第143話 育つ翼に、手は届かない
城へ戻る道でも、ロンは何度か後ろを振り返った。
小屋の窓から見ていたマルフォイは、もう姿を見せなかった。追いかけたところで、見たものを忘れさせられるわけではない。
「今ごろ、先生の所へ行ってるかもな」
ロンが言った。
ハリーは城の入口を見上げた。
中へ入った途端、先生に呼び止められる気がした。それでも、歩きながら思い出すのは、殻を押し破って出てきた黒い頭だった。
「翼、大きかったね」
「身体より大きいくらいだった。あれで飛べるようになるんだろ」
ロンも、一瞬だけ顔を明るくした。
ハーマイオニーが二人を見る。
「まだ、見ていたかったの?」
「少しくらいは」
ハリーは答えた。
ドラゴンが生まれるところを見たのは、初めてだった。ハグリッドが名前を呼んでも構わず歩き回る姿まで、思い出すと笑いたくなる。
隣でロンも頷いた。
鬼太郎とキーノは、その会話を聞きながら坂を上がっていた。
孵化する前に伝えた話へ、ハグリッドから明確な返事はなかった。鬼太郎はそれを覚えていたが、二人の楽しそうな声に、同じ説明を重ねなかった。
城の扉を潜ると、ハリーは足を緩めた。
先生の姿はなかった。
ほっと息を吐いたあと、次に小屋を訪ねるときには、ノーバートがどれほど歩けるようになっているかを考えた。
◆
休暇が終わると、城の中に足音が戻った。
朝の大広間は騒がしく、教室へ向かう廊下には、休みの間の出来事を話す生徒が並んだ。
ハリーとロンは、ハグリッドの小屋について話すときだけ声を落とした。
「まだ何も言われてないよな」
ロンが廊下の先を見る。
マルフォイはクラッブとゴイルを連れて歩いていた。ハリーたちへ顔を向け、薄く笑う。
ハリーは目を逸らさなかった。
だが、マルフォイは近づいてこない。そのまま角を曲がっていった。
「何を考えてるんだろう」
「僕たちが困ることだろ」
ロンの返事に、ハリーは反論出来なかった。
先生に呼ばれない日が続いても、安心したわけではない。マルフォイが黙っている理由は、分からなかった。
それとは別に、授業は進んでいく。
課題も増えた。
ハーマイオニーは試験に向けた復習を始めていて、ハリーとロンが小屋へ行こうとすると、先に終わらせるべきものを指で示した。
「帰ってからじゃ駄目なの?」
「帰ってきたら、また明日にするでしょう」
ロンは自分の羊皮紙を見た。
鬼太郎は隣で、本の頁を戻していた。キーノに示された課題の問いを確かめ、羽根ペンを取る。
「お前も言われてるじゃないか」
ロンが言う。
「ええ。今から終わらせます」
鬼太郎は笑って答えた。
ハリーも椅子へ座り直した。
ノーバートを見に行くことが、毎日の楽しみになっていた。
課題を済ませれば、その話を聞きながら帰ってこられる。少なくとも、最初の数日はそうだった。
◆
小屋を訪れるたびに、ハリーはノーバートの姿を探した。
最初は、テーブルの下だった。
次には、ハグリッドの寝床の側。
尾が椅子の脚へぶつかり、翼が床に置かれた器を押していた。
「また大きくなってる」
ハリーが言うと、ハグリッドは嬉しそうに頷いた。
「よく食うからな」
「昨日も、それ言ってたぞ」
ロンが笑った。
ノーバートは二人へ鼻先を向け、床を蹴った。
ハリーが足を退けると、黒い身体がさっきまで靴のあった場所へ来る。顎が開き、閉じた。
ロンも一歩下がった。
「餌じゃないって」
ノーバートは返事の代わりに尾を振った。
ハグリッドが用意した器へ気を取られるまで、二人は扉の近くで待った。
食べる姿を見るのも、初めは面白かった。
しかし、勢いよく動く顎を眺めていると、ハリーはさっき自分の足元へ来たときのことを思い出した。
あの口が、靴を挟んでいたら。
考えかけたところで、ハグリッドが笑った。
「いい食いっぷりだろう」
ハリーは頷いた。
頷いたあとで、足をもう少し引いた。
◆
数日後には、小屋の中で立つ場所を選ぶ必要があった。
ファングはノーバートが動き出すと、ハグリッドの後ろへ回った。寝床の近くにいたはずなのに、ハリーが気づいたときには大きな背の陰から鼻先だけを出している。
テーブルの脚には、爪が擦れた跡が増えていた。
ハグリッドの袖にも、焦げた穴があった。
「痛くないの?」
ハリーが尋ねる。
「大したことねえ。ちょっと火を出しただけだ」
ハグリッドは袖口を引き、ノーバートを見る。
「こんなに早く覚えるとはなあ」
ロンは、その穴を見ていた。
「僕の服だったら、着てる腕まで焼けるよ」
「だから、近づきすぎるな。餌は俺がやる」
ハグリッドは器を持った。
注意されなくても、ロンは手を出そうとしていなかった。
ノーバートが身体を捻る。
翼の端が椅子へ当たり、背もたれがテーブルにぶつかった。ハリーは音に驚いて肩を上げる。
ハグリッドは椅子を退けた。
「ほら。これで広くなった」
空いた床へノーバートが進む。
ハリーとロンは、その分だけ扉へ寄った。
ハグリッドが笑顔で餌を与えている間、二人は前のようにテーブルへ座れなかった。
◆
鬼太郎とキーノが次に訪ねたとき、ハリーは小屋の外にいた。
ロンも隣で、袖についた汚れを払っている。
「もう帰るんですか」
