第125話 寝床で読む本
水を飲み、何度か息を整えてから、鬼太郎はもう一度、右足を立てた。
今度は、腰が上がった。
左脚へ重さを移しかけると、腿の奥が痛む。キーノが身体を寄せ、鬼太郎の左腕を自分の肩へ回した。
「先に、どっちの足を出すか言え」
「歩かせてもらっているようですね」
「歩かせているんだ」
答えは短かった。
鬼太郎は黒檀を収め、右肩を大きく動かさないように立った。
グロブニクは横になったまま、右目を開けた。
「今日は、帰ります。ありがとうございました」
「ああ」
伸ばした前脚には、割れ岩に挟まれた跡が残っていた。火傷へ通したディアだけで、全部の傷が消えたわけではない。
鬼太郎はその脚を見たが、もう一度手を伸ばすことはしなかった。
自分が歩けるうちに戻り、相手にも休む時間を残す。
次に戦う日を決めず、二人は谷を離れた。
投げ落とした倒木と、落ちた岩の脇には、キーノが確かめた道があった。そこを抜け、白い石の外へ出る。
来る時には気にならなかった根が、帰りには高く見えた。
左脚を上げ、向こうへ置く。それだけで身体が傾き、キーノの肩へ重さが掛かる。
「一度、止まるぞ」
「ええ」
返事をしてから、鬼太郎は息を吸った。
脇腹が痛い。
歩けると言った後も、歩き続けられるかは、別に確かめなくてはならなかった。
◆
砦の入口で、サーシェスが二人を見つけた。
裂けたローブと、キーノへ回した腕を見る。
「おう。ずいぶん可愛がられてきたな、坊主」
「負けました」
「見りゃ分かる」
扉を開け、二人を通した。鬼太郎が椅子へ座ると、サーシェスはキーノへ顔を向ける。
「狼は?」
「最後に、前脚が曲がった。胸が地面へつくくらいまで」
眉が動いた。
鬼太郎は背もたれへ身体を預けた。
「僕が負けを認めるまでは、立っていましたけれど」
「なら、勝ったのは狼だ」
「間違いなく」
頷くと、サーシェスは鬼太郎の顔を見た。
「その割には、楽しそうだな」
「悔しいですよ。ただ、前よりは、随分戦えました」
「今日は、それで満足しとけ。今のお前じゃ、椅子から逃げるのも一仕事だ」
実際、その通りだった。
差し出された水を、鬼太郎は左手で受け取った。キーノも隣へ腰を下ろし、自分の肩をゆっくり回した。
「重かったですか」
「道で聞け」
「聞いたら、置いていかれそうでしたので」
「担ぐぞ」
サーシェスが笑った。
それから、腿の布と右肩へ目を戻す。
「血は?」
「止めました。肩は後でもう一度治しましたが、腿は途中です」
鬼太郎は水を置いた。
ローブの肩には、牙が入った穴がある。乾き始めた血の上から布を引けば痛むため、着替えるのにも手間が掛かった。
キーノが服を持ってきたが、鬼太郎の腕を通し終えると、先に言った。
「今日は、もう何も浮かせるなよ」
「持ち帰った本も、まだ開いていませんよ」
「本はいい。倒木の続きは、するな」
鬼太郎は少し笑い、杖を卓へ置いた。
水を飲んだだけで、次の呪文を使える身体へ戻ったとは思っていなかった。
◆
寝台へ横になると、右肩を下にできなかった。
背を支え、楽な向きを探す。目を閉じると、咆哮に押されて大岩がずれたところが浮かんだ。
一度見た後には、口が開くのを見て正面から退けた。
だが、口へ目を向けた時に、腿を裂かれた。
顔、前脚、肩。
どれか一つを見れば済む相手ではなかった。
まだ何か選べたのではないかと考えているうちに、眠っていた。
目を覚ますと、窓から入る光の向きが変わっていた。
鬼太郎は机の本へ手を伸ばしかけ、先に運ばれてきた食事を取った。
食べ終え、腿の布を確かめる。新しい血が広がり続けているわけではないが、傷はまだ十分に塞がっていなかった。
左掌を添える。
「ディア」
今度は、狼の脚が木を越えてくるまでに離す必要がない。
裂けた縁へ力を通し、変化を見てから、その隣へ意識を移した。血を減らすだけで終えず、残った開きを閉じていく。
掌を離し、膝を少し動かす。
傷が引かれる感じは薄くなった。しかし、脚を持ち上げるだけでも、身体は重い。
「またやっているのか」
戸口からキーノが言った。
「腿に、残っていたところです。こちらは、ここまでにします」
「肩も続けて、とは言うなよ」
鬼太郎は掌を上げ、何も集めていないことを見せた。
「治す方にも、力を使いますからね」
「分かっているなら、寝ろ」
「さっきまで寝ていたんですが」
「私も、座って本を読みたいんだ」
キーノは椅子を引き、自分の課題を広げた。
鬼太郎もそれ以上立とうとせず、枕元へ置かれた本を一冊取った。
◆
『基本呪文集』の浮遊術の頁には、栞が挟んであった。
鬼太郎は読み直した後、別の紙を膝へ置いた。
持ち上げた物を、図で分けて描く。
