第百四十話 折れる脚にも、牙は残る
グロブニクの後脚が、土を蹴った。
黒い身体が近づく。
鬼太郎は左手を向け、ザンを放った。
風が胸の毛を押し分ける。
傷はつかなかった。
ただ、迫る速さが少し落ちた。
鬼太郎はその間に右へ足を出し、伸びてくる前脚へ杖を向けた。
「エクスペリアームス」
呪文が、足先へ当たる。
爪の向きが逸れた。
鬼太郎のローブを掠めるはずだった一撃が、地面を削る。
彼は狼の肩を越えようとした。
だが、グロブニクはもう身体を曲げていた。
後ろへ回らせない。
大きな顎が、鬼太郎の進む先へ出た。
鬼太郎は踏み込む足を止め、左の掌を向け直した。
ブフの冷気が、白い霧となって広がる。
狼の肩と首を包んだ。
黒い身体は、凍らなかった。
毛の表面へ白いものがつき、肩の動きがわずかに遅れる。
鬼太郎はその顎の外へ抜けた。
グロブニクが、低く喉を鳴らした。
止まって確かめる時間は、貰えなかった。
◆
鬼太郎は、狼の前へ木を置いた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
倒れていた太い幹が、地面を離れる。
進路へ横たえるように運んだ。
グロブニクは飛び越えず、端へ回った。
鬼太郎も幹を動かす。
狼の前へ追わせるのではなく、近づいてきた頭の上へ運ぶ。
呪文を解いた。
幹が落ちた。
グロブニクは横へ跳び、太い木が地面を叩く音が響く。
鬼太郎はその着地点へ、アギを放っていた。
炎が、黒い肩を焼いた。
焦げた毛の匂いがする。
グロブニクが身体を振り、すぐに踏み込む。
当たった。
しかし、それで足が止まるほどの火ではなかった。
鬼太郎は笑みを薄くし、狼が踏む先へブフを向けた。
浅い水たまりが白く濁る。
縁の草も凍り、薄い氷が地面へ続いた。
グロブニクの前脚が、氷の端へ乗る。
爪が地面を探し、足が少し流れた。
鬼太郎は、その脚へ杖を向ける。
「ペトリフィカス・トタルス」
呪文が足先へ届いた。
グロブニクの脚は、動かなくなったわけではない。
踏み直す動きが、一度滞った。
鬼太郎は左手からジオを放つ。
狼は頭を下げ、顔を庇った。
電撃は背の毛へ当たった。
黒い毛の間で光が走り、背筋が小さく震える。
狼は止まらなかった。
氷を踏み割り、肩を鬼太郎へ向ける。
鬼太郎は、次の退く位置へ目を走らせた。
◆
グロブニクの後ろに、岩があった。
鬼太郎は、それを見ていた。
「アクシオ!」
岩が浮き、狼の背後から来た。
グロブニクの耳が動く。
身体が横へずれた。
鬼太郎は岩が近づく間に杖を動かし、浮遊術へ切り替える。
岩を持ち上げ、自分の正面から外した。
その下へ、狼が来る。
鬼太郎は、今度は岩をどう使うかで迷わなかった。
狼の肩の上へ運び、落とす。
逃げる先へ、左手の冷気を送る。
そう繋ごうとしたとき、グロブニクが口を開いた。
◆
咆哮が響いた。
鬼太郎の胸へ、見えない力がぶつかった。
音だけではなかった。
ローブが後ろへ張り、頬へ枯葉が当たる。
浮かせた岩も押され、運ぼうとした位置からずれた。
鬼太郎の踵が、土の上を滑った。
左手へ集めていた冷気が散る。
グロブニクの口が閉じた。
直後に、黒い肩が来た。
鬼太郎は横へ身体を捻った。
正面から胸を受けることは避けた。
しかし、狼の肩が脇腹へぶつかった。
足が地面を離れる。
息が、声になる前に押し出された。
鬼太郎は地面へ落ち、背と腰を打った。
杖を握った指を締める。
岩は、狼から外れた場所へ落ちていた。
キーノの声が聞こえる。
鬼太郎は返事をする前に、横へ転がった。
爪が、さっきまで頭のあった場所へ入る。
土が飛んだ。
◆
起きるために、右足を立てた。
鬼太郎は杖を上げ、狼の顔へ向ける。
「エクスペリアームス」
鼻先が横へ逸れた。
顎を避ける間に、鬼太郎は立ち上がった。
息を吸うと、脇腹が痛んだ。
それでも、吸えた。
目も、相手を追える。
グロブニクは距離を詰め直した。
鬼太郎は冷気を放ち、狼の首から肩へ当てる。
白い霧の中で、黒い頭が低くなる。
次は、口を開くのか。
鬼太郎がその動きを見たとき、前脚が横から来た。
