第124話 最後に立つ脚
グロブニクの後脚が、土を蹴った。
鬼太郎は左掌を向けた。
「ザン」
風が黒い胸の毛を押し分ける。傷はつかない。それでも迫る速さが僅かに落ちた。
右へ足を出し、伸びてくる前脚へ黒檀を向けた。
「エクスペリアームス」
赤い光が、爪の付け根をかすめた。足先の向きが外れ、鬼太郎のいた場所を爪が削る。
肩を越えて、後ろへ回る。
そのつもりで踏み込んだ先に、大きな顎が来た。
グロブニクは、前脚を振り抜いたままにはならなかった。
鬼太郎は左掌を向け直す。
「ブフ」
白い霧が首と肩を包んだ。全身は凍らず、毛の表面に霜がつく。
肩を引く動きが遅れた分だけ、顎の外へ抜けられた。
だが、狼はそこで止まらなかった。
こちらへ向き直りながら、既に次の足を出している。
鬼太郎は、根の脇に横たわる倒木へ杖を向けた。グロブニクの身体に匹敵する大きさの、太い木だった。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
倒木の一端が持ち上がり、続いて幹全体が地面を離れた。鬼太郎は杖を上げ、近づく狼の頭上へ斜めに運ぶ。
グロブニクが次の足を出すところへ、黒檀を振り下ろした。
倒木が傾き、狼へ向かって落ちる。鬼太郎はその勢いを残して呪文を解いた。
グロブニクが横へ跳んだ。
太い幹が、直前まで狼のいた地面を叩いた。土と葉が跳ね、残っていた枝が折れる。
鬼太郎は杖を戻しながら、狼の着地する先へ左掌を向けた。
「アギ」
横へ避けた肩へ、炎が届いた。
焦げた毛の匂いがする。
当たった、と見届ける間にも、黒い身体は向かってきた。
火傷を負わせても、それだけで足が止まる相手ではなかった。
鬼太郎は斜めへ退き、湿った地面へ左掌を低く向ける。
「ブフ」
浅い水たまりから、縁の草まで白くなった。
狼の前脚が氷の端へ乗る。爪が土を探し、足が僅かに流れた。
鬼太郎は自分が戻る方を、凍った縁から外した。そこへ足を置くつもりなら、先ほどの冷気も自分の邪魔になる。
踏ませる場所を作った後は、その横の道も覚えておく。キーノに止められた時のように、最初の地面のつもりでは退かなかった。
鬼太郎は、その足へ杖を向けた。
「ペトリフィカス・トタルス」
光が脚の毛へ届いたが、動きは止まらなかった。
グロブニクは氷を踏み割り、頭を低くする。
「ジオ」
鬼太郎は顔を狙った。
電撃が走るより先に顎を引かれ、背の毛へ当たった。光が毛の間を走り、肩が小さく震える。
それでも、前脚は次の土を掴んだ。
鬼太郎は左へ動き、地面に転がる岩を見た。
人の胴ほどもある岩だった。狼がこちらへ向き直ると、その背後に隠れる。
「アクシオ」
岩が土を削って動き、地面を離れた。グロブニクの背後から、重い塊が迫る。
グロブニクの耳が動き、身体が横へ外れる。
鬼太郎も岩の進む線から外れ、右手を動かした。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
近づいてくる岩を受け止め、斜め上へ持ち上げる。
前のように、頭上へ運んでから使い方を考えるつもりはなかった。狼が曲がった先へ持っていき、肩の上から落とす。
黒い頭が、こちらを向いた。
口が開く。
◆
咆哮が響いた。
胸へ、見えないものがぶつかった。
鬼太郎の踵が滑る。ローブが後ろへ張り、頬へ葉が打ちつけられた。
音だけではなかった。
あの距離でも届く。物を浮かせている間も、口が開くところを見なくてはならない。
そう覚えた時には、岩を落としたい場所も、自分が立っていた場所もずれていた。
浮かせた岩まで押され、狼の肩から外れていく。
鬼太郎が杖を引き戻した時、口を閉じたグロブニクが地面を蹴った。
横へ捻る。
正面から胸を受けることは避けたが、狼の肩が脇腹へぶつかった。
足が浮いた。
