第百三十話 映る願いを背に、明日へ歩く
ロンをマントの下へ入れると、足元が急に狭くなった。
「おい、もう少しそっちへ寄れよ」
「寄ってる。足、出てない?」
「分かんない。お前の肘が当たってる」
二人は小声で言い合いながら、寝室を出た。
ハリーは、前の夜より速く歩きたかった。
道は覚えている。
あの部屋へ着けば、また両親が見られる。
けれど、隣へロンがいると、自分だけでは進めなかった。片方が止まれば、もう片方も止まる必要がある。
階段でマントの縁を持ち上げ、足を揃える。
曲がり角では、二人とも壁へ寄った。
遠くで物音がするたびに、ロンの肩が固くなる。
「まだか?」
「もう少し」
ハリーは、壁の絵を確かめた。
見覚えのある額縁だった。
次の角を曲がれば、扉がある。
◆
鏡は、昨日と同じ場所にあった。
ハリーは扉を閉めると、すぐにマントを外した。
ロンの手を引く。
「ここ。見て」
鏡の前へ立った。
母親がいる。
父親も、隣で笑っている。
胸の奥が、温かくなった。
昨日だけのことではなかった。
「ほら。僕の母さんと、父さん」
ハリーが言う。
ロンは、鏡へ顔を近づけた。
「どこに?」
「僕の後ろだよ」
「お前しか見えないぞ」
ハリーはロンを見た。
それから、もう一度鏡へ向き直る。
いる。
女性の手が、自分の肩へ載っている。
「ちゃんと、前へ来て」
ハリーが横へ退くと、ロンがその場所へ立った。
少しの間、何も言わなかった。
やがて、口を開ける。
「……僕だ」
「父さんたちは?」
「いない。でも、僕が……大きくなってる」
ロンは、自分の胸元を見下ろした。
また鏡を見る。
「首席のバッジだ。ビルが付けてたやつ。僕、首席になってる」
声が少し弾んだ。
「それに、カップも持ってる。クィディッチの主将だ!」
ハリーは鏡へ目を向けた。
そこには、寝間着姿のロンがいるだけだった。
自分の家族も、今は見えない。
「本当に?」
「本当だよ。僕一人で、ここにいる。兄貴たちはいない」
ロンが、さらに近づいた。
鏡の中で、背筋を伸ばしているらしい。
ハリーは待った。
ロンが笑う。
自分の家族を見せたかったのに、ロンは別のものを見ていた。
「少し、どいてくれない?」
ハリーが言うと、ロンが振り返った。
「もうちょっと」
「僕も、見たいんだ」
ロンは鏡を見てから、横へ退いた。
ハリーが戻る。
両親が、また現れた。
胸がほどける。
その姿を見失った時間は短かったはずなのに、ずいぶん長く感じた。
◆
帰ろうと言ったのは、ロンだった。
「もう遅いぞ」
「少しだけ」
「さっきも、そう言っただろ」
ハリーは答えず、鏡を見た。
母親が、自分を見つめている。
ロンは部屋の扉へ目を向け、もう一度ハリーを呼んだ。
「ここにいたら、誰か来るかもしれない」
ようやく、ハリーが顔を上げる。
立ち上がった足は、冷えていた。
マントを広げる。
ロンが下へ入るのを待つ間にも、鏡を振り返った。
寮までの道で、ロンは何度か自分が見た姿を話した。
首席になっていたこと。
カップを持っていたこと。
ハリーは返事をしながら、母親の目を思い出していた。
同じ鏡なのに、なぜ違うものが見えるのだろう。
その答えより、明日も両親がいるかどうかの方が、気になった。
◆
翌日の夜、ロンは行かなかった。
「昨日、見たじゃないか」
ハリーがマントを出すと、寝台から言った。
「毎晩、見に行くことないだろ」
「僕は、もう一度見たい」
「お前、昼間もずっと、そのこと考えてたぞ」
ハリーは布を広げる手を止めた。
ロンは眉を寄せている。
「そんな顔してた?」
「してた。チェスをしてても、全然見てなかった」
ハリーは目を落とした。
盤に駒が並んでいたことは覚えている。
何を動かしたかは、すぐには思い出せなかった。
「でも、会えるんだ」
小さく言う。
「そこへ行けば」
ロンは口を開き、閉じた。
ハリーはマントを持って、寝室を出た。
◆
次の朝も、ハリーは眠そうだった。
けれど、鏡のことになると、目がはっきりする。
昼を過ぎても、会話が途切れるたびに、どこか遠くを見ていた。
