第百二十一話 掠める光に、笑みは近づく
教室の奥で、木の棒が跳ねた。
鬼太郎は落ちる先へ目を移さず、横へ一歩出た。
杖先は人形へ残している。
「ええ、そこで止めてください」
フリットウィックの声がした。
鬼太郎は杖を下ろした。
先生はその足元を見てから、人形に棒を拾わせる。
「飛んだものを追わずに動けましたね。次の呪文を使う前に、相手を見る余裕もありました」
「前は、その間に杖を取られましたので」
鬼太郎が答えると、壁際で見ていたセドリックが笑った。
「今日は、簡単にはいかなそうだ」
鬼太郎も笑い返す。
隣では、キーノが自分の順番を待っていた。
彼女の武装解除で棒が飛んだ後、先生は二人に全身金縛りと解除も使わせた。
倒れた人形が、敷物の上で起き上がる。
フリットウィックは頷いた。
「二人とも、最初の日より安定しました。今日の手合わせでは、この二つも使ってよいでしょう」
鬼太郎の指が、杖の柄へ収まった。
セドリックは、それを見ていた。
◆
最初は、キーノの練習だった。
セドリックが杖を持ち、床の線に沿って歩く。
キーノはその手を見た。
「エクスペリアームス」
光が、腕の横を抜けた。
彼女は杖を下げず、セドリックへ向き直る。
外れた先を見ても、次は当たらない。
前の練習で言われたことを思い出し、足の位置を直した。
「もう一度、お願いする」
「分かった」
セドリックが戻る。
今度は、歩き始める前から杖の動きを整えた。
赤い光が届き、セドリックの杖が飛んだ。
キーノは彼から目を離さなかった。
「よいですね。外した後も、相手を見失いませんでした」
先生が杖を戻す。
キーノは息を吐いた。
「当てようとすると、手だけ追ってしまう」
「手がどちらへ動くかを見るには、身体と足も見なければなりません。ひとつの場所へ、目を留めすぎないことです」
鬼太郎は壁際で、その説明を聞いた。
キーノが次の構えへ移る。
最初に教わった日には、唱え終えてから杖を見ていた。
今は、相手へ残っている。
足も、前よりよく動く。
キーノがこちらを見たので、鬼太郎は小さく頷いた。
彼女はまたセドリックへ向き直った。
◆
二人が床の中央に立つと、フリットウィックは使える呪文をもう一度確認した。
鬼太郎は大きな黒い杖を、腰の前で持っていた。
セドリックは肩を一度回し、腕を下ろす。
先日の癖を、そのままにしておくつもりはないらしい。
鬼太郎は、相手の全身へ目を向けた。
肩だけを待ってはいけない。
向かいの足が、床を確かめる。
その動きも、見ておく。
「一礼を」
先生が言った。
二人は頭を下げた。
セドリックの顔には、まだ笑みがあった。
鬼太郎も同じだった。
「始め」
「エクスペリアームス!」
赤い光が来た。
鬼太郎は右足を少しずらした。
身体を斜めにする。
光は、杖を持つ腕のすぐ外を抜けた。
前回より、近い。
しかし、近い分だけ、鬼太郎の杖は相手へ向いたままだった。
「リクタスセンプラ」
セドリックが横へ動く。
その顔から、軽い笑みが消えた。
返ってくるのが、早かった。
◆
鬼太郎は、相手の次の構えを見た。
肩の動きは、小さくなっている。
ならば、杖が向く先を見る。
セドリックが唱えた。
「ペトリフィカス・トタルス!」
鬼太郎は上体を捻り、前の足へ体重を移した。
光が袖の外を通った。
後ろへ跳ばなかった分、間合いは残る。
杖を上げ直す必要もない。
「エクスペリアームス」
セドリックは手を引きながら、身体ごと位置を変えた。
鬼太郎の光が外れる。
その足が、半歩、前へ出た。
セドリックの杖が、またこちらを向く。
鬼太郎は笑った。
前の攻撃を避けた場所へ、次の光が来る。
身体を捻った後の、戻り先を狙っている。
いい返し方だった。
鬼太郎は戻ろうとしていた足を、そのまま前へ置いた。
小さく膝を折る。
光が、持ち上げた杖の上を抜けた。
近かった。
前世なら、もっと軽く動けた。
