第百三十五話 見上げる空にも、火種は落ちる
試合の日の朝、ハリーはパンを小さくちぎっていた。
ちぎった分だけが、皿の上へ増えていく。
ロンは競技場の方へ目をやり、それからハリーへ顔を戻した。
「早く捕まえればいいんだ。スネイプが何かする前に」
「そう簡単に見つかるものじゃないだろ」
ハリーが答える。
ハーマイオニーは、皿の上のパンを見た。
「少しは食べておいた方がいいわ」
「食べてるよ」
「ちぎってるだけじゃない」
ハリーは自分の手元を見て、一片を口へ入れた。
キーノが、少し離れた席からその様子を見ている。
「試合で飛んでるときより、今の方が落ち着かないな」
「今は、スニッチを探せないからね」
ハリーが、ようやく少し笑った。
鬼太郎は、その顔へ目を向けた。
「飛び始めれば、やることは決まっていますね」
「うん。ウッドにも、余計なことを考えるなって言われた」
ハリーはパンをもう一片食べた。
やがて席を立ち、チームへ合流するために大広間を出ていく。
鬼太郎たちは、その背を見送った。
今日はハリーの箒が、どのように動くのか。
鬼太郎は茶を飲み終え、キーノと一緒に席を立った。
◆
競技場へ向かう道は、生徒で埋まっていた。
赤と金の飾りの間に、黄と黒の旗が揺れている。
ロンはネビルを見つけると、同じ席へ行こうと声を掛けた。五人で階段を上り、競技場を見渡せる場所へ腰を下ろす。
鬼太郎は通路に近い端へ座った。
隣にキーノ、その先にハーマイオニーとロン、ネビルが並ぶ。
キーノはマフラーを巻き直してから、選手の出てくる入口を探した。
「あそこからか?」
「ええ。前の試合も、あの入口でした」
鬼太郎が答え、視線を教師たちの席へ移す。
ミネルバがいた。近くでジョーダンが実況の準備をしている。
そして、長い銀色の髭が見えた。
「校長先生も来てる」
ハーマイオニーが気づいた。
ロンが身を乗り出す。
「ほんとだ。これなら、スネイプも好き勝手には出来ないぞ」
鬼太郎は、ダンブルドアの周囲も見た。
見覚えのある教師の顔を、一人ずつ確かめる。
前の試合で見たターバンは、そこにはなかった。
席の間を移動している者にも、クィレルの姿は見えない。
鬼太郎は少し待ち、ほかの観客席へも目を向けた。
今のところ、見つからなかった。
◆
控室では、ウッドが最後の注意を伝えていた。
危ない飛び方をするな。余計な反則を取られるな。ボールを見失うな。
ハリーにも、最初からスニッチを探せと言う。
ハリーは頷いたが、握った箒の柄には、いつもより指が強く掛かっていた。
扉の近くへいたフレッドが、外を覗く。
「今日は、ずいぶん人がいるな。おい、校長先生まで来てるぞ」
ハリーはすぐに顔を上げた。
「ダンブルドアが?」
扉へ寄り、隙間から観客席を見る。
いた。
ほかの誰とも間違えようのない姿だった。
ハリーは、息を吐いた。
胸の中へ固く残っていたものが、少し緩む。
校長が見ている。
スネイプが何を考えていても、その目の前で自分を箒から落とすようなことは出来ないはずだ。
「よし。行くぞ」
ウッドの声がした。
ハリーは箒を握り直した。
今度は、落とさないために握り締めるのではなかった。
飛ぶために、いつもの位置へ手を置いた。
◆
選手たちが姿を見せると、観客席から歓声が起きた。
キーノがハリーを見つけ、手を上げる。
ハリーが気づいたかは、分からない。
しかし、競技場へ入った足取りは、朝より軽く見えた。
審判のスネイプが、両チームの間へ立つ。
黒いローブの裾が風に動いた。
鬼太郎はその顔を見た。
機嫌がよいようには見えない。
ただ、それだけで何をするかは決まらなかった。
笛が鳴る。
箒が地面を離れた。
赤と黄の選手が空へ広がり、中央から離れていく。ハリーはほかの選手の動きへ重ならないように高さを変えた。
ジョーダンの声が響く。
ボールの行方を追う言葉に、グリフィンドールへの声援が混じった。
ミネルバが横から何か言う。
実況は一度言い直され、すぐにまた大きくなった。