ロンは何度か話しかけた。
返事はある。
笑うこともある。
それでも、前と同じには思えなかった。
夕方、ハリーが寝室へ戻った後、ロンは鬼太郎のところへ来た。
鬼太郎は談話室の卓で、授業の本と帳面を並べている。
キーノは少し離れた窓際で、自分の本を読んでいた。
「なあ。ちょっと、いいか」
「はい」
鬼太郎がペンを置く。
ロンは隣の椅子へ座った。
「ハリーのことなんだけど」
声を低くした。
「夜、出ていってるの、知ってる?」
「最初の夜は、気づきました。何か考えがあるのだろうと思って、尋ねませんでしたが」
「やっぱり、起きてたのか」
ロンは少し驚き、それから続けた。
「鏡を見つけたんだ。空き教室にあるやつ。そこに、自分の家族が映るって」
鬼太郎の目が、帳面から離れた。
「家族、ですか」
「ああ。僕も連れていかれたけど、僕には見えなかった。別のものが見えたんだ」
ロンは、自分が見た姿を短く話した。
首席と、クィディッチの主将。
話しながら、少しだけ口元が緩む。
けれど、すぐに戻った。
「面白かったけど、それだけだよ。でも、ハリーは毎晩行くんだ。昼間も、ずっとぼんやりしてる」
「昨夜も?」
「行った。僕がやめとけって言っても、聞かないんだ」
ロンは、閉じられた帳面へ目を落とした。
「鬼太郎からも、言ってくれよ」
鬼太郎は少し考えた。
見る人によって、映るものが変わる。
その後、同じ場所へ通いたくなる。
話だけでは、何が働いているのか分からない。
「呪いの品かもしれませんね」
ロンが顔を上げる。
「やっぱり?」
「まだ、分かりません。ただ、見た後の変化は確かめた方がよさそうです。僕も確認しに行きますよ」
「今夜?」
「ええ。ハリーさんが行くなら、ご一緒します」
ロンは、少し息を吐いた。
「頼むよ。あいつ、家族のことになると……」
最後までは言わなかった。
鬼太郎は頷き、帳面を鞄へしまった。
◆
ハリーは、誘いを聞いて少し警戒した。
「ロンから聞いた?」
「はい。鏡について、伺いました」
鬼太郎は答えた。
「どんなものなのか、僕も見てみたいんです」
「見に行くのを、止めるため?」
「まず、確かめるためです」
ハリーは、鬼太郎の顔を見た。
鏡をくだらないものだとは、言わなかった。
そこに家族が映ることも、嘘だと決めつけてはいない。
「僕には、本当に見えるんだ」
「ええ。そのように伺いました」
鬼太郎の返事は、変わらなかった。
ハリーはしばらく迷い、それから頷く。
「分かった。夜になったら」
「お願いします」
◆
二人でマントの下へ入ると、ハリーは前にロンと歩いたときを思い出した。
今度は、肩があまりぶつからない。
鬼太郎は、ハリーが止まればすぐに止まった。角の手前でも、身体を寄せる方を合わせてくれる。
「慣れてるみたいだね」
ハリーが小声で言った。
「布を引かないようにしているだけです。こちらへ曲がりますか」
「うん」
ハリーは前を見た。
もう、迷わなかった。
教室の扉を開け、二人で入る。
マントを外すと、鏡の枠が見えた。
鬼太郎は、その前へすぐには立たなかった。
部屋の中を見てから、枠の文字へ目を向ける。
ハリーは待てなかった。
鏡へ近づいた。
母親がいる。
父親もいる。
「ほら」
声が出る。
「ここに、いるんだ」
鬼太郎はハリーの隣から鏡を見た。
眼鏡を掛けた少年が、映っている。
その背後に家族の姿は見えなかった。
「僕の位置からは、ハリーさんだけですね」
「ロンも、そうだった。前に立つと、別のものが見えたんだ」
ハリーは、名残惜しそうに横へ退いた。
鬼太郎が、その場所へ進む。
杖には手を掛けたままだった。
鏡に触れず、正面へ立つ。
そこで、指が止まった。
◆
大人の自分がいた。
今の身体より、ずっと背が高い。
手足も、肩も、戦うための動きを受け止められる大きさになっている。
その顔が、笑っていた。
鬼太郎は、息を細く吐いた。
鏡の中で、戦いが始まる。
相手は人間だけではなかった。
人の形から外れたものがいる。
角を持つもの。
翼のあるもの。
