第百二十三話 牙の先まで、手は届く
銃は、机の上へ置いた。
鬼太郎は弾倉を外し、手入れをした布の隣へ並べる。
キーノが扉の前から、その手元を見た。
「持っていかないのか」
「今日は、敵を狩りに行くわけではありませんから」
鬼太郎は黒い杖を取った。
握る指を一度開き、収め直す。
「こちらと、僕の魔法でお相手していただきます」
キーノが頷いた。
昨日の帳面は、鞄へ入っている。
今日も、帰ってから書くことが増えるのだろう。
鬼太郎は扉を開けた。
森の空気は、朝の冷たさを残していた。
◆
グロブニクは、開けた場所の端にいた。
大きな前脚を伸ばし、顎を乗せている。
鬼太郎が近づくと、耳が動いた。
次に、目が開く。
「お待たせしました」
鬼太郎は、少し離れたところで止まった。
足元には枯葉がある。
その下の土は湿り、ところどころ根が出ている。
前に向き合ったときにも、見た場所だ。
だが、今日はそこへ目を留める意味が違った。
「昨日より、いろいろ使わせていただきますね」
グロブニクが立った。
背が持ち上がり、肩の毛が揺れる。
鬼太郎は杖を下げたまま、その前脚を見た。
爪だけを通せば済む相手ではない。
あの肩が来れば、身体ごと押し潰される。
サーシェスは少し離れた幹へ背を預けた。
「キーノ。こっちから見とけ。あいつらが来ても、後ろへ抜けられる」
キーノは地面と木々を確かめ、彼のそばへ移った。
鬼太郎が杖を持ち上げる。
グロブニクの前脚が、土を掻いた。
◆
最初の踏み込みは、まっすぐだった。
鬼太郎は早めに横へ出た。
爪と肩が、さっきまで立っていた場所を抜ける。
「リクタスセンプラ」
呪文が、グロブニクの脇へ当たった。
毛が揺れた。
それだけだった。
鬼太郎は、もう次の位置へ移っている。
前脚が地面を叩く。
飛び散った土の向こうで、口が開いた。
「ペトリフィカス・トタルス」
光が肩へ届く。
グロブニクの踏み出す脚が、僅かに鈍った。
だが、身体は固まらない。
次の瞬間には、爪が伸びた。
鬼太郎は大きく距離を取った。
止められない。
今の一瞬が呪文の効果だったとしても、期待して残れば、あの腕を受けていた。
鬼太郎は杖先を戻した。
グロブニクが向きを変える。
その脚の下へ、別の力を送った。
「ブフ」
冷気が土を走った。
濡れた落ち葉が凍りつく。
前脚が滑った。
グロブニクはすぐに爪を立て、身体を支える。
その間に、鬼太郎は横へ回った。
「ジオ」
電撃が、低くなった肩へ届いた。
毛の間で光が弾ける。
グロブニクが唸った。
鬼太郎は追って杖を向けたが、相手はもう踏み出していた。
速い。
やはり、これだけでは足りない。
鬼太郎は笑いながら、次の牙から離れた。
◆
グロブニクは、凍った場所を横切らなかった。
外側へ回り、鬼太郎が空けた場所へ踏み込む。
その大きさでも、曲がるのが早い。
鬼太郎は足を止めず、根の間を抜けた。
身体の中には、まだ力がある。
ブフとジオは使った。
しかし、最初の接近を躱すたびに、前世の魔法を返していたわけではない。
杖から呪文を使い、相手の反応を見る。
魔法を使う場所を、そこから選ぶ。
それだけでも、消耗の仕方が前とは違った。
鬼太郎は横へ杖を振った。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
脇にあった倒木が浮いた。
太い幹を、低い高さで横へ動かす。
グロブニクの進路に、木が入った。
以前なら、そのままぶつけようとした。
今日は、向きを変えさせればいい。
グロブニクが倒木の端へ回る。
鬼太郎は相手へ目を残し、木を下ろした。
杖で持ち上げ続ける必要はない。
降ろした倒木が、地面を打つ。
その向こうから、大きな頭が出た。
「ザン」
風が、土と枯葉を掬い上げた。
刃を深く通すためではなく、顔の前を覆うように流す。
グロブニクの目が細まった。
鬼太郎は、その間に足を進めた。
◆
見えなくしても、鼻は残る。
グロブニクは枯葉の向こうへ顔を向けた。
小さい人間の匂いが動く。
そちらへ爪を伸ばす。
だが、足音は途中で変わった。
横へ回ると見せて、向かってくる。
グロブニクが頭を振ったとき、近くに小さな光があった。
「ルーモス」
白い明かりが、土埃の中で瞬いた。
グロブニクは反射的に顎を引いた。
鬼太郎はすぐに光を消した。
上がった頭の下に、胸が見えた。
「アギ」
炎が届いた。
毛の表面を火が舐め、グロブニクが前脚を振る。
鬼太郎は、既に離れていた。
地面へ置く足は、凍らせた場所を避けている。
背後で、重い身体が向きを変えた。
