第百二十九話 鏡の向こうで、家族が笑う
廊下へ出ると、暖炉の温かさが背中から離れた。
ハリーは透明マントの縁を握り、足元を確かめながら歩いた。
自分の靴は見えない。
段差を踏み外さないよう、いつもよりゆっくり進む。
昼間は生徒の声が響いている場所に、今は誰もいなかった。窓の外には雪があり、月明かりの届くところだけ、床の石が白く見えた。
角を曲がる前に止まる。
耳を澄ませた。
足音はしない。
それでも、歩き始めるまで少し時間が要った。
マントを被っていれば見つからない。
朝、ロンも鬼太郎も、自分の姿を見失った。
ハリーはそのことを思い出して、また進んだ。
◆
図書館の中は、廊下より暗かった。
持ってきた小さなランプを灯す。
布の陰から手元へ光を落とすと、本の背が少しずつ読めるようになった。
昼間、三人で探した棚がある。
魔法界の有名人。
古い歴史。
どれも、ニコラス・フラメルという名前を見つけられなかった。
ハーマイオニーなら、まだ探していない本を何冊も挙げられるだろう。けれど、今は帰省している。
ハリーは奥へ進んだ。
禁書の棚を区切る場所へ来る。
昼間なら、ここから先へ入るには許可が要った。
今、問いかける人はいない。
そっと境を越えた。
並ぶ本は、ほかの棚とは違って見えた。
題名を読めないものもある。古い金具で閉じられた本や、擦り切れた革の本が、狭い間隔で押し込まれていた。
どれに書いてあるのだろう。
フラメルが何をした人なのかさえ、まだ分からない。
ハリーはランプを近づけた。
指を伸ばし、一冊の重い本を抜く。
黒っぽい表紙だった。
抱えて、開く。
次の瞬間、叫び声が上がった。
ハリーは身体を跳ねさせた。
声は、腕の中から出ていた。
頁の間で、何かが叫んでいる。
閉じようとした指が滑る。ランプが棚へぶつかり、落ちた。
割れる音がした。
ハリーは本を押し戻し、慌ててマントを引き寄せた。
叫び声は、耳の奥へ残っている。
「誰だ!」
図書館の外から、声がした。
フィルチだった。
◆
ランプの光が、入口から近づいてきた。
ハリーは棚の陰へ身体を押しつけた。
フィルチが、まっすぐ奥へ来る。
目が合ったように思えて、息が止まった。
けれど、管理人の視線はハリーを通り抜け、床の破片へ落ちた。
「ここだな……」
低い声がする。
フィルチが屈んだ。
その隙に、ハリーは横を抜けた。
マントを棚へ引っ掛けそうになり、両手で引く。
走れば音がする。
分かっていても、入口までの数歩は速くなった。
扉を抜け、廊下へ出る。
振り返らなかった。
角を一つ曲がり、また曲がった。
図書館から遠ざかっていることだけは分かった。
胸が苦しい。
足を止めたとき、今度は別の声が聞こえた。
◆
「いつまで、その態度で通すつもりだ」
冷たい声だった。
ハリーは、曲がり角の手前で止まった。
スネイプ。
声を聞くだけで、誰か分かった。
「な、何のことだか、私には……」
答えた声にも、聞き覚えがある。
クィレルだった。
ハリーは壁へ寄り、少しだけ先を覗いた。
狭い廊下の奥に、二人がいる。
クィレルの背後は壁だった。スネイプが前へ立ち、その顔を近くから見下ろしている。
「とぼけるのも、いい加減にしろ」
クィレルが口を開く。
言葉がすぐに出なかった。
スネイプは待たず、さらに一歩近づいた。
「私の目を避けて、いつまでも動けると思うな」
「わ、私は、何も……」
「ならば、隠す必要もないはずだ」
ハリーは、マントを握った。
スネイプの横顔は、大広間で見たときより険しかった。
クィレルは肩を縮めている。
あのときも、そうだった。
クィディッチの試合中、箒がおかしくなった。
ハーマイオニーはスネイプが呪いを掛けていたと言った。
そのときのことを思い返しても、ここで交わされている言葉の意味までは分からない。
ただ、スネイプがクィレルを脅していることは分かった。
「よく考えておくことだ」
スネイプが低く言う。
「誰に従い、何をするべきなのかをな。次に私が確かめるとき、同じ言い逃れが通じるとは思わないことだ」
クィレルの唇が動いた。
声は、ハリーのところまで届かなかった。