見覚えのある悪魔の姿もあった。
大人の自分が、そちらへ手を向ける。
炎が走った。
今のアギとは、違う。
火は大きく、速かった。狙った相手へ届くだけでなく、その先にいるものまで進路を変えさせる。
次に、雷が落ちた。
鬼太郎は目を細めた。
今のジオを、少し強くしただけではない。
相手が逃げようとした場所まで、光が続く。
足場を覆った氷へ、一体の悪魔が踏み込んだ。
冷気はそこからさらに走った。
凍りつく速さも、届く範囲も、自分が今使うブフとは違っている。
風が、その上を抜けた。
小さな枝に傷を残すようなものではなかった。
戦いの中で空いていた道が、鋭い風に断ち切られる。
人間の相手も、そこにいた。
その足元へ、黒い影が広がる。
炎に焼かれたわけでも、雷に打たれたわけでもなかった。影に捉えられた相手は、急に力を失い、倒れた。
別の敵へは、白い光が降った。
鬼太郎は、鏡を見つめた。
火や氷とは違う、死をもたらす力だった。
その間にも、大人の自分は動いている。
避ける。
次の力を出す。
崩れたところへ進む。
そして、その左右へ、二体の悪魔が出た。
鬼太郎の指が、杖の柄を握り直した。
敵ではない。
二体は自分と向き合わず、同じ方を見ていた。
一方が相手の攻撃を受け止め、もう一方が開いた道へ入る。大人の自分が手を向けると、二体は迷わず位置を変えた。
よく知っている動きだった。
顔も、身体の形も、見覚えがある。
名前は、出てこなかった。
けれど、ほかの誰より近くで戦っていた二体だということは、分かった。
その後ろにも、大勢の仲魔がいた。
自分のために戦っている。
力を合わせ、相手を追い込み、大人の自分へ届くはずの攻撃を途中で止める。
ただ一人で力を振るっていたのではなかった。
鬼太郎は、二体の姿を目で追った。
忘れないように、顔の輪郭も、身のこなしも覚え直す。
笑っている大人の顔も、その動きも、鬼太郎には分かった。
あれは、自分だ。
◆
一体の仲魔が、腕を失った。
それでも、敵へ向かおうとする。
大人の自分が手を伸ばした。
柔らかな光が、その身体へ集まる。
傷が閉じるだけではなかった。
失った部分が形を取り戻し、腕が元へ戻っていく。
仲魔は指を動かし、すぐに戦いへ戻った。
今のディアでは、できないことだった。
次に、別の仲魔が倒れた。
起き上がらない。
鬼太郎は、その姿を見た。
傷を治すだけでは足りない。既に、命を失っていた。
大人の自分が、そちらへ向く。
先ほどとは違う力が、倒れた仲魔へ注がれた。
身体が動いた。
閉じていた目が開く。
仲魔が起き上がり、自分の足で立った。
死んだ仲間を、戻している。
鬼太郎は息を止めた。
鏡の中の自分は、その出来事に驚かなかった。
戻った仲魔の様子を確かめ、次の相手へ向き直る。
そこでは、十分な力と、呼び戻してくれる仲間がいれば、死さえ戦いの終わりとは限らなかった。
だからこそ、あの者たちは踏み込める。
大人の自分も、仲魔が倒れるたびに全てを諦める必要がない。
今ここで暮らしている世界とは、違う戦いだった。
◆
やがて、大人の自分が片手を上げた。
仲魔たちが動く。
特に近くにいた二体が、ほかの者を促すように道を空けた。
全員が、これから何が来るのか知っていた。
残った敵が、自分へ向かってくる。
人間も、悪魔もいた。
鏡の中で、大きな力が集まる。
炎でも、雷でもなかった。
冷気にも、風にも似ていない。
次の瞬間、光が戦場を覆った。
敵が逃げようとした場所まで、巨大な力が呑み込む。
鬼太郎は目を細めた。
光が引いた後、敵は一体も立っていなかった。
まだ戦おうとするものも、いない。
殲滅だった。
仲魔たちが、大人の自分のそばへ戻る。
あの二体もいた。
その中心で、自分が笑っている。
鬼太郎は、最後まで見届けた。
◆
頭の奥で、幾つかの断片が繋がった。
火には、もっと上がある。
雷にも、氷にも、風にも。
失った身体を治す力も、死んだ仲間を蘇らせる力もあった。
闇と光がもたらす死。
最後に戦場を覆った、どの属性とも違う力。
働きは、目に焼きついた。
