第126話 窓の向こうの顔
砦を発つ前に、鬼太郎はケストレルを右腰へ戻した。
留め具を掛けてから、鞄を左手で持ち上げる。教科書と課題の紙、それにハグリッドへ見せる調べ物が入っていた。戦いの図を書いた紙は、部屋の引き出しに残してある。
玄関へ出ると、キーノが先に待っていた。
「忘れ物は?」
「もう一度見に戻ったら、何か持ってきたくなりそうですね」
「じゃあ、戻るな」
鬼太郎は笑って、その隣へ並んだ。
帰校することは、サーシェスへ伝えてある。留守の間の取り決めを変える用件もなかった。グロブニクへ、出発前にもう一度会いに行くことはしなかった。
谷の白い石まで歩くには時間が掛かる。狼が何をしているかも、ここからは分からない。傷の具合を聞くのは、次に訪ね、会ってもよいと言われてからだった。
門内の固定された輪を使い、二人は学校の外へ戻った。
城へ続く道を、鬼太郎は自分の足で歩いた。腿を高く上げすぎると、まだ少し張る。けれど、隣の肩へ腕を回さずに済んでいる。
階段の途中で鞄を持ち直すと、キーノの目が動いた。
「大丈夫ですよ」
「まだ聞いてない」
「聞かれると思いましたので」
「それなら、急いで上るな。部屋は逃げない」
鬼太郎は次の段へ置きかけた足を、少しゆっくり下ろした。
休暇はまだ残っていた。授業へ駆け込む必要はない。二人は寮へ荷を置き、調べ物の紙だけを持って、ハーマイオニーを探しに行った。
彼女は図書館にいた。
開いた教科書の横に羊皮紙を置き、書いた一行を羽根ペンの先で追っている。
「戻ったのね。課題は終わった?」
「ええ。途中で、何度かキーノさんに引き戻していただきました」
「聞かれていないことまで調べ始めるんだ」
椅子を引きながら、キーノが言った。
ハーマイオニーは少し笑ったが、すぐ自分の紙を二人へ向けた。
「それなら、これも見て。モンクスフードとウルフスベーンを別の材料として扱わない理由を書くところ。あなたたち、どう答えた?」
「同じ植物の別名ですから、名前だけで二種類に数えない、としました」
「そうよね。私もそこまでは同じなの。でも、そのあとに採る部分の話まで入れると、設問への答えが見つけにくくなるでしょう?」
紙には、名称についての短い答えの下に、材料の扱いについての説明が続いていた。
鬼太郎はその境目を指した。
「そこから先を別にするのは、いかがですか。僕は、どの部分を使うのか調べ始めてしまいましたので」
「お前も、同じところへ行ってたんだな」
キーノが言うと、ハーマイオニーは羽根ペンを持ち直した。
「必要になるかもしれないもの。調べたことを捨てる必要はないわ。ただ、提出する答えとは分けた方がよさそうね」
彼女は長い説明を別紙へ移す印を付け、設問のすぐ下に、同じ植物の異なる名前である、と書き直した。
鬼太郎は自分の鞄から、もう一組の紙を出した。
「こちらは、別にしたままでは済まない方です」
ドラゴンの火と牙について書いた紙を見て、ハーマイオニーの表情が変わった。
「ハグリッドには、まだ話していないのよね」
「今日、伺おうと思っています」
「危なくなってから考える、で終わらせないでほしいわ。危ないと認めなければ、いつまでも考えなくて済んでしまうもの」
キーノが紙の下端を押さえた。
「卵のうちはまだいい、生まれたばかりだからまだいい。その次も何かあるだろうな」
「何を見て決めるのか、聞いておきましょう」
鬼太郎が答えたところへ、ハリーとロンがやって来た。
ロンは入口を一度振り返り、机へ近づいてから声を落とす。
「いた。戻ってたんだな」
「ハグリッドから、これが来たんだ」
ハリーが、折り畳まれた小さな紙を見せた。
卵に変化がある。見たいなら、早く来てほしい。
鬼太郎は紙から顔を上げた。
「ちょうどよかったですね」
「話を聞く余裕が残ってればな」
キーノが言った。
ハーマイオニーは課題を教科書へ挟み、罰則の記録を持って立ち上がった。
◆
小屋へ近づくと、煙突から出る煙が見えた。
扉を叩いたハリーの手が下がりきる前に、ハグリッドが開ける。
「来たか。早く入れ」
五人が入り終わると、すぐに扉が閉められた。
室内は暑かった。鬼太郎は襟元を緩め、テーブルへ目を向けた。
黒い卵が、暖炉から出されている。
動いた。
転がるほどではなかった。殻の一方がわずかに持ち上がり、また元へ戻る。内側から、硬い物を擦るような音がした。
「朝から、こうなんだ」
ハグリッドの大きな手が卵へ近づき、触れる手前で止まった。
「もうすぐだぞ」
椅子は空いていたが、座る気はないらしかった。
