第14話 誰の手下でもない
扉の隙間から、短い糸が落ちていた。
鬼太郎は鍵を差したまま、足元を見た。部屋を借りて四日目の夕方だった。
朝、扉を閉めるときには、枠との間へ挟んでおいた。外から開ければ落ちるが、ただ風が吹いたくらいでは外れない。
鍵を抜き、部屋へ入った。
本と辞書は机の上にある。寝台の下へ手を入れると、弾薬の包みが斜めになっていた。壁と平行に揃えた端が、こちらへ向いている。
数は減っていなかった。
机の引き出しからは、硬貨が一枚なくなっていた。縁へ傷をつけ、ほかの金とは分けて置いたものだった。
最後に床板を外した。父の書類は残っている。油紙を包み直した跡もなかった。
鬼太郎は書類を鞄へ移し、弾薬も持って階下へ向かった。
「今日、僕の部屋へ入りましたか?」
買い手は帳面から顔を上げた。
「入っていない」
「誰かへ調べるように頼みましたか?」
「何があった」
「硬貨が一枚、なくなりました」
買い手は拍子抜けしたように椅子へ戻った。
「それだけか」
「今のところは。弾も調べられていましたが、そちらは残っています」
鬼太郎がそう言うと、買い手は手元の帳面を閉じた。
「部下を呼ぶか」
「先に知らせては、何も残らなくなるでしょう」
買い手が嘘をついている可能性はあった。部下へ入るよう命じたのかもしれない。ただ、今問い詰めても、引き出しの硬貨が戻るわけではなかった。
「確かめてから、また伺います」
「建物の中で、勝手に撃つなよ」
「でしたら、盗んだ方にもそうお伝えください」
買い手が何か言う前に、鬼太郎は部屋へ戻った。
◆
翌日、机の引き出しへ小さな布袋を置いた。
中には紙幣と硬貨を入れ、どれにも端へ印をつけておく。父の書類と弾薬、細い棒は鞄に収めた。調べられて困るものを、もう一度残すつもりはない。
いつもの時間に外へ出て、通りを一周した。戻ったのは、階下で荷の出入りが始まった頃だった。男たちが木箱を運ぶ間に階段へ回り、自分の部屋へ入る。
灯りをつけず、扉の陰へ座った。
辞書を開いて待つうちに、窓の明かりが薄くなった。文字が見えなくなる頃、足音が階段を上がってきた。
扉の前で止まる。
鍵の触れ合う音がした。
鬼太郎は辞書を閉じ、脇へ置いた。右手で銃を抜き、膝の横へ下げる。
扉が開いた。入ってきたのは、買い手の部下だった。
男は扉を閉め、机へ向かった。引き出しから布袋を出し、口を開く。中身を指で分けて見てから、上着へ入れた。
「見つけましたね」
男が振り返る。
鬼太郎は立ち上がり、銃口を胸へ向けた。
「手を見えるところへ出してください」
早口の言葉が返ってきた。知っている単語が混じっていても、言い訳の全部は聞き取れない。
「ゆっくりお願いします。聞き直している間に手を動かされると、僕も困ります」
男は上着から手を離した。
「親方の部屋を見ただけだ」
「お金も、親方のものですか?」
「この建物は、あの人のものだろうが」
「ええ。僕も、仕事の報酬として使わせてもらっています」
男の目が扉へ動く。
鬼太郎は銃を向けたまま、出口から少し離れた。
「先に歩いてください。ご本人にも、同じお話をしましょう」
男はしばらく動かなかった。だが、鬼太郎が布袋を戻せとも銃を下げるとも言わないので、やがて両手を身体から離して歩き始めた。
事務所へ入ると、買い手は椅子から腰を浮かせた。
「そいつか」
「僕の部屋の鍵を持っていました。お金も、この方の上着にあります」
「少し借りただけです」
男は買い手へ言った。
買い手が机の浅い引き出しを開ける。中を見てから、男へ手を出した。
