第12話 子供の値段
朝の港は、細かな雨に煙っていた。
船から下りる車の列へ混じり、鬼太郎は窓の外を見ていた。濡れた路面に車輪の跡が重なり、その先で制服姿の男たちが待っている。
係官が窓へ来ると、イリーナは書類を渡した。
男の言葉は英語だった。父から教わった音が聞こえる。だが、次の単語を拾う頃には、その先へ進んでいた。
親戚。滞在。子供。
その三つが分かっただけで、質問が終わった。
イリーナが答える。男は紙へ何かを書き、後部座席を覗いた。
「名前は?」
今度は短かった。
「キリル・ヴァシレフです」
英語で答えると、男が少し顔を寄せた。
「英語を話すのか」
「少しだけです。父に習いました」
男は続けて何かを尋ねた。父という言葉は聞こえたが、その先が分からない。鬼太郎はイリーナを見た。
彼女が代わりに答えている間に、別の係官が車内を調べた。衣服を取り出し、鞄の底へ手を当てる。棒を包んだ布も動かされたが、今回は開かれなかった。
書類へ印が押された。イリーナが窓を閉め、車を進める。
港の門を出た先にも、濡れた建物と見知らぬ看板が並んでいた。
父が生まれた国だった。
だが、看板を一つ読み終える前に車は通り過ぎ、道行く人々の声も窓越しに遠ざかる。ここへ来れば何かが分かると思っていたが、今のところ、ブルガリアにいたときより分からないものが多い。
「次に聞かれたら、何と答えればよいのです?」
「何をだ」
「先ほど、僕が答えられなかった質問です」
「父親はどこにいるかと聞かれた。向こうに残っていると言った」
鬼太郎は、その問い方をもう一度教わった。イリーナの発音を繰り返してみると、さっきより単語の区切りが分かった。
「英国へ来てからも、甥の役は続くのですね」
「私といる間はな」
イリーナはそれ以上話さず、雨で白く曇った窓を拭いた。
◆
紹介先の建物には、看板がなかった。
車を裏へ停め、イリーナが扉を叩く。覗き窓から見た男は、彼女だけを通そうとした。
「子供は外だ」
「この子を連れてきた」
男は鬼太郎を見たあと、イリーナの顔を見直した。何か言いかけたが、結局、扉を広く開けた。
奥の事務所には机と椅子があり、壁際へ男が二人立っていた。二人とも上着の下が膨らんでいる。
机の向こうの男は、ブルガリアの買い手より若く見えた。指に太い指輪をつけ、イリーナから受け取った封筒を苛立たしげに開く。
紙を読んでから、鬼太郎の後ろへ目を向けた。
「どこにいる」
「そこだ」
イリーナが示すと、男は紙を机へ落とした。
「使える人間を寄越せと言った。子供を預かるとは聞いていない」
「書いてある仕事をしたのは、その子供だ」
「六歳のガキが?」
鬼太郎は二人の顔を交互に見た。すべては聞き取れなくても、歓迎されていないことは分かる。
男が指を曲げると、壁際の一人が近づいてきた。肩へ手を置かれ、正面を向かされる。腕と上着を調べられたが、銃は車の中だった。
「細いな。まともに殴れば折れそうだ」
部下の言葉に、買い手が笑った。
鬼太郎は、肩に置かれた手へ目を落とした。焼くのは簡単だった。だが、まだ依頼の条件も聞いていない。イリーナが何を話すか、そのまま待った。
「火を使う。自分用の銃を持つ。元兵士を殺した」
買い手は紙を指で叩いた。
「向こうじゃ、子供を売るにも話を飾るらしい」
「信じるかどうかは、私の仕事ではない」
イリーナは車の鍵を机へ置いた。
「決めた場所へ、人間と荷物を運んだ。ここから先は、あんたが決めろ」
「荷物の場所は?」
「本人へ教える」
買い手の返事を待たず、イリーナは鬼太郎へ顔を向けた。聞き慣れた言葉で、父の書類と銃、それぞれの隠し場所を伝える。
鬼太郎は留め具の位置を聞き直した。間違いなく覚えてから、イリーナを見上げる。
「これで、お仕事は終わりですね」
