第百二十六話 静まる声に、隙はない
帰省する生徒たちの荷物が、玄関へ集まっていた。
大きな鞄を引く者も、本の入った袋を抱え直す者もいる。
ハーマイオニーは、出発の前にもう一度、ハリーたちへ顔を向けた。
「休暇の間に、フラメルについて何か分かったら、覚えておいてね」
「分かってるよ」
ロンが答える。
「君も、本を全部持って帰るつもりじゃないだろうね」
「必要なものだけよ」
彼女は袋の持ち手を直した。
キーノが、その膨らみを見ている。
「重そうだな」
「でも、家で読めるでしょう。キーノも、また休暇の後に」
「ああ。またな」
鬼太郎も挨拶をした。
少し離れたところで、セドリックが手を上げた。
「次に会うときは、先生との練習の話を聞かせてよ」
「ええ。戻るまでに、いろいろ教わっておきます」
「ますます、同じ動きじゃ通じなくなるな」
セドリックは笑い、鞄を持って外へ向かった。
人の列が、少しずつ玄関から減る。
扉が閉じると、城の中に残った声が、普段より遠く聞こえた。
◆
昼食の後、ハリーとロンは談話室でチェス盤を挟んでいた。
キーノが、駒の動く様子を覗く。
「それは、どこまで進めるんだ」
「こいつは、まっすぐなら何マスでも。途中に駒があったら止まるけどね」
ロンが盤を指した。
鬼太郎は杖と帳面を確かめ、椅子から立ち上がった。
「では、行ってきます」
キーノが顔を上げる。
「先生のところか」
「ええ。今日が、最初の日です」
「終わったら、どんな練習だったか教えてくれ」
「もちろん」
鬼太郎は鞄を持った。
ハリーが、盤から顔を上げる。
「休暇になっても、練習するんだね」
「授業の時間を気にせず、教わることができますから」
鬼太郎は答えた。
それに、今日はフリットウィックが相手をしてくれる。
最初に武装解除を見せられたときから、向かいに立ってみたかった。
鬼太郎は談話室の扉を開けた。
◆
教室には、既に床の線が引かれていた。
机は寄せられているが、今日は木箱が中央にない。
鬼太郎が入ると、フリットウィックは教卓の前で顔を上げた。
「来ましたね。宿題は、もう済んでいますか」
「はい」
「結構。では、鞄を置いて、杖を持ちなさい」
声は、いつもの先生だった。
鬼太郎は鞄を机へ置く。
先生は、使う呪文を確認した。
武装解除、全身金縛り、くすぐりの呪文。
鬼太郎が使うものは、その三つに絞る。
フリットウィックも、最初は武装解除で相手をすると言った。
「杖が取られたら、そこで終わりにします。私が止めたときも、すぐに下げること」
「はい」
「今日は、私へ何をしたいですか」
鬼太郎は先生を見た。
「まず、呪文を当てたいです。それから、先生がどう動かれるかを見たいですね」
フリットウィックの口元が上がる。
「では、どちらも試しましょう」
先生が教卓から離れた。
鬼太郎も、線の内側へ入る。
◆
杖が、持ち上がった。
それだけで、空気が変わった。
フリットウィックの足が止まる。
小さな身体の中心が、床の上へ定まった。
先ほどまでの、弾むような声が沈む。
「構えなさい、墓場」
短い言葉だった。
鬼太郎は黒い杖を上げた。
先生の目が、その先だけでなく、指と肘、足元へ動く。
どこへ出ても、見られる。
その感じが、前の実演よりもはっきりした。
「私から目を離さないように」
鬼太郎は、先生の全身へ視線を広げた。
怒っている声ではない。
大きくもない。
それでも、聞いた瞬間に、身体が構えを確かめた。
先生の杖は、力なく浮いているようにも見えた。
だが、あの手を遅いとは思えない。
鬼太郎の笑みが深まった。
向かいにいるのは、強者だった。
「一礼」
二人が頭を下げる。
鬼太郎が顔を上げると、先生はもうこちらを見ていた。
「始め」
◆
鬼太郎は、先に全身金縛りを使った。
フリットウィックが半歩動く。
光は、先生の肩の外を抜けた。
小さい動きだった。
鬼太郎も足を変え、次の構えへ移る。
先生の杖が向いた。
「エクスペリアームス」
赤い光が来る。
鬼太郎は右へ身体をずらし、杖を相手へ残そうとした。
その直前、先生の杖先が少し動いた。
光が出たのは、その後だった。
鬼太郎が避けようとした場所を、正確に通る。
指が開いた。
黒い杖が手を離れる。
鬼太郎は足を止めた。
まだ、次の詠唱を始めてもいなかった。
「そこまで」
先生が杖を下げる。
飛んだ黒檀は、床へ落ちる前に止まった。
鬼太郎はフリットウィックを見た。
口元には、笑みが残っていた。
「今、僕が出る方へ変えられましたね」
「ええ。あなたが先に動きましたから」
声が柔らかく戻る。
先生は鬼太郎へ杖を返した。
同じ手だった。
さっき、その手が動いたときには、こちらの杖が飛んでいた。
◆
