第十四話 狩人の死角
「次があるとよいですね」
墓場鬼太郎は、血のついた左手に炎を灯していた。
細い廊下。
背後の扉には閂がかかっている。
前方には、細い糸が張られていた。
その先の階段で、ニコラ・ペトロフが拳銃を構えている。
左腕に巻いた布は、すでに赤く染まっていた。
「火を出せば、自分も焼けるぞ」
階段の上から声がした。
「ええ。その可能性はありますね」
鬼太郎は炎を床へ落とした。
古い油が火を吸う。
細い炎が床の端を走った。
鬼太郎の方ではない。
廊下から機械室へ向かって伸びていく。
ニコラは撃たなかった。
鬼太郎が煙へ紛れ、糸を越えてくるのを待っている。
「正面から来い」
「お断りします」
鬼太郎は、頭上へ左手を向けた。
配管の向こうに、錆びた金属製の足場がある。
機械室から続く通路。
手すりの脇には、先ほどまで遠くから鬼太郎を狙っていた長銃が立てかけられている。
その端を支える留め具は、茶色く腐食していた。
「アギ」
炎が留め具へ当たる。
赤い光が、錆びた金属を包んだ。
油の炎が機械室へ入り、足場の下まで走る。
ニコラの姿は見えない。
だが、階段の上で靴が一度動いた。
「建物ごと落とすつもりか」
「いいえ。落とすのは足場だけですよ」
金属が鳴った。
高く、細い音。
熱せられた留め具が歪み始めている。
ニコラの狙いは、鬼太郎が階段へ出た瞬間に撃つことだった。
鬼太郎の狙いは、階段を上ることではない。
崩れる場所から、ニコラを動かすことだった。
◆
銃声。
鬼太郎は左手を引き、床へ伏せた。
弾丸が、直前まで左手のあった場所を通り、頭上の配管へ当たる。
鬼太郎は床に伏せたまま、〈シュライク〉を持ち上げた。
炎に包まれ、赤く歪んだ留め具へ銃口を向ける。
引き金を絞った。
火花が散る。
弾丸を受けた留め具が外れた。
足場の片側が落ちる。
金属の板が傾き、手すりが配管へぶつかった。
ニコラは崩れきる前に動いた。
階段から機械室側の通路へ走る。
鬼太郎はその足音を聞いた。
正面に張られた糸を留める壁際の固定具を撃つ。
〈シュライク〉の弾丸が固定具を砕き、糸が跳ねた。
階段の上で、何かが弾ける。
壁から金属片が飛び出した。
足をかけていれば、腹から胸へ刺さっていた。
最後の金属片が床へ落ちた。
罠が作動し終えたと見ると、鬼太郎は階段へ走った。
左腕を身体へつける。
右手の〈シュライク〉を前へ向ける。
煙で階段の上が見えない。
二段。
三段。
階段を上り切る直前だった。
足場がもう一度、軋んだ。
煙の向こうで銃口が光る。
鬼太郎は階段脇の踊り場へ身体を投げた。
弾丸が上着の脇を裂く。
皮膚へ熱が走った。
踊り場の床へ肩から落ちる。
左腕の傷が開いた。
鬼太郎は倒れたまま発砲した。
一発。
煙の中で金属が鳴る。
当たっていない。
もう一発は撃たなかった。
同じ場所にいれば、次はニコラが当てる。
鬼太郎はそのまま、踊り場の脇にある発電機の陰へ転がった。
直後、床に弾丸が当たった。
◆
片側の支えを失った足場へ、傾いた板と手すりの重みがかかる。
熱で歪んだ足場が、中央から折れた。
大きな金属音が機械室を満たす。
手すりが外れる。
板と支柱が落下する。
鬼太郎は発電機の陰で頭を伏せた。
細かな錆と埃が降ってくる。
ニコラのいる側から、短い息が聞こえた。
悲鳴ではない。
崩れた足場が止まる。
炎の音だけが残った。
「生きていますか?」
鬼太郎が尋ねる。
「確かめに来い」
すぐに答えが返ってきた。
「お元気そうですね」
鬼太郎は、発電機の下にある隙間から向こう側を見た。
落ちた足場。
その下に、長い銃が挟まっている。
銃床だけが見えていた。
ニコラの脚も見えた。
右脚のズボンが膝の下で裂けている。
血が靴へ流れていた。
だが、ニコラは倒れていない。
柱を使って立ち、拳銃を鬼太郎の隠れた場所へ向けている。
ニコラは、足場の下へ挟まった長銃に一度も目を向けなかった。
取れない武器は、すでに捨てている。
「遠くから撃てなくなりましたね」
「お前も、両手では撃てない」
鬼太郎は左腕を見る。
布から血が垂れている。
「お互いに、不便になりました」
「同じだと思うか」
「いいえ」
鬼太郎は笑った。
「ですから、面白いのでしょう」