「ああ。ここから先は叔母でもない」
「お世話になりました。最後まで、見事でしたよ」
「金をもらったからな」
「いただいた方が全員、あなたのようなら楽なのですが」
鬼太郎がそう答えると、イリーナは少しだけ買い手へ目を向けた。
「これから確かめろ」
扉へ向かい、一度だけ足を止める。
「英国で問題を起こしても、迎えには来ない」
「帰るときにも、お金を払いますよ」
イリーナは返事をしなかった。扉が閉まり、足音が遠ざかる。
鬼太郎は追わず、机の向こうへ向き直った。
「何を話した」
買い手が、今度はゆっくり尋ねた。
「荷物の場所と、お別れの挨拶です」
「英語はできるんだな」
「少しだけです」
買い手は椅子へ身体を預け、食事と寝床を与える代わりに働けと言った。報酬を聞くと、仕事ができると分かってから考える、と返ってくる。
鬼太郎はすぐには答えなかった。
自分で街へ出ても、今は店の看板さえ十分に読めない。誰が仕事を仲介し、誰が金を払うかも知らない。この男から離れることはできるが、代わりを見つけるまでに時間がかかる。
「内容は、いつ伺えますか?」
「明日だ。子供でもできる仕事をやる」
「では、始める前に条件をお聞かせください」
買い手は笑いながら、分かったと答えた。
案内された寝床は、地下の物置だった。床へ置かれた毛布の横には壊れた椅子があり、窓もない。
鬼太郎は扉が閉まる前に、鍵が外側にしかないことを確かめた。
◆
翌朝の食事は、固いパンと薄い飲み物だった。
食べ終えてから荷物を取りたいと言うと、昨夜の男が車へ連れていった。鍵は買い手から預かっている。
「服くらい、俺が持ってきてやる」
「書類もありますので、自分で確かめます」
男は面倒そうに扉を開けた。
鬼太郎は座席の下から油紙の包みを取り出した。父の書類が濡れていないことを確かめ、鞄へ移す。
次に荷台へ回った。男は煙草をくわえ、建物の窓へ顔を向けていた。
左奥の板を外すと、〈シュライク〉があった。ホルスターを腰へつけ、銃を収める。弾薬と予備の弾倉は鞄の底へ入れ、上に衣服を戻した。
「終わりました」
男は振り返り、鞄の中を見せろと言った。衣服を押し、油紙にも触れたが、下までは取り出さなかった。鬼太郎の身体は調べない。
昨夜、銃がなかったことは覚えているらしい。今、車で何をしたかは見ていなかった。
事務所の机には、簡単な地図が置かれていた。
「閉まった賭け屋だ。二階の事務室に、赤い革の帳面がある。持ってこい」
鬼太郎は椅子へ座り、地図の文字を追った。読めない箇所は形で覚える。
「中は開かなくてよいのですね?」
「開くな。ほかの物にも触るな」
「人は?」
「見張りの年寄りが一人。昼間は飲んで寝ている」
「武器は持っていますか?」
「ない。裏の石炭を入れる穴から入れる。お前なら通れるだろう」
鬼太郎は入口と帳面の場所を確かめてから、報酬を尋ねた。
買い手は昨夜と同じく、食事と寝床だと言った。
「それは、ここで働く間の条件でしょう。今回の仕事を終えたときの金額を決めてください」
「何もできると証明していないガキにか?」
「ですから、成功した場合のお話です。持ち帰らなければ、お支払いにならなくて結構ですよ」
買い手は指輪を机へ打ちつけ、それから金額を告げた。
ブルガリアで受けていた回収仕事より安かった。だが、一人の見張りを避けて帳面を運ぶという説明どおりなら、時間もかからない。
「承知しました」
鬼太郎は地図をもう一度見てから、椅子を下りた。
◆
賭け屋の表には、板が打ちつけられていた。
窓の内側は厚い布で隠されている。鬼太郎は立ち止まらず前を通り、角を曲がって裏へ回った。
土に、靴跡がいくつも残っていた。
大きさも、底の模様も違う。裏口から車へ続くものもあり、年寄り一人が暮らしている様子には見えない。
