第百三十六話 待つ夜にも、火は育つ
競技場を離れるとき、ハリーはまだ箒を抱えていた。
ウッドが控室から顔を出し、選手を呼ぶ。
「先に戻ってて。着替えて、これを片づけてから行くよ」
ハリーが言った。
「医務室に寄るから、その後でな」
ロンは鼻へ布を当てたまま答える。
勝った喜びで忘れかけていたが、歩いていると、鼻の奥がまた痛んだ。
ネビルも身体を起こすたびに、肋骨の下へ手を添えていた。
キーノは自分で歩いている。鬼太郎は隣に並び、彼女が段差を下りる足を見た。
強く引きずることはない。
それでも、一度診てもらうことになっている。
五人はハリーと別れ、城へ向かった。
◆
ポンフリーは、ロンの顔を見ると眉を寄せた。
「試合に出ていたわけではないでしょう」
「観客席で、ちょっと……」
「取っ組み合いになったんです」
ハーマイオニーが言った。
ロンが彼女へ目を向ける。
ポンフリーは、その間に布を外し、鼻を確かめた。
「じっとして。今は、口を閉じていてください」
ロンが黙る。
次にネビルが呼ばれた。
息を深く吸えるか、どこへ身体が当たったかを尋ねられる。ネビルは座席へぶつけたところを示した。
キーノは最後に、膝と腕を診てもらった。
鬼太郎が答えを代わりに口にすることはなかった。
「歩くときは?」
「少し痛い。でも、曲げられる」
「では、曲げてみて」
彼女は指示に従った。
大きな傷はなかった。
必要な処置を終えると、ポンフリーは三人へ、今日は激しく動かないよう告げた。
「もう一度同じことをしに行くのは、やめなさい」
ロンは何か言いかけ、ハーマイオニーの顔を見て頷いた。
キーノも、少し不満そうにしながら頷く。
鬼太郎はその横顔を見て、口元だけで笑った。
◆
ハリーが控室を出た頃には、競技場から人が減っていた。
着替えたローブの下も、まだ身体が温かい。
箒を片づけに行きながら、スニッチへ伸ばした手を思い返す。
スネイプのすぐ脇を抜けた。
地面の手前で曲がり、掴んだ。
ハリーは柄へ指を滑らせた。
有名な名前だけで選ばれたのではない。
あの飛行は、自分で出来たことだった。
箒小屋の近くへ来たとき、城の正面から人影が出てきた。
フードを被っている。
ハリーは歩みを止めた。
顔は見えなかったが、歩き方には見覚えがあった。
スネイプだ。
人の多い道を離れ、森へ向かっている。
ハリーの笑みが消えた。
今度は、何をするつもりなのだろう。
箒を収める前だった。
ハリーは周囲を見てから、再びニンバスへ跨った。
◆
高く上がりすぎないように飛んだ。
城を回り、森の入口へ向かう黒い姿を追う。
スネイプが木々の間へ入ると、すぐに見えなくなった。
ハリーは速度を落とした。
枝の上を飛び、隙間から地面を見る。
見失った。
そう思ったとき、下から声が聞こえた。
ハリーは箒を傾け、葉の重なる方へ近づいた。
太い枝へ降りる。
片手で箒を押さえ、もう片方で幹を掴んだ。
身を低くして、下を覗く。
少し開けた場所に、スネイプがいた。
もう一人も、立っている。
ターバンが見えた。
クィレルだった。
試合では見なかった先生が、こんな場所にいる。
ハリーは呼吸を浅くした。
◆
「こ、こんな所で話をする必要が、あ、あるのかい、セブルス」
クィレルの声だった。
スネイプは低く答える。
「城では、誰が聞いているか分からん。賢者の石の話を、生徒へ広めるわけにはいくまい」
ハリーは幹を掴む指へ力を入れた。
石。
今、確かにそう言った。
クィレルが何か答えたが、声が小さく、葉の擦れる音へ混じった。
スネイプが一歩近づく。
「ハグリッドの犬を越える方法は、分かったのか」
「ぼ、僕は……」