「返せ」
合鍵と布袋が机へ置かれた。鬼太郎は金を広げ、印を見せた。
昨日の硬貨は知らないと男が言うと、買い手は壁際の部下へ顎を向けた。両側から腕を掴まれ、財布を取り上げられる。
傷のある硬貨も、その中から出てきた。
「こんなガキに、部屋まで使わせるから――」
「俺が決めた」
買い手が遮った。
「仕事を終えて、報酬に加えた。お前が勝手に減らしていいとは言っていない」
男は口を閉じた。
鬼太郎は買い手を見た。こちらの部屋を気遣うというより、自分の決めた扱いへ部下が口を出したことが不快らしかった。
それなら、今は話が通じる。
「どうしたい」
尋ねられ、鬼太郎は机の金を指した。
「盗んだ分は返していただきます。それと同じ額を、追加で。部屋の錠も、この方のお金で替えてください」
「冗談じゃねえ」
男が声を上げた。
鬼太郎はそちらへ目を戻した。
「お金で済むお話ですよ。ご用意できませんか?」
銃口は下げなかった。
買い手は男の取り分から引くと決め、ほかの部下へ連れ出させた。足音が遠ざかってから、鬼太郎は銃を収めた。
「殺さなくていいのか」
「働いていただく方が、お支払いできますから」
「次も盗んだら?」
「そのときは、今日と同じ金額では困りますね」
鬼太郎は返された金を集めた。買い手も、それ以上は尋ねなかった。
◆
新しい錠がついた翌日、鍵は二本とも鬼太郎へ渡された。
「火事なら壊す。それ以外では入らん」
「分かりました」
鬼太郎は一本を身につけ、もう一本は予備として隠した。父の書類とは別の場所にする。扉そのものを壊されれば入られるが、机の引き出しから合鍵を借りるだけでは済まなくなった。
書類と弾薬を元へ戻し終えると、扉が叩かれた。
買い手が一通の紙を持っている。
「お前を名指しした仕事だ」
鬼太郎は紙へ目を落とした。
「僕の名前を、ご存じなのですか?」
「炎と小さな銃を使う子供、と書いてある。それで足りるだろう」
鬼太郎は受け取った紙の文字を追った。時刻は読めたが、内容までは分からない。
「明日の昼に、本人が来る」
英国へ渡ってから、およそ一か月になろうとしていた。
◆
エレノア・グレイは、鬼太郎の前でも屈まなかった。
黒い外套を着た女で、後ろに男が二人ついている。頭を撫でようとも、抱き上げようともしない。その代わり、こちらを見たまま、仕事の話が分かるかと尋ねた。
「ゆっくりお話しいただければ。ただ、その前に仲介料を伺います」
鬼太郎は買い手へ向き直った。
「五分の一だ」
「では、総額と僕の受け取る分を、分けて書いてください」
エレノアが金額を告げた。買い手が紙へ書き、鬼太郎も計算する。その間、彼女は待っていた。
「こちらの方が仲介したお仕事ですから、その分はお支払いします」
「話を始めてもいいかしら」
「お願いします」
エレノアは賭け屋と酒場へ金を出していた。店へ運ぶ酒と回収する金、その通る道へ、別の一団が入り込んだという。
使者は二度襲われ、一人は腕を折られた。
今夜、双方が閉めたビリヤード場で会う。相手は六人、拳銃とナイフを持っていると考えた方がよい。
「交渉の書面へ署名して、車へ戻るまで、私を守って」
「生きて戻ればよいのですか?」
「傷も負いたくないわ」
「では、その分を加えてください」
エレノアの後ろで男が顔をしかめた。彼女自身は、鬼太郎の手と顔を見ていた。
「護衛の値段を、ここで上げるの?」
「傷を負っても構わない仕事とは、違いますから」
エレノアは少し考え、上乗せした。買い手が数字を書き直す。
「こちらからは攻撃しない。それも条件よ」