空の杯。木樽。そして、狼ほどもある倒木。
倒木を投げ落とした時には、狼を跳ばせ、その着地へアギを当てた。
後でもう一度持ち上げた時には、落とす前に右肩へ来られた。
同じ木でも、二度目は自分の足が遅れている。
鬼太郎は最初の図の下へ、木が地面へ当たるまで支えていなかった、と書いた。
投げ落とす向きをつけてから、呪文を解いた。次の杖の動きへ戻す時間は、その分だけ早かった。
二つ目には、上へ運ぶ間に詰められた、と記す。
「また浮かせれば、同じように使えると思っていたんですね」
独り言に、キーノが顔を上げた。
「狼は、同じところへ来なかっただろ」
「ええ。それに、僕も同じ速さでは動けませんでした」
倒木を置いた場所と、その時の自分の足を描き足す。
本にある浮遊術を読んでも、この勝負の答えがそのまま載っているわけではない。けれど、何を自分で付け足して使ったのかは、分けて考えられた。
呼び寄せた岩を浮かせる時も、同じだった。
近づいてくる向きを変えることと、上から落とす位置へ運ぶこと。その間、杖を岩へ向けている。
鬼太郎は、狼が口を開いたところへ印をつけた。
「ここで、落とす方をやめたら?」
キーノが図を覗いた。
「狼の上へ運ぶのをやめて、離れたところへ下ろすなら、先に動けたかもしれません」
「次は、そうしろと言っているのではないぞ」
「分かっています。あの時、他に選べたものとして残しておきます」
すぐ実演しなくても、書けることはあった。
鬼太郎は本へ栞を戻し、紙をその脇へ置いた。
夜、サーシェスが戸口へ来た時、鬼太郎はその図を見せた。
「一番、予定が変わったのは?」
「ここです。岩を上へ運んだところで、咆哮を受けました」
「声で、岩が落ちたのか」
「身体も押されました。音に驚いて杖を動かしただけではなくて、ローブも葉も、同じ方へ流れたんです」
キーノも顔を上げた。
「私の方からも見えた。岩を外されて、その後すぐ肩で突かれた」
サーシェスは図の矢印を指した。
「じゃあ、お前が描いたこの退き方も、使えねえ時があるな」
鬼太郎は自分の足跡を見た。
岩を下ろせば空くはずの道を描いた。しかし、身体ごと押された時にも、その道へ足を出せるとは限らない。
「立つ場所から変えるか、先に幹の側へ寄っておく必要がありますね」
「次も同じ向きに押してくれるならな」
サーシェスの口元が上がる。
鬼太郎も笑い、一本だけだった矢印の隣へ、違う向きの短い線を足した。
「二度目は、口が開くのを見て避けられました」
「そりゃいい。だが、お前が覚えたのも、あっちから見えてるだろ」
鬼太郎は、口を見た後に腿を裂かれたことを話した。
サーシェスは喉で笑う。
「待ってやらねえ相手だったな」
「ええ。次に何を使われるか、気になります」
「なら、その顔を持って帰れるうちに終わったことも、書いとけよ」
サーシェスは図を返し、部屋を出ていった。
鬼太郎は負けを告げた位置にも印をつけた。
キーノが止めた後のことばかり残すなと言った時と同じように、続けられなくなったところも、次へ持っていく記録だった。
◆
翌朝は、寝台から起きる前に、右腕を動かした。
肩の奥が、まだ鈍く痛んだ。
左掌をそこへ当てる。
「ディア」
傷のあったところへ短く通し、手を離す。同じ高さまで腕を上げると、先ほどより動かしやすい。
鬼太郎はその変化を覚えておき、食事を取った後で紙へ記した。
前の晩より楽なのは、眠った時間もあるだろう。今、手を当てる前と後で変わったことは、それとは別に残す。
昨日、幾つもの場所へ続けて使っていたら、どれが変わったか分かりにくかったはずだ。
午後には、腿にも一度だけ試した。
「ディア」
傷の縁を塞いだ後、膝を曲げると引かれる場所へ意識を向ける。
少し楽になったところで、掌を離した。
もう一度重ねれば、もっと変わるかもしれない。そう思ったが、そこで止めた。
治すために使った力も、今日の身体から出ている。
痛みが減ったことと、朝から働いた身体を休めなくてよいことを、一緒にはできなかった。
キーノはその記録を横から見た。
「それ、課題ではないだろ」
「課題に役立つかもしれません」
「肩を噛まれた話を、提出する紙へ書くなよ」
「具体的で、分かりやすい例だと思うんですが」
「どうして噛まれたのか、聞かれるぞ」
鬼太郎は笑い、治療の記録を課題から離した。
◆
休暇の間、机に向かえる時間は少しずつ増えた。
キーノは先に仕上げた課題を読み返し、鬼太郎は休みながら、自分の分を進めた。
魔法薬の復習では、モンクスフードとウルフスベーンの違いを述べる問いがあった。
最初の授業で聞いたことは覚えている。同じ植物の別名で、アコナイトとも呼ばれる。