鬼太郎が尋ねた。
「少し外に出ただけ。中が暑くて」
ハリーは答え、小屋を見る。
「それに、僕たちがいると狭いんだ」
扉を開けたハグリッドが、二人を見つけた。
「来たか。見ていけ。随分育ったぞ」
キーノが入口から中を覗いた。
ノーバートは床にいた。
孵化した日に見た姿を思い返してから、彼女は扉の脇へ身を寄せた。
「随分、で済むのか?」
鬼太郎は笑い、敷居を跨いだ。
黒い頭が動く。
赤みのある目が二人を見た。鼻先が上がり、顎が開く。
鬼太郎は進むのを止めた。
小さな火が、二人の前へ伸びる。
キーノは既に扉の外へ退いていた。鬼太郎も半歩戻り、消えた火の先を見た。
床には新しい焦げ跡が出来ていた。
「おい、ノーバート。餌はこっちだ」
ハグリッドが器を動かす。
ドラゴンの頭が彼へ向いた。
鬼太郎は入口に立ったまま、翼からテーブルまでの距離を見た。
翼を畳んでいれば、まだ通れる。
だが、開いたときには、誰かが避けなければならない。
キーノが外から声を掛けた。
「ここに立ってても、火が届くぞ」
「ええ」
鬼太郎は戸口を離れた。
ハグリッドの手が届くうちにも、ノーバートの火は、その手の向こうへ伸びていた。
◆
談話室へ戻るころには、ロンはほとんど喋らなくなっていた。
ハーマイオニーは四人の顔を見て、本へ栞を挟んだ。
「何かあったの?」
「まだ、誰も噛まれてない」
ロンが言った。
ハリーが隣へ座る。
「でも、いつ噛まれてもおかしくないと思う。ハグリッドは平気でも、僕たちは違うよ」
ノーバートを見るのが嫌になったわけではなかった。
翼を広げる姿には、今も目を奪われる。
それでも、その翼が自分の肩へ当たりそうになると、まず逃げる場所を探してしまう。
ハグリッドと同じようには喜べなくなっていた。
ハーマイオニーは、以前調べた記録を本の間から取り出しかけた。
ハリーが首を振る。
「書いてあったことは覚えてるよ。ハグリッドにも、もう話したし」
彼女の手が止まった。
「でも、本で読むのと、目の前で火を吐かれるのは違った」
ロンが袖口を引いた。
「前は、どのくらい大きくなるか見たかったんだ。今は、行くたびに大きくなってたら困る」
キーノが頷いた。
「次に行くとき、同じ所に立てるか分からないからな」
ハリーは暖炉の火を見た。
ノーバートを見るのが楽しみで、課題を早く終わらせようとした日があった。今日は小屋の扉を開ける前に、また火を吐くのではないかと思った。
ハグリッドは、今日も嬉しそうだった。
その違いを、本人へ伝える必要がある。
「僕から話すよ」
ハリーは言った。
「ノーバートを、育てられる場所へ移してほしいって」
ロンも顔を上げた。
「僕も言う」
鬼太郎は二人を見て、頷いた。
「分かりました」
ハリーは、自分の鞄からまだ終わっていない課題を出した。
今日のうちに済ませておく。
次に小屋へ行くときには、ノーバートを見るだけで帰ってこないつもりだった。
◆
五人で小屋へ向かうと、扉の内側から何かを引きずる音がした。
ハリーが叩いて少し待つ。
開いた隙間に、ハグリッドの顔が現れた。
「おう。ちょっと待ってろ」
彼は扉の後ろへ置きかけていた椅子を動かした。
ノーバートの尾が、その脚へ当たる。
「元気だろう」
ハグリッドは笑った。
ハリーは笑い返せなかった。
後ろから、ロンが肩越しに中を見る。ハーマイオニーは敷居の手前で止まり、鬼太郎とキーノも、五人全員では入れない床の空きを確かめた。
「ハグリッド」
ハリーは呼んだ。
「ノーバートを、別の場所へ移そう」
ハグリッドの笑みが止まった。
「何だって?」
「もっと広くて、ドラゴンを育てられる場所だよ」
ノーバートが翼を動かした。
ハグリッドは反射的に振り返り、テーブルへ当たる前に身体を寄せる。黒い翼が、その腕を押した。
ハリーは続けた。
「僕たちも、生まれたときは嬉しかった。でも、もうここじゃ無理だよ」
「ちゃんと育っとるじゃないか」
「育ってるから、狭くなってるんだ」
ロンが言った。
ハグリッドは扉の外の五人を見た。
誰も、見物に来たときのような顔をしていなかった。
ハーマイオニーは二人の後ろで待っていた。鬼太郎も、既に伝えた条件を読み上げることはしなかった。
ハリーが一歩、敷居へ近づく。
「手放したくないのは分かるよ。でも、僕たちはもう、前みたいにここへ入れないんだ」
ハグリッドの目が、扉の脇に寄せた椅子へ動いた。
「ノーバートが、嫌いになったのか」
「違うよ」
ハリーはすぐに答えた。
「怖くなったんだ」
ロンが隣で頷く。
ハグリッドは二人の顔を見比べたが、答えなかった。
後ろで、ノーバートが餌の器を踏んだ。
空の器が床を滑り、ハグリッドの踵へ当たる。
彼は拾おうと身を屈め、翼を避けるために、その動きを途中で止めた。
大きな手が、膝の辺りで宙に残った。
ハリーはその手を見ながら、返事を待った。
やがてハグリッドは、拾った器をテーブルへ置いた。
「……移すったって、どこへだ」
声は低く、ノーバートへ向けるときの弾みはなかった。
ハリーはロンと顔を見合わせた。
まだ、行き先は決まっていない。
それでも、ハグリッドが初めて尋ねたその問いに、答えを探すことは出来た。