を目の高さへ巻き上げる。
グロブニクの頭が、葉の向こうへ隠れた。
鬼太郎は横へ動いた。爪の音は、初めにいたところへ向かってくる。
狼は、姿が見えなくても位置を失っていない。
風を送るのをやめ、落ち始める葉の端へ掌を向けた。
「アギ」
火が移った。
乾いた葉が燃え、熱い空気と煙が二人の間へ広がる。
黒い身体は炎の薄い端を抜けた。
鬼太郎がその先へ杖を向けた時には、前脚がもう一歩外へ出ていた。予想したところへ、肩が来ない。
詠唱を止め、体ごと向き直る。
大きな頭が近かった。
鬼太郎は横へ足を出し、次に退くところを見た。
「一度、切ります」
狼の爪が土へ下り、頭が止まった。
「煙の後ろで、同じ所に立っているとは思わん」
「鼻と、耳もありますね」
「燃やせば、お前にも見えなくなる」
鬼太郎は背後を見た。
燃えた葉が落ち、黒くなった地面に小さな火が残っている。
キーノが外から指した。
「戻るなら、そこへ足を置くなよ」
「はい。先に片づけます」
中断したまま土をかけ、水も使った。煙が薄くなってから、次に使う場所をずらす。
グロブニクが伏せている間は、鬼太郎も待った。
二度目は、丸石のある方を確かめて立った。
石と狼と自分が、ほぼ一直線になる。
狼が動く。
「アクシオ」
石が地面を離れ、黒い身体の後ろから鬼太郎へ向かった。
グロブニクの耳が動いた。
大きく振り返ることなく体をずらし、石を脇へ通す。
鬼太郎は自分もその線から半歩外れ、黒檀を石へ残した。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
石の動きが変わった。
近づいてきた勢いを受け、斜め上へ持ち上がる。鬼太郎の頭より高くなった。
そのまま狼の避けた側へ――。
考えた時、グロブニクは既に、杖を上げた腕の外へ来ていた。
鬼太郎は石を狼のいない横へ下ろし、杖を戻した。
着地の音と、土を蹴る音が重なる。
肩を避けた先へ、前脚が伸びた。
身を低くしたものの、立ち直るより狼が向き直る方が早い。
「ここまでです」
牙が追うのをやめた。
鬼太郎は片膝をついたまま息を吐き、ゆっくり立った。
「後ろから来たのは、よかった」
グロブニクが石を見る。
「だが、上へ持っていく間、お前の手が分かった」
「浮かせてから、どこへ使うかを選びました」
鬼太郎は下ろした杖を見た。
袋で練習したところまでは繋がった。その後、相手にどう当てるかを、改めて考えた。
キーノが、止まった二人の方へ回ってくる。
「避けた先へ運びたいなら、上げてから考えるのでは遅いだろ」
「ええ。使うところまで、決めておく必要がありますね」
「決めても、我がそこへ行くとは限らん」
狼が言った。
鬼太郎は笑った。
「では、捨てる場所も、ですね」
新しい呪文が届いても、相手が待ってくれるわけではなかった。
礼を言い、石と焼け跡を二人で確かめる。火も熱い葉も残っていないのを見てから、白い石の外へ戻った。
◆
砦で休み、帳面へ図を残してから、学校へ帰った。
出発前に銃をホルスターごと右腰へ戻し、同じ固定の経路を使う。戻ったことを伝えた後も、呼び寄せた石が頭上へ行った時の腕の向きは、覚えていた。
その図へ線を足している間にも、春は近づいてきた。
窓から入る光が長くなり、中庭へ厚い上着なしで出る生徒が増える。
ハーマイオニーの羊皮紙には、科目と日付が並んだ。
「試験は、まだ先だろ」
ロンがその表を見て言った。
「あと十週間よ。覚えたつもりで間違えていたら、どうするの?」
ハーマイオニーは魔法薬の記録を引き寄せ、前に直した火加減の行を指した。
「順番を言えるだけでは、説明を間違えることもあるわ。そういうところを見直すの」
キーノは自分の表へ、同じ薬の手順を、理由まで書き直す日を加えた。
鬼太郎も、呼び寄せる呪文の横へ、浮遊術と違うところを説明する、と記した。
復活祭の休暇に入ると、課題まで増えた。
図書館で、鬼太郎は自分の文章の一部を消した。アクシオで近づけた物を、そのまま横へ動かせる、と書いていたところだった。
「そこからは、別の呪文ね」
ハーマイオニーが言う。
「ええ。続けて使ったので、一つの動きとして書いてしまいました」
呼び寄せた後は浮遊術へ切り替えた、と直す。先生に見せる時にも、その間に落とした失敗が、これなら消えなかった。
ハーマイオニーは書き直した行を見てから、書架の向こうへ目を留めた。
「ハグリッド?」
大きな背中が、棚の間にあった。
本の背を見ては入口を確かめ、また顔を戻す。縮こまっているつもりらしいが、肩も頭も棚に収まっていない。
キーノが羽根ペンを置いた。
「あれで、隠れているのか?」
ハグリッドは一冊抜き、三人の視線に気づくと、すぐ背中へ回した。
「勉強か」
近づいてきた声は、妙に弾んでいた。
「ええ。ハグリッドも調べもの?」
ハーマイオニーが尋ねる。
「ああ、ちょいとな」
「ハリーとロンに、面白いものを見せてくれるって言ったんでしょう?」
「聞いたのか。お前さんたちも、来りゃいい」
顔が明るくなった。
「何を見せてくれるんだ?」
キーノの問いに、ハグリッドは口を開きかける。
しかし近くの生徒を見ると、声を落とした。
「来てからのお楽しみだ。あんまり大勢に言うんじゃねえぞ」
鬼太郎は、背中から少しはみ出した本へ目を向けた。
森の被害を話した時とは違う。隠してはいるが、困った顔の中にも笑みが出かけていた。
「では、一区切りついたら伺いますね」
「ああ。小屋にいるからな」
ハグリッドは去り際にも振り返り、楽しみにしていろと言った。
大きな背中が出口へ消える。
「嬉しそうではあったな」
「ええ。ここで話すには、向いていないようですが」
鬼太郎は読みかけの頁へ戻った。
最後の説明を書き終えてから本を閉じ、ハーマイオニーと一緒に棚へ返す。
気になるものは、また増えた。
小屋へ向かう支度をするキーノの隣で、鬼太郎は、次の疑問を書ける頁を残して帳面をしまった。