脚を引いたが、間に合わなかった。
爪が左腿の外側を裂いた。
ローブと、その下の布が切れる。
熱い痛みが走った。
膝が落ちかける。
鬼太郎は右足へ重さを移し、杖を狼へ向けたまま退いた。
左脚を伝う温かいものがあった。
グロブニクは、それも見ていた。
◆
鬼太郎は倒木の裏へ回った。
グロブニクが、上を越えようとする。
鬼太郎は幹の折れた端へ杖を向けた。
「レパロ」
離れていた木が戻った。
枝を繋ぐときと同じ速さで、太い幹の折れ口が閉じる。
飛び越える足の前へ、木が出た。
グロブニクは脚を曲げ、幹へ爪を掛けた。
木が軋む。
鬼太郎は、その短い間に左手を傷へ当てた。
ディア。
傷口へ、力を通す。
流れていた血が減った。
腿を刺すような痛みも薄れ、鈍い痛みだけが残った。
だが、左脚へ掛かる力は、すぐには戻らなかった。
グロブニクが幹を蹴り、降りてくる。
鬼太郎は掌を離した。
治し終えるまで、待ってくれる相手ではない。
◆
キーノには、二人の足跡が見えていた。
氷の割れた場所。
岩が落ち、土の掘れた場所。
鬼太郎は、左脚へ強く踏み込まなくなっている。
狼も、最初と同じ速さではない。
冷気を浴びた肩を振り、痺れた脚を踏み直しながら、それでも鬼太郎へ向かっていた。
どちらも、相手が困るのを待っていない。
キーノは杖を握り、前へ出かけた足を止めた。
まだ、鬼太郎は相手を見ている。
退いた場所を、次の攻撃へ使っている。
自分で選んだ勝負を、痛そうだからというだけで終わらせるつもりはなかった。
だが、止めるときまで見逃すわけにもいかない。
キーノは、二人の間へ出られる位置へ少し動いた。
◆
鬼太郎はザンを地面へ向けた。
乾いた葉が巻き上がる。
気流の中で葉が裂け、細かな欠片になった。
目の高さへ集める。
グロブニクが頭を動かした。
鬼太郎は枯葉の端へアギを放つ。
葉に火が移り、赤い炎が広がった。
爆ぜる衝撃はなかった。
炎と熱い風が、狼の進む場所を狭める。
グロブニクは、前の手合わせと同じように外を回ろうとした。
鬼太郎はその地面を凍らせていた。
狼の足が、氷へ入る。
彼は口を開いた。
鬼太郎は、その動きを見た。
咆哮が来る。
正面を外し、太い幹の側へ身体を寄せる。
衝撃波が、炎と枯葉を押し散らした。
燃えた葉が流れ、鬼太郎の袖へ触れる。
彼は肩を振って払い、狼の脚を見る。
氷を踏み割った前脚は、また地面を掴んでいた。
咆哮で、鬼太郎の作った囲いを開けたのだ。
「便利な力を、覚えられましたね」
鬼太郎は息を整えながら言った。
グロブニクが頭を向ける。
「お前だけが、強くなっていると思ったか」
「いいえ」
鬼太郎は笑った。
「だから、勝ちに来たんです」
◆
杖を振った。
「ルーモス」
強い光が、一瞬だけ出た。
グロブニクの右目が閉じる。
それでも、前脚は鬼太郎のいた位置へ向かった。
彼はもう、そこにいなかった。
爪が土を掻く間に、狼の横へ回る。
冷気の霧を低く送り、腹の下を抜ける脚へ当てた。
それから、地面の岩を見る。
割れていた大きな岩の片側が、狼の前脚の外にある。
もう片側は、少し離れたところにあった。
鬼太郎は浮遊術でその片側を動かした。
狼の脚を挟む位置へ置く。
グロブニクの目が開いた。
鬼太郎へ、身体を向け直す。
その踏み直しの前に、鬼太郎はプリンパを放った。
◆
グロブニクの動きが、一瞬止まった。
鬼太郎の頭の奥へ、強い負担が返る。
息が詰まった。
弱い人間へ使ったときとは、違っていた。
狼の判断を、長く乱すことは出来ない。
鬼太郎は杖を動かした。
「レパロ」
岩の割れ口が戻った。
前脚が、その間に挟まれる。
グロブニクが低く声を出した。
踏ん張る足が、一つ減った。
鬼太郎は左手を向け、アギを放つ。
狼の肩へ、炎が当たった。
焦げた毛の下へ、火傷が残る。
続けてジオを放った。
グロブニクは頭を横へ動かし、また身体の毛で受けた。
痺れた肩が揺れる。
狼は、捕まった前脚を強く引いた。
岩の接ぎ目が鳴った。
鬼太郎は、もう一度プリンパを使うことを考えかけた。
だが、さっき通した力の重さが、まだ頭に残っていた。