だが、今はこの脚の長さで、床へ足を置かなければならない。
膝を戻す瞬間、少し遅れる。
セドリックは、その遅れを見逃さなかった。
◆
キーノは、床の線の外で指を握った。
見ていて、息が止まりそうになった。
光が通るたび、鬼太郎の身体のすぐそばだった。
最初の手合わせでは、もう少し大きく避けていた。
今日は、相手の杖が上がっても、ぎりぎりまでそこにいる。
危ない。
そう思うたび、光が抜けた後には、鬼太郎の呪文が返っていた。
本人は、それを楽しんでいる。
さっきより、笑みが深い。
せっかく呪文を覚えてきたのに、今度は避ける場所まで狭くしている。
キーノは少し呆れた。
それでも、声は出さなかった。
先生が、二人を見ている。
その手には、既に杖があった。
◆
セドリックは、鬼太郎が膝を伸ばすところへ武装解除を使った。
鬼太郎は、それを今度は大きく避けた。
左へ踏み出す。
杖が相手から外れ、すぐには反撃できない。
セドリックが中央へ寄った。
追いつめるための位置を、また取られている。
鬼太郎は息を吸った。
いまの足の置き方は、浅かった。
小さく動けば必ず速く戻れるわけではない。
身体が次へ動ける場所に、足を残さなければならない。
銃口と、牙と、刃の間で覚えたことだった。
その頃の感覚が戻っても、身体は昔のものではない。
鬼太郎は立ち直ると、足を少し開いた。
セドリックの杖が動く。
今度は、身体を傾けるだけで避けられる線だった。
光が来る。
足は残す。
肩を引き、杖を持つ腕を射線から外す。
セドリックの呪文が抜けたとき、鬼太郎はもう唱え始めていた。
「ペトリフィカス・トタルス」
セドリックが後ろへ下がる。
初めて、鬼太郎の前に、少し長い空間ができた。
◆
フリットウィックは、二人の杖先を見ていた。
墓場の回避は、危ういほど小さい。
その分、相手へ向けていた杖を戻す時間が少ない。
ディゴリーが唱え終えて構え直すところへ、次の呪文が返る。
動きが小さくなるほど、攻撃の機会が増えていた。
だが、一度、足の位置が合わなかった。
そのときの墓場は、間合いを大きく離して立て直した。
どの攻撃も同じ幅で避けるつもりではない。
先生は杖を持つ指を緩めず、鬼太郎の顔へ目を向けた。
笑っている。
苦し紛れに笑っているのではなかった。
相手が動きを変え、それへ自分も応じる。
光が近くを抜ける瞬間にも、その先の攻撃を探している。
この子は、戦うことそのものを楽しんでいる。
前の手合わせでも、そう見えた。
今日は、その楽しみ方がもっとよく分かった。
単に勝ちたいだけなら、もう少し違う選び方もできる。
危険を承知で、その距離へ残る。
残った場所から、相手の隙へ手を伸ばす。
フリットウィックは、次の光がどちらから出るかを見た。
◆
セドリックは、すぐに下がり続けるのをやめた。
前回、それをしない理由を自分で話したばかりだ。
横へ位置を変え、鬼太郎の杖を追わせる。
鬼太郎も向きを変えた。
セドリックの杖が、胸の前へ戻る。
その間に、鬼太郎は足を進めた。
相手が構える。
まだ、撃たない。
セドリックは、鬼太郎が先に避けるのを待っていた。
鬼太郎の口元が上がった。
誘っている。
自分が動いた先へ、杖を向けるつもりだ。
ならば、こちらから使えばいい。
「リクタスセンプラ」
セドリックが横へ踏み出した。
呪文は外れた。
だが、先生に言われたとおり、光の行方を見る必要はなかった。
鬼太郎はセドリックの杖を見たまま、自分も位置を変えた。
避けるために引かれた腕が、また前へ出てくる。
「エクスペリアームス!」
セドリックの声がした。
鬼太郎は半歩だけ、斜めへ出た。
赤い光が、黒い杖の外を抜ける。
その近さを、今度は足が支えた。
「リクタスセンプラ」
返した呪文が、セドリックの脇腹へ届いた。
息が漏れる。
セドリックの肩が揺れた。
それでも、手は持ち上がる。
前と同じように、唱えるつもりだった。