鬼太郎は石炭投入口だけ確かめて通りへ戻った。
店の窓へ、道の反対側が映った。立っている男に見覚えがある。買い手の部下だった。こちらが顔を向けると、新聞を広げた。
見届ける役が必要な程度には、気にしているらしい。
鬼太郎は通りを一周した。表と裏、隣の建物との隙間を覚え、誰にも見られないところで銃へ弾を入れた。
左手で銃を支える日は、まだ来ていない。手入れのために触る程度なら痛まなかったが、発砲の衝撃まで受けるつもりはなかった。
ホルスターへ戻し、石炭投入口の蓋を開ける。
中は暗く、古い煤の臭いがした。鞄を先に下ろして身体を滑らせ、右足から床へ着く。上半身を支えた左腕にも、痛みは出なかった。
蓋を戻し、目が慣れるまで待った。
床に片方だけの靴があった。その近くから、乾いた黒い染みが階段へ続いている。引きずった跡にも見えたが、今ここで確かめる必要はない。
頭上では、男たちが話していた。
声が重なる。少なくとも二人。
帳面。来る。待つ。
意味を拾えたのは、それだけだった。鬼太郎は階段へ上がり、扉を僅かに開けた。
一人は椅子へ座り、腰に拳銃を差していた。もう一人の横には長い銃が立てかけられている。どちらも年寄りではない。
二階で床が鳴った。
鬼太郎は扉を閉じた。地下の奥へ回ると、石炭を運ぶためらしい細い通路があり、その先にも階段があった。
階上から降りてくる者がいないか、しばらく耳を澄ませた。話し声は一階に留まっている。
鬼太郎は〈シュライク〉を抜き、壁際を上がった。
◆
二階の事務室には、一人の男がいた。
窓の外を見ている。上着の裾から拳銃の握りが覗き、机には赤い革表紙の帳面があった。
鬼太郎は扉の脇から机までの床を見た。幅の広い板の端を選び、ゆっくり進む。
帳面へあと少しというところで、靴の下が軋んだ。
男が振り返った。目を見開いたが、その間に鬼太郎は机の端へ届いていた。
「誰だ」
帳面へ左手を伸ばすと、男の右手が上着へ入った。
鬼太郎は銃口を上げた。
一発。
男は壁へぶつかり、胸を押さえて崩れた。鬼太郎は銃を向けたまま、赤い帳面を取った。留め具は閉じている。中を開かず、上着の内側へ差し込んだ。
一階で椅子が倒れた。
鬼太郎は事務室を出て、表の階段へ回った。下から二人が上がってくる。先の男は拳銃を抜き、後ろの男も長い銃を持っていた。
そのまま向かい合って撃つには、隠れる場所が少ない。
鬼太郎は壁へ寄り、左手を階段脇の布へ向けた。集中している間に、下の男の顔が上を向く。
「アギ」
炎が布を包んだ。熱で留めていた箇所が外れ、燃える布が階段の途中へ落ちる。
二人が止まった。
長い銃の先が上がる。鬼太郎は左手を引き、壁へ身を隠した。
発砲音が響き、角の漆喰が飛んだ。
足音が分かれた。一人は下へ戻り、もう一人は横へ回る。鬼太郎が使った裏階段へ向かったのだろう。
鬼太郎は廊下の脇へ移り、銃を下げて待った。
階段を駆け上がる靴音が聞こえた。近づくにつれ速さが落ちる。銃口が先に曲がり角から現れ、その後ろへ男の顔が出た。
鬼太郎は壁際で膝を曲げていた。男が自分より高いところへ銃を向けている間に、右手を上げる。
二発目が胸へ入った。
男は横へ倒れ、手から離れた拳銃が床を滑った。鬼太郎は自分の方へ銃口が向かない位置まで退いた。
下では裏口が開いた。走る音が遠ざかり、車の扉が鳴る。
追うつもりはなかった。
階段脇の木が燃え始めている。鬼太郎は帳面が上着の中にあることを確かめ、裏階段を下りた。二階の男も、廊下の男も動かなかった。
裏口まで来ると、地面に新しい足跡が続いていた。車はすでになく、銃声を聞いたらしい男が通りの角からこちらを見ている。
鬼太郎は銃を収め、そちらへ歩いた。
