第146話 隠した痛みに、朝が迫る
ハグリッドが木箱のために空けた場所は、小屋の外にあった。
ロンは壁際へ立て掛けられた板を見て、一本を持ち上げた。思ったより重い。両手で抱え直し、ハグリッドが示した地面へ置く。
「そこへ頼む。もう一枚、取ってくる」
ハグリッドは小屋の裏へ回った。
戸口の向こうでは、ノーバートが餌を食べていた。食べ終えたら、ハグリッドが扉を閉めて箱を組み立てる。ロンはそのつもりで、積み重ねた板の端を揃えようと屈んだ。
敷居を爪が擦る音がした。
顔を上げると、黒い頭が扉の隙間から出ていた。ロンは手を引き、立ち上がろうとした。だが、伸びてきた鼻先は、板の上に置いた右手へ届いた。
顎が閉じた。
「痛っ!」
ロンは腕を引いた。手の甲へ歯が食い込み、身体まで戸口へ引き寄せられる。
「ハグリッド!」
大きな足音が、裏から戻ってきた。
「おい、ノーバート!」
ハグリッドが持っていた板を置き、餌の器を取る。器が床を叩くと、ノーバートは顎を緩め、そちらへ頭を向けた。
ロンは手を引き抜いて後ずさった。手の甲に赤い穴が並んでいる。指を曲げると、傷から血が滲んだ。
「こいつ、噛んだぞ!」
「見せてみろ」
ハグリッドが屈む。ロンは手を胸へ寄せたまま、ノーバートを睨んだ。黒い身体はもう小屋へ戻っていた。
「ドラゴンだぞ。ポンフリーに見せたら、何に噛まれたか分かるんじゃないのか」
ハグリッドの顔が強張った。
「だが、その手は……」
「洗うよ。洗って、巻いとけばいいだろ」
ロンは左手でハンカチを取り出した。大して深くないと思いたかった。血が出ている場所を押さえると痛んだが、指はまだ動かせる。
ハグリッドは水と清潔な布を持ってきた。傷を洗われる間、ロンは唇を噛んだ。
「痛みが引かなきゃ、見てもらうんだぞ」
ロンは返事の代わりに頷いた。巻かれた布を左手で押さえ、箱の板へ目を向ける。
「今日は、もうやらないからな」
「ああ。俺がやる」
小屋を離れてからも、手は脈を打つように痛んだ。ロンは上着の袖を下ろし、布を覆った。
鬼太郎とキーノは図書館にいるはずだった。ハリーとハーマイオニーも、箱の準備が進んだと聞けば、チャーリーへの返信を仕上げるだろう。今夜書くつもりの手紙を思い浮かべ、ロンは右手をそっと動かした。
ペンくらいは、持てる。
そう思ったが、談話室で羽根ペンを取ると、親指と人差し指の間に力を入れた途端、痛みが走った。
「どうしたの、その手」
ハーマイオニーが布を見た。
「箱の準備で、ちょっとやった」
「ハグリッドに見てもらった?」
「洗ってもらったよ」
ロンは紙をハリーの方へ押した。
「悪いけど、書いてくれる? 箱はハグリッドが作る。受け取りの詳しいことを、もう一度教えてほしいって」
ハリーは右手を気にしながらも、羽根ペンを受け取った。
ロンは袖口を引き、膝の上へ手を隠した。噛まれたと言えば、今すぐ医務室へ行けと言われる。明日には楽になるかもしれないのに、ノーバートのことまで話す必要はなかった。
◆
翌朝、布を外すと、傷の周りが腫れていた。
ロンは指を伸ばした。皮膚が引かれるように痛み、途中で止まる。顔を洗うより先に布を巻き直し、昨日より深く袖へ押し込んだ。
朝食では左手を使った。
「まだ痛いの?」
ハリーに聞かれ、ロンはパンを取った。
「昨日よりは、ましだよ」
嘘を言ったあと、傷を見られないよう手をテーブルの下へ下ろした。
授業では羽根ペンを握るたびに休み、書き終わらない部分はハリーの記録を借りた。布の下が熱い。机へ手を置くだけでも痛んだが、先生に聞かれる前に膝へ戻した。