今度は、それまでよりも低く構えていた。
鬼太郎の胸が弾んだ。
攻め方を、変えてきた。
◆
グロブニクは、すぐには飛びかからなかった。
相手の杖が動く。
また木を動かすのか。
それとも、小さな光が来るか。
グロブニクは横へ歩いた。
鬼太郎も向きを変える。
小さい方の背後に、木が近づいた。
逃げる場所が、ひとつ減る。
そこで、グロブニクは地面を蹴った。
鬼太郎が杖を向けた。
光が来た。
止まらない。
肩へ当たったものを振り切り、身体ごと押し込む。
鬼太郎が、幹の前から飛び出した。
逃げた場所へ、グロブニクは前脚を伸ばした。
布が裂ける。
小さい身体が低く沈み、爪の下を抜けた。
血の匂いがした。
浅い。
それでも、まだ動ける。
鬼太郎の手が、地面の上へ出た。
冷気が来る。
グロブニクは爪を突き立てた。
今度は滑らず、その場所を踏み越えた。
あの人間も、すぐに別の場所へ移っている。
逃げるばかりではない。
毛を焼き、脚を鈍らせ、こちらが進むたび、違うものを置く。
以前より、ずっと長く続いていた。
グロブニクは低く唸った。
昨日、見ていたものだけでは、分からなかった。
今日は、もう少し楽しめるだろうと思っていた。
実際には、次の一歩まで考えたくなった。
グロブニクの尾が、大きく動いた。
◆
鬼太郎は肩へ触れなかった。
布の下に熱い痛みがある。
杖は握れる。
腕も動く。
今すぐディアへ力を回すより、まず位置を変えたい。
グロブニクは、もう凍った地面を避けるだけではなかった。
爪を立てて、そこからも踏み込んでくる。
同じ場所を何度凍らせても、MAGを使うだけになる。
鬼太郎は、その手をやめた。
杖を向ける。
「ペトリフィカス・トタルス」
光が鼻先へ届いた。
グロブニクの顎が僅かに止まる。
全身は止まらない。
しかし、牙が閉じるのは遅れた。
鬼太郎は頭の外側へ出た。
大きな身体の横で、手を向ける。
「ジオ」
今度は、脇へ届かせた。
グロブニクの脚が揺れる。
鬼太郎はその隙に距離を取った。
小さな隙でも、魔法を当てる場所は作れた。
杖の呪文だけで止めようとする必要はない。
鬼太郎は荒くなった息を整えた。
まだ、続けられる。
以前なら、こんなに何度も爪の前へ戻れなかった。
アギで押し返す。
ブフで止める。
ジオで崩す。
そのたびにMAGを使えば、先に自分が尽きる。
今は、進路へ置く木も、顎を僅かに止める光も、杖で出せる。
魔法は、その後へ残しておけた。
鬼太郎は笑った。
使い方を増やすとは、こういうことでもあった。
◆
「前より、長いな」
サーシェスが言った。
キーノは鬼太郎から目を離さなかった。
「魔法だけで返してない」
「ああ。杖でちょっかい出して、向こうが動いたところへ、別のを入れてやがる」
サーシェスの目が、降ろされた倒木へ向いた。
「この前は、あれを動かす方に気を取られてたな」
今の鬼太郎は、木を置いて、すぐ次へ移る。
グロブニクが向きを変えれば、そこへ魔法を使う。
それで終わらなければ、また離れる。
キーノには、細かな力の残り方までは分からない。
だが、鬼太郎が何度も攻撃を返していることは見えた。
狼も、以前よりよく動く。
避けた場所へ爪を出し、頭を引いた後には肩で押す。
鬼太郎の笑みが深まるほど、あちらの動きも変わっていた。
肩に傷ができたのは、分かった。
キーノは指を握った。
まだ、足は動いている。
鬼太郎自身が、離れる場所を選べている。
彼女は呼吸を整え、次の踏み込みを見た。
◆
ザンが、もう一度落ち葉を巻き上げた。
グロブニクは、その中へ飛び込まなかった。
横へ回る。
鬼太郎が出てくる場所を、外から狙った。
風の陰に留まれば、姿は隠れる。
しかし、相手も待てる。
鬼太郎は枯葉を流す向きを変え、土を横へ払った。
その後ろを走る。
グロブニクの頭が動いた。
鼻が追っている。
鬼太郎は走る先の地面へ、ブフを使った。
そこから斜めへ折れる。
追ってきた前脚が、凍った場所を踏んだ。
爪が入る。
グロブニクは、足を取られなかった。
だが、踏み込みは小さくなった。
鬼太郎はその肩へアギを返した。
炎が毛の間を走る。
グロブニクが身を振り、火を払う。
鬼太郎は杖を構えた。
相手が頭を低くする。
また、来る。
鬼太郎は横へ出ようとした。
足が、僅かに重かった。
MAGは、まだある。
しかし、走り続けた脚には、別の疲れが溜まっていた。
グロブニクの目が、その一歩を捉えた。
◆
今度の踏み込みは、途中で変わった。
鬼太郎が横へ出る。
グロブニクは、その先へ頭を向けた。