◆
機械室へ煙が広がっていく。
油の炎は、床の窪みに沿って燃えていた。
建物全体が焼け落ちるほどの量ではない。
だが、視界を奪うには十分だった。
鬼太郎は発電機の陰を移動した。
右足を出す。
左足を寄せる。
小さな歩幅。
ニコラは、その間隔を知っている。
鬼太郎が三つ目の発電機へ着く前に、弾丸が角を削った。
顔を出してはいない。
足音だけで、移動先を読まれていた。
鬼太郎は止まった。
ニコラの足音が、煙の向こうを移動している。
一歩目は短い。
二歩目で金属を擦る。
三歩目の前に、僅かな間がある。
負傷した右脚を庇っていた。
今度は、鬼太郎がその間隔を覚えた。
何かが床を転がる。
小さな金属片。
発電機の左側へぶつかった。
鬼太郎は銃口を向けた。
撃たない。
音がした場所に、ニコラがいるとは限らない。
反対側の煙が、僅かに動いた。
鬼太郎はそちらへ一発撃った。
すぐに頭を引く。
銃声が重なる。
ニコラの弾丸が、鬼太郎のいた場所を通った。
鬼太郎の弾丸は、煙の向こうへ消えた。
足音が一度乱れる。
「当たりましたか?」
「見に来い」
先ほどと同じ答え。
声に苦しさはなかった。
鬼太郎は、ここまで撃った弾の数を頭の中で確かめた。
残りは四発。
予備の弾倉へ替えるには、左手を使う必要がある。
できないわけではない。
時間がかかる。
その時間を、ニコラは待たない。
◆
足音が遠ざかった。
ニコラは、機械室の奥へ移動している。
出口へ向かっているのではない。
炎と煙の薄い場所を選んでいる。
鬼太郎は床へ落ちていた細長い金属片を見た。
足で踏む。
端を持ち上げる。
進行方向へ蹴った。
金属片が床を滑る。
煙の中で、軽い音を繰り返した。
同時に、鬼太郎は発電機の反対側へ回る。
ニコラの足音が止まった。
煙の向こうに人影が見える。
鬼太郎は左手を上げた。
傷が引きつれる。
頭の奥には、先ほど使った魔法の痛みが残っていた。
「プリンパ」
ニコラの人影が揺れた。
銃口が鬼太郎の方を向く。
その目には、何が見えているのか分からない。
ニコラは撃たなかった。
見えている鬼太郎を信じていない。
視線を動かさず、音を探している。
床を滑る金属片が、発電機へぶつかった。
その瞬間、ニコラが発砲した。
弾丸は、金属片の音がした場所へ飛ぶ。
ニコラは撃った直後に顔を歪めた。
間違えたと気づいた。
銃口が鬼太郎へ戻る。
プリンパが作った時間は、それだけだった。
鬼太郎は〈シュライク〉を構えた。
ニコラも拳銃を向けた。
ほとんど同時に、二つの銃声が鳴った。
◆
鬼太郎の頬が裂けた。
弾丸が皮膚を浅く削り、耳の横を通り過ぎる。
視界の端に血が散った。
ニコラの右腕が跳ねる。
拳銃が床へ落ちた。
鬼太郎の一発は、ニコラの前腕へ入っていた。
ニコラは落ちた拳銃を見なかった。
左手を腰へ回す。
鞘からナイフを抜いた。
右脚を引きずりながら、鬼太郎へ踏み込む。
ニコラは、〈シュライク〉の銃口を逸らせる距離まで踏み込もうとしている。
鬼太郎に残された弾は三発。
一発も外せない。
鬼太郎が後ろへ下がる。
背中が発電機へ当たった。
逃げる場所はない。
ニコラは声を上げない。
表情も変えない。
鬼太郎が左腕を支えに使えないことも、銃を右手だけで持っていることも見ている。
左手のナイフを横薙ぎに振ると見せ、途中で切っ先を下へ向けた。
腹を狙う。
鬼太郎は避けなかった。
ニコラが確実に届く距離まで来るのを待った。
一歩。
負傷した右脚が床へつく。
身体が僅かに沈む。
鬼太郎は〈シュライク〉の銃口を上げた。
ナイフが上着へ触れる。
引き金を絞る。
一発目がニコラの胸へ入った。
身体が止まる。
鬼太郎は銃口を離さない。
二発目。
ニコラの身体が後ろへ揺れた。
それでも、ナイフは手から落ちなかった。
膝をつく。
血を吐く。
鬼太郎は発電機へ背をつけたまま、銃を向け続けた。
「お前は……何者だ」
ニコラの声が掠れていた。
「墓場鬼太郎」
鬼太郎は答えた。
「ただの賞金稼ぎですよ」
ニコラは鬼太郎を見た。
炎。
煙。
小さな拳銃。
血に濡れた子供。
そのどれを見ても、驚いた顔はしなかった。
「次は……もっと遠くから撃て」
「ええ」
鬼太郎は銃口を、ニコラの胸へ向け直した。