息が声になる前に押し出され、背と腰が地面を打つ。
鬼太郎は指を締めた。黒檀は、まだ右手にある。
岩が横の土へ落ち、地面を窪ませた。
見上げた先に、もう前脚が来ていた。
鬼太郎は起き上がらずに転がった。
爪が、頭のあった場所へ入る。
「エクスペリアームス」
地面から、鼻先へ杖を向けた。
赤い光を受けた頭が横へ逸れる。その間に右足を立て、身体を起こした。
息を吸うと、脇腹が痛んだ。
吸えないわけではない。目も、相手を追えている。
グロブニクはすぐに向き直った。
口を開くのかと見た瞬間、横から前脚が来た。
鬼太郎は脚を引く。
間に合わなかった。
爪が左腿の外側を裂いた。
ローブと、その下の布まで切れる。熱い痛みが走り、左膝が落ちかけた。
右足へ重さを移す。
腿を伝う温かいものを感じながら、鬼太郎は低い木の根を回った。
その外には、折れ口の合う二片の木が転がっている。始める前に、位置を確かめたものだった。
狼の前脚が、その間へ出る。
「レパロ」
木が戻り、足先の前で折れ口が閉じた。
脚を押し潰す太さはない。だが、踏み出すところへ木が現れ、グロブニクは一度、爪を掛け直した。
鬼太郎は、その間に左掌を腿へ押し当てた。
「ディア」
開いた傷へ力を通す。
血の流れる量が減った。痛みも薄れるが、全部を治す時間はなかった。
木が軋み、狼の足が越えてくる。
鬼太郎は掌を離し、右足から動いた。
傷を塞いだからと、すぐ左脚へ同じ重さを掛けられるわけではない。
グロブニクは、その違いも見ていた。
◆
キーノは、踏み出しかけた足を止めた。
鬼太郎は、まだ相手を見ている。
腿へ手を当てる間を自分で作り、狼が越えてくる前に動いた。脇腹をかばう捻り方にはなったが、退いた先を見失ってはいない。
狼にも火傷があった。
氷を踏んだ脚を置き直しながら、それでも鬼太郎へ追いついていく。
キーノは杖を握ったまま、二人が動く範囲の外を回った。
声を掛ければ、止まる約束だ。
鬼太郎が痛がるのを見るために来たのではない。けれど、傷がついたらすぐ終わらせるという約束でもなかった。
次の足を、置けるか。
相手を見たまま、まだ手を選べるか。
キーノは、彼の左脚と顔を見た。
◆
鬼太郎は、氷の残る場所を横目で確かめた。
そこを踏まずに来るなら、狼は乾いた葉の溜まった側へ回る。
左掌を地面へ向けた。
「ザン」
葉が裂け、跳ね上がった。
風を送るのをやめ、落ち始めるところへ火を放つ。
「アギ」
赤い炎が広がった。
爆ぜる衝撃はない。葉が燃え、熱と煙が、回り込む場所を狭める。
グロブニクは氷の側へ足を移した。
口が開いた。
鬼太郎は今度は正面に残らず、幹の脇へ身体を寄せた。
咆哮が、炎と葉を押し散らす。
熱い欠片が袖へ当たり、鬼太郎は肩を振って落とした。
狼の前脚は氷を割り、土を掴んでいた。声で作った通り道へ、黒い身体が出てくる。
「便利な力を、覚えられましたね」
息を整えながら言うと、グロブニクが顔を向けた。
「お前だけが、強くなっていると思ったか」
「いいえ」
鬼太郎は笑った。
「だから、勝ちに来たんです」
黒檀を向ける。
「ルーモス」
一瞬、強い光が出た。
グロブニクは目を閉じたが、足を止めなかった。光が出たところへ前脚が来る。
鬼太郎は既に横へ動いていた。
以前見せた光だ。これだけで、こちらを探せなくなるとは思っていない。
狼の進む先には、初めから大きく割れていた岩があった。
片側は地面に深く沈み、もう片側が少し離れて横たわっている。開始前に見た、割れ口の合う二つだった。
鬼太郎は、地面から離せる方へ杖を向けた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
大きな岩片の端が浮いた。高くは上げず、地面に残る半分へ寄せていく。