鬼太郎は口元へ小さく笑みを浮かべ、ハリーの箒へ目を戻した。
柄も、穂先も、彼の動きについていく。
勝手に跳ねたり、ねじれたりする様子はなかった。
◆
ロンが身を乗り出したとき、後ろから頭を小突かれた。
「痛っ」
振り返る。
マルフォイが、すぐ後ろの列にいた。
クラッブとゴイルも、その両脇へ座っている。
「ああ、ウィーズリー。そんなところにいたのか」
マルフォイは笑っていた。
謝るつもりのない顔だった。
「手を引っ込めろよ」
ロンが言う。
「試合を見ようとしてるだけだよ。今度はポッターが、いつまで箒に乗っていられるかと思ってね」
クラッブが笑った。
ロンの肩が固くなる。
「ハリーの方が、お前よりずっと上手い」
「そうかな。前は、ずいぶん見苦しい格好でぶら下がっていたけど」
マルフォイが空を見上げる。
「噂だけで選ばれたシーカーなんじゃないのか?」
ロンが腰を浮かせた。
鬼太郎は、競技場から目を戻した。
「ロンさん。ハリーさんには実力がありますから、試合を見ていれば、すぐに分かりますよ」
穏やかに言う。
ロンは鬼太郎へ顔を向けた。
「それは分かってるよ。ハリーが下手だなんて、僕は思ってない」
「ええ」
「あいつの言い方が腹立つんだ」
その返事に、鬼太郎は一度瞬いた。
キーノが隣で、小さく頷く。
「そこは、私も分かる」
鬼太郎は二人を見てから、後ろの列へ目を向けた。
マルフォイは、聞こえなかった振りをしていた。
◆
競技場で、鋭い笛が鳴った。
ロンが振り返る。
ジョージの打ったブラッジャーが、スネイプの近くを飛んでいた。
スネイプはそれを避け、ハッフルパフへペナルティーを与える。
「今の、当たってないだろ!」
ロンの声が大きくなる。
ハーマイオニーは空から目を離さなかった。
ハリーはまだ、高いところを回っている。
鬼太郎はスネイプの位置を確かめた。
ハリーへ近づいたまま離れない、という動きではなかった。ボールと選手の間を移り、笛を使う。
その背後で、観客席がまた騒いだ。
鬼太郎は教師たちの席へ目を向ける。
ダンブルドアは試合を見ていた。
クィレルは、やはり見えない。
来ていないのか、別の席にいるのか。
不在の理由は知らなかった。
そのとき、後ろでマルフォイが声を張った。
「グリフィンドールの選手って、同情で選ばれるのかな」
鬼太郎は視線だけを戻した。
「親のいないポッターに、金のないウィーズリー。だったらロングボトムにも、箒をあげればいいのにね」
ネビルの頬が赤くなった。
マルフォイが、その顔を覗き込む。
「もっとも、乗り方を覚えられるかは知らないけど」
◆
ネビルは両手を膝へ置いた。
指が、ローブを掴む。
ハリーがくれた菓子と、そのときに言われたことを思い出した。
マルフォイが言ったからといって、そのとおりになるわけではない。
ネビルは後ろへ向き直った。
「僕だって、お前なんかに負けない」
声は少し震えた。
それでも、目を逸らさなかった。
マルフォイが鼻で笑う。
クラッブとゴイルも、大きな声で笑った。
「よく言った、ネビル」
ロンが言い、マルフォイへ顔を向ける。
「もう黙れよ」
「君が決めることじゃないだろ」
マルフォイが返した。
キーノが立ち上がる。
「試合を見ないなら、よそへ行け」
彼女は後ろの三人を見た。
マルフォイの笑みが、少し薄くなる。
「僕たちも、観戦してるんだよ」
「悪口を言ってるだけだろ」
キーノが言い返した。
鬼太郎は、隣で上がった声を聞いた。
彼女の顔から、冗談ではないことは分かった。
◆
「ハリー!」
ハーマイオニーが、突然叫んだ。
鬼太郎は空へ目を戻した。
ハリーが高度を落としていた。
箒の柄へ身体を近づけ、斜め下へ走る。
落ちているのではない。
腕と膝が箒を押さえ、顔は進む先へ向いていた。
自分で選んだ降下だった。
観客席から、歓声と悲鳴が重なる。
マルフォイも身を乗り出した。
「ウィーズリー、見ろよ。ポッターが地面で小銭でも見つけたらしい」
ロンが振り返った。