スネイプは、その顔をしばらく見ていた。
背後から、足音が近づく。
ハリーは慌てて壁へ身を寄せた。
「スネイプ先生!」
フィルチの声だった。
スネイプが振り向く。
クィレルが、その脇から動いた。
逃げるように廊下を離れていく。ハリーのいる方とは反対だった。
スネイプは追わなかった。
「禁書の棚に、誰か入り込んだんです。ランプを割って、逃げました」
ハリーは、喉まで上がった息を抑えた。
フィルチの光が、壁へ近づいている。
「禁書の棚だと?」
スネイプの声が変わった。
「そうです。まだ遠くへは行っていないはずです」
ハリーは、足を一歩引いた。
布の下で、杖が膝へ当たる。
音はしなかった。
けれど、スネイプがこちらを向いた。
ハリーは動けなくなった。
◆
見えてはいない。
そう思っても、スネイプの目は、ちょうど自分のいる場所へ向いていた。
歩き出す。
黒い衣が近づいてくる。
ハリーは横へずれた。
壁際に、扉があった。
手を伸ばす。
取っ手が回った。
ほんの少しだけ開け、隙間へ身体を入れる。
背中で扉を閉じた。
足音が外を通る。
ハリーは、息をしないまま立っていた。
フィルチの声が近くなり、それから離れていく。
しばらくして、何も聞こえなくなった。
そこで初めて、息を吐いた。
暗い部屋だった。
壁際に机と椅子が寄せられている。使っていない教室らしい。
窓から、わずかに光が入っていた。
ハリーはマントを少し持ち上げ、頬へ冷たい空気を当てた。
まだ、手が震えている。
危なかった。
図書館へ行けても、好きに本を開けるわけではなかった。
床へ落としたランプを思い出す。
そのことを考えようとしたとき、部屋の奥で、何かが光った。
◆
大きな鏡だった。
教室にあるものとしては、奇妙なほど立派だった。
金色の枠が、窓の光を受けている。
ハリーは扉を振り返った。
外から音はしない。
それから、鏡へ近づいた。
高い枠の上には、文字が刻まれている。読もうとしたが、すぐには意味が取れなかった。
マントを肩から外す。
冷たい部屋へ、緑色のセーターが現れた。
鏡の中にも、ハリーがいた。
その後ろに、人がいる。
ハリーは飛び退いた。
振り返る。
誰もいなかった。
机と椅子と、暗い窓があるだけだった。
もう一度、鏡を見る。
いる。
大勢の人が、自分を囲んでいた。
ハリーは、その場から動けなかった。
鏡に映る自分のすぐ後ろへ、一人の女性が立っている。
赤い髪だった。
優しい顔で、こちらを見ていた。
目が、自分と同じだった。
ハリーは口を開いた。
女性の隣には、黒髪の男性がいる。
眼鏡を掛けていた。
髪は、何度押さえても跳ねてしまう自分の髪に似ていた。
男性が、女性の肩へ腕を回す。
女性は鏡の中のハリーへ手を伸ばした。
肩に触れている。
ハリーは、自分の肩へ手をやった。
何もなかった。
けれど、鏡の中では、触れていた。
「……母さん?」
声が小さく出た。
女性の顔が、さらに柔らかくなる。
ハリーは男性を見た。
「父さん……」
自分に似た顔を、こんなに近くで見るのは初めてだった。
ハリーは鏡へ手を伸ばした。
冷たい表面に指が触れる。
向こう側へは、行かなかった。
◆
両親の後ろにも、人々がいた。
ハリーと似たところのある顔が、幾つもある。
同じような目。
同じような鼻。
知らない人たちだった。
名前も、声も、何をしていた人なのかも分からない。
それでも、こちらへ笑いかけていた。
ハリーは、また振り返った。
部屋は空だった。
鏡へ顔を戻すと、皆がいる。
母親が、そばにいる。
父親も、その隣から自分を見ている。
ハリーはガラスへ、もう片方の手も当てた。
何か言ってほしかった。
どんな声だったのだろう。
自分を、何と呼んでいたのだろう。
女性の唇を見つめる。
声は聞こえない。
鏡の中の父親が頷く。
ハリーは、頷き返した。
そうすると、少しだけ、本当に会っている気がした。
足が冷えてきた。
手のひらも、ガラスに冷やされている。
ハリーは手を下ろし、また顔を上げた。
皆が、まだ見ていてくれる。
座り込むと、鏡の中の自分も座った。
両親は、そのそばにいた。
ハリーは膝を抱えた。
もう少しだけ。