牙だけなら、まだ躱せる。
鬼太郎は上体を引いた。
だが、後ろから肩が来る。
杖の呪文を使うには、近すぎた。
「ザン」
風を横へ走らせる。
重い身体を押し返しきることはできない。
自分の足を、半歩、外へ逃がす。
それでも、グロブニクの前脚が届いた。
脇から肩へ、強い力が当たる。
鬼太郎は土へ倒れた。
杖は手にあった。
すぐに向けようとする。
その腕の前へ、太い脚が下りた。
重い。
爪が布へ掛かり、腕を動かす場所がなくなる。
鬼太郎は反対の手を上げかけた。
牙が、目の前にあった。
顎を閉じれば届く距離だった。
グロブニクは、閉じなかった。
鬼太郎も、上げかけた手を止めた。
風の音が聞こえた。
荒い自分の息も、聞こえる。
鬼太郎は狼の目を見た。
「……ここまでにしましょうか」
声が、少し掠れた。
それでも、笑みは残っていた。
グロブニクの鼻から、熱い息がかかった。
低い音が鳴る。
前脚の重みが離れた。
◆
キーノが歩み寄ったとき、鬼太郎は身体を起こしていた。
土が髪についている。
袖は裂け、肩の下には血が滲んでいた。
「腕は動くか」
「ええ。大丈夫です」
鬼太郎は杖を持つ手を開き、閉じた。
痺れがある。
折れてはいない。
グロブニクは少し離れたところに立ち、鬼太郎が起き上がるのを見ていた。
キーノはその大きな前脚を見た。
押さえる重さも、爪の位置も、相手が決めていた。
終わらせるところを、二人とも分かっていたらしい。
鬼太郎は膝を立て、ゆっくり立ち上がる。
「最後は、脚が遅れましたね」
サーシェスが近づいた。
「そんだけ走りゃな。力が残ってても、足が先にへばることはある」
「ええ。前より長く使えるようになった分、そこまで続いてしまいました」
「続いてしまいました、ねえ」
サーシェスは笑い、グロブニクへ目を向けた。
「向こうも、楽しんだ顔してやがる」
グロブニクの尾が動いた。
鬼太郎はその目を見た。
前のように、すぐ背を向ける気配はない。
まだ、こちらを見ている。
◆
鬼太郎は、自分の肩へディアを使った。
熱い痛みが薄れる。
裂けた場所が塞がっていく。
ただし、脚の重さは、それだけでは消えなかった。
鬼太郎は息を吐き、グロブニクへ近づいた。
焼けた毛の下に、傷がある。
狼は唇を持ち上げたが、鬼太郎が手を向けても離れなかった。
「こちらも、直しましょう」
ディアの力を送る。
グロブニクの耳が動いた。
鬼太郎は傷の様子を確かめ、手を下ろした。
狼はその手を嗅いだ。
それから、鼻先で軽く押す。
鬼太郎の身体が、半歩揺れた。
「次は、もう少し長く立っていたいですね」
グロブニクが、短く鼻を鳴らした。
そのまま少し脇へ歩き、地面へ伏せる。
帰っていかない。
鬼太郎を見たまま、前脚へ顎を乗せた。
鬼太郎は笑った。
相手にも、次があるらしい。
◆
拠点へ戻る前に、鬼太郎は動かした倒木を元の場所へ戻した。
杖で浮かせ、ゆっくり下ろす。
凍った場所には、まだ白いものが残っていた。
その外側へ、足跡がいくつも続いている。
狼の大きな跡。
その間を抜けた、自分の小さな跡。
鬼太郎は、最後に足が遅れた場所を見た。
MAGが尽きる前に負けた。
それは、前とは違う終わり方だった。
使える力が増え、使い続ける時間も伸びた。
その先へ行くには、身体も追いつかなければならない。
それに、疲れた脚で、元気なときと同じ幅を狙って避けていた。
相手はそこを見た。
鬼太郎は、覚えておく場所を一度ずつ確かめた。
「鬼太郎」
キーノが呼んだ。
「帰ってから書けるだろ。歩けるうちに戻るぞ」
「ええ。今のうちに、場所を覚えておきたくて」
鬼太郎は彼女へ向き直った。
グロブニクは、木陰から二人を見ている。
サーシェスが先に森の道へ入った。
鬼太郎も続いた。
脚は重い。
だが、気持ちは軽かった。
前よりも、長く戦えた。
前よりも、相手に動きを変えさせられた。
それでも、まだ勝てない。
鬼太郎は、その順番を好ましく思った。
キーノは隣で、土のついた彼の横顔を見た。
最後に牙が近づいたときには、呼び止めようとした。
その前に、鬼太郎が自分で終わりを告げた。
ならば、今は何も言わなくていい。
ただ、次も近くで見ていよう。
鬼太郎が、足元の根を避けた。
キーノも、その横を通った。
背後では、グロブニクが顎を上げた。
小さい人間の足音が遠ざかっていく。
あの脚がもう少し速くなれば、今度は今日の場所まで追い込めないかもしれない。
ならば、こちらも違う場所を使えばいい。
グロブニクは鼻を鳴らし、身体を伸ばした。
次に帰ってくる匂いを、覚えていた。