「言い逃れはよせ、クィレル」
ハリーは、枝の陰へ頭を寄せた。
スネイプの顔はよく見えない。
しかし、声の冷たさだけで、クィレルが何を向けられているかは分かった。
「私を敵に回したいのか」
クィレルの肩が動いた。
返事は聞き取れなかった。
ハリーはさらに身を乗り出しかけ、足の下で枝が軋むのを感じた。
止まる。
近くで鳥が鳴き、スネイプの言葉の一部を覆った。
聞こえたのは、クィレルの魔法について触れる声と、その答えを待つという言葉だった。
「少し考える時間をやろう。誰に従うべきかも、よく考えておくことだ」
スネイプが身を翻した。
黒い裾が木々の間へ消える。
クィレルは、その場に残っていた。
ハリーは動かなかった。
もう一人が去るまで、幹の陰で息を潜めた。
◆
鬼太郎たちは医務室を出て、談話室へ戻る途中だった。
ロンは鼻を触りかけ、そのたびにハーマイオニーから手を下ろすよう言われている。
階段の踊り場で、ハリーが駆けてきた。
箒はもう手にない。
息を弾ませ、四人の顔を見た。
「聞いてほしいことがある」
「どうしたんだよ。みんな、祝う準備してるぞ」
ロンが言う。
ハリーは首を振った。
「その前に。誰もいない所がいい」
鬼太郎はハリーの顔を見た。
競技場で笑っていたときとは違う。
ハーマイオニーが、近くの空き教室を確かめた。
人はいない。
ネビルは先に寮へ戻ることにし、五人は教室へ入った。
扉を閉める。
ハリーは、その音が終わるのを待ってから口を開いた。
◆
箒を片づけようとして、スネイプを見つけたこと。
一人で後を追ったこと。
森でクィレルと会っていたこと。
ハリーは順に話した。
ハーマイオニーは、森へ一人で入ったと聞いたところで顔を強張らせた。
それでも、話が終わるまでは遮らなかった。
「石の名前を言ってた。犬を越える方法も、クィレル先生に聞いてたんだ」
ハリーが言う。
「やっぱり、盗もうとしてるんだよ」
ロンが拳を握った。
「クィレル先生が断ってるから、脅してるんだ」
「その先生の魔法についても、何か言ってた」
ハリーが続ける。
「犬以外にも、守ってるものがあるんじゃないかな。クィレル先生も、何か仕掛けを作ったのかもしれない」
ハーマイオニーは、唇へ指を当てた。
「それを解除させたいのね」
「そうだと思う」
ハリーが頷く。
鬼太郎は話を聞き終え、机へ置いていた手を離した。
「前の会話と違い、今回は石の名前が出たんですね」
「うん。はっきり聞いた」
「犬を越える方法については、どんな尋ね方でしたか」
ハリーは、聞こえた言葉を思い返した。
まだ覚えている部分を、出来るだけそのまま伝える。
鬼太郎は頷いた。
◆
「石に関係する話をしていたことは、分かりましたね」
鬼太郎が言う。
「だろ?」
ロンが返す。
「ええ。ただ、方法を教えろと迫ったのか、既に調べていることを知って問い詰めたのかでは、意味が変わります」
ハリーは鬼太郎を見た。
「問い詰めた?」
「クィレル先生が、犬を越えようとしていると疑っていた場合です。どこまで分かったのか、尋ねることもあるでしょう」
「でも、敵に回したいのかって」
「それは、止める側も使う言葉です」
鬼太郎は穏やかに答えた。
キーノは彼の隣で、ハリーへ目を向ける。
「抜けたところも、あるんだろ」
「小さくて聞こえなかった所は、ある」
ハリーが答える。
ロンは納得していなかった。
「スネイプをかばってるのか?」
「いいえ。どちらの先生が何をしているのか、判断するために伺っています」
鬼太郎は、ロンの握った手を見た。
「スネイプ先生が脅していたという話は、否定していません。ただ、その目的まで同じように決めてしまうと、別の動きを見落とすかもしれませんから」
