第百二十四話 退く一歩にも、先はある
拠点へ戻ると、鬼太郎は先に椅子へ座った。
脚を伸ばし、靴の泥を確かめる。
傷は塞がった。
だが、立ち上がってすぐに走れと言われたら、今朝と同じようには動けない。
鬼太郎は膝へ手を置いた。
キーノが卓へ水を運んでくる。
「先に飲め」
「ありがとうございます」
杯を受け取り、半分ほど飲んだ。
サーシェスは向かいの椅子を引いた。
「どうだ。長く遊べた分、前より疲れただろ」
「ええ。最後は、脚が先でしたね」
鬼太郎は帳面を開いた。
MAGを使う回数は、前より抑えられた。
杖の呪文で相手を動かし、魔法を当てる場所を作る。
それが何度もできたからこそ、以前なら力が尽きていたところを越えた。
そこで、身体の方が遅れた。
「疲れたから、だけで済ませるなよ」
サーシェスが言った。
「最後の前から、踏み出すのが遅くなってたぞ。腕は先に出てるのに、足がついていってなかった」
鬼太郎はペンを止めた。
杖を向けた瞬間には、まだ間に合うつもりだった。
だが、身体を移すのに要る時間が、最初とは違っていた。
「足が重くなったのは、分かっていました。ただ、まだ避けられると思っていましたね」
「相手も見てる。動きが鈍りゃ、そこへ来るさ」
鬼太郎は最後の踏み込みを思い出した。
グロブニクは、途中で向きを変えた。
爪を避けた先へ、肩ごと押してきた。
あのとき、狼の方が、自分の脚を正確に見ていた。
鬼太郎は、そのことを書いた。
◆
「倒木を置いた後は、少し離れてた」
キーノが言った。
「でも、すぐにお前から近づいてたな」
鬼太郎が顔を上げる。
彼女は帳面の小さな図を指した。
「ここ。向こうが回ってくるまで、もう少し時間があった」
「ザンを使って、見えにくくしたところですね」
「ああ。その後、光を出して、火を当てた」
鬼太郎は頷いた。
仕掛けたことは、うまくいった。
グロブニクの頭を引かせ、その下へアギを届かせた。
しかし、そこで自分から距離を詰めたのも、確かだった。
「あのときは、当てる方を選びました」
「毎回、そうしてたんじゃないか」
キーノの声は静かだった。
鬼太郎は少し考えた。
隙があれば、攻める。
相手が向きを変えたら、その動きへ次を返す。
できることが増えた分、使いたい場面も増えた。
以前より長く続けられると分かって、その間を何度も攻撃で埋めていた。
鬼太郎は口元を緩めた。
「確かに。まだ使えると思うと、次も試したくなりましたね」
キーノは杯を持ち上げた。
サーシェスが笑う。
「狼も乗ってきたからな。お互い、どんどん動いてた」
「ええ。途中から、こちらが出る場所を待つようになりました」
「そこまで付き合えるようになったのは、いい。次は、その先も動けるようにしろ」
鬼太郎は帳面へ、新しい一行を足した。
隙を作った後、必ず攻める必要はない。
◆
帰還の準備を始める頃には、脚の重さも少し薄れていた。
鬼太郎は荷物をまとめ、森の者たちから話を聞いた。
昨日の侵入者が使った道には、残った罠は見つからなかった。
逃げた人間の匂いもないという。
助けたヴィーラたちは、仲間のところで休んでいる。
サーシェスは、回収した杖や道具を拠点へ置いていた。
「売るもんは、俺が見とく。お前らは学校へ戻る準備だけしろ」
「お願いします。何か変化があれば、また聞かせてください」
「ああ」
鬼太郎は鞄を持った。
外へ出ると、木々の間で、低い声がした。
グロブニクだった。
遠い幹の脇に、毛の厚い肩が見えた。
鬼太郎はそちらへ向き直る。
「今日は、学校へ戻ります。また帰ってきたときに」
グロブニクは動かなかった。
ただ、鼻先が少し上がった。
鬼太郎の匂いを確かめているようだった。
鬼太郎は笑い、一度頭を下げた。
今からもう一度誘いたくなる気持ちはあった。
だが、今朝よりよく動けるとは思えない。
次に来るときまでに、直したいことがある。
鬼太郎はサーシェスのところへ戻った。
◆
大広間では、夕食の皿が並び始めていた。
週末に二人が学校を離れることは、ハリーたちにも以前、尋ねられていた。
鬼太郎は、校長の特別許可を受けていると答え、その理由も説明していた。
「住んでいる森の管理をしているんです。環境が変わっていないか、害獣が入っていないか、定期的に確かめる必要がありまして」
「害獣がいたら、どうするの?」
ハリーが尋ねると、鬼太郎は穏やかに答えた。
「駆除します。森に住む者たちを守る約束がありますので」
その言葉でハリーたちが思い浮かべたものと、鬼太郎が昨日狩ったものは、違っていた。
キーノは説明を聞いていたが、口を挟まなかった。
「毎週帰れるなんて、珍しいね」
