第百三十七話 巡る石にも、春は近づく
祝勝会の翌日から、ハリーはクィレルへ目を向けることが増えた。
廊下ですれ違えば、少し笑って挨拶をする。ロンは、先生の吃音を真似した生徒へ、それは面白くないと言い返した。
二人の中では、クィレルがスネイプに屈せず、石を守っていることになっていた。
鬼太郎は、その隣でいつもどおり授業を受けた。
クィレルが本を持ち直す手も、スネイプが教室を歩く足も見る。ただし、視線を向け続けることはしなかった。
何かを隠している相手に、見張っていると知らせたいわけではない。
授業が終われば、課題を片づけ、図書館へ行く。
キーノも一緒だった。
ハーマイオニーが先に席を取っている日もあれば、二人が開いている本の横へ、彼女が椅子を寄せる日もあった。
「そこ、前の説明と矛盾してないか?」
キーノが、魔法薬の本へ指を置いた。
ハーマイオニーは自分の羊皮紙を脇へ寄せ、示された箇所を読む。
「材料を入れる前と、後の話じゃないかしら。前の頁を見せて」
鬼太郎が本を戻した。
三人で二つの記述を比べる。
火を弱める時機が違っていた。キーノはその条件を見つけると、帳面へ書き足した。
「なるほど。順番だけ覚えると、間違えるな」
「ええ。途中で何が変わるかも、見ておく必要がありますね」
鬼太郎は答え、ハーマイオニーへ顔を向けた。
「よく、前の頁まで覚えていましたね」
「気になったの。同じ材料なのに、扱いが違ったから」
彼女は少し嬉しそうに言ったが、すぐに本へ目を戻した。
「この説明なら、授業の手順も分かりやすくなるわ」
鬼太郎はその指先を見た。
知っていることを答えて終わらず、引っ掛かったところを調べ、使える形へ直していく。
彼女が見つけて持ってくる説明には、自分がまだ読んでいない本のものもあった。必要な条件まで確かめられていることも多い。
任せておけばよい、とは思わない。
しかし、ハーマイオニーが調べたものなら、まず目を通してみたくなる。
そこまで思える相手は、多くなかった。
◆
数日後、鬼太郎は図書館で開いた本を、キーノの方へ向けた。
「物を、手元へ呼ぶ呪文がありました」
「浮かせるのとは違うのか?」
「こちらは、自分の方へ来てもらうものですね」
頁の詠唱を指で辿る。
アクシオ。
浮遊術では、持ち上げた物を運ぶ位置が以前より正確になっていた。卓の端で止める。椅子の背を越え、決めた場所へ置く。森では太い倒木も動かしてきた。
ただ、相手を見ながら離れた物を扱うときには、最初にその物へ注意を移す間が出来る。
呼び寄せる呪文なら、違う動きを作れるかもしれなかった。
ハーマイオニーも頁を覗いた。
「何を呼び寄せるか、はっきり考える必要があるのね」
「ええ。近くにある物を、順番に全部呼ぶのでは困りますから」
キーノが鬼太郎を見る。
「お前、何を飛ばす気だ?」
「まずは、先生に教えていただけるものからですね」
鬼太郎は笑った。
キーノは、答えが途中で止まっているような顔をした。
◆
フリットウィックへ相談すると、先生は鬼太郎の開いた頁を見て頷いた。
「浮遊術と組み合わせたいのですね。ですが、まずは呼び寄せる呪文だけを確かめましょう。来てほしい物と、来てほしい場所を曖昧にしないことです」
練習に使ったのは、小さな布の袋だった。
離れた卓の上へ置く。
最初の一度では、袋の口が動いただけだった。
二度目は卓の上を滑り、端で止まった。
鬼太郎は杖を下ろした。
袋の位置を覚えるだけでは足りない。
袋を自分へ向かわせる。その動きを、途中までしか考えていなかった。
「届かせようとする途中で、卓の端へ意識が移りました」
「落とさないよう、気にしたのですね」
フリットウィックが答える。
「では、受け取るところまで考えてみましょう」
次に唱えたとき、袋は卓を離れた。
鬼太郎の胸へ近づく。
彼は空いている手を出し、少し下で受けた。
「今度は来ましたね。では、場所を変えましょう」
成功した一度を褒めて、練習を終える先生ではなかった。
高さも、距離も変わった。
受け取る手が追いつかず、袋を取り落としたこともあった。
鬼太郎はそれを拾い、もう一度置き直した。
呼べることと、使いたい場面で間に合うことには、やはり差がある。