ハーマイオニーが息を吐いた。
「クィレル先生が、何を答えたかも大事なのね」
「ええ」
ハリーは、木の上で聞いた声をもう一度思い返した。
スネイプへの疑いは消えない。
しかし、聞こえなかった部分まで、聞いたことには出来なかった。
◆
教室を出る前に、鬼太郎はハリーへ尋ねた。
「追っていることには、気づかれていませんか」
「たぶん。こっちは見なかったし、二人とも普通に帰ったから」
「そうですか」
ハーマイオニーが、すぐに口を開く。
「次は、一人でそんなことをしないで。森で何かあったら、誰にも分からないでしょう」
ハリーは頷いた。
キーノも、その言葉には頷いた。
ユニコーンの件は、ここでは話さなかった。
血の利用も、石を狙う者との関係も、鬼太郎と考えた推測のままだ。
鬼太郎は扉を開け、廊下へ目を向けた。
「教えてくださって、ありがとうございます。先生へ直接確かめに行くのは、今は避けた方がよいでしょうね」
ハリーは、その点にはすぐに頷いた。
スネイプに自分の盗み聞きを知らせるつもりはなかった。
◆
談話室は、焼き菓子と生徒たちの声で満ちていた。
ハリーが入ると、歓声が上がる。
フレッドとジョージが腕を引き、真ん中へ連れていった。
ロンも後を追う。
鼻の血が止まっていることを確認したハーマイオニーが、ようやく笑ってその輪へ入った。
鬼太郎とキーノは、少し後で窓際へ移った。
彼女が椅子へ座る。
鬼太郎も隣へ腰を下ろした。
「クィレルは、試合にはいなかったのに、森にはいたんだな」
キーノが小さな声で言う。
「僕が見つけられなかっただけ、という可能性もありますが。少なくとも、森で会っていたことは新しい話ですね」
「二人とも、石を知ってる」
「ええ。ただ、石を守る先生が、その話を知っていても不自然ではありません」
鬼太郎は、向こうで菓子を渡されているハリーを見た。
疑っていた教師は、もう一人の教師を脅していた。
しかし、試合で見たクィレルの目は、気弱な者の目ではなかった。
あの顔を、今日の話だけで忘れるつもりはない。
◆
「仮に、石を狙う者と、森で血を求める者が同じだとしても」
鬼太郎は声を落とした。
「僕たちがその者の動きを止められるかは、別に考えなくてはなりませんね」
キーノが彼を見る。
「先生だからか」
「ええ。どちらの先生であっても、ホグワーツで教える方です。これまで戦った魔法使いと、同じようには測れません」
鬼太郎は、フリットウィックの杖を思い出した。
自分が小さく避けることも読まれ、次の位置へ呪文が来た。
ダンブルドアには、使った薪まで別の形へ変えられた。
スネイプとクィレルが、その二人と同じ戦い方をするとは限らない。
それでも、普段の授業で見せる姿だけを、使える力の全てと考える理由はなかった。
「クィレルが、いつも怯えてるから弱いってことはないな」
「ええ。そう見せる方もいますし、怖がっていても強い呪文を使える方はいるでしょう」
鬼太郎の笑みが、少し薄くなる。
「今の僕が、無傷で勝てる相手だとは思っていません」
キーノは、その顔を見ていた。
楽しい相手を見つけたからと、すぐに向かう顔ではなかった。
◆
「では、相手が動くまでに、少しでも出来ることを増やしておきたいですね」
鬼太郎が言った。
「いつまで待つか、分からないぞ」
「ええ。血で命を繋いでいるのなら、長くは待てないかもしれません」
だからこそ、自分から相手を追い立てる必要もなかった。
様子を見ている時間も、授業へ出る。先生へ尋ねる。杖を動かし、森で既存の魔法を試す。
何もせず、相手の都合だけを待つつもりはない。
