第127話 椅子を退けたあと
城へ戻る坂道で、ロンは何度も振り返った。
小屋は、もう遠くに見えている。追いかけて出てくる者はいなかった。
「今ごろ、先生の所へ行ってるかもな」
誰のことか、尋ねる必要はなかった。
鬼太郎は城へ顔を戻した。マルフォイがどこへ向かったかは分からない。追いついて問い詰めても、窓越しに見たものが消えるわけではない。
小屋を出る前、ハグリッドは何度もカーテンを直していた。ノーバートが尾で殻を散らす音に振り向き、また窓を見る。そのたびに、手放す話を続ける間はなくなった。
「あの翼、大きかったね」
ハリーが言った。
ロンが振り返るのをやめる。
「身体より大きいくらいだったろ。あれで飛ぶようになるんだ」
「まだ、うまく畳めてなかった」
「歩くのもな。殻を踏んで、自分でびっくりしてたし」
二人の声が、少し明るくなった。
ハーマイオニーは隣のハリーを見た。
「まだ、見ていたかったの?」
「少しくらいは。ドラゴンが生まれるところなんて、初めてだったから」
ハリーはそう答え、城の入口を見上げた。
門を潜るときには、また口を閉じた。先生に呼び止められると思ったらしい。誰もこちらへ来ないと分かると、小さく息を吐いた。
鬼太郎は鞄の中の紙へ触れた。
ハグリッドから、手放す時機についての明確な返事は得られなかった。それを忘れたわけではない。
けれど、今ここで同じ説明を読み上げても、二人が初めて見た孵化の光景まで、取り消せるわけではなかった。
「お前も、見てたかっただろう」
隣でキーノが言った。
「ええ。翼が開くところは、もう少し」
「それをあの人が言ったら、どうする?」
鬼太郎は、少し考えた。
「僕たちは、帰れますからね」
小屋を離れれば、ノーバートの牙も火も、今は届かない。
ハグリッドは、あの部屋へ戻って眠るのだった。
◆
休暇が終わると、城の廊下に人が戻った。
朝の大広間では、休みの出来事を話す声が幾つも重なった。食卓の向こうで笑い声が上がるたびに、ロンが一度そちらを見る。
マルフォイは、クラッブとゴイルの間で何かを話していた。
ロンが声を落としたのを見て、ハリーも小屋の名を言いかけてやめた。朝食の皿を寄せれば、隣の生徒の肘に触れるほど近い。ここで話せば、窓から見ていた一人だけの秘密ではなくなってしまう。
「まだ何も言われてないよな」
食後、ロンが廊下で呟いた。
「うん」
ハリーは短く答えた。
角の手前で、マルフォイがこちらへ顔を向ける。口の端が上がったが、近づいてはこなかった。三人は、そのまま先へ歩いていった。
「何を待ってるんだろう」
「僕たちが、もっと困ることだろ」
ハリーは、ロンの返事に何も言えなかった。
鬼太郎にも、答えはなかった。先生が来ないことだけを、黙っていてくれる証拠には出来ない。
それでも、教室へ行けば授業が始まる。ノーバートが生まれたことで、提出する課題が減るわけではなかった。
その日の放課後、ロンが鞄を閉じようとすると、ハーマイオニーが羊皮紙を指した。
「それ、まだ終わっていないでしょう」
「小屋から帰ったらやるよ」
「帰ってからだと、眠くなったって言うわ」
ロンは口を開きかけ、自分の紙を引き寄せた。
浮遊術の練習で、持ち上げた物を下ろすまでに何が上手くいかなかったか、という問いが書かれていた。
その下には、羽根が落ちた、とだけある。
「落ちたんだから、間違ってないだろ」
「何をしたときに落ちたの?」
「浮いたから、ハリーを見て……」