しかし、それぞれをどう呼んでいたのかは、思い出せなかった。仲魔の名前も、まだ分からない。
姿と、何が起きたかを覚えておく。
今、持ち帰れるのはそれだった。
今は使える力から先に取り戻してきた。その外側にあるものは、輪郭を持たないまま、記憶の奥へ沈んでいた。
鏡は、そこまで汲み上げていた。
自分の中に残っている戦いの断片を、望む姿の動きへ繋いでいる。
炎を放つ直前の、手の形を見る。
力を集める間を見る。
そこから先は、今の身体では続かない。
試すまでもなく、分かった。
鬼太郎は、鏡へ伸びかけた指を戻した。
現在の自分とは、かけ離れている。
校長との手合わせで、出す場所を失った程度の力では、あの戦いはできない。
それでも、悔しさで動けなくなることはなかった。
まだ、途中だ。
この身体で戻せる力を増やしている。
それに、今世では杖の呪文も学べる。
浮かせる。
形を変える。
相手の身体や道具へ働きかける。
前の世界で振るっていた力へ、そうした技術を加えられる。
同じところへ戻るだけで、終えるつもりはない。
鏡の中では、大人の自分の周りへ仲魔が集まっていた。
鬼太郎は、今見た戦いを思い返した。
いずれ、あの力も使えるようになろう。
使えるようになった後、何と組み合わせるかも考えられる。
良い収穫だった。
鬼太郎は、自分の手へ目を落とした。
細い指に、黒い杖がある。
今の自分が使うものだった。
◆
「何が見えた?」
ハリーが尋ねた。
鬼太郎は横へ退いた。
「大人になった僕が、戦っていました」
「戦ってる?」
「ええ。今より、ずっと強くなっていました」
ハリーは鏡を見た。
鬼太郎が前を離れると、自分の家族が戻った。
「やっぱり、見る人で違うんだ」
「そのようですね」
鬼太郎は鏡の枠を見た。
いつまでも前へ立ちたいとは、思わなかった。
映っていた力を思い出し、後で帳面へ書くことを決める。
ハリーは、また鏡へ近づいた。
肩へ触れるはずのない手を、自分の肩の上で探している。
鬼太郎が、その動きを見たときだった。
「二人とも、今夜はなかなか眠れぬようじゃな」
背後から声がした。
◆
ハリーが振り返った。
ダンブルドアがいた。
鬼太郎も、そちらへ身体を向ける。
校長は、教室の扉に近いところへ立っていた。
杖を向けてはいない。
けれど、いつ入ってきたのか、ハリーには分からなかった。
「先生……」
ハリーはマントを見た。
床へ畳んで置いてある。
今から被っても、何の意味もなかった。
ダンブルドアは鏡へ近づいた。
「見つけてから、何度も来ておったの」
ハリーは目を落とした。
「はい」
「今夜は、鬼太郎も一緒か」
「ロンさんから、ハリーさんの様子を伺いました。呪いの品かもしれないと思いまして、確かめに」
鬼太郎が答える。
ダンブルドアは二人を見て、近くの椅子を軽く引いた。
「では、この鏡について話そう。ハリー、少しこちらを向いてくれるかの」
ハリーは、鏡から目を離した。
◆
「これは、みぞの鏡じゃ」
ダンブルドアが言った。
「普通の鏡とは違う。それは、もう分かっておるな」
「僕には、家族が見えました。でも、ロンには違うものが見えたんです」
ハリーが答える。
「鬼太郎にも」
「うむ。この鏡は、見る者の心の奥にある、強い望みを映す」
ハリーの目が、鏡へ戻りかけた。
ダンブルドアは、その動きを見ていた。
「ハリーは、家族と共にいたいと願っておる。ロンは、兄たちの陰に隠れず、自分の力で優れた者になりたいのじゃろう」
「望み……」
ハリーが繰り返す。
鬼太郎は、先ほど映っていた自分を思い返した。
あの強さを、望んでいる。
それは確かだった。
「未来を見せているのでは、ないんですね」
鬼太郎が尋ねる。
「そうじゃ。そこに映ったからといって、そうなると決まったわけではない」
ダンブルドアが頷いた。
「その姿を見続けても、望みをかなえる力が与えられるわけではないのじゃ」
鬼太郎は、自分の杖を鞄へ戻した。
心へ映像を見せる仕組みは、まだ気になる。
しかし、それが自分を強くする道具ではないということは、既に分かっていた。
