第十二話 借り物の名前
「名前は」
女は、墓場鬼太郎の顔を見ずに尋ねた。
机の上には、鬼太郎が持っていた書類が広げられている。
現在使っている身分証明書。
父が英国で生まれたことを示す書類。
父母と暮らしていたころから、手元に残っているいくつかの紙。
「墓場鬼太郎です」
「書いて」
女が紙とペンを滑らせた。
鬼太郎は、自分の名前を書く。
女は文字を一度見ただけで、次の紙を出した。
「生年月日」
鬼太郎が書く。
「出生地」
書く。
「父親の名前。母親の名前」
鬼太郎は順番に記した。
女は返事を求めているのではない。
文字の形。
ペンの動かし方。
迷う場所。
鬼太郎が何を知り、何を知らないかまで見ている。
「こちらが、ミラ・ストヤノヴァだ」
机の向こうで、買い手が言った。
「前の仕事で取り戻した道具の持ち主でもある」
「返していただいたことには感謝している」
ミラは鬼太郎を見ず、父の書類を明かりへ透かした。
「あなたのためではありません。仕事でしたから」
「その方が信用できる」
紙を指で撫でる。
印刷。
署名。
端に残る古い折り目。
「これは作ったものじゃない」
「父の書類です」
「見れば分かる」
ミラは紙を机へ戻した。
「父親は英国生まれ。母親は日本人。子供はブルガリアで暮らしていた。そして今、保護者はいない」
「ええ」
「このままでは、国境で止められる」
「書類を作れば、通れるのでは?」
「書類だけなら作れる」
ミラは鬼太郎の身分証明書を持ち上げた。
「だが、本物に見える紙を持った六歳児が、一人で何か国も越えれば、それだけで不自然だ。紙が通っても、お前が通らない」
「保護者が必要なのですね」
「それだけじゃない。お前の本名は使わない方がいい」
鬼太郎は、机に書いた自分の名前を見た。
「なぜです?」
「珍しい名前は覚えられる。父親が英国生まれなら、調べる理由も増える。今ある書類と、新しく作る書類の食い違いも拾われやすい」
「別の名前なら、調べられないと?」
「調べられても、こちらが用意した先にしかつながらない」
ミラは新しい紙へ、二つの単語を書いた。
キリル・ヴァシレフ。
「英国へ着くまで、お前はこの名前になる」
「英国へ着いた後は?」
「好きな名前を使えばいい。私が作るのは、そこまで運ぶための人間だ」
鬼太郎は、紙に書かれた名前を読む。
キリル。
ヴァシレフ。
墓場鬼太郎とは、どこにも書かれていない。
「抵抗は?」
ミラが初めて、鬼太郎の顔を正面から見た。
「ありませんよ」
「即答するのね」
「呼ばれたときに振り返ればよいのでしょう?」
鬼太郎は、紙を指で押さえた。
「名前を変えたところで、僕が別の人間になるわけではありません」
ミラは僅かに目を細めた。
「では、キリル」
「はい」
鬼太郎は、間を置かずに返事をした。
◆
父の書類は、油と水を通しにくい紙で包まれた。
その上から薄い板で挟み、紐で留める。
ミラは、完成した包みを鬼太郎へ渡さなかった。
「渡航中、これは偽造書類と同じ場所へ置かない」
「僕が持たないのですか?」
「身体を調べられたとき、本名の書類が出れば終わりだ」
「捨てるつもりはありません」
「誰も捨てろとは言っていない。荷物の中へ隠す。お前が場所を確認し、国境を越えるたびに残っているか確かめればいい」
鬼太郎は包みを受け取り、厚さと重さを確かめた。
「途中で荷物だけ持ち逃げされた場合は?」
「運ぶ人間を選ぶのは、そのためだ」
買い手が答えた。
「今日は、その相手にも会わせる」
買い手が部下へ合図を送る。
事務所の扉が開いた。
入ってきたのは、灰色の外套を着た女だった。
三十歳ほど。
髪は首の後ろで短くまとめている。
鬼太郎を見る前に、部屋の窓と、買い手の後ろにいる部下を見た。
最後に、机の前へ座る鬼太郎へ視線を向ける。
「これが例の子供?」
「そうだ」
「もっと化け物じみた顔をしていると思った」
「初めまして。墓場鬼太郎と申します」
女の眉が動いた。
ミラがペンの先で机を叩く。
「今は、その名前じゃない」
「失礼しました」
鬼太郎は言い直した。
「キリル・ヴァシレフです」
「イリーナ・ヴァシレヴァ」
女は向かいの椅子へ座った。
「書類の上では、私がお前の叔母になる」