「もう一度、お願いします」
鬼太郎が言った。
「ええ。今度は、何を変えますか」
「動き出す前に、杖先をもう少し見ます」
フリットウィックは頷いた。
構える。
また、声と気配が静まった。
鬼太郎は、その変わり方まで見ていた。
「始め」
今度は、すぐに呪文を使わなかった。
先生の手を見る。
足を見る。
杖がこちらへ向く。
鬼太郎は、まだ動かない。
フリットウィックが少し横へ移った。
鬼太郎も向きを変える。
先生の杖先が低くなった。
手元へ来るなら、腕を引ける。
鬼太郎は杖を身体の近くへ収めた。
その分、次に自分から使うには、また向け直さなければならない。
先生は、そこへ一歩寄った。
鬼太郎は距離を取る。
フリットウィックは追わず、別の角度へ立った。
先生の正面へ戻ろうとすると、床の端が近づいた。
鬼太郎は気づき、足を止める。
戻る方へ、杖があった。
止まったままなら、自分の呪文も使える。
「リクタスセンプラ」
鬼太郎が唱えた。
先生は肩を引いた。
その手から、赤い光が返った。
鬼太郎の杖が、また飛んだ。
◆
フリットウィックは、今度は床を示した。
「最初に、あなたが立っていたのは、ここですね」
鬼太郎が頷く。
「私が動くと、あなたは向きを変えました。手元を守ろうとして、杖も引いた」
「はい」
「そこで近づけば、あなたは距離を取りたくなる。離れたところへ追いかけず、向きを変える方を選びました」
先生は、先ほど通った場所へゆっくり移った。
鬼太郎は自分の足跡を辿る。
こちらが選んだつもりの場所へ、先生が次の手を置いていた。
誘いは見慣れている。
裏稼業の護衛も、隙を見せて反撃を待った。
セドリックも、こちらが避けるところへ狙いを変えた。
だが、先生はそれを、構え直すたびに続けていた。
明らかに危険な一歩はない。
その一歩ずつを選ぶと、最後には動く場所が減っている。
鬼太郎は先生へ顔を向けた。
「一つだけなら、避けた後に戻れると思いました」
「ええ。戻りたい場所も、私は見ていました」
フリットウィックは鬼太郎の杖を指した。
「あなたは、小さく避けて反撃することが得意です。そのために、杖を残したい。それも、相手へ見えることです」
鬼太郎は握りを確かめた。
利点が、そのまま狙われる場所にもなる。
「では、次はそこも変えてみます」
「よいでしょう。ただし、杖だけへ意識を向けないように」
先生は床の中央へ戻った。
◆
三度目は、鬼太郎が少し大きく動いた。
最初の呪文を使ってから、相手の返しを待つ場所を変える。
フリットウィックの杖先が動いた。
まだ唱えてはいない。
鬼太郎はそこで、自分の足を止めなかった。
先生が狙う場所から、もう一歩外へ出る。
同時に杖を上げる。
「エクスペリアームス」
赤い光が、先生の手へ向かった。
フリットウィックの足が動く。
杖の向きも変わった。
鬼太郎の笑みが深まる。
当たらない。
それでも、向けられていた先から杖を外させた。
鬼太郎はその間に、別の位置へ入った。
近づきすぎない。
先生の全身を見られるところで構え直す。
フリットウィックの目が、鬼太郎の足へ下りた。
次に、杖を握る手へ戻る。
声がした。
「続けなさい」
静かだった。
その言葉で、鬼太郎の胸が弾んだ。
自分から仕掛けても、この人はまだ次を見ている。
◆
鬼太郎は、全身金縛りを使った。
先生が避ける。
その場所へ続けて使おうとし、途中で止めた。
フリットウィックの足が、既に戻り始めている。
そこで追えば、先生の正面へ杖を出す。
鬼太郎は少し下がった。
先生が寄る。
今度は、離れ続けずに横へ移った。
杖先が追う。
鬼太郎はくすぐりの呪文を返した。
また外れる。
息が速くなった。
ただし、まだ脚は動く。
鬼太郎は呼吸を整えながら、先生の次の構えを見た。
少し、杖を低く持っている。
こちらの手へ届かせるには、角度を変えるはずだった。
鬼太郎は、先生が手を上げるところへ使おうとした。
自分の杖が出る。
その瞬間、先生の低い杖先から、赤い光が走った。
上げ直す必要はなかった。
既に、こちらが杖を出す場所へ向いていた。
鬼太郎は腕を引きかけた。
光が届く方が早い。
三度目も、黒い杖が手を離れた。
「そこまで」
鬼太郎は足を止めた。
フリットウィックは杖を下ろした。
◆
「今のは、最初より長く動けましたね」
柔らかな声が戻った。
鬼太郎は息を吐き、額へ触れた。
汗があった。
先生の呼吸は、ほとんど変わっていない。
「一度、狙いを変えていただけました」
「ええ。私が向けたところから、そのまま出なかった。自分で別の場所を選べました」
先生は鬼太郎へ杖を返す。
「最後は、持っている高さを見て、狙いまで決めてしまいましたね」
