第十三話 狩る者、狩られる者
机の上に置かれた写真には、口髭の男が写っていた。
短く刈った髪。
日に焼けた顔。
写真を撮られているのに、男の目は正面を見ていない。少し右へ向けられている。
そこに何があったのか。
誰がいたのか。
古い写真から知ることはできない。
「ニコラ・ペトロフ」
買い手が言った。
「元兵士だ。除隊してからは、金を払う人間のために殺し、守ってきた」
「今回は、守る方で失敗したのですか?」
「殺す方だ。依頼人の息子が死んだ」
墓場鬼太郎は写真を持ち上げた。
「ニコラが殺したのですね」
「酒場で揉めた。息子が先に銃を出したらしい」
「それでも、依頼人にとっては関係がない、と」
「息子は一人しかいなかった」
机の上に、もう一枚の紙が置かれる。
金額を見て、鬼太郎はすぐには口を開かなかった。
これまで受けた仕事とは、数字の桁が一つ違う。
英国までの移動に必要な金。
偽造書類。
イリーナへ支払う報酬。
道中で必要になる食事と宿。
まだ足りなかった分の大半が、一度で埋まる額だった。
「随分と高いですね」
「怖くなったか」
「理由を知りたいだけです」
鬼太郎は写真を机へ戻した。
「ニコラに仲間は?」
「確認されていない」
「隠れている場所は」
「西の山中にある、使われなくなった水力発電所だ」
「建物の中にいることは確認できていますか?」
「近くの村で食料を買った。山へ入った姿も見られている。発電所から夜に灯りが漏れることもある」
「それだけなら、別人の可能性もあります」
「追った男が顔を見ている」
「その方は?」
「戻ってきて、依頼人へ知らせた。その後は仕事から降りた」
鬼太郎は金額の書かれた紙を指で押さえた。
「先に受けた方がいますね」
買い手は答えなかった。
「一人ですか?」
「二人だ」
「戻ってきていない」
「そうだ」
「どのような方です?」
「一人は元兵士。もう一人は、山で人を追う仕事をしていた」
「二人は一緒に?」
「組んで入った」
二人とも、山で戦うことを知らない人間ではない。
それでも戻っていない。
「ニコラの武器は?」
「長い銃と拳銃を持っている。兵士だったころは、偵察と狙撃をしていたそうだ。追跡と罠にも慣れている」
「依頼人の息子を殺した後、追手は?」
「三人送られた。二人死んだ。一人は脚を撃たれて帰された」
「なぜ、一人だけ帰したのでしょう」
「次に来る者へ伝えろと言われたらしい」
「何と?」
「山へ入れば、帰さない」
鬼太郎は僅かに笑った。
「親切な方ですね」
「お前には、そう聞こえるのか」
「警告しているのでしょう?」
「それで仕事を受ける人間が減ると思っている」
「では、その期待には添えませんね」
「受けるのか」
「まだ質問があります」
鬼太郎は報酬から視線を上げた。
「生け捕りにする必要は?」
「ない」
「持ち帰るものは?」
「ない。現地の連絡役が死体を確認する」
「発電所まで来るのですか?」
「お前が終わったと知らせればな」
「ニコラ本人だと、どのように確かめます?」
「右肩に古い銃創がある。軍の記録も渡す。顔が残っていれば、それが一番早い」
「顔が残らなかった場合でも、報酬は?」
「死体が本人だと確認できれば払われる」
「分かりました」
鬼太郎は写真を上着の内側へ入れた。
「お受けします」
◆
ペタルは、弾倉を抜いた〈シュライク〉の遊底を引いた。
薬室に弾がないことを確かめる。
遊底を外し、銃身を灯りへ向けて内側を覗いた。
撃針とばねを確かめ、ばらした部品を順番に戻していく。
「山で使うのか」
「ええ」
「相手は」
「長い銃を持っています」
「そういう意味じゃない」
ペタルは〈シュライク〉を机へ置いた。
「人を待てる相手か」
「できるでしょうね」
「なら、厄介だ」
鬼太郎は弾倉へ弾を込めていた。