マルフォイは、その動きを見逃さなかった。
「ウィーズリー。右手を忘れてきたのか?」
ロンは教科書を左腕へ抱えた。
「ハグリッドの所へ行くと、いろいろ起きるらしいな。今度は何を手伝ったんだ?」
クラッブが笑った。
ロンは顔を向けず、ハリーと廊下を進んだ。言い返す言葉はいくらでも浮かんだ。それでも、傷の理由を疑われれば困る。
もう一晩待った。
次の日には、腫れが指の付け根へ広がった。右手が重く、袖を通すときにも布が擦れて顔をしかめた。誰もいない所で巻き直すと、手の甲は青く変色し、傷の縁には濁ったものが滲んでいた。
ロンは慌てて布を戻した。
今日こそは引く。明日はチャーリーの返事が来るかもしれない。そんなことを考えて横になったが、眠りかけるたびに手が疼いた。
◆
土曜の朝、ハリーは大広間へ入ってすぐ、ロンの顔を見た。
「眠れなかった?」
「少しな」
ロンは椅子へ腰を下ろし、左手で水を取った。右腕は身体へ寄せたままで、ハーマイオニーが隣へ座ると、少し椅子を引いた。
問いかける前に、ふくろうがテーブルへ降りた。
ロンは手紙を見つけたが、紐へ伸ばしかけた右手を戻した。ハリーが代わりにほどき、宛名を確かめる。
「チャーリーからだ」
ロンへ渡すと、彼は左手で紙を押さえた。折り目を開く動きまで遅い。ハリーは手伝おうとしたが、ロンが先に紙を広げた。
「今夜で、いいって」
その声に、鬼太郎とキーノも顔を上げた。
チャーリーは、仕事の都合がつき、自分も迎えに来られることになったと書いていた。前に伝えた土曜の真夜中、最も高い塔での受け渡しは変わらない。箱は中のノーバートが動いても壊れず、外から不用意に手を入れずに済むよう用意してほしいという。
「兄さんが来るんだ」
ロンはその行をもう一度読んだ。
ハリーも肩の力が抜けた。見知らぬ人へ渡すより、ロンの兄に会える方がよかった。ハグリッドも、聞きたいことを直接話せるかもしれない。
ハーマイオニーが紙を覗いた。
「ハグリッドへ知らせましょう。箱も、もう一度見ないと」
「ええ」
鬼太郎は答えてから、ロンの袖口へ目を向けた。
「その前に、手を見せていただけますか」
ロンが紙を畳む動きを止めた。
「何で」
「紙を押さえることも、難しそうですので」
ハリーも右腕を見た。
「昨日より悪くなってるの?」
「あとで。ここじゃ……」
ロンは周囲を見た。隣の席にも生徒がいる。ハリーはそれ以上聞かずに立ち上がった。ロンが食べ残した皿から手を離すまで待ち、五人で大広間を出る。
扉を出た先に、マルフォイがいた。
ロンの手紙へ目を留め、口元を歪める。
「ようやく返事が来たのか。何をそんなに待っていたんだ?」
「関係ないだろ」
ロンが答えた。
ハリーは隣を見た。これまでなら黙って通り過ぎていた。マルフォイも気づいたらしく、ロンの正面へ少し身体を寄せた。
「その手、先生には見せたのか? ハグリッドと遊んでて怪我をしたと知ったら、心配してくださるだろうな」
ロンの左手が、畳んだ紙を強く掴んだ。
「うるさい。毎日毎日、人の後をつけて、告げ口することばかり探してるんだな」
「何だって?」
「聞こえただろ。そんなに先生に褒めてほしいのか?」
ロンが一歩進んだ。ハリーは左腕へ手を掛けたが、彼はマルフォイから目を離さなかった。
マルフォイの笑みが消えた。
「その口を利いていいのか、ウィーズリー」
「いい加減にしろよ」
「分かった。先生に聞いてもらおう。ハグリッドの所で、君たちが何をしているかもね」
ハリーの指がロンの腕へ食い込んだ。
マルフォイは二人を見てから、鬼太郎たちへも目を向けた。何か言いかけたが、口を閉じ、クラッブとゴイルを連れて歩き出す。
