第百二十二話 帰る森にも、牙は待つ
足が土へ着いた途端、鬼太郎は冷たい空気を吸い込んだ。
湿った落ち葉の匂いがした。
城の廊下にはない匂いだった。
キーノが隣で身体を起こし、サーシェスは二人が手を離したのを確かめて、ポートキーを収めた。
「着いたぞ。荷物は先に置いてこい」
拠点の屋根が、木々の間に見えた。
鬼太郎は鞄を抱え直す。
学校で過ごす日は、授業の鐘と、廊下を歩く人の声で区切られていた。
森では、枝が鳴る。
木の上で、何かが動く。
鬼太郎がそちらへ顔を向けると、葉の間から小さな姿が覗いた。
すぐに引っ込み、奥の枝へ移る。
サーシェスが、その動きを目で追った。
「帰ったって知らせに行ったな」
「ええ。先に、留守中のお話を聞きたいですね」
鬼太郎は歩き出した。
キーノも、森の奥へ目を向けてから続いた。
◆
荷物を置き終える前に、ヴィーラが一人、拠点へ来た。
鬼太郎は扉の前へ出た。
彼女の裾には泥がついていた。息が少し速い。
「人間が入っている」
挨拶より先に、そう言った。
「いつからですか」
「今朝。北の沢の向こうで、罠が見つかった。近くにいた二人が、戻っていない」
サーシェスが壁へ立てていた銃を取った。
「人数は?」
「三人は見た。全員、杖を持っている」
鬼太郎は袖口を確かめた。
杖を取り、キーノを見る。
彼女も、既に杖を持っていた。
「案内していただけますか」
ヴィーラが頷く。
「狼も、そちらへ行った。人間の匂いを追っている」
グロブニクも、約束を果たしている。
鬼太郎は森へ目を向けた。
「では、僕たちも行きましょう」
◆
最初の罠は、沢へ降りる道にあった。
落ち葉の下へ、細い輪が隠されている。
引かれた線を辿ると、根の陰に金属の留め具が見えた。
鬼太郎は屈みかけ、途中で止まった。
その横にも、足跡があった。
一人が罠を仕掛け、もう一人が立っていたらしい。
土はまだ新しく崩れている。
サーシェスが鬼太郎の肩越しに見た。
「近いな。先に奴らを片づける。罠は後だ」
「ええ」
案内のヴィーラは、この先の窪地を指した。
「声がしたのは、あちら」
サーシェスは木々の間へ目を走らせた。
「俺は回る。坊主、檻があったら、そっちへ撃たせるなよ」
「分かっています」
「キーノは、捕まってる連中を見ろ」
キーノが頷いた。
鬼太郎は彼女へ顔を向ける。
「相手が残っているうちは、檻へ急がないでください」
「ああ」
サーシェスが、沢沿いの低い場所へ消えた。
鬼太郎は木の陰から、窪地を覗いた。
◆
檻は、倒木の脇に二つ置かれていた。
ヴィーラがそれぞれ一人ずつ、膝をついている。
片方は顔を伏せ、もう一方は格子を握っていた。
その前で、男が縄を荷物へ巻いている。
別の男は沢の方を見張り、三人目が、開いた鞄の中身を確かめていた。
腰の杖。
指についた泥。
罠を仕掛ける道具が、倒木の上に並んでいる。
鬼太郎は男たちの位置と、檻の間を見た。
ここで炎を広げれば、捕らわれた者へも届く。
木々を倒しても、同じだった。
サーシェスが回り込む場所を、もう一度確かめる。
キーノへ手で待つよう示し、鬼太郎は木の陰を出た。
「その方たちを、どうするおつもりですか」
縄を持つ男が顔を上げた。
鞄の前にいた男も振り向く。
「……ガキ?」
腰へ手が動いた。
鬼太郎は、そちらへ杖を向けた。
「エクスペリアームス」
男が抜いた杖は、手に収まる間もなく飛んだ。
鬼太郎はその行方を追わなかった。
相手を見る。
男は空になった手を見て、顔を強張らせた。
縄を持っていた方が、杖を抜く。
沢を見張っていた男も、声を上げた。
鬼太郎は、檻から離れる方向へ動いた。
◆
最初の呪文は、横を抜けた。
鬼太郎は半歩出て、縄の男へ杖を向ける。
「ペトリフィカス・トタルス」
男が倒木の陰へ身を伏せた。
外れる。
鬼太郎は止まらなかった。
足元の土が、教室よりも柔らかい。
踏み込む角度を少し変え、根の脇へ足を置く。
倒木から男の腕が出てくる。
「ジオ」
電撃が、杖を持つ腕へ走った。
声が上がる。
握りが緩む。
鬼太郎は身体の揺れを見てから、杖を向け直した。
「ペトリフィカス・トタルス」
今度は、腕と脚が揃った。
男が硬い姿勢のまま、横へ倒れる。
使えた。
鬼太郎の口元が上がった。
同時に、沢の方で銃声がした。
見張りの男が崩れる。
キーノは、その男が動かないことを確かめてから、檻へ走った。
残るのは、最初に杖を奪った男だった。
◆
男は片手を上げていた。
鬼太郎を見る目が、沢と、木々の間を行き来する。