そのとき、ロンは驚いていた。
ハーマイオニーも、普通は認められないはずだと首を傾げたが、ダンブルドアの許可があると聞いて納得した。
日曜には学校へ戻るとも伝えてある。森がブルガリアにあることや、移動に使うポートキーまでは話していない。
鬼太郎とキーノが席へ近づくと、ロンが手を上げた。
「お帰り。今、来たところ?」
「ええ。荷物を置いてきました」
鬼太郎が座ると、ハリーが隣の皿を寄せた。
「休みは、どうだった?」
「練習ができました。動く相手に使うと、まだ違いますね」
「フリットウィック先生に習ってる呪文?」
「それも使ってみました」
キーノはパンを取った。
鬼太郎も、肉と野菜を皿へよそう。
森で食べたものとは、匂いが違った。
卓の向こうで、ハーマイオニーが袖から折った紙を取り出した。
「フラメルは、まだ見つからないの」
鬼太郎が顔を向ける。
「調べた本は、増えましたか」
「ええ。でも、同じ種類の本を続けて見ても、載っていないみたい。別の分野も探してみるわ」
紙には、本の名前が並んでいた。
読んだものには、短い線が引かれている。
鬼太郎は、その下の余白を見た。
「分かったら、お願いします」
「もちろん」
ハーマイオニーは紙を畳んだ。
「あなたの練習は、うまくいってるの?」
「前より、長く動けるようにはなりました。ただ、長く動けば、その分だけ疲れるんですね」
「そりゃ、そうだろ」
ロンが言った。
鬼太郎は笑った。
「ええ。知っているつもりでも、どこまで動けるかは、試さないと分かりませんでした」
キーノは黙って、彼の皿へ残っていた野菜を見た。
鬼太郎は気づき、先にそれを食べた。
◆
次の指導の日、フリットウィックは鬼太郎の帳面を覗いた。
開いた頁には、森の戦いそのものではなく、相談したいことをまとめてある。
疲れると、回避が遅れる。
相手を動かした後、どう余裕を作るか。
「前の手合わせより、長く動く練習をしたのですね」
「はい。最初に避けられた間合いでも、後では間に合わなくなりました」
鬼太郎は答えた。
「疲れているのは分かっていましたが、どこから動き方を変えるべきか、うまく選べませんでした」
先生は帳面を返した。
「疲れた身体で、元気なときと同じ動きをしようとすれば、遅れます。最初にできたことを、最後まで同じようにできるとは思わないことです」
鬼太郎は頷いた。
「避け始めるのを早くする。それから、間合いを広げる。それは考えました」
「ええ。そのために、相手をどう動かすかも考えましょう」
先生は、教室の中央へ三人を呼んだ。
床の端には、木箱がいくつか置いてあった。
「ただ下がり続ければ、相手は追いやすくなりますね。相手の進み方が変われば、自分が動く時間も変えられます」
フリットウィックは一つの木箱を浮かせ、床へ置いた。
向かいに立っていたセドリックが、その横へ回る。
先生は追って攻撃せず、空いた方へ数歩移った。
「こうすれば、相手がこちらへ杖を向け直すまでに、構えと呼吸を整えられます。置いたものを見続ける必要もありません」
鬼太郎は、その足元を見た。
森で倒木を置いた後にも、同じ時間はあった。
自分は、その時間を接近に使った。
今日は、別の使い方を試せる。
◆
最初は、セドリックにゆっくり動いてもらった。
鬼太郎が木箱を移し、下ろす。
セドリックは横へ回る。
鬼太郎も位置を変えた。
距離が空く。
その間に、息を一度吐く。
「ええ。肩が上がっていたのも、戻せましたね」
先生が言った。
キーノも同じ練習をした。
箱を下ろす場所が少し遠く、セドリックは大きく回らずに済んだ。
彼女は先生の説明を聞き、もう一度位置を選び直した。
次には、相手の向きが変わる時間ができた。
「相手の近くへ置けばいい、だけじゃないんだな」
「ええ。相手がどちらへ進むか、自分はどこへ移れるか。その両方です」
鬼太郎は壁際で見ていた。
相手を邪魔することと、自分の動く場所を作ることは、いつも同じではない。
キーノは自分の杖を見て、置いた箱へ目を戻した。
◆
その後の手合わせでは、床の一部へ木箱を使えることになった。
投げつけるためではなく、進路を変えるために置く。
先生が範囲を確かめ、鬼太郎とセドリックが向かい合った。
「今日は、すぐ近づいてこないのかな」
セドリックが言った。
「それは、始めてからですね」
鬼太郎は笑った。
先生の合図が入る。
セドリックの武装解除が来た。
鬼太郎は横へ動き、リクタスセンプラを返した。
セドリックが避ける。
その足が、中央へ寄る。
鬼太郎は、脇の箱へ杖を向けた。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