ハリーは、膝の上で指を重ねた。
「でも、母さんと父さんが……」
声が止まる。
ダンブルドアは、すぐには続きを促さなかった。
ハリーが顔を上げるまで、待った。
「僕を、見ていました」
「そうじゃろうな」
校長の声は、静かだった。
「だからこそ、気をつけなければならぬ」
◆
「この鏡の前で時を失い、映るものに囚われてしまった者もおる。望む姿を見つめることに、暮らしの全てを使ってしまうのじゃ」
ハリーは、何も言わなかった。
昼間のチェス盤を思い出した。
ロンが何か話していた。
自分は、次の夜にここへ来ることを考えていた。
「夢の中へ留まることで、今生きている時間を失ってはいけない」
ダンブルドアが続ける。
「ハリーには、今ここで過ごす日がある。共に話し、遊び、心配してくれる友達もおる」
ハリーは、隣の鬼太郎を見た。
彼は鏡を見ていなかった。
校長の言葉を聞いている。
ここへ来る前に、ロンが心配していたことを話していた。
ハリーは唇を結んだ。
「鏡は、別の場所へ移す。もう、この部屋へ通ってはいけない。移した先を探そうともせぬように」
ダンブルドアが言った。
ハリーは顔を上げた。
聞きたくない言葉だった。
鏡がなくなれば、両親の顔を見られなくなる。
けれど、今夜も来たいと考えていた自分のことを、校長は知っている。
しばらくして、ハリーは小さく頷いた。
「……はい」
ダンブルドアは、その返事を聞いてから、鬼太郎へ目を向けた。
◆
「鬼太郎には、何が見えたのじゃ」
鬼太郎は答える前に、一度鏡の方を見た。
今は正面に立っていない。
大人の自分も、戦いの相手も、そこには見えなかった。
「大人になった僕が、戦っている姿です」
「戦っておったか」
「はい。今より、ずっと強い力を使っていました」
ダンブルドアは、その顔を見た。
「また、見たいとは思わぬのかの」
「確かめたいところはあります。ただ、見ている間は、僕自身が練習できませんから」
鬼太郎は答えた。
「今使っている魔法にも、さらに上の力があるのだと分かりました。いずれ、そこへ届くようにしたいと思います」
名前は挙げなかった。
炎や雷を使うことは、校長も知っている。
しかし、鏡に映っていた相手については言わなかった。
人間と悪魔が、確かにいた。
自分と共に戦う仲魔も、映っていた。傷を治し、死んだ仲魔を蘇らせたことも、最後に敵を一掃したことも、話していない。
その姿を説明すれば、戦いの場所や、自分がどうしてそれを知っているのかという話へ繋がる。
今、話すつもりはなかった。
「今の自分が、弱く見えはせんかったか」
ダンブルドアが尋ねる。
「見えました。ずいぶん、離れていますね」
鬼太郎は笑った。
「でも、まだ学べます。先生方に教わった呪文も、これから使えるものもあります。鏡に映った強さより、もっと強くなるつもりです」
ダンブルドアは、少しの間黙った。
強くなった自分へ、心を預けているのではない。
あの子は、明日何をするか考えている。
それならば、ここから離れられる。
「目標へ向かうなら、明日の自分が歩かねばならぬな」
「ええ」
鬼太郎は頷いた。
◆
ハリーは、校長を見た。
聞いてよいのか、迷った。
けれど、口から出てしまった。
「先生には、何が見えるんですか」
ダンブルドアの眉が、少し上がった。
「わしか」
「はい」
ハリーは待った。
ダンブルドアは、口元を緩めた。
「厚い毛糸の靴下を持った自分じゃよ」
ハリーは、瞬きをした。
「靴下?」
「うむ。寒い季節には、いくらあっても困らぬ。ところが皆、わしには本ばかりくれるのでな」
鬼太郎は、鞄の中のマフラーを思い出した。
キーノにも、同じように暖かなものが届いている。
「先生も、寒いんですね」
「もちろんじゃ。長く生きても、足先は冷える」
ダンブルドアが答える。
ハリーは、小さく笑った。
けれど、それが本当の答えなのかは分からなかった。
自分が家族を見て、ロンが誰より優れた自分を見た鏡で、校長は靴下を見る。
そういうことも、あるのだろうか。
もう一度尋ねるのは、やめた。