鬼太郎はそこまで書き、教科書のトリカブトの項目を見直した。
どんな名で扱われるか。材料として使う時、何を確かめるか。
別の疑問を追いかけ始めたところで、キーノが羊皮紙を指した。
「今、聞かれているのは、それではない」
「関係はありますよ。同じものが違う名で売られていたら、別の材料だと数えるかもしれません」
「それなら、その間違いを書けばいい。お前、今は使う部位まで調べ始めただろ」
鬼太郎は問いを読み返した。
答えるために必要なことは、もう最初の二行にあった。
「……こちらは、別の紙にしましょう」
キーノが頷く。
提出する文には、名称の違いであり植物の違いではない、とまとめた。同じ植物を二種類の材料と数えないよう、同義語を確かめる必要がある、と短く足す。
部位についての疑問は消さず、調べる紙へ移した。
「これなら、読んだ方も迷わないな」
「先生が、どこから答えか探さずに済みますね」
「探させたら、また何か言われるぞ」
鬼太郎は、スネイプの声を少し想像した。
余計な説明を読ませるより、問われたことへ先に答えておく方がよさそうだった。
午後には、二人とも本から顔を上げ、食事を取った。
調べた疑問が途中でも、そこで打ち切る。
キーノが窓を開けると、外の風が入った。紙を押さえる手へ、少し冷たい空気が触れる。
鬼太郎はそれを受けながら、学校へ通う前にはなかった休み方だと思った。
本を読み、分からないところへ印をつけておく。今日中に片づかなくても、明日また開ける。
寝る前に別の場所へ移らなくてよいことが、今は、ずいぶん楽だった。
◆
ドラゴンの本にも、読み直すところがあった。
キーノが、挟んでいた紙を抜いた。
「ハグリッドに見せるのは、こっちか」
「ええ。餌の回数だけでなく、この牙のところも」
鬼太郎はノルウェー・リッジバックの説明を開いた。
噛まれた傷を、小さいからと放っておけないこと。火を吹き始めるのが早い種類であること。
卵を火の中で温める間は、口がどちらへ向くか考えずに済む。生まれた後も、同じ近さで手を伸ばせるとは限らなかった。
「『まだ小さい』で待っていたら、牙はもう使えるかもしれないな」
キーノが言った。
「はい。体の大きさだけを、終える目印にしては遅い場合もありそうです」
鬼太郎は、ハグリッドに確かめる紙へ、その行を足した。
孵化したところを見たい気持ちは変わらない。
ただ、先に見た自分たちが、火を吹くまで、噛むまで、と話を延ばす方へ回れば、調べたことも役に立たなくなる。
「帰ったら、グレンジャーさんと一緒に話しましょう」
「ハグリッドが、本を閉じないといいがな」
「開いたまま、必要なところを見ていただきます」
鬼太郎は法の記録も重ねた。
罰金の上限と、移す費用は別。払えば飼い続けられるわけでもない。
この紙を渡すことも、まだ済んでいなかった。
彼がどんな顔をするかは、会ってみなければ分からない。
◆
身体の重さが薄れ、朝から机へ向かっても、途中で寝台へ戻らずに済むようになった。
肩を上げても、前ほど鈍く痛まない。
左脚へ重さを掛け、根を跨ぐ高さまで膝を上げる。今度は、隣の誰かへ倒れ込まずに下ろせた。
鬼太郎は杖を手に取った。
右の指は、きちんと締まる。
それで、谷にいた時と同じだけ動き続けられると、確かめたことにはならない。
机へ杖を戻した。
この休暇の間に、もう一度勝負を頼むつもりはなかった。
次に持っていく図は、今あるものから変えられる。
浮かせる物を選び直すだけでなく、上げている間の自分の足と、下ろした後に空く手まで描く。傷を治す時には、何を捨てれば一瞬を作れるのかも考える。
思いついた順に全部試す必要はない。
鬼太郎は紙を一枚にまとめ、試したい順番に印をつけた。
休暇の終わりが近づいた頃、二人は机の上を片づけた。
提出する課題と、学校へ持ち帰る本。砦へ置くもの。
キーノが、最後の紙を持ち上げた。
「これは?」
「残します。まだ、途中ですから」
戦いの図と、ディアを通す前後の動きを記した紙だった。
折らずに揃え、机の引き出しへ入れる。その上に、次に確かめる順番を書いた紙を置いた。
戻ってきた時、すぐ続けられる。
キーノは鞄を閉じ、鬼太郎の脚を見た。
「歩けるな?」
「はい。今度は、一人で」
「途中で強がるなよ」
「戻るまで、競争はしませんよ」
「戻ってからもしない」
鬼太郎は笑い、本を抱えた。
窓から、谷への道は見えなかった。
それでも、あの奥に狼がいることは知っている。次にも勝てるとは限らないが、今回と同じ図を持っていくことはない。
部屋を出る時、キーノは先に手を出さなかった。
鬼太郎も誰の肩も借りず、階段へ一歩を置いた。