第13話 鍵のある部屋
翌朝、物置の扉は、開く前に二度叩かれた。
「上へ来い。話がある」
顔を出した男は、それだけ言って待っていた。鬼太郎が毛布を畳む間も、腕へ手を伸ばさない。
朝食の皿も、今日は木箱の上にある。パンの固さは変わらないが、靴の横から拾わずに済んだ。
食べ終えて事務所へ上がると、買い手の机に三枚の紙が置かれていた。
「荷物を二度奪われた。どちらも、運ぶ道を変えたあとだ」
買い手は一枚ずつ指した。男の名前と居場所、その日の仕事が書かれているらしい。鬼太郎に読めるのは、数字と幾つかの短い単語だけだった。
「この三人が道を知っていた。一人ずつ調べろ。誰が話を売ったか、名前を持ち帰れ」
「証拠も必要ですか?」
「あれば持ってこい。だが、気づかれるな。殺すなよ」
鬼太郎は買い手の顔を見た。男は念を押すように、もう一度、殺すなと言った。
「誰が裏切ったか分からなくなれば、残りの奴らも使えない」
「分かりました。三人とも調べます」
報酬も、その場で決まった。赤い帳面より高かったが、何日で終わるかは分からない。鬼太郎は説明を聞き終えてから、一枚目を自分の前へ寄せた。
「これを教えてください」
「読めないのか?」
「分からないところが、幾つかあります」
買い手の指が、紙の半分をなぞった。
「幾つか、か」
「お分かりでしたら、早く済みそうですね」
男は鼻を鳴らしたが、紙を取り上げなかった。鬼太郎が指す言葉を一つずつ読み、その意味を説明する。
働いている場所。終わる時刻。よく行く酒場。
鬼太郎は必要な箇所へ小さな印をつけた。名前の綴りが読めても、どんな音で呼ばれているかは別だった。それも聞いてから、紙を鞄へ入れる。
買い手は、全部覚えたのかと尋ねた。
「確かめながら使いますよ。間違った方を調べては、困るでしょう?」
◆
一人目は、仕事が終わると酒場へ入った。
鬼太郎は向かいの通りで靴紐を直し、開いた扉から顔を確かめた。男は机へ肘をつき、隣の客へ大きな声で何かを言っている。
半分も聞き取れなかった。それでも、酒を注文する言葉は何度も繰り返された。
出てきた頃には、歩幅が揃わなくなっていた。次に賭け事の店へ寄り、しばらくして空の財布を覗きながら出てくる。
翌日も同じだった。
金に困っているのかもしれない。だが、それだけで荷物の道を売ったことにはならない。鬼太郎は時刻と寄った店を覚え、次の男へ移った。
二人目は、仕事のあとに遠回りをした。
通りを二度曲がり、後ろを見る。店の窓へ顔を向けてから、来た道を少し戻った。
鬼太郎は追いつこうとせず、露店の前で足を止めた。並んだ品の値札を見ている間に、男が通りの反対側へ現れる。
今度は古い集合住宅へ入った。
少し経って、二階の窓に灯りがついた。女と小さな子供が机に向かい、男が持ってきた袋を開けていた。
袋から出てきたのは食べ物だった。
鬼太郎は鞄の紙を見た。家族については何も書かれていない。翌日にも同じ場所へ来て、ほかの誰かと会わないことを確かめた。
隠したいものがある人間と、探している裏切り者は、必ずしも同じではなかった。
三人目は、毎日違う道を使った。
橋を渡った翌日は市場を抜け、次には乗合の車へ乗った。通りの途中で歩く速さを変え、窓に映る背後も見ている。
鬼太郎は二度、見失った。
初日は追うのをやめ、男が帰ってくる場所を買い手に確かめた。翌日は道の先へ回ったが、思った角には現れなかった。
三度目に、途中で遊んでいた子供へ尋ねた。上着の色と背の高さを伝えると、子供は片手で先を示し、早口で答えた。
「右ですか?」
聞き取れた言葉を繰り返す。