同じように止められるかも、分からない。
彼はその手を捨てた。
足へ金縛りの呪文を向ける。
グロブニクが身を捻った。
呪文は脚の毛へ当たり、動きを止めなかった。
狼が岩から脚を引き抜く。
鬼太郎は、杖を戻した。
まだ、倒れていない。
自分も、まだ動ける。
◆
鬼太郎の呼吸は、短くなっていた。
左脚の傷は血を流し続けてはいない。
それでも、踏むたびに腿へ違和感があり、突進を受けた脇腹も身体の捻りを鈍らせた。
魔法を放つ手と、杖を向ける手。
両方を使えても、足が遅れれば相手は来る。
グロブニクも口を開けて息をしていた。
火傷を負った肩へ白い霜がついている。
岩から抜いた前脚を、一度小さく振った。
鬼太郎はその脚を見た。
今なら、もう少し崩せる。
浮遊術で岩を持ち上げた。
狼の頭ではなく、踏み込む先へ運ぶ。
落ちる岩を避ければ、進路が変わる。
その先へ冷気を当てる。
鬼太郎は左手へMAGを集めた。
グロブニクは、岩の下へ入ってこなかった。
斜めに走る。
鬼太郎が岩を下ろすより先に、地面を蹴った。
狙っていたのは、岩ではなかった。
杖を上げた、鬼太郎の右肩だった。
◆
鬼太郎は杖を下げた。
狼の顔へ向けようとする。
右腕が、間に合わなかった。
顎が肩へ届いた。
牙がローブを破り、身体へ食い込む。
鬼太郎の息が止まった。
杖を握る手から、力が抜けかける。
落とさない。
指を締めた。
グロブニクの顔が、すぐ横にあった。
鬼太郎は、集めていた冷気を放たなかった。
左手を身体の前へ戻す。
狼の鼻先へ、掌を向けた。
黒い毛のない鼻と、唇が見える。
ここなら、届く。
鬼太郎はジオを放った。
◆
電撃が、顔へ当たった。
グロブニクの身体が大きく震える。
毛へ当てたときの、小さな痺れとは違っていた。
顎の力が緩んだ。
鬼太郎は、右肩を引いた。
狼も顔を離す。
足が地面へついた途端、鬼太郎は左手を右肩へ当てた。
ディア。
牙の開けた傷へ、力を通す。
指の間へ流れていた血が、急に減った。
止める。
まず、これ以上流さない。
鬼太郎は肩を押さえたまま、狼から半歩離れた。
肩を噛み裂かれた鋭い痛みは退き、奥に鈍い痛みが残った。
身体の重さは、変わらなかった。
使ったMAGも、失った血も戻らず、息を切らすほどの疲労も残っている。
ディアで止血したからと、足へ力が戻ることはなかった。
グロブニクが頭を振った。
鬼太郎も杖を上げようとした。
肩から手を離す。
その瞬間、左膝が落ちた。
◆
鬼太郎は右足を立てようとした。
土を踏む。
腰が上がらなかった。
杖は、まだ握っている。
しかし、次の攻撃を避ける位置へ、身体を運べない。
グロブニクが一歩、近づいた。
鬼太郎はその脚を見た。
前脚は震えていた。
それでも、自分より先に動けている。
鬼太郎は息を吐いた。
「……僕の、負けです」
狼が止まった。
鬼太郎も杖を下げる。
次の魔法へ集めかけていた力を、ほどいた。
グロブニクが首を持ち上げた。
その下で、前脚が折れ曲がる。
大きな身体が低くなった。
両前脚が地面へつき、胸が土へ近づいた。
鬼太郎は、その姿を見た。
狼も、立ち続けられなかった。
ただ、自分が勝負を続けられなくなるまで、立っていた。
その違いは、はっきりしていた。
◆
キーノが近づいた。
狼の爪も、鬼太郎の火も、もう動いていないことを確かめる。
彼女は鬼太郎の前へ屈んだ。
「肩は?」
「血は、止めました」
「動かせるか」
鬼太郎は右腕を少し上げた。
途中で止める。
「少し。もう少し、治します」
杖を腿へ置き、左手を傷へ戻した。
ディアを通す。
噛み傷を、止血だけで終えずに修復していく。
肩の動きを小さく確かめ、腿の傷にも同じように力を使った。
背中と脇腹へ残る打撲も、出来る範囲で癒やした。
傷のあった場所には、まだ鈍い痛みがある。
傷を塞ぐだけでなく、その痛みまで取り去れるように、これからもディアの扱いを磨いていく必要があった。
疲労まで癒やせる力ではない。座った身体を起こすだけで、まだ息が上がった。
キーノはその顔を見ていた。
「治せば、もう一度立てると思うなよ」