ハリーもテーブルの側へ寄る。ロンは卵と暖炉を見比べてから、椅子を引いた。
鬼太郎は、ハグリッドがこちらを見るのを待った。
「生まれる前に、調べたことをお伝えしてもよろしいですか」
「何をだ?」
「飼育の罰則と、生態です」
ハグリッドの笑みが薄くなった。
「今、その話をするのか」
「生まれたあとは、もっと聞いていただけなくなりそうですので」
隣でキーノが頷いた。
ハグリッドは二人を見て、それから卵を見た。殻は、今は動いていない。
「……手短に頼む」
ハーマイオニーが紙を広げた。
「人への被害が出ていない、無許可の飼育について調べたの。その場合、アズカバンへ送られるとは書かれていなかったわ」
ハグリッドの肩が、少し下がった。
「だが、飼っちゃいかんのだろう」
「ええ。ドラゴンは押収されて、保護区へ移される。罰金は最大で四百ガリオン。それに、捕まえる費用や、その間の管理、運ぶ費用も別に掛かるの」
「四百……」
大きな指が、テーブルの縁へ掛かった。
「必ず四百という意味ではありません。上限です」
鬼太郎が付け加えた。
「ただ、移送などの費用がそこへ含まれるわけではないようです」
ハグリッドは、返事をしなかった。
ロンが、低い声で尋ねる。
「自分から手放しても、全部同じになるのか?」
「申告した場合の扱いまでは、確認出来ていません」
鬼太郎は答えた。
「ですから、自分で言えば罰金はなくなる、とも言えません。ただ、誰かが怪我をしてからでは、僕たちが今調べた範囲では済まなくなります」
「金を払えば、そのまま飼えるわけでもないのよ」
ハーマイオニーが言う。
ハグリッドの指が、テーブルを一度擦った。
「まだ生まれちゃいないんだぞ。誰にも怪我なんかさせとらん」
「ええ。その間に考えていただきたいんです」
鬼太郎は、揺れ始めた卵へ一度目をやった。
内側の生き物は、こちらの話を待ってくれない。
「長い間、ドラゴンを飼いたかったんですよね」
「ずっとだ」
そこには迷いがなかった。
「でしたら、僕がその望みを聞いて、ただ取り上げれば済むとは思いません」
ハグリッドの目が、鬼太郎へ戻る。
「ただ、世話を続けられるかは、別に考えていただきたいです。ここで飼えなくなったとき、どうするかも」
「ちゃんと世話はする」
「餌を用意するだけでは、足りなくなるかもしれません」
鬼太郎は、自分の記録を開いた。
調べたときには紙の上で考えた小屋の広さが、今は実際に目の前にあった。暖炉と寝床の間に人が立ち、椅子を引けば通る幅が狭まる。
「ドラゴンは、餌を与えた人に、犬と同じように懐く生き物ではないそうです。縄張りを守ろうとする性質も強い」
「ファングと違うことくらい、俺にも分かっとる」
そのファングは、寝床から動かなかった。卵へ鼻を近づけようともしていない。
「ええ。ただ、小さい間はハグリッドさんが押さえられてしまうでしょう。その間に、大きくなったときの話を後回しにしないでいただきたいんです」
鬼太郎は紙の一行へ目を落とした。
「強い相手との上下関係が出来る場合もある、と書かれていました。でも、それも愛着とは別です。ご自分が扱えることと、ほかの人が近づいても安全であることは、同じではありません」
「近づけなけりゃいい」
「今、僕たちは入れていただいていますよ」
ハグリッドが口を閉じた。
キーノが、自分の座った椅子を少し引いた。
「翼を広げたら、この辺まで来るだろう。餌を持って立つ場所も要る。椅子を外へ出せば済むのは、最初だけだ」
「まだ、どれくらいになるか……」
「だから、生まれてから見ないと決められないことはあります」
鬼太郎は言った。
「それでも、火を安全に収められない。身体を動かす場所がない。人を傷つけそうになる。そうした変化が出たら、まだ小さいからと延ばさずに、手放すことを選んでいただきたいです」
ハグリッドは卵を見ていた。
「小屋だけの話では済まなくなれば、学校にも、校長先生にも説明が必要になるでしょう。誰かが黙って片づけてくれることを、最初から当てには出来ません」
鬼太郎自身も、この先の世話を引き受けるとは言わなかった。
ハリーが、卵の側から一歩離れた。
「ハグリッド。僕も生まれるところは見たいよ。でも、誰かが怪我をするのは嫌だ」
しばらく、暖炉の薪が燃える音だけがした。
「……聞いた。ちゃんと、見ておく」
ハグリッドは言った。
手放す、とは答えなかった。
鬼太郎はキーノと目を合わせた。彼も、同じところを聞いていたらしい。
「では、どんな変化があったら――」
殻の内側で、大きな音がした。
ハグリッドの顔が、一度にテーブルへ向いた。
◆