用意した弾は、いつもより多い。
弾倉だけではない。布に包んだ予備の弾も鞄へ入れている。
「使い切るつもりか」
「必要になれば」
「必要だと思わされるな」
ペタルは一発の弾を摘まんだ。
「長い銃は、これがお前の届かない場所から届く。見えたからといって撃ち返すな」
「当てられない距離なら、撃ちませんよ」
「一発目を外したら、同じ場所から二発目を撃つな」
「一発目を外さなければよいのでは?」
「向こうも同じことを考えている」
ペタルは弾を弾倉へ戻した。
「開けた場所を歩くな。道の真ん中を安全だと思うな。落ちている銃を拾うな。怪我人が助けを求めていても、先に周りを見ろ」
「随分と多いですね」
「死んだふりをしている人間より、死体の方が危険なこともある」
「爆発物ですか?」
「罠を仕掛ける奴ならな」
鬼太郎は〈シュライク〉を取り、重さを確かめた。
「経験がおありで?」
「拾った銃で、指を二本なくした男を知っている」
「その方は、忠告を聞かなかったのですか?」
「忠告する人間が、その場にいなかった」
「では、僕は幸運ですね」
ペタルが鬼太郎を見る。
「お前は、運がいい顔をしていない」
「どのような顔です?」
「罠の向こうにいる奴へ、会いたがっている顔だ」
鬼太郎は〈シュライク〉を腰のホルスターへ収めた。
「間違ってはいませんよ」
◆
西へ向かう車は、夕方に小さな町へ着いた。
山が近い。
家々の背後に、黒い斜面が立っている。
鬼太郎を待っていたのは、片方の耳が欠けた老人だった。
老人は鬼太郎の顔を見て、運転手を見る。
「連れてくる相手を間違えたのか」
「こいつで合っている」
「子供だぞ」
「見れば分かりますよ」
鬼太郎が言うと、老人は口を閉じた。
翌朝、老人は発電所へ続く山道の入口まで案内した。
途中から車は使えなかった。
細い道の片側は斜面で、反対側は深い谷になっている。
水の音が、木々の下から聞こえた。
「俺はここまでだ」
老人は、古い石柱の前で止まった。
「発電所は、この先では?」
「そうだ」
「なら、もう少し近くまでお願いできますか?」
「断る」
老人は即答した。
「三日前に、この先で銃声を聞いた。あの二人が入ってからだ」
「何発です?」
「最初に一発。少しして二発。夜に、もう一発」
「すべて同じ銃の音でしたか?」
「分からん。山じゃ響く」
「ほかには?」
「道の脇で針金を見た。誰かが張ったものだ。触ってはいない」
「正しい判断ですね」
「褒められに来たんじゃない」
老人は谷の奥を指した。
「曲がりを三つ越えると、車が一台捨ててある。その先へ行った奴は、まだ戻っていない」
「連絡役のあなたも、発電所へは入りたくないのですね」
「死体があると分かれば行く。生きている男に撃たれに行く気はない」
「分かりました」
鬼太郎は山道へ向き直った。
「夕方までに戻らなければ?」
「二日待つ」
「その後は」
「お前も戻らなかったと伝える」
鬼太郎は振り返った。
「伝える相手が増えなければよいですね」
老人は笑わなかった。
◆
捨てられた車は、四つ目の曲がりにあった。
老人の記憶が間違っていたのか。
それとも、数える場所が違ったのか。
鬼太郎は車へ近づく前に足を止めた。
道の端へ寄る。
木の陰から見る。
車の扉は開いていた。
窓は割れていない。
前輪の一つが、ぬかるみにはまっている。
捨てられた車というより、乗ってきた者がここへ停め、歩いていったように見えた。
地面には、大人二人分の足跡が残っている。
発電所へ向かう足跡。
戻ってくるものはない。
鬼太郎は車に触れず、周囲を回った。
後部の荷台には、空の食料袋と毛布がある。
運転席の足元に、紙が落ちていた。
何かを書いた地図にも見える。
拾わない。
車を過ぎて百歩ほど進むと、道の脇に拳銃が落ちていた。