その差を知れる時間が、今はあった。
◆
それから数週間、城では大きな異変が起きなかった。
ハリーたちは三階の犬がまだいることを気にし、スネイプの不機嫌を石が無事な証拠のように話した。
鬼太郎は、それを聞いても犬の扉へ耳をつけには行かなかった。
借りた本を読み終え、返す。
呪文の練習を続ける。
セドリックとの対戦では、狙った位置へ身体を戻したつもりでも、杖を向けるのが遅れていた。
武装解除の呪文を避けた直後、次の呪文にローブの裾を取られる。
「避けた後、僕を見直していたね」
セドリックが言った。
「ええ。足を置く場所を、先に見てしまいました」
「僕も、よくやるよ」
鬼太郎は裾を直し、立つ位置を変えた。
同じ失敗でも、次に直す箇所が見えていれば退屈ではない。
アクシオの練習では、袋から別の物へ進んだ。目を向けて確かめた物を呼び、近づく速さを覚える。
浮遊術へ切り替える試みは、初めのうち、呼び寄せた物が足元へ落ちた。
慌てて杖を振るほど、次の呪文は乱れた。
鬼太郎は距離を取り直し、間に合う位置から繰り返した。
◆
休日のブルガリアでは、雪の残る陰と、地面の見える場所が入り交じっていた。
鬼太郎とキーノは登録されたポートキーで帰還し、砦へ荷物を置いた。
森に入った敵の知らせは、その日はなかった。
サーシェスは二人の帳面を見て、片眉を上げた。
「学校に行って、宿題が増えただけじゃねえようだな」
「試したいことも、増えています」
「それで、狼の所か」
「その前に、火を少し」
鬼太郎は答えた。
◆
いつもの練習場所で、鬼太郎は掌へMAGを集めた。
キーノは少し離れ、炎が向かう先を見る。
火を形にする。
慣れたアギなら、もう放てた。
だが、今日はその形で止めなかった。
力を増やすのとは違う。
集めたMAGを、いつも火へ変える感覚の、少し先へ通す。
掌の上で、炎の中心が一瞬まとまった。
鬼太郎の目が細くなる。
そのまとまりを保とうとした途端、火の外側が揺れた。
放つ。
炎は練習に使っていた倒木へ当たり、表面を焼いた。
鬼太郎は掌を閉じた。
「今のは?」
キーノが尋ねる。
「途中までは、近づいたと思います」
倒木に残る火を見ながら答えた。
放つ瞬間には、いつものアギへ戻っていた。
力を余分に使った分、少し強く燃えている。それを、求めていた変化と取り違えるつもりはなかった。
もう一度試した。
今度は、まとまりかけた感覚が崩れる前に止めた。
指の間に残る熱を確かめ、息を吐く。
「分からなくなる前に、今日は止めます」
「手合わせの前に、疲れ切るなよ」
「ええ。今使える火も、必要ですから」
鬼太郎は薄く笑い、残った火の始末を終えてから杖を持ち直した。
◆
グロブニクは、白い石の向こうで横になっていた。
呼び掛けると、暗赤の右目が開いた。
「また来たか」
「ええ。少し、お付き合いいただけますか」
大きな狼は立ち上がった。
閉じた左目の傷が、伸びた首の動きにつれて少し引かれる。
「今度は、何を覚えた」
「見ていただく方が、早いでしょうね」
「では、動け」
グロブニクが石を越えた。
鬼太郎は正面を空けたまま、斜めに退いた。
地面の低い窪みに、乾いた枯葉が溜まっている。
空いた手を向け、ザンを放つ。
風の刃が枯葉を裂いた。
薄い葉が幾つも切れ、跳ね上がる。鬼太郎はその下へ次の風を送り、細かな葉を狭い範囲へ巻き上げた。
土を広く撒くときとは違い、目の高さへ枯葉が重なる。
グロブニクの顔が、その向こうへ隠れた。
鬼太郎は、枯葉を挟んだまま横へ動いた。
狼の鼻が鳴る。
姿が見えなくても、位置は分かるらしかった。
葉の向こうで爪が地面を掻いた。
鬼太郎は音のした方へ正面から撃たず、枯葉の重なる端へアギを放った。
赤い火が、葉に移った。
細かな葉が次々に燃え、視界を遮っていた場所へ炎が広がる。
熱い風が頬へ触れた。
グロブニクは踏み込みを曲げ、炎の薄い端を抜けた。
鬼太郎はその先へ杖を向ける。
だが、狼の前脚が先に出た。
狙っていた進路へ入らず、もう一歩、外を回る。
鬼太郎は呪文を止め、身体ごと向き直った。
黒い肩が、すぐ近くへ来ていた。
彼は白い石へ退く。