鬼太郎は、それを見た。
倒れもしない。
止まりもしない。
ただ、杖が向くまでの動きに、僅かな乱れがある。
欲しかったのは、その時間だった。
「エクスペリアームス」
赤い光が、セドリックの手を捉えた。
杖が離れる。
鬼太郎は相手へ杖先を残した。
セドリックの足が、落ちる杖の方へ動きかける。
「そこまで」
先生の声が入った。
二人は止まった。
宙で杖が静まる。
鬼太郎は息を吐いた。
セドリックを見たまま、その顔に笑みが広がった。
◆
フリットウィックが呪文の効果を解くと、セドリックは脇腹へ手を当てた。
「今度は、返せなかったな」
まだ少し息が乱れている。
先生から杖を受け取り、鬼太郎へ顔を向けた。
「前より、ずっと早く次が来た」
「使える呪文が、増えましたので」
「それもあるけど、避けた後だよ。こんなに近くを通ってた」
セドリックが、自分の袖の外へ手を置いた。
鬼太郎は頷いた。
「離れると、僕も杖を向け直す必要があります。あの位置に残れれば、そのまま返せますから」
「当たると思わなかった?」
「一度、危ないと思いましたね。足を置く場所が、合いませんでした」
鬼太郎は床を見る。
「今の身体では、あそこまで膝を落とさない方がよさそうです」
セドリックは、少し不思議そうな顔をした。
フリットウィックが二人のそばへ来る。
「墓場。最後の武装解除は、よい使い方でした。相手がまだ動けると確かめてから、次へ繋げましたね」
「はい。前に、止まると思って失敗しましたので」
「回避の後も、杖を相手へ残せていました。ただ、その避け方は、相手の呪文が少し違えば、同じようにはできません」
先生は自分の杖を持ち上げた。
「手元を狙う一筋の光と、周りへ広がる呪文では、避ける場所が違います。知らない呪文まで、同じ近さで通そうとしてはいけませんよ」
「ええ。読めないものには、距離を取ります」
鬼太郎は答えた。
「今日は、ディゴリーさんが使うものを聞いていましたから」
「それでも、発動の強さや狙いは変わります。今の身体で、どこまで動けるかもね」
先生の目が、鬼太郎の足へ向いた。
鬼太郎は先ほどの遅れを思い出し、頷いた。
危ないから、やめる。
そう言われたわけではなかった。
残る場所を選び、選べないものからは離れる。
その判断を、もっと正確にする必要がある。
「ディゴリー。あなたも、前の手合わせで見られた癖を直してきましたね。相手が避けた先へ、狙いを変えたところもよかった」
セドリックが頷く。
「でも、最後は避けさせたつもりが、すぐに返されました」
「ええ。ですから、今度はその返し方を知ったうえで、考えてみなさい。二人とも、前と同じ手合わせにはなりませんでした」
先生は二人を見て笑った。
「それが、練習した成果です」
◆
キーノが帳面を運んできた。
鬼太郎は礼を言って受け取り、壁際の机へ向かう。
セドリックも隣へ座った。
「最後のくすぐりの呪文、先に一度外しただろう。あれも、次のため?」
「動いていただければ、次に杖を戻すところを見られます。ただ、当たれば、そのまま武装解除を使うつもりでした」
「どっちでも、続けるつもりだったんだ」
鬼太郎は頷いた。
「そちらも、僕が避けるところを待っていましたね」
「先に動いてくれれば、そこへ向けようと思ってた。でも、君から使われた」
セドリックが机の上で、自分の杖を少し動かす。
鬼太郎はその向きへ目を落とし、帳面へ書き込んだ。
二人は、終わった攻防をもう一度辿っていた。
キーノはその横で、鞄を持った。
鬼太郎が杖を奪えたのは、よかった。
練習していたことが、動く相手にも通じた。
けれど、彼の笑顔は、勝ったからというだけではない。
セドリックの問いを聞くたび、次はどう動くかを考えている。
危ういところを通った後ほど、楽しそうだった。
目を離したら、こいつはもっと危ないところまで踏み込みそうだ。
戦う楽しみを知るほど、その先へ行きたくなるのだろう。