今度は、言葉を返さなかった。
座席へ手をつき、後ろの列へ身体を乗り出す。
マルフォイのローブを掴んだ。
「何を――」
マルフォイの声が途中で切れた。
二人が座席の間へ倒れ込む。
クラッブとゴイルが立ち上がった。
ネビルは一瞬ためらい、それから座席の背を越えた。
その肩へクラッブが手を伸ばす。
キーノが、ゴイルの前へ入った。
「二人で一人に行くな!」
ゴイルの袖を掴み、ネビルから引き離す。
ゴイルが振り向き、その腕を押し返した。
キーノの足が座席の端へ当たる。
彼女は膝を曲げ、背もたれへ手をついて踏みとどまった。
そのまま袖を離さず、もう片方の手でゴイルの胸を押す。
大きな身体が通路側へよろめいた。
キーノも引かれ、二人で座席の間へ沈む。
◆
鬼太郎は、短く息を吐いた。
やれやれ。
キーノさんまで、自分から取っ組み合いへ行くのでしたら、仕方がありませんね。
誰かに一方的に引きずり込まれたのではない。
自分で怒り、自分で手を伸ばした。
多少押し返されることまで止めていては、彼女が選んだ行動も成立しない。
鬼太郎は腰を浮かせ、揉み合いの外側へ一歩寄った。
通路へ張り出したキーノのマフラーの端を、足に踏まれない位置へ寄せる。
首には巻きついていない。杖を抜く手もない。
ゴイルはキーノの腕を振りほどこうとし、キーノは身を低くしてローブへしがみついていた。
ネビルはクラッブに押されながら、その腹へ肩を当てる。
ロンとマルフォイは、互いの服を掴んでいた。
顔へ拳が飛ぶ。
ロンが短く呻き、それでも手を離さなかった。
鬼太郎は手すりと三人の距離を確かめてから、空へ目を上げた。
ハリーは、まだ降下を続けている。
黒いローブの審判が、その進路にいた。
◆
ハリーの目には、小さな金色の光が見えていた。
スニッチだった。
低い位置へ逃げ、スネイプの近くを通る。
ハリーは柄を下げた。
風が頬へ当たる。
観客の声が後ろへ遠ざかり、金色の動きだけが近づいてくる。
スネイプが振り向いた。
ハリーはその肩のすぐ脇を抜けた。
ぶつからない。
箒がわずかに傾き、ローブの袖が風へ張る。
地面が迫った。
ハリーは身体を起こし、降下を曲げた。
その動きと一緒に、片手を伸ばす。
指の先で、羽が震えた。
掴んだ。
手の中へ、金色の球が収まる。
ハリーは腕を上げた。
競技場が、一度に大きな音で満ちた。
◆
「捕まえた! ハリーが捕まえたわ!」
ハーマイオニーが座席の上へ立った。
ジョーダンの実況が、彼女の声を追い越す。
グリフィンドールの勝利。
試合は、五分も経たないうちに終わっていた。
鬼太郎はハリーの手を見た。
掲げた腕も、箒の上の身体も安定している。
最後まで、自分の意思で飛んだ。
スネイプは少し遅れて地面へ降り、唇を固く結んでいた。
鬼太郎が教師の席へ目を移すと、ダンブルドアが立ち上がっていた。
クィレルの姿は、最後まで見つからなかった。
校長がいたからなのか。
前の試合で疑った教師が、今回は来ていなかったからなのか。
あるいは、別の理由があるのか。
異常が起きなかったことは分かる。
その理由までは、試合を見ただけでは決まらなかった。
「ロン! 終わったのよ!」
ハーマイオニーが、ようやく足元を見た。
そこで、目を丸くした。
「何をやってるの!」
◆
「勝ったのか?」
ロンが顔を上げた。
鼻から血が流れている。
マルフォイの片目の周りも、赤くなっていた。
「勝ったわ。ハリーが捕まえたの!」
ハーマイオニーが言う。
ロンの顔が、ぱっと明るくなる。
「ほらな!」
目の前のマルフォイへ言った。
マルフォイは唇を曲げ、ロンの手を振り払う。
鬼太郎はキーノへ顔を向けた。
「キーノさん。試合が終わりましたよ」
「聞こえた」
キーノが返す。
ゴイルの袖を離し、座席へ片手をついて立ち上がった。
髪が頬へ掛かり、ローブの肩がずれている。
ゴイルも起き上がったが、彼女はもう手を伸ばさなかった。
クラッブに押されていたネビルは、座席へ腰を落として息をしていた。