「強くなれるまで、動かないでいてくれるわけじゃないけどな」
キーノが言う。
「もちろんです。明日動かれるとしても、その前に一つ直せるなら、直しておきたいんです」
鬼太郎は帳面を開いた。
最近の練習で止まったところに、印がある。
杖を戻す間。
退いた後に、次を出せる位置。
使ったものが、地面へ残ること。
それらの下へ、火についての記録が続いていた。
◆
キーノが、帳面の端を見た。
「火は、どうなんだ?」
「少し、感覚が変わってきています」
鬼太郎は、その行へ指を置いた。
アギは、覚醒したときから使ってきた魔法だった。
小さく出し続ける。短く強く放つ。飛ぶ速さを変え、必要なところへ届かせる。
ほかの属性を思い出す前から、実戦で何度も使ってきた。練習でも、まずこの火でMAGを集め、保ち、止める感覚を確かめた。
使ってきた時間も、回数も、アギが最も多い。
鬼太郎はその積み重ねを思い返し、火だけに先の手応えが出てきたことに頷いた。
力を増やして大きく燃やすだけではない、別のまとまり方がありそうだった。
同じアギの中で、火力を上げ下げするときとは違う。
MAGを集める感覚の先に、もう一つ、火を成す形がある。
練習では、そこへ近づきかけることがあった。
だが、まだ最後まで繋がらない。
「前より強いアギか?」
キーノが尋ねる。
「今のアギを強くするだけではないように感じます。もう一段、違う形に出来そうなんですが」
鬼太郎は、指を止めた。
名前は出てこなかった。
鏡で見た大きな炎を、そのまま使えるという話でもない。
今の身体で重ねてきた、火の扱いの先にある手応えだった。
「出来たのか?」
「いいえ。まだです。ただ、火に限れば、もう少しで掴めるように思います」
キーノは、彼の手を見た。
「ここで試すなよ」
鬼太郎が笑った。
「ええ。次に、森で練習するときに」
暖炉から離れた膝の上で、指をゆっくり握り直す。
MAGは集めなかった。
◆
「火以外は?」
「まだ、同じ感覚はありません。まずは、今使えるものを磨きます」
鬼太郎は答えた。
ひとつに手が届きそうだからと、雷や冷気まで使える形が変わったことにはならない。
杖の呪文も、火の成長を待ってくれるわけではなかった。
教師へ挑むなら、強い炎を一つ持っただけで十分とは考えられない。
防がれた後も、避けられた後も、次を選ばなくてはならない。
鬼太郎は、杖を戻す動作の記録へ線を引いた。
「次の練習でも、これを確かめたいですね」
「また、同じところか」
「止まったところは、相手にも見えますから」
キーノはその答えを聞き、帳面の図を覗いた。
足を置いた位置へ指を添える。
「ここへ戻すなら、氷を残すなよ」
「ええ。先に、戻る場所を空けておきます」
鬼太郎は、彼女の示した場所を直した。
◆
向こうで、ハリーが二人へ手を振った。
ロンが皿を持っている。
まだ菓子が残っているらしい。
キーノは立ち上がりかけ、膝を急に伸ばさず、ゆっくり姿勢を変えた。
鬼太郎も帳面を閉じた。
今夜、相手を探しに森へ行くことはない。
先生へ不用意に答えを迫ることもない。
だが、使える時間を、何も起きなかった時間として捨てるつもりもなかった。
火の次の形は、まだ指の先へ収まっていない。
届きそうな手応えを覚えているうちに、次の練習で確かめる。
鬼太郎はキーノの隣へ立ち、皆のいる卓へ歩いた。
ハリーが、空いている椅子を引く。
ロンの顔からは血の跡が消え、ネビルも菓子をひとつ選んでいた。
鬼太郎はその輪へ座り、差し出された皿を受け取った。
明日になれば、また杖を持つ。
相手が動くその時まで、今日より強くなれる時間は、まだ残っていた。