子供は首を振り、鬼太郎の袖を引いて角へ連れていった。そこから見える道を、もう一度指す。
男は市場へ入るところだった。
「ありがとうございます」
礼を言ってから、鬼太郎はすぐには追わなかった。示された角と道を覚える。次に同じところを通れば、言葉を聞かなくても分かる。
市場の端で、男は新聞を持って長椅子へ座った。
数分後、立ち上がる。新聞は残したままだった。
鬼太郎は果物を並べた店の前へ寄った。店主が何か尋ねたので、覚えていた言葉で、叔母を待っていると答える。
男が市場を出ていってから、別の男が長椅子へ来た。
新聞を取り、中へ挟まれた紙を読む。周囲を見回したあと、小さな封筒を新聞へ入れ、元の場所へ戻した。
鬼太郎は、最初の男が消えた出口を見た。紙が話の代わりなら、封筒は支払いだろう。まだ受け取りに戻っていない。
果物の店を離れ、長椅子へ歩いた。
新聞を取ること自体を、見ている者はいなかった。鬼太郎は鞄の地図を開き、新聞と重ねて近くの店先へ移った。
挟まれていた紙には、長い文章はなかった。
日付と時刻。途中には買い手の地図で見た地名がある。その綴りを指で辿ってから、封筒を開いた。
紙幣が入っていた。
両方を鞄へ移し、新聞だけを長椅子へ戻す。店の陰に隠れるより、ほかの子供と同じように歩く方が目立たない。
菓子の露店で足を止めたとき、三人目が戻ってきた。
新聞を開き、すぐに裏返す。長椅子の下も覗いた。周りを見回した視線が、鬼太郎の上を通り過ぎる。
外国人の子供が、一人で菓子を見ている。
男はそれ以上こちらへ目を向けず、新聞を握り潰して市場を出た。
◆
買い手は紙を読むと、椅子の上で背を伸ばした。
「この道は、まだ使っていない」
「三人目の方が、新聞へ挟みました」
鬼太郎は受け取った男の顔と上着、立ち去った方向を伝えた。横で聞いていた部下が買い手へ何か言ったが、早口の返事までは分からなかった。
「残りの二人は?」
聞かれたことには、見た順に答えた。一人目の金遣いと、二人目の集合住宅。買い手は後者の場所を聞き直し、紙の端へ書きつけた。
「三人目は、まだ生きているな」
「はい」
「火も使わなかったか」
「新聞を取るのに、必要はありませんでしたよ」
買い手は少し黙り、それから封筒を自分の側へ寄せた。
証拠として回収する金と、鬼太郎へ支払う金は、別に置かれた。今度は減らされていない。
受け取って立つと、部下が事務所を出ていった。誰を迎えにいくのか、尋ねるつもりはなかった。
その日の午後、鬼太郎は買い手へ行き先を告げ、店を探した。
本が並ぶ店では、表紙より中を見た。長い文章の頁を閉じ、絵の横に短い文が添えられたものを選ぶ。父から習った綴りが幾つかあった。
次に小さな辞書を探した。自分だけでは見つからず、店員へ意味を説明するのに時間がかかった。単語を調べる本だと伝わると、男はようやく奥の棚から一冊出した。
街路図と、荷物を分けて入れられる丈夫な鞄も買った。
店を出たときには、紙幣の一部が本と鞄へ変わっていた。昼は温かいものを食べ、明るいうちに物置へ戻る。
鬼太郎は毛布の上へ地図を広げた。
買い手の紙で聞いた道と、自分が歩いた道を探す。分からない単語は辞書を開いた。知らない言葉の意味が、別の知らない言葉で書かれていることもあった。
それなら、まず短い方から確かめればよい。
翌日の朝、皿を運んできた男へ、鬼太郎は本の一行を示した。
「ここを読んでいただけますか?」
「俺は先生じゃねえ」
「読めないのですか?」
男は顔をしかめ、鬼太郎の指先を覗き込んだ。それから一行を読み、これでいいだろうと言って出ていく。