「母親ではないのですね」
「母親を演じるつもりはない」
「叔母なら演じられると?」
「母親より、子供のことを知らなくても不自然じゃない」
「なるほど」
イリーナは、鬼太郎の穏やかな顔を見た。
「条件を言う」
「お聞きします」
「検問では、聞かれていないことを喋らない。私の話を訂正しない。勝手に車を降りない。私が止まれと言ったら止まる」
「はい」
「銃を出さない。火も使わない」
「必要になった場合は?」
「必要にさせないのが私の仕事だ」
「それでも必要になれば?」
「私が言うまで待て」
「プリンパもですか?」
「何だ、それは」
「相手の頭を混乱させる魔法です」
イリーナは数秒、黙った。
「なおさら使うな」
「便利な場合もありますよ」
「混乱した検問官が何をするか、お前には決められるのか」
「できません」
「なら、検問所では最悪の道具だ。仲間を撃つかもしれない。警報を鳴らすかもしれない。道を閉じるかもしれない」
「その可能性はありますね」
「使うな」
「分かりました」
「それから、人前では私を叔母さんと呼べ」
「今からですか?」
「今からだ」
鬼太郎はイリーナを見た。
「承知しました、叔母さん」
イリーナの口元が僅かに歪んだ。
「気味の悪いほど素直だな」
「仕事の条件ですから」
◆
問題になったのは、〈シュライク〉だった。
「身につけたままでは連れていかない」
イリーナは、鬼太郎の上着の下を指した。
「見えていましたか?」
「歩き方で分かる」
鬼太郎は腰用ホルスターから〈シュライク〉を抜いた。
弾倉を外す。
スライドを引き、薬室の弾を排出する。
机の上へ置いた。
「預けろとは言っていない。車へ隠す」
「場所を見せていただけますか?」
「見せなければ乗らないのか」
「ええ」
「私が持ち逃げすると?」
「可能性はあります」
「私がお前の銃一挺のために、買い手との仕事を捨てると思うか」
「思いません。ですが、確認できることを確認しない理由もありません」
イリーナは買い手を見た。
「いつもこうなの?」
「いつもだ」
「面倒な子供ね」
「よく言われます」
◆
イリーナの車は、荷物を運ぶための箱型だった。
後部には木箱が積まれている。
彼女は床板の留め具を外した。
薄い板を持ち上げる。
その下に、細長い空間があった。
「ここへ入れる」
鬼太郎は中を覗いた。
外から見える隙間はない。
床下だが、車体の底へ直接触れてはいない。
油と埃の臭いはする。
鬼太郎は指を入れ、湿っていないか確認した。
「そのまま入れるつもりですか?」
「布で包む」
「油を染み込ませた布を使ってください。弾薬は別に」
「分かっている」
「検問を越えた後、すぐに出せますか?」
「車を止められる場所まで待て」
「その間に襲われたら?」
「お前は火を使えるんだろう」
「銃の代わりにはなりませんよ」
「一つしか方法がない人間よりはましだ」
鬼太郎は板の厚さを確かめた。
上へ木箱を置けば、簡単には開けられない。
だが、イリーナがその気になれば、車ごと持ち去れる。
それを完全に防ぐことはできない。
「よいでしょう」
「許可をもらえて光栄だ」
「父の書類も、ここですか?」
「本番では別の場所だ。銃と一緒に見つかれば、書類まで調べられる」
イリーナは車内の壁を叩いた。
「紙はこっちへ入れる。場所は出発前に見せる」
「お願いします」
鬼太郎は〈シュライク〉へ薄く油を塗った。
布で包む。
弾倉と、薬室から排出した一発は別の包みにした。
床下へ収める。
板を戻すところまで、自分の目で見た。
◆
「英国へ行く前に、国内の検問を一つ通る」
運転席で、イリーナが言った。
鬼太郎は助手席に座っている。
「予行演習ですか?」
「国境で失敗されるより安い」
鬼太郎の膝には、小さな鞄があった。
中に危険なものはない。
着替え。
食料。
本が一冊。
ミラが用意した、国内移動用の書類。
「名前は」
「キリル・ヴァシレフ」
「年齢」
鬼太郎が答える。
「私は」
「イリーナ・ヴァシレヴァ。父方の叔母です」
「目的地」
「あなたの知人の家です。父が迎えに来るまで、そこで暮らします」
「父親は」
「仕事で国外にいます」
「母親は」
「病気で遠くへ行けません」