「ええ。もう、やりません」
鬼太郎は答えた。
声は掠れていた。
◆
グロブニクは前脚を伸ばし、身体を横へ落とした。
暗赤の右目が、鬼太郎へ向く。
「最後の雷は、通った」
「ええ。ただ、噛まれました」
鬼太郎は答えた。
肩を差し出して、顔へ当てるつもりだったわけではない。
捕まったから、残った手を使った。
もっと早く顔へ届かせられていれば、最後の形も変わったかもしれない。
グロブニクは息を吐いた。
「足が、追いつかなくなっていた」
「分かっていたんですが。まだ、間に合うと思っていました」
鬼太郎は自分の左脚を見た。
傷口を塞いでも、消耗した身体まで戻るわけではない。
その差が、最後に残った。
キーノは狼へも目を向けた。
「そっちも、立てなくなるところまでやったな」
「立っている必要が、なくなった」
グロブニクが答える。
鬼太郎は少し笑った。
「では、次は僕が先に立っていたいですね」
「その前に、帰れるようになれ」
狼の返事に、キーノも頷いた。
鬼太郎は、グロブニクの焦げた肩へ目を向けた。
「そちらの傷も、治します。少し、近くへ行かせてください」
狼は右目で彼を見たあと、頭を地面へ下ろした。
「来い」
鬼太郎はキーノの腕を借り、座ったまま狼の側へ寄った。
火傷のある肩へ、左手を置く。
ディアを通した。
毛の下の傷が癒えていく。グロブニクの肩から、張り詰めていた力が少し抜けた。
岩に挟んだ前脚にも手を移し、傷んだところを治す。
「まだ、鈍く痛むかもしれません」
鬼太郎が言うと、グロブニクは脚をゆっくり曲げた。
「これでいい」
鬼太郎は掌を離した。
傷を治しても、戦いで使った力まで戻ったわけではない。狼も身体を横たえたまま、深く息をしていた。
鬼太郎も、キーノに支えられながら隣へ座り直した。
◆
しばらく、誰も立たなかった。
鬼太郎は息が落ち着くのを待った。
顔を上げると、焼けた葉と、落ちた岩が見えた。
火は消えている。
折れた木は、戦う前と同じ場所にはない。
どの手も、狼へ届かなかったわけではなかった。
火傷を負わせた。
身体を冷やし、足を乱し、岩で止めた。
最後には、顔へ雷を通した。
それでも、勝てなかった。
鬼太郎は杖を拾い、土を払った。
悔しかった。
そして、今の自分で、ここまで戦えたことは嬉しかった。
グロブニクの前脚を折り曲げさせるところまで、追い込めた。
覚えた呪文を、ただ順番に放ったわけでもない。相手の動きへ繋ぎ、届く場所を作れた。
着実に、強くなっている。
その実感が、次に試したいことを連れてきた。
まずは、戦いながら傷を治すことだ。
腿を裂かれたときは、倒木の裏へ回るまでディアを使えなかった。肩を噛まれたあとにはすぐ止血したが、それまでの消耗も重なり、次の一歩を出せなかった。
傷を負った直後、相手を見失わずにディアを通す。攻撃を避ける動きの中で、それを済ませられるようにしたい。
治したあとに残る鈍い痛みも、まだ邪魔になる。
ディアを使い続け、扱いを磨けば、その痛みも取り去れるはずだった。
そして、疲労。
こちらは、傷を塞いでも残る。今の身体がどこまで動けるかを知り、力の使い方も、身体そのものも鍛えなければならない。
鈍い痛みや疲労感に動きを奪われず、もう一歩踏み込めたなら。
もっと長く、この狼と戦える。
勝ちに近づけることも嬉しい。けれど、その前に、あの牙と爪を相手にする時間を、もっと楽しめる。
鬼太郎は、まだ重い自分の脚を見た。
次に磨くものは、もう見えていた。
どちらも、隠す理由はなかった。
口元へ浮かんだ笑みを見て、キーノが短く息を吐く。
「その顔で、平気だと言うなよ」
「平気ではありませんよ。歩くのも、少し手伝っていただきたいですね」
「少しか?」
鬼太郎は立とうとして、すぐに手を地面へ戻した。
「……もう少し、休んでからにします」
「そうしろ」
キーノが答えた。
グロブニクの前脚も、まだ伸ばされたままだった。
森の風が、熱の残る毛と、鬼太郎の裂けたローブを撫でた。
次の戦いを考える前に、帰って休む。
鬼太郎は杖を膝へ置き、今度は目を閉じずに、木々の間の光を見ていた。