「相手が銃を抜いたら?」
「撃っていい」
「グレイさんが先に攻撃した場合は、どうしましょう」
「そんなことはしないわ」
鬼太郎は黙って待った。
エレノアは返答を促されていると気づき、椅子へ座り直した。
「私が先に仕掛けたら、追加で払う。それでいい?」
「ええ。場所を変える場合も、先にお話しください」
決めたことを、買い手が紙へ書いた。鬼太郎は一文ずつ読んでもらい、知らない言葉を止めて意味を聞く。
エレノアは途中で時計を見たが、急がせはしなかった。三人が署名を終えると、彼女は金を買い手へ預けた。
依頼人の顔を見てから請ける仕事は、英国では初めてだった。
出発までの間に、鬼太郎は銃と弾を確かめた。左手を添えて握ってみても、腕の傷は痛まない。それでも、炎を出すなら手を離す必要がある。守る相手がいるところで、持ち替えにもたつくわけにはいかなかった。
迎えの車へ乗る前、エレノアは鬼太郎の肩へ手を置きかけた。
「そばから離れないでね」
「近くにいます。ただ、腕を引かないでください」
彼女の手が止まった。
「逃げるときも?」
「そのときは、行く方を教えてください。僕の腕を引けば、銃の向きも変わります」
エレノアは上着へ一度目を向け、手を下ろした。
「分かったわ」
彼女を守るために、相手のいる場所へ残る必要があるかもしれない。自分だけ裏口から抜けて仕事を終えるのとは違った。
鬼太郎は車へ乗り、彼女の部下二人がどちら側へ座るのかも見ていた。
◆
ビリヤード場には、緑色の台が六つ並んでいた。
灯りがあるのは一つだけで、その向こうに相手側の六人がいた。
中央の男はエレノアを見てから、後ろの鬼太郎へ目を向けた。
「子守りまで連れてきたのか」
「護衛よ」
エレノアは席へ着いた。鬼太郎は斜め後ろへ立ち、彼女の部下二人は壁際へ残る。
笑い声が上がったが、一人だけ口を開かない男がいた。
そちらは鬼太郎の顔を見たあと、上着の下へ目を落とした。視線が合うと、すぐに台へ向き直る。
鬼太郎も六人の手へ目を移した。
交渉の言葉は速かった。道と金の話だということは分かるが、誰がどれだけ譲ったのかまでは追えない。
エレノアが声を強めると、向こうの男も身を乗り出した。だが、両手は台の上にある。周りの者もすぐには動かない。
鬼太郎は立つ位置を少しずらした。エレノアの肩越しでは、端の男の右腕が見えにくかった。
椅子の背へ片肘を掛けていた男が、姿勢を変えた。
右肩が下がり、手が台の下へ消える。
「右手を出してください」
鬼太郎が言うと、声が途切れた。
男はこちらを見た。右手は出さない。
「何だ、このガキ」
「見えるところへ、お願いします」
男の肘が動いた。
台の縁から、黒い銃口が現れる。鬼太郎は〈シュライク〉を抜き、右腕を伸ばした。
銃声とともに、男の前腕が跳ねた。
拳銃が緑色の台へ落ち、端から床へ滑る。男は椅子ごと後ろへ倒れた。
残る五人の手が動く。
鬼太郎はエレノアの横へ一歩出た。銃を向けたまま左手を開き、意識を掌へ集める。
「アギ」
小さな炎が灯った。
次の相手へ放つつもりで、その顔を見た。
「やめろ!」
笑わなかった男が叫んだ。
「あのガキだ。荷物を奪いに行った連中が、銃と火で追い払われたって……」
鬼太郎へ向けかけていた男の肩が止まる。上着の中から出した手が、何も持たず台へ戻った。
鬼太郎は、その手から順に確かめた。六人全員へ一度に撃てるわけではない。先に銃を向ける者がいれば、ほかから目を離さなければならなかった。
中央の男は、倒れた部下を睨んでいた。
「そいつの独断だ」