逃げる道を探している。
鬼太郎は、その足を見た。
後ろへ下がる一歩が、小さい。
上げた手とは逆の腕が、身体の後ろへ隠れていた。
「待て。俺は――」
男の肩が動いた。
腰の後ろから、細い杖が出てくる。
鬼太郎は足を動かした。
呪文の声が、男の口から弾けた。
光が、さっきまで鬼太郎の胸があった場所を抜けた。
予備の杖。
鬼太郎は大きく位置を変え、近くの幹へ片肩を寄せた。
知らない呪文だった。
ぎりぎりまで残るつもりはなかったが、それでも光は近かった。
外れた呪文が後ろの木へ当たり、樹皮が弾ける。
その音を聞きながら、鬼太郎は男を見た。
「もう一本、持っていましたか」
笑みが浮かんだ。
先生の言葉が、実際の手になって目の前へ出てきた。
杖を奪っても、終わりではない。
自分だけではなかった。
◆
男は、二本目の杖を握り直した。
不意打ちが外れたと分かると、今度は逃げながら使おうとする。
鬼太郎は前へ出た。
「ブフ」
冷気が、男の足元へ届いた。
濡れた土と落ち葉が凍り、靴底が滑る。
男は脇の幹へ手をついた。
身体を支えながら、杖を向ける。
鬼太郎はその先端を見た。
先ほどの呪文が、もう一度来る。
今度は、前より距離がある。
光が出る。
鬼太郎は肩を引いた。
幹へ当たったときの弾け方も、頭に残っていた。
近くに木のない方へ身体をずらし、光を通す。
土が、後ろで跳ねた。
「エクスペリアームス」
男が腕を引く。
奪われたくないのだろう。
そのせいで、杖先が一度鬼太郎から外れた。
鬼太郎には、ジオを届かせる時間があった。
男の足場は悪い。
後ろへ逃げれば、凍った土へ乗る。
ここで動きを止め、終わらせられる。
鬼太郎はそう分かっていた。
けれど、男の杖が戻ってくるところを、もう少し見たかった。
二本目を隠していた者が、次は何を選ぶのか。
今度はこちらの回避へ、どう狙いを変えるのか。
男の手が上がる。
鬼太郎の笑みが深まった。
◆
キーノは、格子の前で杖を止めた。
錠を開ける方法を確かめているところだった。
檻の中のヴィーラが、倒木へ置かれた鍵を指す。
キーノはそれを取り、扉を開いた。
「歩けるか」
相手が頷く。
もう一つの檻へ向かう前に、鬼太郎の姿が目に入った。
男は木に寄りかかっている。
鬼太郎は、その手が上がるのを待っていた。
動けないわけではない。
さっきまでは、呪文を避けた瞬間に返していた。
今は違う。
相手がもう一度使うところを、見ようとしている。
キーノには、その顔が分かった。
セドリックへ杖を向けていたときにも、同じように楽しそうだった。
けれど、ここには、止める合図を出す先生はいない。
男の杖が、鬼太郎へ向く。
キーノは声を出した。
「鬼太郎、もういい。そいつに付き合うな」
鬼太郎の目が、こちらへ動いた。
ほんの一瞬だった。
そのまま男へ戻る。
男が唱え始めた。
「ジオ」
電撃が、その声を途切れさせた。
鬼太郎は足を進めた。
杖が下がる。
男の指から、二本目が落ちた。
鬼太郎は今度は、次の構えを待たなかった。
身体を支えていた腕が崩れ、男が幹に沿って沈む。
鬼太郎は銃を抜いた。
短い音が、木々の間へ響いた。
◆
グロブニクは、斜面の上にいた。
鼻先には、火薬と血の匂いが届いている。
朝から追っていた人間たちの匂いだった。
森へ入り、罠を置き、獲物を引きずった者たち。
沢の向こうへ回れば、逃げる先を塞げる。
そうして近づいたとき、別の匂いが混じった。
小さい人間が、帰っていた。
グロブニクは、幹の間からその姿を見た。
前に牙を向けたときとは、動きが違う。
相手の光が抜ける場所に、身体が残っていない。
しかし、大きく離れもしない。
避けた後には、もう次の力が出る。
細い木から出る光と、あの身体から来る冷気や雷が、続いていた。
片方を躱しても、もう片方が来る。
グロブニクは、伏せていた前脚へ力を入れた。
人間たちは弱い。
自分が出れば、すぐに終わる。
だが、戦っている小さい方は、前より手を伸ばせるようになっていた。
自分の毛を揺らしただけで終わった光も、別の相手には働く。
ならば、次は何を持ってくる。
グロブニクの唇が、僅かに上がった。
牙が覗く。
次に戦うときは、少し楽しめそうだった。
斜面の下で、男が倒れた。
グロブニクはその先まで見届け、鼻を地面へ寄せた。
ほかに逃げた者がいないか、まだ確かめる必要があった。
◆
鬼太郎が銃を戻す頃には、サーシェスが倒木の脇へ来ていた。
全身を固められた男の杖を、先に拾う。