ロンはそこで、自分の右手を見た。
「手も下げた。たぶん」
「たぶんで書く前に、練習したときのことを思い出して。持ち上がったところで、終わりだと思ったんでしょう?」
ハーマイオニーが言う。
ロンは羽根ペンを取った。羽根が落ちた、のあとへ、持ち上がったのを見て相手の方を向き、杖を下げてしまった、と書き足す。
鬼太郎も自分の紙へ目を戻した。
持ち上げるまでの説明に比べて、そのあとの記録が長くなっている。重い物を運ぶ途中で、別のことをする余裕について考え始めていた。
キーノが、最初の問いを指で叩いた。
「今聞かれてるのは、学校でやった練習だ」
「ええ。そちらの続きは、別にしておきます」
「お前も言われてるじゃないか」
ロンに言われ、鬼太郎は笑った。
自分の記録では、対象を高くしようとして腕の方まで上げ、下ろす位置を見失った場面を選んだ。次は卓の上の置き場所を先に確かめる、と続け、そこで羽根ペンを止める。
ハリーも椅子へ座り直した。
「これを終えたら、行けるよね」
小屋へ行くことは、まだ楽しみだった。
◆
最初のうち、ハリーは扉が開くとすぐにノーバートを探した。
テーブルの下に黒い尾がある。
その次には、ハグリッドの寝床の脇へ入り込んでいた。
床を歩くたびに、爪が音を立てた。テーブルの上で殻を踏んでいたときより、足運びが確かになっている。
「また大きくなってる」
ハリーが言うと、ハグリッドは嬉しそうに頷いた。
「よく食うからな」
「昨日も、それ言ってたぞ」
ロンも笑った。
ノーバートが、二人へ鼻先を向ける。
床を蹴った。
ハリーは反射的に足を引いた。さっきまで靴を置いていた所へ、黒い頭が来る。
顎が開き、閉じた。
「餌じゃないって」
ロンが椅子の側へ下がった。
ハグリッドが器を差し出すと、ノーバートの頭がそちらへ向いた。二人は、その背後を通らず、扉の近くで待った。
食べるところを見るのも、面白かった。
口が開くたびに、細い歯が見える。鼻先で器を押し、足を踏み直して、また顎を動かす。
ハリーは自分の靴を見た。
あの口が、そこを挟んでいたら。
「いい食いっぷりだろう」
ハグリッドの声に顔を上げる。
ハリーは頷いてから、足をもう少し後ろへ引いた。
何日か経つと、ファングも、ノーバートが動くたびに場所を変えるようになった。
寝床にいると思った大きな犬が、いつの間にかハグリッドの後ろへ回っている。鼻先だけが、その脚の陰から覗いていた。
テーブルの脚には、爪の跡が増えた。
ハグリッドの袖にも、焦げた穴があった。
「痛くないの?」
ハリーは尋ねた。
「大したことねえ。ちょっと火を出しただけだ」
ハグリッドは袖を引いた。
「こんなに早く、覚えるとはなあ」
穴の縁は、黒くなっていた。
ロンが自分の腕へ目を落とす。
「僕の服だったら、腕まで焼けるよ」
「だから、近づきすぎるな。餌は俺がやる」
言われなくても、ロンは手を伸ばさなかった。
ノーバートが身体を捻る。翼の端が椅子へ当たり、背もたれがテーブルを叩いた。
ハリーは肩を上げた。
ハグリッドが椅子を引き、壁の方へ寄せる。
「ほら。これで広くなった」
空いた床へ、ノーバートが進んだ。
ハリーとロンは、その分だけ扉へ寄った。
前には座れた椅子が、一つ使えなくなっていた。
ハグリッドは二人へ茶を勧めたが、ハリーは首を振った。
椅子を戻してもらえば、ノーバートの動く場所がなくなる。立ったまま熱い茶を持っていて、また翼が動いたら、こぼさずに避けられる気もしなかった。