イリーナは前を見たまま質問を続ける。
決められた答え。
書類へ書かれている答え。
鬼太郎は一度も間違えなかった。
「覚えるのは得意らしいな」
「覚えるだけなら、難しくありません」
「それが問題になることもある」
「どういう意味です?」
「聞かれた瞬間、全部同じ調子で答える子供は不自然だ」
「正しい答えを言っているのに?」
「正しすぎる」
鬼太郎は少し考えた。
「間違えた方がよいのですか?」
「迷え。思い出せ。子供らしくしろ」
「六歳の子供が、どのように考えるかは分かりません」
「お前は六歳だろう」
「身体は」
イリーナが横目で鬼太郎を見た。
「余計なことを検問で言うなよ」
「承知しています」
◆
道の先に、横棒が下りていた。
小さな詰所。
制服を着た男が二人いる。
前の車が止められ、荷台を調べられていた。
鬼太郎は、上着の下へ手を入れなかった。
〈シュライク〉は床下にある。
腰には、普段ある重さがない。
「見るな」
イリーナが小声で言った。
「何をです?」
「検問官を観察するな。怖がる子供か、退屈している子供に見えろ」
鬼太郎は詰所から視線を外した。
膝の鞄を見る。
車が進む。
横棒の前で止まった。
一人が運転席へ近づく。
「書類を」
イリーナが渡す。
男は一枚ずつ確認した。
次に、助手席の鬼太郎を見る。
「その子は」
「甥です」
「名前は?」
イリーナではなく、鬼太郎へ尋ねた。
鬼太郎はすぐに答えなかった。
膝の上で指を動かす。
一度、イリーナを見る。
「キリル・ヴァシレフです」
「何歳だ」
答える。
「どこへ行く」
鬼太郎は、今度も少し間を置いた。
決められた目的地を答える。
「叔母さんの家か?」
「違います。叔母さんの知り合いの家です」
「どのくらいいる」
「父が迎えに来るまでです」
「それは何日だ」
鬼太郎はイリーナを見た。
「僕は聞いていません」
事前に決めていない答えだった。
知らないことまで作れば、後から食い違う。
検問官がイリーナを見る。
「二週間ほどです」
イリーナが答えた。
男は書類へ視線を戻した。
「叔母さんの料理で、何が一番好きだ?」
そこにも答えは用意されていなかった。
鬼太郎は、イリーナを見た。
彼女の料理を食べたことはない。
「好きなものはありません」
「ないのか?」
「叔母さんは料理が下手ですから」
イリーナの手が伸びた。
鬼太郎の頭を軽く叩く。
「余計なことを言うんじゃないよ」
検問官が笑った。
「甥には好かれていないらしいな」
「兄の子供ですから。口ばかり達者で」
鬼太郎は叩かれた場所へ手を置いた。
「痛いですよ、叔母さん」
「なら、次から黙っていな」
イリーナは本当に少しも困っていない声で言った。
検問官は書類を返した。
だが、横棒は上がらない。
「後ろを見せろ」
もう一人の検問官が、車の後部へ回る。
イリーナは運転席を降りた。
鬼太郎は動かなかった。
後ろの扉が開く音。
木箱を動かす音。
〈シュライク〉は床下にある。
検問官が板を外せば見つかる。
鬼太郎は左手を開いた。
プリンパ。
あの男の頭を混乱させれば、調査を忘れる可能性はある。
別の場所に何かを見たと思うかもしれない。
仲間を敵だと思うかもしれない。
銃を抜くかもしれない。
警報を鳴らすかもしれない。
横棒を上げるとは限らない。
鬼太郎は左手を閉じた。
使わない。
後ろで、イリーナが低い声で何かを言った。
言葉までは聞こえない。
硬貨の触れ合う音がした。
木箱を動かしていた音が止まる。
扉が閉じた。
イリーナが運転席へ戻った。
検問官が横棒を上げる。
「行け」
車は検問所を通過した。
◆
検問所が見えなくなっても、イリーナはすぐに車を止めなかった。
分かれ道を二つ通る。
林に囲まれた脇道へ入る。
そこでようやく停車した。
「降りろ」
二人で車の後ろへ回る。
木箱を動かし、床板を開けた。
油布に包まれた〈シュライク〉が残っている。
鬼太郎は包みを持ち上げた。
布を開く。
外側に傷はない。
弾倉と、薬室から抜いた一発も揃っている。
〈シュライク〉へ弾倉を差し込む。
薬室へは弾を送らない。
残った一発は包みに戻した。
ホルスターへ収めた。
「疑っていたか」
イリーナが尋ねた。