狼が向き直る。前脚が、二つの割れ口の間へ入った。
鬼太郎は左掌を向けた。
「プリンパ」
一瞬、頭の動きが止まった。
鬼太郎の頭の奥へ、重いものが返ってくる。
息が詰まった。
長くは、乱せない。
「レパロ」
割れ口が戻った。
岩片が土を削って引き寄せられ、地面に残る岩との間へ、グロブニクの前脚を挟み込む。
グロブニクが低く唸った。
狼が足を引いた。だが、岩は脚について持ち上がらない。地面に沈んだ半分が支えとなり、前脚をその場へ留めていた。
鬼太郎は杖先を、その脚へ残した。
「ペトリフィカス・トタルス」
狼が身を捻る。
光は毛に当たり、脚を固めなかった。
岩の接ぎ目が鳴った。
グロブニクは残る三本の脚で踏ん張り、挟まれた脚へ力を掛けた。肩が盛り上がり、閉じた割れ目へ細い亀裂が走る。
鬼太郎は、もう一度意識を乱すことを考えかけた。頭の重さは、まだ残っている。
同じように止まる保証もない。
鬼太郎が手を変えようとした時、グロブニクはもう一度、全身を捻った。
裂けるような音がした。接ぎ目の周りが砕け、大きな岩片が傾く。
開いた隙間から、前脚が抜けた。
それを見た鬼太郎の左足が、一拍遅れて地面を踏む。
腿の傷だけではない。背と脇腹の痛みも、息の短さも、戻す動きを鈍らせていた。
狼も口を開けて呼吸している。
挟まれていた足を、一度振った。
鬼太郎は、その隙へ杖を向けた。
まだ、動かせるものはある。
最初に投げ落とした倒木へ、もう一度、黒檀を向けた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
太い幹が再び浮く。鬼太郎は狼の踏み込む先、その斜め上へ運び、今度こそ投げ落とそうとした。
グロブニクは、倒木の下へ来なかった。
斜めに地面を蹴った。
狙われたのは、大きな木へ杖を向けている鬼太郎の右肩だった。
◆
黒檀を引き戻した。
腕が、間に合わなかった。
顎が肩へ届き、牙がローブを破った。
身体へ食い込む痛みに、鬼太郎の息が止まる。
指から力が抜けかけた。
落とさない。
右手を締めたが、木を支え続けることはできなかった。倒木は二人から外れた地面へ落ち、重い音を立てた。
黒い顔が、すぐ横にある。
鬼太郎は左手を身体の前へ戻した。
毛に覆われていない鼻と、唇。
今なら、届く。
「ジオ」
近い鼻先へ雷を放った。
グロブニクの身体が大きく震える。
背の毛へ当てた時の、小さな痺れ方とは違った。
顎の力が緩む。
鬼太郎は右肩を引いた。狼も顔を離し、足が地面を踏み直す。
左掌を、そのまま右肩へ押し当てた。
「ディア」
指の間へ流れる血を、まず止める。
傷の縁が寄り、流れが弱くなった。牙の刺さった鋭い痛みは引き、奥に重い痛みが残る。
だが、身体は軽くならなかった。
使った力も、失った血も戻らない。
グロブニクが頭を振った。
鬼太郎も、杖を上げ直そうとした。
その時、左膝が落ちた。
右足を立てる。
腰が上がらなかった。
杖はまだ握っている。しかし、次の攻撃を避けるところへ、身体を運べない。
狼が一歩、近づいた。
その前脚も震えていた。
それでも、自分より先に動けている。
鬼太郎は、握った黒檀へ指を掛け直した。
手だけなら、まだ向けられる。しかし呪文を出した後で爪が来れば、座ったままでは避けられない。左手を傷から離した時と同じつもりで、次の動きも繋げられるとは言えなかった。
前脚を置く音を聞き、指を緩めた。
「……僕の、負けです」
グロブニクが止まった。
鬼太郎も杖を下げた。
次の手へ向かいかけていた左手から、力を抜く。
狼の首が上がった。
その下で、前脚が折れ曲がる。
大きな胸が、土へ近づいた。
鬼太郎はそれを見た。
相手も、立ち続けられるわけではなかった。
ただ、自分が負けを告げるまで、立っていた。
◆
キーノが近づいた。