ハリーは引き止められなかった。遠ざかる背中を見ながら、今すぐ先生の所へ行くのか、それとも自分たちが追いかけるのを待っているのかと考えた。
「……言っちゃった」
ロンの声がした。
ハリーは手を離し、廊下の端へ寄った。ハーマイオニーも周囲を確かめてから、三人の後ろへ続いた。
「今夜まで、待ってくれると思う?」
ロンが尋ねた。
「分からない」
ハリーは正直に答えた。
「でも、今夜を逃したら、次に来てもらえる日まで隠しておかなきゃならない」
ノーバートの大きさを思い出した。小屋にはもう余裕がない。マルフォイが黙っている理由も、いつ口を開くかも分からなかった。
ハーマイオニーがロンへ顔を向けた。
「手紙の話はあとよ。手を見せて」
ロンは言い返しかけたが、袖から出した右手が震えた。左手だけでは布をうまく外せず、ハリーが端をほどく。
手の甲は、青く膨れ上がっていた。
指の付け根まで腫れ、並んだ傷の縁には湿った汚れがついている。ハリーはロンの顔を見た。
「箱の準備でって、これ……」
「噛まれたんだ」
ロンは俯いた。
「ノーバートに。先生に言ったら、何に噛まれたか分かると思って」
「だからって、何日も隠してたの?」
ハーマイオニーの声が強くなった。ロンは手を戻そうとしたが、鬼太郎がその動きを見て口を開いた。
「数日たって、そこまで腫れているんです。ポンフリー夫人に診ていただくべきですね」
鬼太郎はロンの手へ触れず、ハーマイオニーが布の清潔な部分を選び、締めつけないよう覆い直すのを待った。
「医務室へ行きましょう。ポンフリーに診てもらわないと」
ロンは包まれた手を見た。
「ハグリッドが……」
「その話も大事だよ。でも、手をこのままには出来ない」
ハリーが言った。
ロンはすぐには頷かなかった。右手を動かしかけ、痛みに顔を歪める。そのあとで、畳んだ手紙をハリーへ渡した。
「兄さんの手紙。ハグリッドに持っていって」
「うん」
「僕、今夜は……」
「運ばなくていいよ」
ハリーは答えた。キーノが医務室へ続く廊下を見て、ロンの隣へ回る。
「一人で行って、途中で戻るなよ。私も行く」
ロンは何か言おうとして、やめた。
「戻らないよ」
「なら、歩けるか?」
「手だけだって」
その返事にも、いつもの勢いはなかった。キーノはロンの右側を避けて歩き出し、彼もあとに続いた。
◆
ハリーは手紙を開き、土曜の真夜中と書かれた行を見た。
ハグリッドへ知らせること。箱を確かめること。小屋から塔まで、人に見られずに運ぶこと。
ロンがいないまま、それをしなければならない。
「僕は行く」
ハリーが言った。
ハーマイオニーは医務室へ向かった二人から視線を戻した。
「私も。運ぶ途中で箱を傾けないようにする人もいるでしょう」
鬼太郎が、ハリーの手元へ目を向ける。
「僕も参ります。まず、実際の箱を見ましょう。重さだけでなく、中で動いたときの扱いも確かめたいので」
ハリーは頷いた。
「三人で運ぼう。今夜、ノーバートを送り出せれば……」
そこで口を止めた。マルフォイが既に先生へ話していたら、今から動いても遅いかもしれない。それでも、チャーリーが来る機会を逃せば、小屋で待つ日がまた増える。
「ハグリッドに、マルフォイのことも伝えましょう」
ハーマイオニーが言う。
ハリーは手紙を畳んだ。今夜渡すことが出来れば、少なくともノーバートは小屋から出られる。ロンも、もう手の痛みを隠さなくていい。
「行こう」
三人で玄関へ向かった。扉を開けると、坂の下に小屋の煙が見えた。
ハリーは上着の中の手紙を押さえ、足を速めた。