「次に活かします」
最後の銃声が、機械室へ響いた。
◆
ニコラが倒れても、鬼太郎は近づかなかった。
ナイフは左手に残っている。
落ちた拳銃は、手を伸ばしても届かない場所にある。
胸は動いていない。
鬼太郎は床の金属片を拾い、ニコラの脚へ投げた。
反応はない。
もう一つ拾う。
今度は、ナイフを持つ手へ当てた。
指が動かない。
鬼太郎は周囲を見た。
糸。
不自然に掘られた床。
ニコラの身体から伸びる針金。
そのどれもないことを確かめてから、近づいた。
足でナイフを遠ざける。
首へ指を当てる。
脈はなかった。
遠ざけたナイフを拾い、右肩の服を切る。
古い銃創がある。
依頼の対象で間違いない。
鬼太郎は立ち上がろうとした。
その前に、倒れたニコラをもう一度見た。
追う者が、追われる者へ変わる。
一つ罠を見つければ、その次の罠がある。
撃てる距離へ入るまでに、何度も進む場所を選ばされた。
プリンパを二度使った。
左腕を撃たれた。
頬と脇腹にも、弾丸の跡が残った。
それでも、嫌ではなかった。
鬼太郎の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「久々に、血が滾る戦いでした」
言葉にした後で、鬼太郎は笑みを止めた。
久々。
なぜ、その言葉が出たのか。
今世では、ニコラほどの相手と戦ったことはない。
初めてのはずだった。
頭の奥に残る痛みが、別の感覚へ変わった。
◆
崩れた街。
赤黒い空。
目の前に、一人の人間が立っている。
青い装束。
手には武器がある。
顔は見えない。
鬼太郎も武器を向けていた。
初めてではない。
何度も戦った。
互いが、次にどこへ動くかを知っている。
一歩遅れれば殺される。
こちらの攻撃を避けた相手が、楽しんでいることも分かる。
鬼太郎も笑っていた。
場面が変わる。
同じ青い影が、今度は隣にいる。
背中を預けていた。
前方には、人とも獣とも違う巨大な影がいる。
言葉を交わす必要はない。
鬼太郎が動けば、青い影が空いた場所を埋める。
青い影が踏み込めば、鬼太郎がその背後を狙うものを殺す。
敵だった。
味方でもあった。
何度も殺し合い、何度も同じ敵を相手に共闘した。
誰よりも、戦って楽しい相手だった。
鬼太郎は、その顔を見ようとした。
赤黒い空が崩れる。
青い影が遠ざかる。
名前を呼ぼうとしても、言葉にならない。
◆
炎の音が戻ってきた。
鬼太郎は、発電所の機械室に立っている。
目の前にいるのは、ニコラ・ペトロフの死体だった。
青い装束の人物ではない。
顔を思い出せない。
名前も出てこない。
なぜ殺し合い、なぜ共に戦ったのかも分からなかった。
ただ、その相手と戦ったときに感じていたものだけが残っている。
ニコラとの戦いで感じたものより、深く、強い喜び。
「そうでしたか」
鬼太郎は、血に濡れた右手を見た。
「僕は以前にも、このような戦いを楽しんでいたのですね」
思い出そうとしても、青い影は戻らなかった。
鬼太郎は無理に追わない。
忘れていたものが一つ戻った。
今は、それでよかった。
鬼太郎はニコラへ視線を戻した。
「楽しかったですよ、ニコラ・ペトロフ」
笑みを残したまま、そう告げた。
◆
機械室の火を消すには時間がかかった。
砂をかけ、燃えていない油へ火が移らないよう流れを断つ。
左腕は、動かすたびに痛んだ。
布を巻き直しても、血は完全には止まらない。
鬼太郎はニコラの長銃を持ち出さなかった。
足場の下から取り出すには、金属を動かす必要がある。
左腕が使えない状態で持ち歩くには、大きすぎる。
拳銃にも触れなかった。
依頼は回収ではない。
ニコラの死を確認させれば終わる。
発電所の奥で、二人目の死体を見つけた。
小さな管理室。
男は、扉の内側で倒れていた。
背中を撃たれている。
窓は開いていた。
外へ下りるための縄も残されている。
窓の下には、足を置きやすい配管がある。
開いた窓と縄は、逃げ道に見えた。
だが、それは侵入者を入口へ背を向けさせるために用意されたものだった。
男は窓から出ようとしたところを、室内へ回り込んだニコラに背後から撃たれたのだろう。
ニコラが用意した逃げ道だった。
鬼太郎は男の死体へ近づかなかった。