二人が止まったのを見てから、鬼太郎の前へ屈む。
「肩は?」
「血は、止めました」
「動かせるか」
鬼太郎は右腕を少し上げ、途中で止めた。
「まだ、痛みます」
黒檀を腿へ置き、左掌を肩へ戻した。
「ディア」
今度は止血だけで切らず、牙の開けた傷を少しずつ塞ぐ。
指を離し、小さく動かして確かめる。先ほどよりは上がったが、鈍い痛みが残っていた。
左腿も、かばわずに立てる状態ではない。鬼太郎は布を当ててもらい、今は無理に動かさなかった。
「治せば、もう一度できると思うなよ」
「ええ。今日は、もうやりません」
答える声が掠れた。
キーノは水を渡した。
グロブニクも身体を横へ倒し、息を吐いた。
「最後の雷は、通った」
「ええ。ただ、噛まれました」
肩を差し出して当てるつもりではなかった。
捕まったために、残った手を使ったのだ。
「足が、追いつかなくなっていた」
「まだ、戻せると思っていました」
鬼太郎は左脚を見た。
血を減らした後も、置く場所へ足が間に合わなくなっていた。その遅れを、杖の手数で埋めようとした。
キーノは狼にも顔を向けた。
「そっちも、立てなくなるところまでやったな」
「立っている必要が、なくなった」
鬼太郎の口元が緩んだ。
「次は、僕が先に立っていたいですね」
「その前に、帰れるようになれ」
グロブニクが返し、キーノも頷いた。
鬼太郎は焦げた肩を見た。
「そちらにも、少しディアを使わせてください」
狼は右目を向け、やがて頭を下ろした。
「来い」
キーノの腕を借り、座ったまま近くへ寄る。
鬼太郎は左掌を火傷へ当てた。
「ディア」
毛の下の傷へ、量を絞って力を通す。
全部の痛みを取り去ろうとはしなかった。肩の張りが少し抜けたところで、掌を離す。
「まだ、痛むと思います。脚の方も、今は休んでください」
「お前もな」
鬼太郎は頷き、その場で座り直した。
傷を治しても、二人とも起き上がる気配はなかった。
◆
キーノが二人の周りを見た。
土の上に散った葉には、まだ赤い点が残っていた。水を使って消し、倒木や岩の横に、二人が通れる道が残っていることを確かめる。
鬼太郎は、その後ろへ歩いていこうとはしなかった。
今動けば、手伝うより先に支えてもらうことになる。
火傷を負わせた。
足を逸らし、氷で踏み直す間を作り、割れ岩で前脚を留めた。意識を一瞬乱し、最後には顔へ雷を通した。
どの手も、全く届かなかったわけではない。
それでも、勝てなかった。
鬼太郎は膝の上の黒檀へ触れた。
悔しかった。
狼が膝を折ったところまで、自分の手が届いたことは嬉しかった。
両方とも、隠す理由はなかった。
次に直したいのは、傷を負ってからの動きだった。
腿へ触る間を作るまでに血を失った。肩ではすぐ止められたが、その前の遅れまで戻せたわけではない。
相手から目を離さず、もっと短い間にディアを通す。
そのためには、治す手を空けるところから必要だった。動いている時に、今と同じように傷へ力を通せるかも、確かめなくてはならない。
傷の奥に残る痛みも、邪魔になった。
ただ、痛みがなくなっても、力を使った身体まで戻るのではない。
MAGの消耗に、杖を使い続けた負担。失った血と、脚を動かす疲れもある。
それを残したまま、どこまで戦えるのか。
まだ、知りたいことがあった。
もっと長く、この牙と爪に向き合いたい。
「その顔で、平気だと言うなよ」
戻ってきたキーノが言った。
「平気ではありませんよ。歩く時には、手伝っていただきたいですね」
「歩けるのか?」
鬼太郎は地面へ手をつき、腰を上げかけた。
脇腹が痛み、すぐ戻した。
「……もう少し、休んでからにします」
「そうしろ」
グロブニクの前脚も、まだ伸ばされたままだった。
次に何を磨くかは、見えている。
鬼太郎は今度こそ杖から手を離し、キーノが渡し直した水を受け取った。