グロブニクの爪が、立っていた場所の土を削った。
「煙の後ろで、同じ所に立っているとは思わん」
狼が言った。
鬼太郎は呼吸を整えた。
「匂いも、足音もありますね」
「燃やせば、お前にも見えなくなる」
背後では、焼けた葉が落ちていた。
鬼太郎は頷いた。
炎を作って終わりではない。
狼の脚がどちらへ出たか、見えない間にも判断しなくてはならなかった。
キーノが、燃え残った葉の位置を示す。
「次に戻るなら、そこは踏むなよ」
「ええ。先に片づけます」
鬼太郎は足を止めたまま、火が消えたことを確かめた。
◆
二度目は、鬼太郎が石の位置を見てから始めた。
地面に埋まっていない、持ち上げられる大きさの岩だった。
自分の立つ位置と、グロブニクが踏み込んでくる向きを選ぶ。
狼が動いた。
鬼太郎は後ろへ下がらず、岩と狼と自分が並ぶ位置を保った。
「アクシオ!」
岩が地面を離れた。
グロブニクの背後から、鬼太郎へ向かって来る。
狼の耳が動いた。
後ろを大きく振り返ることなく、身体を横へずらした。
岩が黒い胴の脇を抜ける。
鬼太郎は、岩の先から自分を外すように半歩動いた。
杖を持ち直す。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
岩の進み方が変わった。
近づいていた岩は、鬼太郎の前で斜め上へ持ち上がる。
そのまま頭上より高い位置へ運んだ。
グロブニクは岩を追わなかった。
鬼太郎が杖を上げた側へ、踏み込んでくる。
岩を次の位置へ動かすか。
呪文を捨てて、避けるか。
鬼太郎は岩を狼のいない横へ下げ、杖を戻した。
着地の音と、爪が地面を蹴る音が重なる。
狼の肩を避けた先で、前脚が伸びた。
鬼太郎は身体を低くした。
爪はローブへ触れずに通ったが、立ち直る前にグロブニクが向きを変える。
もう一度迫る大きな頭を見て、鬼太郎は白い石へ足を掛けた。
そこで、狼が止まった。
◆
「後ろから来たのは、よかった」
グロブニクが、地面へ下りた岩を見た。
「だが、上へ持っていく間、お前の手が分かった」
「杖を、長く向けすぎましたね」
鬼太郎が答えた。
呼び寄せて浮かせるところまでは繋がった。
その後、岩をどう使うかを選び直していた。
狼は、その間を待たない。
キーノが二人の近くへ来た。
「避けた先に岩を運びたいなら、浮かせてから考えるんじゃ遅いだろ」
「ええ。使う位置を、もう一つ決めておくべきでした」
「決めても、私がそこへ行くとは限らん」
グロブニクが言う。
鬼太郎は笑った。
「それなら、捨てるところも決めておきます」
膝の下に土がついていた。
息も、始める前より速い。
それでも、袋を呼び寄せていたときには分からなかった隙が、今は分かった。
鬼太郎は岩の落ちた場所を確かめ、杖を下ろした。
「今日は、ここまでにします。ありがとうございました、グロブニクさん」
「次は、頭の上を見続けるな」
「ええ。あなたの脚も、見ておきます」
狼の口元が、わずかに動いた。
キーノは鬼太郎の袖についた葉を払い、焼け跡へ目を向けた。
「帳面に書く前に、残ったものを見ろよ」
鬼太郎は頷き、二人で練習した場所を確かめてから砦へ戻った。
◆
城の窓から入る光が、少しずつ長くなった。
厚い上着を着ずに中庭へ出る生徒が増える。
ハーマイオニーの羊皮紙には、復習する科目と日付が並び始めた。
ある晩、ロンはその表を見て顔をしかめた。
「試験って、まだ先だろ」
「あと十週間よ。今から始めないと、全部を見直せないわ」
「君は、もう覚えてるじゃないか」
「覚えたつもりで間違えていたら、どうするの?」
ハーマイオニーは答え、ハリーの前へも羊皮紙を置いた。
キーノは自分の帳面を開いていた。
普段から課題を溜めず、分からないところを調べている。授業で返される課題には、鬼太郎のものと同じく、よい評価が多かった。
試験が近づいたからと、初めて本を開くわけではない。
それでも、彼女はハーマイオニーの表を覗いた。
「魔法史も、もう一度読むのか?」
「ええ。似た名前や年代が多いでしょう。混ざっていないか確かめたいの」
「それは、分かる」
キーノは自分の記録と比べ始めた。
鬼太郎も、本を閉じて表を見る。