鬼太郎はその音を繰り返した。昨日まで知らなかった言葉だった。
◆
二週間ほどの間に、物置の木箱へ紙が増えた。
通りで見た文字を書き留め、夜に確かめる。朝になれば、もう一度その看板を見た。手紙を運ぶ仕事でも、倉庫の木箱を数える仕事でも、行ったことのある道が少しずつ増えていく。
左腕も日常では不自由なく動くようになった。ただ、仕事の最中に射撃の支えとして試すことは避けていた。
ある昼前、買い手が茶色い小包を机へ置いた。
「これを届けろ。金と取引の記録だ」
鬼太郎は自分の街路図を出した。示された場所を書き、受取人の名前を脇へ控える。
「中の封を切るな。日が沈む前に渡せ」
「危険はありますか?」
「前に運ばせた男が消えた。荷物も戻っていない。ここから出る人間を見張っている奴がいるかもしれん」
鬼太郎は買い手を見た。
男は分かっている人数と、拳銃を持っていたという話を続けた。確かな情報ではないとも言う。少なくとも、最初の帳面のように、心配のない使い走りだとは扱わなかった。
「襲われたら、荷物を守ればよいのですね」
「届けばいい。俺の建物へ連れ戻ってくるなよ」
報酬を告げてから、買い手は鍵を一本出した。
「これもつける。上に空き部屋がある。今の物置よりましだ」
鬼太郎は鍵ではなく、男の顔を見た。
「今回の仕事の報酬ですか?」
「使わせるだけだ。ここで仕事をする間はな」
「分かりました。受け取る場所の合言葉を、もう一度お願いします」
買い手はゆっくり繰り返した。鬼太郎の発音を一度直し、言い終えるまで待つ。
小包は両腕で抱えれば運べるが、それでは銃を抜く手が空かない。鬼太郎は紐の結び目を確かめ、鍵を上着へ入れた。
◆
最短の道へは進まなかった。
市場を抜け、橋の手前まで歩いてから引き返す。帽子の男が、橋のたもとで煙草を吸っていた。
その男は追ってこなかった。代わりに、荷車の横にいた別の男が歩き始める。
次の角を曲がり、店先で足を止めると、二人目も止まった。道の先では、襟を立てた三人目がこちらを見た。
鬼太郎は街路図を開いた。
顔を覚えられているのではないかもしれない。建物から小包を持って出た子供なら、知らない者でも見分けられる。
そのまま古本と新聞を積んだ露店へ寄った。古い新聞と細い紐を買い、店の横の狭いところへ入る。
地図で道を確かめるようにしゃがみ、小包の紐を解いた。茶色い紙の中には、油を弾く布で包まれた小さな荷物がある。結び目についた赤い封には触れなかった。
本物を上着の内側へ入れ、買った紐で身体へ留める。
外の紙には、畳んだ新聞を詰めた。持てば軽くなったが、遠くから見える形は大きく違わない。
顔を上げると、通りの向こうに二人目がいた。こちらの手元までは見えない角度だった。
鬼太郎は包みを抱え直し、また歩き始めた。
目的地の手前には、煉瓦壁に挟まれた細い通りがある。地図で調べ、近くからも確かめておいた場所だった。別の道へ回れば、遠回りになり、見張りもまだ続くだろう。
角を曲がると、先に二人いた。
後ろからも靴音がする。
「それを渡せ」
前にいた男が、手を伸ばした。
鬼太郎は素直に包みを下ろした。男の掌へ渡すと、相手は紐を見ただけで後ろへ下がる。
「聞き分けがいいじゃねえか」
もう一人が鬼太郎の肩を掴もうとした。
半歩退くと、男は眉を寄せた。鬼太郎は右手を上着の下へ入れる。
「荷物はお渡ししましたよ」
「お前も来い」
「届け先が違いますね」
手が再び伸びてきた。
鬼太郎は〈シュライク〉を抜き、男の脚を撃った。
壁の間で銃声が響く。男は膝を折り、鬼太郎へつかまろうとして空を掴んだ。