ハグリッドは残念そうな顔をし、それからまた器へ餌を足した。
断った理由まで、伝わったのかは分からなかった。
◆
鬼太郎とキーノが次に小屋を訪ねたとき、ハリーたちは外にいた。
ロンは袖についた汚れを払っている。
「もう帰るんですか」
鬼太郎は尋ねた。
「少し出ただけ。中が暑くて」
ハリーは答え、それから小屋を見た。
「それに、僕たちがいると狭いんだ」
扉が開き、ハグリッドが顔を出した。
「来たか。見ていけ。随分育ったぞ」
キーノが入口から覗き込む。
ノーバートは床にいた。黒い胴と尾が占める場所を見てから、彼女は扉の脇へ寄った。
「随分、で済むのか?」
鬼太郎も敷居を跨ぎ、中へ入った。
黒い頭が動いた。
赤みのある目がこちらを向く。鼻先が持ち上がったので、鬼太郎は次の一歩を置かずに止まった。
顎の向こうから、小さな火が伸びた。
半歩戻る。
隣へ目を向けると、キーノはもう扉の外へ退いていた。
火は消えたが、床に焦げた跡が残っていた。
「おい、ノーバート。餌はこっちだ」
ハグリッドが器を動かした。
竜の頭が、そちらへ向く。
鬼太郎は入口に立ったまま、翼とテーブルの間を見た。畳んでいれば通れる幅も、翼の端が動くと、すぐに狭まった。
テーブルを避けた人が、竜へ近づくことになる。
「ここに立ってても、火が届くぞ」
外からキーノが言った。
「ええ」
鬼太郎は戸口を離れた。
今の距離なら大丈夫だと思って止まった場所へ、火が来る。ハグリッドの腕が竜へ届くことと、その腕の向こうにいる者が安全であることは、既に違っていた。
「怪我は?」
ハリーが聞いた。
「ありません。キーノさんは?」
「当たってない」
彼女はそう答え、靴の先へ目をやった。
ハリーが、小屋へ顔を戻す。
扉の向こうでは、ハグリッドがノーバートに話しかけていた。
◆
談話室へ戻ったとき、ハーマイオニーは四人を見て、本へ栞を挟んだ。
「何かあったの?」
「まだ、誰も噛まれてない」
ロンが答えた。
ハーマイオニーの手が止まる。
ハリーは隣へ座った。
「でも、いつ噛まれてもおかしくないと思う。ハグリッドは平気でも、僕たちは違うんだ」
彼女が本の間の紙へ手を掛けた。
ハリーは首を振る。
「書いてあったことは覚えてるよ。ハグリッドにも、もう話したし」
「……ええ」
「でも、本で読むのと、目の前で火を吐かれるのは違った」
鬼太郎は椅子を引いた。
ハリーは、自分たちの方だけを見て話しているのではなかった。小屋で言わなければならないことを、ここで一度、言葉にしているようだった。
「前は、どのくらい大きくなるか見たかったんだ」
ロンが袖を引いた。
「今は、行くたびに大きくなってたら困る」
「次も同じ所へ立てるか、分からないからな」
キーノが言った。
「小屋の外へ出すだけじゃ、駄目だよね」
ハリーは窓の方を見た。
「隠しておけなくなるわ。それに、逃げたらどうするの?」
ハーマイオニーが尋ねる。
「うん。囲いを作っても、翼があるし……」
ハリーはそこで言葉を切った。
飛ぶところを見たいと思っていた。その力がつけば、小屋の外へ出すだけでは、どこへ行くか分からなくなる。
鬼太郎は答えを挟まずに聞いていた。ハリーは、目の前の部屋から出せば済むという考えを、自分で退けようとしていた。
ハリーは暖炉へ目を向けた。
「嫌いになったわけじゃないんだ。翼が動くと、今でも見たくなる。でも、近くで開かれたら、まず逃げる場所を探してる」