買い手の部下は、帳面を見てから建物を見上げた。
「中に何人いた」
「三人です。皆さん、銃を持っていましたよ」
「見張りは一人のはずだ」
「僕も、そう聞きました」
男が鬼太郎の肩へ手を伸ばしかけ、途中でやめた。
「銃を持っていたのか」
「ええ」
「どこで手に入れた」
「その説明も、今回のお仕事ですか?」
男は答えなかった。窓から出始めた煙へ目を向け、それから鬼太郎のあとを歩いた。
◆
買い手は帳面を受け取ると、留め具を調べた。
最初の頁だけを開き、すぐ閉じる。指輪のついた手で、今度は帳面をしっかり押さえた。
「間違いない」
「では、報酬をお願いします」
部下の報告が続いていた。銃声と炎、倒れた二人と逃げた一人。早口になった箇所は分からなかったが、買い手が笑わなくなったことは見て取れた。
「銃を見せろ」
「依頼には含まれていませんよ」
買い手の視線が、鬼太郎の上着へ留まった。
「その小さな銃で、二人か」
「帳面を取りに行きました。二人とも、銃を抜きましたので」
買い手は引き出しを開けた。紙幣を出し、机の上へ置く。
鬼太郎は手を伸ばさなかった。
「お約束の額と違いますね」
「建物を燃やした。その分だ」
「燃やしてはいけないとは伺っていません」
「騒ぎになれば、こっちも困る」
鬼太郎は帳面へ目を落とした。
「武器のない年寄りが、一人でしたね」
買い手の指が止まった。
「中にいたのは、お若い方が三人でした。武器もありました。途中で話が変わったのでしたら、今ここで教えてください」
「俺が仕組んだと言いたいのか」
「いいえ。僕は、中で見たことしか知りませんから」
買い手は椅子へ座り直した。
鬼太郎は壁際の男たちも見た。昨夜、細い腕を調べた男は、今は上着の下ばかり見ていた。取り上げるよう命じられるのを、待っている顔ではなかった。
「帳面は、言われたとおり持ち帰りました。中も開いていません。足りない仕事があるのなら、お聞きします」
返事はなかった。
鬼太郎も紙幣へ触れずに待った。
金額は小さい。受け取って終えることはできる。だが、それで次から約束どおり払うようになるとは思えなかった。
「ここで食って寝ているだろう」
「その条件は、仕事の前にも伺いました。そのうえで、金額を決めていただきましたね」
「ほかへ行く気か?」
「同じ仕事で、約束した額を払う方がいるなら」
鬼太郎には、まだその相手の名前が分からない。だが、この男も赤い帳面を欲しがっていた。昨夜は何もできない子供だと言ったのに、今日は帳面を手放さずにいる。
「お探しのものを運べる人間は、必要なのでしょう?」
買い手は机の指輪を一度鳴らした。それから引き出しへ手を入れ、残りを出した。
「数えろ」
鬼太郎は紙幣を揃えた。決めた額があることを確かめ、鞄へ収める。
「間違いありません」
「次は、先に条件を決める」
「ええ。危険についても、分かっていることをお願いします。人数が違うのは、あまり愉快ではありませんでした」
買い手は帳面から手を離し、鬼太郎を見た。
「火を使うというのも、本当なんだな」
「ご覧になりますか?」
壁際で、男の靴が鳴った。
「ここではやるな」
「分かりました」
鬼太郎は立ち上がった。背後から押されるのを待つ必要はなかった。扉の近くにいた男が半歩退き、通れるだけの場所を空けた。
物置へ戻ると、鬼太郎は毛布の脇へ座り、鞄からパンの残りを出した。固さも薄い飲み物も、朝と変わってはいない。
ただ、鞄の中には自分で使える金が増えていた。
鬼太郎は紙幣を別の包みへ移し、父の書類と分けた。明るいうちに外へ出れば、通ってきた道をもう一度歩ける。読めなかった看板も確かめておきたかった。
上の階で、買い手が誰かを呼んでいた。
鬼太郎はその声の速さに耳を澄ませながら、最後のパンを口へ運んだ。