泥の上にあるのに、銃身は汚れていない。
置かれてから、それほど時間が経っていないように見える。
鬼太郎は拳銃ではなく、その周りを見た。
土の色が違う。
雨で濡れた地面を、一度掘り返して戻している。
銃の引き金から、細い糸が草の下へ伸びていた。
先に何がつながっているのかは見えない。
鬼太郎は道を外れた。
斜面側の木々を使い、拳銃から距離を取って進む。
十歩先で、別の糸を見つけた。
足首ほどの高さ。
道を避けた者が通りそうな場所へ張られている。
「なるほど」
鬼太郎は呟いた。
一つ目を見つけた者が、次にどこを歩くかまで考えている。
糸の先には、斜面に積まれた石があった。
踏めば崩れる。
石だけでは済まないかもしれない。
鬼太郎はさらに上へ登った。
木の根へ手をかけ、斜面を横切る。
六歳の身体は、大人より狭い隙間を通れる。
その代わり、一歩ごとの幅は短い。
柔らかい土へ足を取られれば、身体ごと谷へ落ちる。
しばらく進んだところで、臭いがした。
湿った土。
木の葉。
その下に、時間の経った血の臭いが混じっている。
男が木にもたれて座っていた。
上着の胸が黒く染まっている。
顔は横を向き、目は開いていた。
鬼太郎は近づかなかった。
片方の手が腹の前に置かれている。
その指の下から、針金が伸びていた。
上着の内側へ消えている。
死体を動かす。
武器を取る。
身元を確かめる。
そのどれかをすれば、何かが起こる。
ペタルの言葉どおり、男は死んだ後の方が危険になっていた。
「先に来た方ですね」
返事はない。
鬼太郎は死体の靴を見た。
靴底に、赤い粘土がついている。
この場所の土は黒い。
どこか別の場所で殺され、ここへ運ばれた。
道から罠を避けた人間が見つけやすい場所へ。
ニコラは、侵入者が何を見るかを決めている。
鬼太郎は死体に背を向けた。
◆
発電所は、谷の底にあった。
山の斜面を削るように建てられた、灰色の建物。
屋根の一部が落ちている。
太い水圧管が二本、斜面の上から建物へ伸びていた。
窓ガラスは割れ、黒い穴のように並んでいる。
建物の横には、川へ続く放水路があった。
鬼太郎は木々の中から全体を見下ろした。
正面へ続く道は開けている。
身を隠せるものが少ない。
裏手は切り立った岩壁。
屋根へ近づくには、水圧管の横を下りる必要がある。
川側には、草で半分隠れた排水口が見えた。
どこにも人影はない。
夜に灯りが見えた窓が、どれなのかは聞いていなかった。
鬼太郎は双眼鏡を持っていない。
目を細め、割れた窓を一つずつ見る。
上階。
左から三つ目。
一瞬、何かが陽光を反した。
鬼太郎は考える前に、身体を横へ投げた。
先ほどまで頭があった場所で、木の皮が弾ける。
銃声は、その直後に届いた。
細かな木片が頬へ当たった。
鬼太郎は地面へ伏せたまま、太い根の後ろへ身体を移した。
二発目は来ない。
〈シュライク〉を抜かない。
光が見えた窓までは遠い。
こちらから拳銃を撃っても、当たる距離ではなかった。
撃ち返せば、今いる位置を正確に教えるだけになる。
ニコラも、同じ窓から次を撃つとは限らない。
鬼太郎は頬を撫でた。
血は出ていない。
「ご挨拶としては、少し早いですね」
返事はなかった。
◆
鬼太郎は、発電所を見下ろせる場所から離れた。
一度、山道の方へ戻る。
同じ場所から建物へ近づかない。
木々の密集した斜面を下りた。
正面の道を避けると、草の間に獣道のような細い通り道があった。
足跡はない。
枝も不自然に折れていない。
銃口から隠れながら、建物の横へ近づける。
鬼太郎は入らなかった。
その場へしゃがむ。
草の根元を見る。
細い針金が、二本の木の間に張られている。
低い位置ではない。
大人なら、膝の少し下。
鬼太郎なら、腰に当たる高さだった。
跨ぐことはできる。