「でしたら、残りの方は動かないでください」
炎の熱が指へ触れる。鬼太郎は掌を少し前へ出したまま、エレノアを横目で見た。
彼女は席を立っていなかった。
「交渉を続けましょう。私も、ここで全員を失いたくはないわ」
中央の男の口元が歪む。
「よく言う」
「道を取り決めに来たのよ。そうでしょう?」
台の上の紙を、エレノアが指先で向こうへ戻した。
鬼太郎は炎を消した。銃は下げず、床の男にも目を配る。隣にいた一人が布を出したので、怪我人の腕へ巻く間だけ、手の動きを追った。
再開した話し合いでは、エレノアの要求も、そのまま通ったわけではなかった。
二本求めた通りのうち、一本を時間で分けて使う。向こうは奪った金の一部を返し、使者へ手を出した側が追加で払う。
分からない箇所は多かったが、エレノアが自分の示した線を消し、別の線を書き足すのは見えた。
護衛が一人を撃ったからといって、話が終わるものではないらしい。
紙が二枚作られた。互いに署名し、一枚ずつ受け取る。
立ち上がるときも、鬼太郎は相手側の手を見ていた。背中を向けて先に歩かず、エレノアが出口へ近づくのに合わせて下がる。
外へ出ると、店内より空気が冷たかった。
エレノアが車へ乗り込み、部下二人も続く。鬼太郎は最後に扉を閉め、ようやく銃を収めた。
◆
「本当に六歳なの?」
車が動き始めてから、エレノアが尋ねた。
「そう聞いています」
「あなたを紹介した人は、大事なところを書き忘れたのかもしれないわね」
鬼太郎は窓から店が遠ざかるのを見た。追ってくる者はいない。
「どこにも、お怪我はありませんね?」
「ええ。契約どおりよ」
彼女は手袋の指を伸ばし、掌を確かめた。
「私のところへ来ない? 今回より安い仕事はさせない。あの物置から出たばかりなら、もっといい部屋も用意できるわ」
「お断りします」
エレノアの指が止まった。
「条件を聞く前に?」
「どの仕事を受けるかは、そのつど決めます。グレイさんのお仕事だけを続けるお約束はできません」
「部屋も、報酬も悪くしないと言っているのに」
「ほかに、面白いお話が来るかもしれませんから」
エレノアは鬼太郎の顔をしばらく見た。それから窓へ向き直る。
「それなら、また指名するわ」
「内容を伺います」
車内には、しばらく車輪の音だけが続いた。
鬼太郎は上着の中の鍵へ触れた。扉の錠を替えてもらうために、誰か一人の仕事を続けるとは約束していない。
今日の護衛も、金を受け取れば終わる。それで不都合はなかった。
◆
買い手の机では、依頼料が二つに分けられた。
五分の一を男が取り、残りが鬼太郎の前へ置かれる。無傷で戻した分の上乗せも入っていた。
「グレイが、お前を気に入ったらしいな」
「専属にならないかと誘われました」
「断ったか」
受けたのか、とは聞かれなかった。
鬼太郎は顔を上げた。買い手は自分の取り分を引き出しへ入れ、こちらの返事を待っている。
「ええ」
「ここへ来た仕事なら、俺の取り分がある」
「仲介していただいた分は、お支払いしますよ」
「直接来た奴から受ける場合は、違うと?」
「あなたに頼んでいないことまで、お支払いする理由はありませんね」
買い手は椅子へ背を預けた。
「ここを連絡先にするなら、その分はもらう」
「それなら、金額を決めましょう」
鬼太郎は自分の金を鞄へ入れ、椅子へ座り直した。
男は少し考え、机の紙を裏返した。部屋代や仲介料とは別に、連絡の取り次ぎへ払う額が書かれていく。
鬼太郎は知らない単語を指し、意味を尋ねた。
買い手は面倒そうに答えたが、今度も、紙を取り上げはしなかった。