木箱を低く移し、セドリックの進む先へ下ろす。
相手が横へ動く。
鬼太郎の前には、狙えそうな手が見えた。
武装解除を使えば、届くかもしれない。
そう思った瞬間、セドリックの杖が向いた。
鬼太郎は慌てて身体をずらした。
赤い光が抜ける。
箱を置いても、相手の杖まで止まるわけではない。
先生の声が入った。
「いったん止めましょう」
二人が杖を下げた。
「墓場。今、箱を置いた後、何を見ましたか」
「杖を奪えそうなところです」
「そこへ目が留まりましたね。相手も、あなたへ使える距離にいました」
鬼太郎は足元を確かめた。
また、攻める方を選びかけていた。
セドリックは木箱の脇に立っている。
「君がこっちを見ていたから、下がるつもりじゃないと思ったんだ」
鬼太郎は頷いた。
「では、もう一度お願いします」
◆
再開してから、鬼太郎はすぐには箱を動かさなかった。
まず、セドリックの呪文を避ける。
今度は、少し早めに動いた。
相手が狙いを変えようとするところへ、全身金縛りを使う。
当たらない。
セドリックが位置を変えた。
その進む先へ、木箱を置く。
下ろすと同時に、鬼太郎は反対側へ離れた。
セドリックの杖が、箱の上からこちらを向く。
鬼太郎は、その射線からも外れる。
一度、息を吐く。
構えを直す。
セドリックが箱の外へ出てきたとき、鬼太郎の杖は、もう次へ使える位置にあった。
今度は、待てた。
何もしていない時間ではなかった。
相手を見て、自分の足を確かめる。
その間も、向こうは動かなければならない。
セドリックが足を止めた。
距離を詰める前に、鬼太郎の構えを見ている。
鬼太郎は笑みを浮かべた。
相手へ次を考えさせることは、攻撃を当てるだけでもなかった。
◆
それで、すべてがうまくいったわけではない。
セドリックは次の木箱を大きく回らず、その手前から呪文を使った。
鬼太郎は避けてから離れる場所を変えた。
箱へ近づきすぎると、自分の足も動かしにくい。
下ろす場所を選ぶ間に、相手へ一度攻撃を許すこともあった。
それでも、攻防の間に、短く整える時間ができた。
ずっと踏み込み、ずっと躱し続ける手合わせとは違う。
セドリックが進むのを待つ。
待っている自分を見て、相手も攻め方を変える。
その変化が、鬼太郎には面白かった。
最後は、互いに杖を持ったまま、先生が止めた。
「今日は、ここまでにしましょう」
二人が杖を下げる。
フリットウィックは、鬼太郎の呼吸を見た。
「始めた頃より、途中で整えられるようになりましたね」
「ええ。ただ、相手が近づいてくると、こちらからも出たくなります」
「そのときに、出られる身体かどうかも確かめなさい。攻める機会を見つけることと、毎回使うことは違います」
鬼太郎は頷いた。
セドリックが袖口を直す。
「今日は、こっちが動くことが多かったな」
「前は、僕が近づくところを待っていましたね」
「うん。でも、待っても来ないから、考え直さないといけなかった」
鬼太郎は、その言葉を覚えておいた。
◆
教室を出る前に、三人は木箱を元の場所へ戻した。
キーノが一つを下ろし、鬼太郎もその隣へ置く。
セドリックは床の線を確かめてから、鞄を取った。
「また次に。今日のは、僕も使ってみたい」
「では、僕が回り込む方ですね」
「どっちがやっても、考えることはありそうだ」
鬼太郎は笑って頷いた。
キーノは帳面を収めた。
今日は、鬼太郎の息が乱れたまま続く場面が少なかった。
相手を見ている時間にも、足を置き直していた。
森でも同じようにできるかは、まだ分からない。
グロブニクなら、箱のようなものを置いても飛び越える。
けれど、その相手に合わせた置き方を、また考えるのだろう。
彼女は、鬼太郎と並んで廊下へ出た。
◆
窓から見える庭に、冷たい風が通っていた。
鬼太郎は鞄の中の帳面へ触れた。
森では、力が残っていても、脚が遅れた。
今日は、攻撃のために作った隙を、自分を整えるためにも使えた。
これなら、同じ力で、もう少し先まで戦えるかもしれない。
キーノが顔を向けた。
「今日は、ちゃんと待ってたな」
「ええ。待っていると、ディゴリーさんの方が動くんですね」
「それを覚えたんだろ」
「はい。向こうが来るところを見るのも、面白いです」
キーノは彼の横顔を見た。
攻める時間が減っても、楽しそうな顔は変わらない。
今度は、待つことまで戦いの楽しみに加わったらしい。
彼女は何も言わず、前へ目を戻した。
階段の先で、授業を終えた生徒たちの声がしている。
鬼太郎はその流れへ足を向けた。
戻ったら、今日の動きを記録する。
次に森へ帰るときには、あの牙の前でも、自分で選べる時間を作りたかった。