心の奥にあるものを見せる鏡だと、今聞いたばかりだった。
答えたくないことを、自分が聞いたのかもしれない。
ダンブルドアは立ち上がった。
「さて。二人とも、今夜はよく眠りなさい」
◆
ハリーは、床のマントを拾った。
畳もうとして、鏡を見た。
もう一度、前へ立てば会える。
その思いは、まだ消えていなかった。
鬼太郎は、扉のそばで待っていた。
急げとは言わない。
ハリーは布を抱え直した。
鏡の方へ足を出しかけ、それを止める。
両親の顔は、覚えている。
目を閉じれば、思い出せる。
ハリーはダンブルドアへ頭を下げた。
「おやすみなさい、先生」
「おやすみ、ハリー」
鬼太郎も一礼する。
二人は教室を出た。
◆
廊下には、来たときと同じ冷たい空気があった。
ハリーはマントを広げた。
鬼太郎が隣へ入る。
しばらくは、何も話さなかった。
足を揃えて、階段を上がる。
曲がり角を越えてから、ハリーが小さく言った。
「ロンに、心配かけたね」
「ええ。ハリーさんからも、戻ったら話していただけますか」
「うん」
ハリーは前を見た。
「僕、まだ、見に行きたいと思ってる」
鬼太郎は、すぐには答えなかった。
「ですが、今は帰っていますね」
少しして、そう言った。
ハリーは、隣の声へ顔を向けた。
鬼太郎は歩く速さを変えず、次の角まで来ると、先を確かめるために足を止めた。
「……うん」
ハリーも前を向いた。
教室へ戻る道は、まだ分かっている。
それでも、今は寮へ向かっている。
肖像画の前へ着き、合言葉を言った。
暖かな談話室が、二人を迎えた。
◆
寝室の扉を開けると、ロンが起きていた。
「遅かったな」
声を抑えて言う。
ハリーは寝台へ座った。
「ダンブルドア先生が来たんだ」
ロンが身体を起こす。
「見つかったのか?」
「うん。でも、怒られたっていうより……鏡のことを、教えてくれた」
ハリーは、聞いたことを話した。
心の奥の望みを映すものだということ。
未来を見せるものではないこと。
見続ければ、現実の時間を失ってしまうこと。
そして、もう移してしまうということ。
ロンは最後まで聞き、息を吐いた。
「それなら、よかった」
言ってから、ハリーの顔を見た。
「いや……お前には、よくないかもしれないけど」
「分かるよ」
ハリーが答える。
ロンは、もう何も言わなかった。
ハリーはマントを畳んだ。
父親が使っていたものだった。
鏡の中で、父親の顔を見た。
この布まで、なくなるわけではない。
箱へしまい、蓋を閉じた。
ロンが毛布へ戻る。
鬼太郎も、自分の寝台へ座った。
◆
鬼太郎は、帳面を一度だけ開いた。
鏡で見た力を、短く書く。
炎。
雷。
氷。
風。
闇と、光。
損なわれた身体を戻す力。死んだ仲間を蘇らせる力。
最後に放たれた、大きな光。
その下へ、特に近くで戦っていた二体の姿も、覚えているうちに簡単な線で描いた。名前の欄は、空けておく。
今より先にあるものは、確かにあった。
だが、その使い方をすべて取り戻したわけではない。
見た形を真似るだけで、出せるとも思わない。
まず、今の力を正確に使う。
その上で、集められる力を増やし、身体を育てる。
杖の呪文も、引き続き学ぶ。
鬼太郎は、最後の行へそう書いた。
枕元には、青灰色のマフラーがある。
キーノの本には、銀色の星が挟まっているだろう。
教室で映っていた戦いの中には、なかったものだった。
今の自分には、それもある。
鬼太郎は帳面を閉じた。
「おやすみなさい」
ロンが返事をする。
少し遅れて、ハリーの声も聞こえた。
灯りが消える。
ハリーは目を閉じ、母親の顔を思い出した。
すぐに眠れるかは、分からない。
けれど、今夜はもう出ていかない。
鬼太郎は、明日の練習を考えた。
鏡へ映っていた自分より、さらに先へ行く。
そのための時間は、この寝台で休むことから始まっている。
窓の外では、雪を載せた城の屋根が月明かりを受けていた。
朝になれば、また、二人の暮らす学校が目を覚ます。
鏡のある部屋へ戻らなくても、その先へ続く日々が待っていた。
第七章 完