下を潜ることもできる。
だが、その先に伏せた草がある。
何かを埋めた跡。
道へ戻れば、発電所の窓から見える。
上へ戻れば、最初に撃たれた場所へ近づく。
下へ進めば、この罠がある。
安全な道を探しているのではない。
ニコラが安全に見せた場所を、選ばされている。
「僕を、どちらへ行かせたいのでしょうね」
鬼太郎は発電所を見た。
正面には広い道。
裏には岩壁。
川側には排水口。
大人なら、肩を入れるだけでも難しい大きさだった。
鬼太郎なら通れる。
罠を避けて進んだ侵入者が、最後にそこへ目を向けるよう仕向けられている。
ニコラも、排水口に気づいているはずだった。
鬼太郎は、そちらへ向かった。
◆
排水口の鉄格子は、一本だけ外れていた。
錆びて落ちたようにも見える。
人が外したようにも見える。
鬼太郎は石を一つ拾った。
格子の隙間から投げ入れる。
乾いた音が、暗い奥へ転がった。
何も起きない。
別の石を投げる。
今度は少し遠くまで届いた。
音だけが返ってくる。
鬼太郎は腹這いになり、排水口へ入った。
中は狭い。
膝と肘を使って進む。
湿った石へ服が擦れた。
前方から、油と錆の臭いがする。
十数歩分進んだところで、通路が二つに分かれた。
右から風が来ている。
左には、水が薄く溜まっていた。
水面へ油が浮かんでいる。
鬼太郎は右を選んだ。
少し進むと、頭上に四角い蓋が見えた。
手で押す。
動かない。
さらに力を入れると、蓋が僅かに持ち上がった。
光が入る。
鬼太郎は隙間から外を見た。
広い機械室だった。
発電機は止まり、床には剥がれた塗料と金属片が散らばっている。
頭上には、鉄の通路が渡されていた。
人影はない。
鬼太郎は蓋を横へずらした。
音を立てないよう、床へ置く。
穴から這い出た。
その瞬間、背後で金属が鳴った。
鬼太郎は前へ転がった。
銃声。
床の蓋に穴が開く。
鬼太郎は大きな発電機の陰へ入った。
「子供だと聞いていた」
男の声が、機械室の上から聞こえた。
低く、落ち着いている。
「火を出す。小さな拳銃を持っている。そういう噂も聞いた」
鬼太郎は〈シュライク〉を抜いた。
「有名になったものですね」
「噂より小さい」
「あなたは、写真よりお元気そうです」
上の通路を、靴が踏む。
一歩。
止まる。
鬼太郎に位置を読ませないためか、それ以上は動かなかった。
「ここへ来た二人は、俺を老人だと思っていた」
「あなたは、そう見せたのですか?」
「勝手に見たいものを見た」
ニコラの姿が、鉄の手すりの向こうに現れた。
長い銃ではない。
拳銃を持っている。
銃口は、鬼太郎が隠れた発電機の端へ向けられていた。
すぐには撃たない。
鬼太郎が出る場所を待っている。
鬼太郎は左手を、機械の陰から僅かに出した。
「プリンパ」
音も光もなかった。
ニコラの目が、鬼太郎のいない右側へ動く。
銃口がそちらへ向いた。
発砲。
弾丸が、別の発電機の外板を叩いた。
鬼太郎は反対側から身を出す。
〈シュライク〉を構えた。
ニコラが振り返る。
早い。
プリンパを受けた若い見張りは、仲間と鬼太郎の区別を失った。
ニコラは違った。
一度、何もいない場所を撃った。
それだけで、自分の認識が狂わされたと気づいた。
見えているものを信じず、鬼太郎の足音へ反応した。
鬼太郎が引き金を絞る。
ニコラは身を沈めた。
弾丸が手すりを叩く。
ニコラの姿が消えた。
鬼太郎も、すぐに発電機の陰へ戻った。
直後、先ほど顔があった場所を弾丸が通る。
「今のが、火とは別のものか」
ニコラの声は乱れていない。
「ええ」
「便利だな」
「お気に召しましたか?」
「長く続くなら、俺はもう死んでいる」
「残念です」
頭の奥に、鈍い痛みがあった。
プリンパは効いた。
だが、数秒だけだった。
ニコラは混乱の中でも、一発しか撃たなかった。