その男が、まだ目だけを動かしているのを見て、鬼太郎へ声をかけた。
「こいつは、どうする」
鬼太郎は罠の道具へ目を向けた。
縄と鎖。
檻の中で、腕を擦るヴィーラ。
「残す理由は、ありませんね」
「だろうな」
サーシェスが倒木の陰へ回った。
鬼太郎はキーノの方へ歩いた。
二人目のヴィーラも、檻から出ていた。
案内してきた者が、その肩を支えている。
「怪我はありますか」
「手首を少し。……助かった」
鬼太郎は腫れた場所を確かめた。
後ろで、銃声が一度した。
キーノは振り返らなかった。
鬼太郎が彼女へ顔を向ける。
「先ほどは、ありがとうございました」
「止められたのに、待ってただろ」
「ええ」
鬼太郎は否定しなかった。
「もう一度、使わせてみたくなりました」
キーノは、その顔を見た。
悪びれてはいない。
けれど、自分がなぜ声をかけたかは、分かっているらしい。
「ここは、先生の教室じゃない」
「そうですね」
「私は、危ないと思ったら言うからな」
鬼太郎は少し黙り、それから頷いた。
「ええ。聞こえました」
キーノは杖を収めた。
次も、聞こえるように言うつもりだった。
◆
沢の上から、低い唸りが届いた。
鬼太郎が顔を上げる。
幹の間に、大きな身体があった。
グロブニクは、斜面からこちらを見下ろしていた。
サーシェスが肩へ銃を担ぐ。
「そいつも、追ってたんだな」
「ええ。先にお仕事を取ってしまったようです」
鬼太郎は少し前へ出た。
グロブニクの目が、杖と、鬼太郎の足へ動く。
見ていたのだろう。
鬼太郎は笑った。
「明日、少しお付き合いいただけますか」
グロブニクは、長い尾を一度振った。
爪が、斜面の土を掻く。
その目は、鬼太郎から外れなかった。
キーノは二人の間を見た。
ついさっき戦いを終えたばかりだ。
もう、次の相手へ誘いをかけている。
今度は、向こうも待っているようだった。
グロブニクが鼻を鳴らし、身体を翻した。
大きな足音が、木々の向こうへ去る。
鬼太郎はそれを見送った。
明日は、今日と同じ幅で避けてはいけない。
あの牙だけではなく、肩と、前脚と、身体全体が来る。
そう思うと、試したい動きが浮かんだ。
◆
罠を外し終えるまでに、日が傾いた。
侵入者が歩いた道を辿ると、最初に見つけたもののほかにも、幾つか仕掛けられていた。
サーシェスが、道具と杖をまとめる。
死体と檻の始末は、集まってきた森の者たちが引き受けた。
鬼太郎は、回収した二本の杖を並べて見た。
長さも、握りの形も違う。
どちらが普段使うものだったかまでは分からない。
ただ、二本目も、あの男の手で呪文を出した。
帳面へ残すことが、また一つ増えた。
◆
拠点へ戻ると、鬼太郎は銃の手入れを済ませてから、机へ帳面を開いた。
武装解除の記録の下へ、予備の杖、と書く。
相手が片手を上げても、もう片方が見えなければ、終わってはいない。
倒木の陰へ外れた全身金縛り。
ジオの後には、相手の動きが崩れて当てられた。
学校で覚えた呪文を、前世の力と続けて使えた。
鬼太郎は、その順番を書き留めた。
キーノが隣へ来る。
自分の帳面を置き、鬼太郎の頁へ目を落とした。
「足元のことも、書けよ」
「ええ。城の床とは、違いましたね」
柔らかい土。
濡れた根。
自分のブフで凍った場所も、次に踏めば滑る。
鬼太郎はそれを足した。
ペンを止め、最後の攻防を思い出す。
二本目の杖が戻ってくる。
その先を見たくなった。
キーノの声が届いた。
鬼太郎は、相手へ次を使わせずに終わらせた。
「何だ」
顔を向けられて、キーノが尋ねた。
「いえ。声をかけていただいたところを、思い出していました」
「また同じことをしたら、また言うぞ」
「ええ」
鬼太郎は頷いた。
戦うことが楽しいのは、変わらない。
できれば、もう一度見たい動きもある。
それでも、彼女の声を聞いて終わらせることは、できた。
鬼太郎は帳面へ目を戻した。
窓の外から、遠い獣の声が聞こえた。
明日は、グロブニクが相手になる。
人の形をした相手に通じた呪文が、どこまで働くか。
爪を避けた後にも、杖を向ける時間が残るか。
考え始めた鬼太郎の前へ、キーノが杯を置いた。
「今日は、もう休め」
鬼太郎は杯を受け取った。
温かかった。
「ええ。明日の分も、残しておきませんと」
キーノは何か言いかけて、やめた。
先に自分の杯へ口をつける。
鬼太郎は帳面を閉じた。
森へ帰ってきた日の頁には、教室で知った言葉が、実際の攻防として残っていた。
その最後に聞いた声も、忘れずに。