「確認していただけです」
「買い手と同じことを言うな」
「正しい言葉は、誰が使っても同じですよ」
イリーナは床板を戻した。
「検問で、何かしようとしたか」
「プリンパを使うことは考えました」
「使わなかった」
「結果を選べませんからね。あなたがお金で解決する可能性もありました」
「私が失敗していたら?」
「そのときに使うか、別の方法を考えました」
「勝手に動くなと言った」
「捕まった後まで、条件を守る必要はありますか?」
イリーナは鬼太郎を見下ろした。
鬼太郎も穏やかな顔で見返す。
「国境までは連れていけそうだ」
「合格ですか?」
「最初の二つの国境までだ。その先は別の運び屋へ渡す」
「英国まで一緒ではないのですね」
「そこまで面倒を見る金はもらっていない」
「次の方が、僕を売る可能性は?」
「ある」
イリーナは隠さなかった。
「買い手が選ぶ相手なら、低い。ゼロではない」
「でしたら、売ろうとした方には後悔していただきます」
「銃も火も隠したままでか?」
「隠しているからといって、なくなったわけではありませんよ」
イリーナは短く笑った。
「本当に可愛げがないな」
「必要ですか?」
「検問ではな」
◆
買い手の事務所へ戻ると、ミラが新しい紙を用意していた。
まだ完成した身分証明書ではない。
キリル・ヴァシレフという人間を作るための記録だった。
生年月日。
出生地。
父母の名前。
暮らしていた場所。
イリーナとの関係。
国外へ向かう理由。
鬼太郎は一行ずつ読んだ。
「間違いは?」
ミラが尋ねる。
「書かれている内容は、先ほど聞いたものと同じです」
「本当かどうかは聞いていない」
「キリル・ヴァシレフとしては、間違っていません」
「なら、覚えて」
「もう覚えました」
ミラは紙を裏返した。
鬼太郎に内容が見えなくなる。
「母親の出生地」
鬼太郎が答える。
「父親の仕事」
答える。
「叔母の誕生日」
鬼太郎は答えなかった。
「書かれていませんでした」
「正解。知らないことを作らない」
ミラは紙を戻した。
「今日の検問は?」
「通った」
イリーナが答えた。
「演技は」
「正確すぎる。だが、直せる」
「連れていく?」
「最初の二つの国境までなら」
ミラは頷き、必要な書類の一覧を作り始めた。
買い手は別の紙へ数字を書いている。
偽造書類の製作費。
イリーナへの報酬。
次の運び屋への支払い。
車と荷物の費用。
国境で使う金。
英国へ入る最後の経路は、まだ決まっていない。
そこにも、さらに金がかかる。
すべてを合計した数字が、鬼太郎の前へ置かれた。
「足りませんね」
「分かっていたことだ」
「あと、どれほど必要です?」
買い手が、不足している額を指した。
西の町で受けた仕事を、同じ報酬で何度も繰り返すだけでは時間がかかる。
「出発は、いつごろになります?」
「書類が揃い、経路がつながり、金を払えたらだ」
「明確な日付ではありませんね」
「一つでも欠ければ出せん」
鬼太郎は、机の数字を見た。
必要なものは分かった。
偽名。
書類。
叔母。
運び屋。
銃と本名の書類を隠す場所。
そして金。
「短期間で稼げるお仕事は?」
買い手は、机の引き出しを開けた。
一枚の写真を出す。
まだ鬼太郎へは向けない。
「ある」
「報酬は?」
買い手が金額を書く。
これまでの依頼より、一桁多かった。
鬼太郎は数字を見た後、裏返された写真へ視線を移した。
「危険なのでしょうね」
「先に向かった二人が戻っていない」
「二人とも、あなたの部下ですか?」
「違う。依頼人が別々に雇った人間だ」
「死体は?」
「見つかっていない」
「依頼の内容は?」
「今日は話さない」
買い手は写真の上へ手を置いた。
「受けるなら、条件を揃えてからだ」
「僕が断ると思いますか?」
「報酬だけを見て受けるなら、英国へ着く前に死ぬ」
鬼太郎は微笑んだ。
「条件を聞いた後で決めますよ」
机の端には、キリル・ヴァシレフのための紙がある。
その隣には、墓場鬼太郎が英国へ着くために必要な金額がある。
そして買い手の手の下には、二人が戻らなかった依頼の写真があった。
借り物の名前で国境を越える準備は始まった。
残る不足を埋める仕事も、すでに鬼太郎の前へ置かれていた。