見えた敵を追い続けず、外した時点で自分を疑った。
ここには、撃ち合わせる仲間もいない。
認識を乱しても、同士討ちは起こらない。
鬼太郎が銃を向けるための時間を、僅かに作っただけだった。
◆
機械室の奥に、半分開いた扉があった。
鬼太郎は発電機の陰を移りながら近づいた。
ニコラは撃たない。
上の通路からも、足音は聞こえなかった。
扉の先は細い廊下だった。
左右に部屋が並んでいる。
鬼太郎は床を見た。
埃の上に、自分の足跡が残る。
隠せない。
靴を脱いでも、足の跡が残る。
進む速さを落とせば、ニコラが別の出口へ回る時間を与える。
鬼太郎は廊下へ入った。
三つ目の扉の前で、背後に気配を感じた。
振り返らない。
右の部屋へ飛び込む。
銃声。
左腕に、熱いものが走った。
身体が回る。
床へ倒れながら、鬼太郎は廊下へ一発撃った。
ニコラはもういない。
壁に弾痕だけが残った。
鬼太郎は扉の陰へ身体を寄せた。
左の上腕を見る。
服が裂けている。
血が流れ、肘へ伝っていた。
弾丸は腕を貫いていない。
肉の表面を削って通った。
指を動かす。
一本ずつ曲げる。
腕は動く。
だが、肩より上へ上げると痛みが増した。
鬼太郎は上着の裾を裂いた。
傷へ当てる。
片手と歯を使い、きつく巻いた。
「足音を聞いていましたね」
廊下へ向かって言う。
「小さい足は、歩幅も短い」
離れた場所から、ニコラの声が返った。
「何歩で扉まで届くか、分かりやすい」
「勉強になります」
「次に使う機会はない」
鬼太郎は血のついた指を見た。
傷は、布を巻いて押さえるしかない。
血は、まだ止まりきっていない。
火を出すことはできる。
頭を乱すこともできる。
手当てをして、動けるうちに終わらせるしかなかった。
◆
部屋には、壊れた机と棚があった。
窓はない。
入口は一つ。
奥の壁に、小さな通気口がある。
鬼太郎でも通れない。
廊下へ戻るしかなかった。
頭の痛みは消えていない。
左腕は、心臓が打つたびに熱を持った。
〈シュライク〉を右手だけで構える。
両手で支えるときより、銃口が揺れる。
もう一度プリンパを使えば、ニコラの認識を乱せるかもしれない。
先ほどより短い可能性もある。
何もない場所へ一発撃たせても、その次は鬼太郎へ向く。
鬼太郎は床へ落ちていた金属片を拾った。
廊下へ投げる。
音が響いた。
銃声はない。
ニコラは音だけでは撃たない。
鬼太郎は入口から低く身を出し、向かい側の部屋へ走った。
何も起きない。
次の部屋へ移る。
廊下の先に、階段が見えた。
上へ続く階段。
その手前に、細い糸が張られている。
見つけやすい。
罠は、踏ませるためだけではない。
見つけた者を止めるためにも使える。
鬼太郎が足を止めた瞬間、後ろの扉が閉まった。
金属の閂が落ちる音。
戻る道を塞がれた。
前には罠。
その先に、ニコラがいる。
「排水路へ入ったときから、この廊下へ来るようにしていたのですね」
「正面から来れば、外で終わっていた」
声は階段の上から聞こえた。
「罠を見つければ、人は罠のない方へ行く」
「見つけさせる罠もある、と」
「二人目は、それに気づいた」
「それでも死んだのですか?」
「気づくのが遅かった」
鬼太郎は周囲を見る。
廊下の壁には、古い油の染みがある。
床の端には、機械室から漏れた油が細く続いていた。
頭上には、配管と金属の足場。
錆びた支柱。
階段の先にはニコラの銃口がある。
背後の扉は閉じている。
左腕から、新しい血が布へ染みていた。
鬼太郎は、それらを順番に見た。
「出てこい」
ニコラが言った。
「次は腕では済まない」
鬼太郎は、血のついた左手を開いた。
小さな炎が灯る。
床の油。
頭上の足場。
ニコラのいる階段。
鬼太郎は、僅かに笑った。
「次があるとよいですね」