「ネビルさん。立てますか」
鬼太郎が声を掛ける。
ネビルは頷き、背もたれを掴んだ。
「うん……」
膝へ力を入れる。
ロンが鼻を袖で拭きながら、その腕を支えた。
マルフォイは二人の連れを呼び、席を離れた。
去り際に何か言いかけたが、グリフィンドールの歓声が大きくなり、言葉は聞こえなかった。
◆
キーノはローブを直し、落ちかけたマフラーを巻き直した。
鬼太郎が、膝のあたりへ目を落とす。
「どこか、痛めましたか」
「ぶつけた。大したことはない」
彼女は一歩動き、足を確かめた。
歩ける。
鬼太郎は顔と手も見てから、頷いた。
「次は、足を置く場所も見てくださいね。座席の間は、狭いので」
「見てたなら、少し手伝えばよかっただろ」
「僕は、ハリーさんの試合を見に来たんですが」
キーノが彼を見た。
鬼太郎は、薄く笑っている。
「それに、ご自分から加わられましたから。止めてほしかったわけでもないでしょう」
「それは、そうだけど」
キーノは乱れた髪を耳へ寄せた。
少し間を置き、空になった競技場の上を見た。
「捕まえるところ、見損ねた」
「とてもよい飛び方でしたよ。スネイプ先生の脇を抜けて、地面の手前で曲がりました」
「後で、ハリーに聞く」
彼女は少し悔しそうに言った。
◆
階段を下りる間も、ロンは機嫌がよかった。
鼻へハーマイオニーから渡された布を当て、ネビルへ何度も話し掛ける。
「言い返したじゃないか。あいつの顔、見たか?」
「でも、クラッブが重くて……」
「二人とも大きいんだもの。後で医務室へ行きましょう」
ハーマイオニーが言った。
「キーノもよ」
「私は歩けるぞ」
「歩けるかどうかだけじゃないわ」
キーノは鬼太郎を見た。
彼はハーマイオニーへ頷く。
「診ていただく方が、安心ですね」
「さっきは見てただけなのに」
「今は、試合が終わりましたから」
キーノは呆れた顔で息を吐いた。
それでも、医務室へ行くことには反対しなかった。
階段の下では、赤い旗を持った生徒たちが競技場へ駆けていた。
その先で、ハリーが仲間に囲まれている。
◆
ハリーは、地面へ降りたときから何度も肩を叩かれた。
ウッドが大きな声で笑い、双子が何か言いながら背を押す。
まだスニッチを握っていた手を開くと、金色の羽が指へ触れた。
捕まえた。
自分で見つけ、自分で飛んで、手を伸ばした。
胸の奥が熱かった。
人の間からダンブルドアが近づき、ハリーの肩へ手を置いた。
「見事じゃった、ハリー」
近くでだけ聞こえる声だった。
「今日は、ずいぶん忙しく飛んでおったのう」
ハリーは笑って頷いた。
鏡に映った家族を、忘れたわけではない。
しかし、今は、今日の飛行を何度でも思い返したかった。
向こうからロンたちが来る。
ロンの鼻に布が当てられているのを見て、ハリーの笑みが止まった。
「どうしたの?」
「マルフォイだよ。でも、僕も殴ってやった」
ロンが誇らしげに答える。
ハリーはネビルとキーノも見た。
ハーマイオニーが、短く説明する。
ハリーは話を聞き終えると、困ったように笑った。
「試合、見てたんだよね?」
「途中まではな」
キーノが答えた。
鬼太郎が、彼女の隣からハリーを見る。
「最後は僕が見ていました。スニッチを追いながら、先生も避けられましたね」
「あそこを通らないと、逃げられそうだったんだ」
「ええ。曲がるところでも、箒がぶれていませんでした」
ハリーは、今度は素直に笑った。
「ありがとう」
キーノが、どこでスニッチを見つけたのか尋ねる。
ハリーは腕を上げ、そのときに飛んでいた高さを示した。
鬼太郎は話を聞きながら、競技場から離れていく黒いローブへ一度目を向けた。
スネイプは、ほかの教師とは少し離れて歩いていた。
今日は、何も起きなかった。
ハリーの箒は最後まで、彼の手と身体の動きに応えた。
鬼太郎はスネイプを追わず、ハリーへ視線を戻した。
キーノが見損ねた最後の降下を、ハリーが楽しそうに説明している。
その声の後ろで、勝利を祝う歓声が、まだ途切れずに続いていた。