そう思って、見続けた。
◆
どれくらい経ったのか、分からなかった。
遠くで物音がしたとき、ハリーはようやく扉へ顔を向けた。
身体が冷えきっていた。
明日の朝、誰かが寝台を見たら、いないと分かってしまう。
帰らなければ。
立とうとして、もう一度鏡を見る。
母親がいた。
その顔を、覚えておきたかった。
父親の顔も。
ハリーは立ち上がり、枠の近くまで寄った。
「また、来るから」
小さく言った。
返事はなかった。
それでも、両親は自分を見ていた。
マントを被る。
自分の手が消える。
ハリーは鏡を見たい気持ちを堪え、扉へ向かった。
外を確かめてから、廊下へ出る。
道を覚えようと、曲がり角の像や、壁に掛かった絵を見た。
今度は、ここを目指して来る。
図書館の本は、もう思い浮かばなかった。
◆
寝室へ戻ると、ロンは眠っていた。
鬼太郎の寝台からも、声はしない。
ハリーは扉を閉じ、マントを脱いだ。
畳む指に、まだ冷たさが残っている。
毛布へ潜る。
目を閉じても、母親の顔が見えた。
父親が隣へ立っている。
朝、マントが届いたときには、父親が使ったものに触れているのだと思った。
今は、父親の顔を知っている。
ハリーは何度も、その顔を思い出した。
ロンにも、見せたい。
あの部屋へ行けば、自分の家族に会える。
そう考えると、次の夜まで待つのが長く感じられた。
◆
翌朝、ロンが起きたとき、ハリーはもう目を開けていた。
「早いな」
ロンが言う。
ハリーは、寝室の中を見た。
鬼太郎は着替えを済ませ、鞄を確かめている。
「おはようございます」
「おはよう」
ハリーが返す。
鬼太郎は、昨日届いたマフラーを手へ取った。
窓の外では、雪が止んでいる。
ハリーは、何か尋ねられるかと思った。
けれど、鬼太郎は鞄を持っただけだった。
「先に下りていますね」
「うん」
扉が閉じる。
ハリーはすぐに、ロンへ身体を向けた。
「昨日の夜、マントを使ったんだ」
ロンの眠そうな顔が変わった。
「一人で? どこへ行った?」
「図書館。禁書の棚を調べようと思って」
「何か分かったのか?」
ハリーは首を振った。
「本が叫んだ。フィルチが来て、逃げたんだ」
「叫んだ?」
ロンが寝台の上へ座り直す。
ハリーは、早口になりながら話した。
スネイプとクィレルがいたこと。
スネイプが、壁際のクィレルへ詰め寄っていたこと。
何かを隠していると言い、誰に従うべきか考えろと脅していたこと。
ロンの顔が険しくなる。
「やっぱり、スネイプじゃないか」
「何の話か、全部は聞けなかった。でも、クィレル先生は怖がってた」
「何か、やらせようとしてるんだ。きっと、三階のことだろ」
ハリーは頷きかけた。
そこまでは、聞いていない。
けれど、スネイプの声を思い出すと、そう思えてしまう。
「それで、捕まりそうになって、教室へ入ったんだ」
ハリーは続けた。
「そこに、鏡があった」
「鏡?」
「普通の鏡じゃない。僕の家族が、映ってた」
ロンは、口を開いたままハリーを見た。
「家族って……」
「父さんと母さん。それから、ほかにも大勢」
ハリーは手を膝へ置いた。
話すと、また顔が浮かぶ。
「僕と同じ目だったんだ。母さんは。父さんの髪も、僕と同じで」
ロンは、すぐには答えなかった。
ハリーの顔を見ている。
「でも、お前の父さんと母さんは……」
「分かってる」
ハリーは言った。
「振り返っても、誰もいなかった。でも、鏡の中にはいたんだ。僕のすぐ後ろに」
ロンは黙った。
普段の、面白い魔法の道具を見つけたときの話し方ではない。
ハリーが顔を上げた。
「今夜、一緒に来てよ」
「今夜?」
「見れば分かる。僕の家族を、見せたいんだ」
ロンは少し迷い、それから頷いた。
「分かった。だけど、フィルチには気をつけろよ」
「うん。今度は図書館へ行かない」
ハリーは、ようやく少し笑った。
目指す部屋は分かっている。
ロンが着替え始めても、ハリーは寝台の上で、もう一度道を思い返した。
曲がり角の像。
額縁の大きな絵。
使われていない教室の扉。
鏡の前へ行けば、また、あの人たちがいる。
次に夜が来るまで、その顔を忘れないように、ハリーは目を閉じた。