そばで見ているだけでは、足りない。踏み込みすぎたとき、声をかけて止める誰かが必要だ。
なら、私が近くにいよう。危ないと思ったら、遠慮せずに言ってやる。
キーノはその思いを口には出さず、自分の帳面も開いた。
彼女には、外した一回を直す課題があった。
◆
フリットウィックは、机へ向かう三人を見た。
墓場とディゴリーは、勝敗が決まった後にも話を続けている。
キーノは二人の説明を聞きながら、自分の記録へ戻っていた。
古いクラブの練習場にも、こういう時間があった。
先生は教卓へ戻り、次に使う敷物を確かめた。
クラブを再開できれば、違う相手とも練習させられる。
だが、今はこの三人へ教える時間を、きちんと続けよう。
墓場には、小さく避けた後の足の位置を見直させたい。
ディゴリーには、返ってくる呪文まで考えた構えを。
キーノには、相手の移動に合わせた狙い方を。
先生は予定を開いた。
「三人とも。次は、この日にしましょうか」
机から顔が上がる。
返事を聞き、フリットウィックは新しい日を書き込んだ。
◆
教室を出ると、鬼太郎は一度、指を開いた。
まだ、杖を向けた感触が残っている。
セドリックは階段の手前で振り返った。
「次は、取られないようにするよ」
「では、僕も別の取り方を考えておきます」
「そっちも、取られない方を考えた方がいいんじゃない?」
「ええ。それもですね」
二人は笑った。
セドリックが去ると、キーノは鬼太郎の横へ並んだ。
「二つとも、手合わせで使えたな」
「ええ。全身金縛りは当たりませんでしたが、避けていただけました」
「武装解除は、当たった」
「練習した甲斐がありましたね」
鬼太郎は鞄へ触れた。
セドリックには、杖がある。
手から奪えば、攻め方を変えさせられる。
森の相手には、奪う武器がないこともある。
グロブニクが牙を向けて走ってくれば、今日のように赤い光を待つわけにはいかない。
全身金縛りが通じるかも、まだ確かめていなかった。
「次に森へ戻ったら、試したいことが増えました」
鬼太郎が言った。
キーノは顔を向ける。
「グロブニクに、相手をしてもらうのか」
「応じてくだされば。杖の呪文と、僕の魔法を合わせて使ってみたいです」
足を止めずにブフへ繋ぐ。
相手が動きを変えたところへ、別の呪文を使う。
今日、杖だけで覚えた感触を、身体の中の力とも繋げる。
あの牙の前では、効いたと思って待っている時間はない。
鬼太郎は、森の湿った土を思い出した。
教室の床とは、足の置き方も変わる。
「先に、森の様子を聞かないとな」
キーノが言った。
「ええ。密猟者が入っているなら、そちらからです」
森の者たちを守る約束は、続いている。
罠を仕掛け、獲物を運び出そうとする者がいれば、狩る。
その相手が杖を持っているなら、今日覚えたことも使えるだろう。
ただし、相手の使う呪文は、始まる前に聞けない。
フリットウィックの言葉が、まだ耳に残っていた。
読めるものは、近くで躱す。
分からないものからは、離れる。
判断を誤れば、次を楽しみにすることもできなくなる。
鬼太郎は廊下の窓へ目を向けた。
日暮れの光が、石の床へ落ちている。
前世では、戦いの後にも、また戦いがあった。
覚えたことを確かめる機会は、望まなくても来た。
今は、戻る教室がある。
失敗した動きを直す時間も、次に杖を向ける相手もいる。
鬼太郎は、そのことを好ましく思った。
キーノは隣で、彼の横顔を見た。
森の話になっても、笑みは消えていなかった。
あれだけ教室で戦った後なのに、もう次の場所を考えている。
彼女は小さく息を吐き、それから自分の鞄を持ち直した。
「戻ったら、宿題を終わらせるぞ」
「ええ。今日の記録も、その後に」
鬼太郎は窓から目を戻した。
さっき躱した光の近さを、まだ覚えている。
あの位置なら、次へ手が届いた。
もう少し、正確に動けるようになりたい。
鬼太郎は、キーノと並んで談話室へ向かった。