ハーマイオニーは取り出しかけた紙を、本へ戻した。
「ハグリッドは、そのことに気づいてる?」
「近づくなとは言うよ」
ロンが答えた。
「自分が餌をやるからって。でも、それなら僕たちは、ずっと扉の所にいるだけだ」
鬼太郎は、小屋の端へ寄せられた椅子を思い出した。
椅子一つ分を空ければ、竜はその分動ける。訪ねた者が座る場所は、それだけ減っていく。
ハリーが、暖炉から目を戻した。
「僕から話すよ」
ロンが顔を上げる。
「ノーバートを、育てられる場所へ移してほしいって」
「僕も言う」
すぐにロンが続けた。
鬼太郎は二人を見た。
最初に罰則を調べたとき、まだ何も起きていないうちに判断してほしい、と考えていた。今も、誰かが噛まれてからでは遅いことは変わらない。
ただ、小屋へ通っていた二人が伝えるのは、紙から読んだ危険だけではなかった。
「分かりました。一緒に伺いましょう」
ハリーは鞄を開き、残っている課題を出した。
浮遊術の記録は終えている。書き直した字を乾かして挟み、次の紙へ手を伸ばした。
小屋の話は、それ以上しなかった。
◆
次に五人で訪ねると、扉の内側から物を引きずる音がした。
ハリーが叩いて、少し待った。
隙間が開く。
「おう。ちょっと待ってろ」
ハグリッドは扉の後ろにあった椅子を動かした。後ろから伸びた黒い尾が、その脚へ当たる。
「元気だろう」
いつもの笑顔だった。
ハリーは笑い返さなかった。
鬼太郎は、彼とロンの後ろで止まった。ハーマイオニーも敷居を跨がず、キーノは開いた扉の脇から中を見ている。
五人が一度に入れる床の空きは、なかった。
「ハグリッド」
ハリーが呼んだ。
「ノーバートを、別の場所へ移そう」
大きな顔から、笑みが消える。
「何だって?」
「もっと広くて、ドラゴンを育てられる場所だよ」
ノーバートが翼を動かした。
ハグリッドは反射的に振り返り、テーブルへ当たる前に身体を寄せた。翼の端が、その腕を押す。
ハリーは待った。
ハグリッドがこちらへ顔を戻してから、続ける。
「僕たちも、生まれたときは嬉しかった。でも、もうここじゃ無理だよ」
「ちゃんと育っとるじゃないか」
「育ってるから、狭くなってるんだ」
ロンが言った。
ハグリッドの目が、扉の外の顔を順に見た。
ハーマイオニーは、持ってきた紙を出さなかった。鬼太郎も、前に伝えた条件を読み直すことはしなかった。
ハリーが敷居へ近づいた。
「手放したくないのは分かるよ。でも、僕たちはもう、前みたいにここへ入れないんだ」
「ノーバートが、嫌いになったのか」
「違うよ」
答えは、すぐだった。
「怖くなったんだ」
ロンが隣で頷いた。
ハグリッドは何も言わなかった。
鬼太郎からは、その大きな手が、扉の縁を握っているのが見えた。小屋へ入れてやろうと開けた扉を、半分ほど残したままでいる。
床で、器が鳴った。
ノーバートが踏んだ空の器が滑り、ハグリッドの踵へ当たった。
彼は拾おうと屈みかけた。翼が動き、腰を引く。
手が、膝の辺りで止まった。
誰も急かさなかった。
竜の頭が反対を向くのを待ってから、ハグリッドは器を拾い、テーブルへ置いた。
「……移すったって、どこへだ」
低い声だった。
ハリーがロンを見た。ロンも、すぐには答えなかった。
行き先は、まだ決まっていない。
ハグリッドの後ろで、ノーバートが床を踏み直した。寄せた椅子の脚が、また小さく鳴った。
鬼太郎は、二人の返事を待った。
今度はハグリッドの方から、その場所を尋ねていた。