「はい。手へ向けるなら、上がると思いました」
「相手が小さければ、その角度も違います。あなたが杖を出す位置へ、最初から向けることもできますよ」
鬼太郎は、先生との高さの差を見た。
人間相手の経験はある。
しかし、同じような身体と杖の位置だけを前提にすれば、ここでも読みを誤る。
鬼太郎は笑った。
「まだ、見落としているところが多いですね」
「見つかったなら、次に確かめられます」
フリットウィックは、鬼太郎を机へ呼んだ。
「今日は、先ほどの動きをゆっくり繰り返しましょう。手合わせを増やす前に、どこで変わったかを確かめます」
鬼太郎は頷いた。
「よろしくお願いします」
◆
帰る頃には、帳面へ床の線と、二人の位置がいくつも描かれていた。
フリットウィックは最後の図を指した。
「呪文が来る前に動くこと自体は、悪くありません。ただ、相手がそれを見てから使えるなら、先に動いたことも利用されます」
「はい」
「ですから、早く動けばよい、小さく避ければよいと、一つに決めないことです」
鬼太郎は図の横へ、短く書き足した。
先に動いたところを見られた。
杖を残す位置を狙われた。
引いた手を、出し直すところで取られた。
どれも、身体で覚えた瞬間があった。
「次は、キーノと一緒に来なさい。彼女の練習も見ましょう」
「ええ。伝えておきます」
鬼太郎は帳面を収めた。
扉の前で、先生へ向き直る。
「ありがとうございました。とても、面白かったです」
フリットウィックは鬼太郎を見た。
三度、杖を取られた。
その後の練習でも、直すところは多かった。
それでも、この子は次に向かい合うことを楽しみにしている。
「私も、次を楽しみにしていますよ」
先生は微笑んだ。
鬼太郎は一礼し、教室を出た。
◆
談話室へ戻ると、キーノが暖炉のそばから顔を上げた。
「どうだった」
「三回、杖を取られました」
鬼太郎は隣へ座った。
ロンがチェス盤から顔を向ける。
「先生が相手なら、そうなるよ」
「ええ。取られ方も、毎回違いました」
鬼太郎が帳面を開く。
キーノは図へ目を落とした。
「これ、全部お前が動いた場所か」
「はい。ここから動くと、次にはこちらが近くなるんです」
指で二つの印を辿る。
「先生は、それを先に見ていました。僕が足を置いてから、慌てて追っているのではないんですね」
ハリーも、近くへ顔を寄せた。
「そんなに、先まで分かるの?」
「僕が選びやすい場所を、作られていたんだと思います」
鬼太郎は先生の構えを思い出した。
杖を上げた後の、静かな声も。
「いつもの授業より、ずっと厳しく見えました。ただ、終わると、また普段の先生なんです」
「次は、私も行くんだな」
キーノが尋ねる。
「ええ。先生も、そうおっしゃっていました」
彼女は頷いた。
鬼太郎が帳面へ目を戻す。
負けた話をしているのに、口元は緩んだままだった。
キーノはそれを見て、今は何も言わずに図の続きを読んだ。
◆
夕食の後、鬼太郎は記録を書き終えてから、別の袋を開けた。
紺色の細長い紙。
銀色の小さな星。
紐の長さは、前に切ったものより少し短くした。
本を開いたとき、長く垂れすぎない方がよさそうだった。
上の穴へ通し、星を結ぶ。
鬼太郎は自分の本を開いて、栞を挟んだ。
閉じる。
星は、頁の外へ出ている。
もう一度開くと、紺色の紙が、残しておいた場所にあった。
指で抜く。
端は、少しだけ不揃いだった。
鬼太郎はそこを整え、星の結び目を確かめた。
今日は、杖を動かす場所を何度も直された。
今は、紙と紐の位置を直している。
どちらも、実際に動かしてみると、考えていた形とは少し違った。
けれど、これは相手に当てるものではない。
キーノが本を開き、次の頁へ進むときに使うものだ。
鬼太郎は栞を卓へ置いた。
細い紙の脇で、銀色の星が灯りを受けた。
◆
キーノは、ハリーが棚から出した本を見ていた。
少し離れた卓で、鬼太郎が何かを包んでいる。
前にも、そこで紙を切っていた。
今日も、練習の道具ではなさそうだった。
彼女は一度そちらを見てから、手元の本へ戻った。
鬼太郎にも、自分の時間がある。
聞けば、後で話すこともあるだろう。
ハリーが目次を捲った。
「フラメルが、これに載ってるといいんだけど」
「その名前、ずっと探してるな」
「どこかで見た気がするんだ。でも、思い出せなくて」
キーノは次の頁へ目を移した。
鬼太郎は、包んだ栞を鞄の奥へ収めた。
小さな紙に、キーノの名前を書いてある。
今はまだ、渡さない。
クリスマスの日に、彼女が開ける。
鬼太郎は袋の口を閉じた。
その隣には、フリットウィックとの練習を記した帳面が入っていた。
また杖を向ける日と、贈り物を渡す日。
どちらも、待つ楽しみがあった。