「覚えているものと、説明出来るものを分けるのも、よさそうですね」
「そうなの。分かったと思っていても、書こうとすると止まることがあるわ」
ハーマイオニーが頷いた。
鬼太郎はその言葉を聞き、自分の帳面へ短く書いた。
彼女は、まだ試験を受けてもいないうちから、間違えそうな箇所を探している。
知識を得ることだけで満足せず、自分が本当に理解したかも疑う。
その姿勢は、気に入っていた。
◆
復活祭の休暇に入っても、課題は減らなかった。
むしろ、机の上へ積むものが増えた。
晴れた日の午後、図書館の卓には、三人分の本と羊皮紙が並んでいた。
鬼太郎とキーノ、その向かいにハーマイオニーが座っている。
キーノは書き終えた答えを読み返し、ひとつ言葉を直した。
鬼太郎は、ハーマイオニーが卓へ置いた本を読んでいた。
先ほど自分が尋ねた条件について、彼女が別の説明を見つけてくれたものだった。
頁の端には、細い紙が挟まっている。
必要な箇所を探す手間まで減っていた。
「ありがとうございます。これなら、違いが分かります」
「隣の頁も読んで。例があるから」
鬼太郎は言われたとおり、本をめくった。
求めていた説明が、続いていた。
彼はその本を自分の側へ寄せすぎず、ハーマイオニーも読める向きへ戻した。
「読み終えたら、僕が戻しておきますね」
「助かるわ。もう一冊、確かめたいのがあるの」
彼女は立ち上がりかけ、書架の向こうへ目を留めた。
「ハグリッド?」
小さな声だった。
鬼太郎も顔を上げた。
大きな背中が、棚の間に見えていた。
ハグリッドは本の背を見ては入口へ目を向け、また棚へ顔を戻している。
身体を少し縮めているが、肩も頭も棚の陰には収まっていない。
キーノが羽根ペンを置いた。
「あれ、隠れてるつもりか?」
「人を気にしているようですね」
鬼太郎は答えた。
ハグリッドが一冊抜き取る。
表紙を開いたところで、三人の視線に気づいた。
本が、すぐに背中へ回った。
キーノはそれを見て、片眉を上げた。
◆
「勉強か」
ハグリッドは卓へ近づいてきた。
「ええ。課題と復習をしていたの」
ハーマイオニーが答える。
「ハグリッドも、調べもの?」
「ああ、ちょいとな」
背中の本は出てこなかった。
鬼太郎は彼の顔へ目を戻した。
森のことを尋ねたときとは、違う落ち着かなさがある。
困っているようにも見えるが、口元には笑みが出かけていた。
「ハリーとロンにも、面白いものを見せてくれるって言ったんでしょう?」
ハーマイオニーが尋ねる。
ハグリッドの顔が、ぱっと明るくなった。
「聞いたのか。お前さんたちも、来りゃいい」
「何を見せてくれるんだ?」
キーノが問う。
ハグリッドは口を開きかけ、近くの卓へ目を向けた。
知らない生徒が、本をめくっている。
「それは、来てからのお楽しみだ」
声を落として答えた。
「ただ、あんまり大勢に言うんじゃねえぞ」
キーノが鬼太郎を見る。
彼も背中へ回された本へ一度目を向けた。
「では、勉強が一区切りついてから伺いますね」
「ああ。小屋にいるからな」
ハグリッドは頷いた。
去ろうとしてから、もう一度三人を振り返る。
何か言いたそうに口元を動かしたが、結局、楽しみにしていろとだけ言った。
◆
大きな背中が出口へ消えた。
ハーマイオニーは、彼が本を抜き取った棚を見た。
「面白いものって、何かしら」
「本を隠す理由も、あるんでしょうね」
鬼太郎が言った。
キーノは窓の外へ目を向けた。
小屋へ続く道は、午後の光に照らされている。
「嬉しそうではあったな」
「ええ。見せたいのに、ここでは話せないようでした」
鬼太郎は、読みかけの頁へ戻った。
ハグリッドの隠し事は気になる。
だが、必要な説明を見つけてくれた本を、途中で放り出すほどではなかった。
隣の頁を読み、帳面へ条件を書き足す。
ハーマイオニーも座り直し、自分の羊皮紙へ手を戻した。
三人の羽根ペンが、また動き始めた。
鬼太郎は最後の一行を書き終えると、本に挟まれていた細い紙を抜き、彼女へ返した。
「助かりました」
ハーマイオニーが笑って受け取る。
卓の上を片づけてから、三人は席を立った。
図書館の扉を開くと、窓から入る春の光が、廊下まで伸びていた。