小包を持つ男も上着へ手を入れかけたが、銃口が自分へ向くと止まった。
後ろの靴音が速くなる。
鬼太郎は包みを持つ男から目を離しすぎないよう身体を斜めに向け、左手を後方の木箱へ伸ばした。追ってくる男が、その脇を通ろうとしている。
「アギ」
炎が乾いた板へ当たり、箱の隙間から吹き上がった。
後ろの男は足を止め、煉瓦壁へ身を寄せた。前では、撃たれた男が脚を抱えて呻いている。
鬼太郎は小包を持つ男へ銃を向けたまま、壁沿いに進んだ。相手がこちらを追って身体を回す前に、角へ届く。
振り返ると、包みの紐が解かれ始めていた。
新聞を開けば、本物がないと分かる。
鬼太郎は銃を下げ、走った。
◆
追う足音が聞こえなくなってから、銃を収めた。
息を整え、上着の中の封を確かめる。赤い印は割れていない。身体へ留めていた紐を外し、包みを手へ移した。
届け先の扉を叩くと、覗き窓が開いた。
鬼太郎は教わった言葉を、一語ずつ告げた。途中で聞き返されたが、今度は自分で発音を直せた。
扉を開けた男は、子供が一人で立っているのを見てから、包みへ目を落とした。
「どこから来た」
鬼太郎は買い手の名を伝えた。男は赤い封を裏返し、結び目も確かめる。
「一人で運んだのか?」
「受け取った証拠をください」
男は包みから顔を上げた。
「誰に言われた」
「渡しただけでは、戻って説明するのに困ります」
しばらく見られたあと、机へ通された。印と署名のある紙を受け取り、控えた名前の最初の文字が同じなのを確かめる。
男はその指先を見ていたが、何も言わず扉を開けた。
帰りは別の道を使った。包みを抱えていない子供を、橋の男が見ているかどうか、確かめに戻るつもりはなかった。
買い手は受領の紙を読み、鬼太郎の話を聞くと、椅子へ深く座り直した。
「三人いたのか」
「はい。一人の脚を撃ちました」
「荷物は奪われなかったんだな」
「外の包みは持っていかれました。今頃、新聞を読んでいるかもしれません」
買い手が鬼太郎を見た。
「中身を替えたのか」
「封を切らずに運ぶ、というお話でしたので」
買い手は受領の紙を畳んだ。約束した金を渡し、部屋の鍵は持っているなと尋ねる。
鬼太郎は上着から出して見せた。
「合鍵は、どなたが?」
「俺だ」
「僕がいるときは、先に扉を叩いてください」
「俺の建物だぞ」
「ええ。ですから、お願いしています」
買い手は少し考え、火事でも起きていなければな、と答えた。
◆
上階の部屋には、窓があった。
扉を開けると、床に四角い光が落ちている。小さな寝台と机、椅子もあった。壁際へ荷物を置いても、寝る場所を空けておける。
鬼太郎は先に窓を確かめた。留め具を掛ければ外からは開かない。寝台の下、机の裏、床の隙間も順に見る。
緩んだ床板が一枚あった。持ち上げると、薄い包みなら入る空間がある。
父の書類は、油紙のままそこへ隠した。弾薬は寝台の下へ、地図は鞄の外側へ入れる。銃は身につけたままだった。
最後に、本と辞書を机へ並べた。
物置では、頁を開いたままにすると食事の皿を置く場所がなかった。ここなら、読みかけの本を畳まずに席を立てる。
鬼太郎は椅子へ座り、肘を机へ置いた。窓から入る明かりで、小さな字まで読めた。
階段で足音がした。顔を上げたが、そのまま下へ遠ざかっていく。
鬼太郎は立ち、扉を閉めた。鍵を差して回すと、金属の噛み合う音がする。
部屋も、鍵も、借りたものだった。
それでも、仕事を終えて受け取った場所である。使っている間に何を置くか、いつ扉を開けるかは、自分で決めたかった。
抜いた鍵を手の中で返してから、鬼太郎は机へ戻った。
辞書の頁を開き、今日覚えた言葉を紙の端へ書いた。