卵の表面に、細いひびが走っていた。
内側から押され、割れ目の端が持ち上がる。
「来るぞ」
ハグリッドが身を屈めた。
殻の破片が、外へ落ちる。隙間から黒い鼻先が現れ、また引っ込んだ。
鬼太郎も身を乗り出しかけ、止まった。ハリーの肩越しでも、十分見える。
今度は頭が出た。
細長い顎が開く。赤みのある目が、室内の灯りを受けた。
殻の中で身体が動き、縁へ爪が掛かった。押す力に卵が傾く。ハグリッドの手が伸びかけたところで、幼いドラゴンが自分で殻を蹴った。
片方の翼が抜ける。
もう片方は、身体の下へ挟まっていた。尾を振り、足を突っ張ると、ようやく薄い翼も外へ出た。
背中には黒い棘が並んでいた。
細い胴に比べて、頭と翼が大きく見える。まだ折り畳まれた翼の先が殻へ触れ、かさりと音を立てた。
「生まれた……」
ハリーが息を吐いた。
ハグリッドは、頬を緩めたまま動かなかった。
ドラゴンが顔を上げる。目の前にいる、最も大きな生き物を見た。
「見ろ。俺を見とる」
ハグリッドの指が近づいた。
小さな顎が、素早く開く。
鬼太郎の左手が浮いたが、何も放つ前に、ハグリッドは指を引いていた。歯の先が空を噛む。
「元気なやつだ」
笑っている。
鬼太郎は左手を下ろした。
危ないと思って指を引くことは出来る。それでも、今の一噛みは、この人には世話をやめる理由にならなかった。
ハーマイオニーが飼育の本を開いた。
「背中の棘……こっちの絵ね」
キーノが頁とテーブルを見比べる。
「並びも同じだ。尾の方まで続いてる」
「ノルウェー・リッジバックですね」
鬼太郎は答えた。
卵の姿から見当をつけていた種類を、今は生きた身体で確かめられる。
絵なら、翼の付け根も足の曲がり方も、止まったまま見られた。目の前では、一歩動くだけで隠れてしまう。爪が木へ掛かり、片足が滑ると、尾が反対側へ振れた。
翼は、いつ開けるようになるのだろう。
そのための力は、どこについているのか。
鬼太郎が身体の動きを追っていると、ドラゴンが短く声を出した。
鼻先から、火花が散る。
ロンが椅子ごと後ろへ下がった。
「もう火を出すのかよ」
「早くから火を吐くようになる種類なの」
ハーマイオニーが頁を押さえた。
「その布、退けて。端が近いわ」
キーノが、テーブルの端にあった布を取り上げた。今散った火花は消えていたが、布の方が竜へずれれば、次も同じとは限らない。
「ああ、すまん」
ハグリッドは布が遠ざけられるのを見届け、また幼竜へ顔を向けた。
「こんなに小さいのにな」
喜ばしそうな声だった。
鬼太郎は、先ほど広げた紙を畳んだ。火について書いた文字が内側へ隠れる。
読んで伝えるだけでは足りないことが、火花一つで分かった。
同じものを見ても、ハグリッドはまず喜ぶ。こちらが危険を確かめたつもりの瞬間も、彼には、育っている証拠として残るのだった。
「名前がいるな」
ハグリッドが言った。
ドラゴンは殻の破片を鼻で押し、テーブルの端へ向かっていた。大きな掌が行く手を塞ぐと、そちらへ顎を向ける。
ハグリッドは手をずらした。
「ノーバート。どうだ」
ハリーが笑った。
「いいと思うよ」
「ノーバート」
ハグリッドは、もう一度呼んだ。
小さな竜は、その名に応える代わりに殻を踏んだ。足の裏で破片が動き、驚いたように翼が持ち上がる。
ハグリッドが破片を片づけ始めた。
鬼太郎も、目を離しにくかった。
いつか、あの翼が身体を持ち上げる。その姿を見たい。火花が炎へ変わるところも、知りたいと思う。
この人が、卵の殻を破る瞬間を長く待っていたことは分かった。
それでも、掌を差し出してテーブルから落ちるのを防げる時間は、ずっと続かない。
鬼太郎は、話の続きを切り出す間を探した。
ハリーが、不意に顔を上げた。
「誰かいる」
窓だった。
カーテンの隙間に、薄い色の髪と、こちらを見ている顔があった。
マルフォイ。
鬼太郎が立ち上がるのと、窓の向こうの顔が消えるのは、ほとんど同時だった。
ロンが扉へ走った。ハリーも、そのあとを追う。
扉が開き、冷たい空気が足元へ流れ込んだ。
外で足音が遠ざかっていく。
キーノが窓へ寄ったが、もう顔はなかった。カーテンの隙間から、庭と、その先へ続く道が見えている。
「マルフォイだ。見られたぞ」
入口に立ったロンが振り返った。
ハグリッドの手が、殻を持ったまま止まっていた。
ノーバートはテーブルの上にいる。黒い棘も、折り畳まれた翼も、もう卵の中には隠せない。
窓は閉めてあった。
鬼太郎は、その窓からハグリッドへ目を戻した。
手放す時機を、これからゆっくり決めてよいとは、もう言えなかった。