こちらにも罠が残っている可能性がある。
「弱かったわけではないのでしょうね」
床に残る足跡を見る。
罠を避け、発電所の中まで来ていた。
「相手の考えに気づくのが、少し遅かっただけです」
鬼太郎も、ニコラに撃たれている。
足場を崩せなければ、同じ場所へ倒れていたかもしれない。
帰りは正面口から外へ出た。
罠を探しながら進み、安全を確かめた場所には石や折った枝で目印を残した。
◆
山道を戻るころには、日が傾いていた。
老人は、石柱の近くにいなかった。
少し離れた木の陰で、銃を持って待っていた。
鬼太郎を見ると、銃口を下げる。
「一人か」
「ええ」
「ペトロフは」
「発電所の機械室にいます。死んでいますが」
老人は鬼太郎の左腕を見た。
次に、頬の傷を見る。
「お前がやったのか」
「ほかに誰がいるのです?」
「先に入った二人かもしれん」
「お二人とも亡くなっていますよ」
老人は山道の奥を見た。
「今から確認に行くのか?」
「そのために待っていたのでしょう?」
「生きている男に撃たれに行く気はないと言った」
「もう撃たれませんよ」
「罠は」
「すべてを見つけたとは言えません。僕が目印を残した場所だけを通ってください」
老人はしばらく考えた。
それから、鬼太郎の前ではなく後ろを歩いた。
◆
老人は、ニコラの顔を見た。
右肩の銃創を確認する。
胸の傷を数えた。
「本人だ」
「では、依頼は終わりですね」
「その腕で、よく戻ったな」
「歩けますから」
「腕の話だ」
「歩くのに、左腕は必要ありませんよ」
老人は何も言わなかった。
町へ戻ると、鬼太郎は裏通りの診療所へ連れていかれた。
医者は免許を失った男だった。
鬼太郎の年齢を聞かなかった。
傷の理由も聞かなかった。
左腕へ巻かれた布を切る。
「弾は残っていない」
「掠めただけです」
「深い。縫うぞ」
「お願いします」
消毒液が傷へ入る。
左腕が強く痛んだ。
局所麻酔は使われたが、十分には効かなかった。
針が皮膚を通る感覚が残っている。
鬼太郎は動かなかった。
「痛くないのか」
「痛いですよ」
「なら、少しくらい顔に出せ」
「出せば早く終わりますか?」
「終わらん」
「では、このままで結構です」
医者は糸を結び、厚い布を巻いた。
「数日は腕を上げるな。傷が開く」
「銃は撃てますか?」
「右手ならな。左で支えるな」
◆
買い手は、老人からの連絡を受けていた。
鬼太郎が事務所へ入ると、机の上に報酬が用意されている。
「数えろ」
「確認は必要ですね」
鬼太郎は右手だけで紙幣を数えた。
左腕は布で吊っている。
約束された額があった。
「間違いありません」
「ペトロフの銃は」
「置いてきました」
「売れば金になった」
「取り出すために傷を開く方が高くつきますよ」
「それが分かるなら、少しは利口になったらしいな」
鬼太郎は報酬を鞄へ入れた。
これで、英国へ行くために不足していた金は埋まった。
書類は用意されている。
偽の名前も覚えた。
イリーナの車には、〈シュライク〉と父の書類を隠す場所がある。
あとは道を決めるだけだった。
事務所の扉が開く。
イリーナが入ってきた。
鬼太郎の腕を見て、眉を寄せる。
「何をした」
「仕事をしてきました」
「それは見れば分かる」
イリーナは頬の傷にも気づいた。
「その状態で検問を通れば、理由を聞かれる」
「転んだことにしますか?」
「転んで腕を縫う子供がいるか」
「崖から落ちたことにすれば」
「傷が塞がるまで待つ」
「急ぐ必要はないのですか?」
「傷の理由を疑われるよりは早い」
買い手が机の引き出しを開けた。
紙を一枚取り出す。
机の上へ広げた。
国境までの道。
そこから西へ続く道。
途中で越える国。
最後に、海を挟んだ島がある。
英国。
「次は、人を殺す話じゃない」
買い手が言った。
「国を出る話だ」
鬼太郎は地図の上へ右手を置いた。
西へ伸びる線を、指で辿る。
左腕が治れば、出発できる。
その先に何があるのかは、まだ知らない。
発電所で見えた青い人影が、もう一度だけ頭に浮かんだ。
名前のない影。
何度も戦い、何度も共に戦った相手。
鬼太郎は僅かに笑った。
失ったものは、力だけではないらしい。
ならば、それもいずれ取り戻せばよい。