第152話 灰の向こうの赤い目
空になったローブの上で、灰が動いた。
鬼太郎は黒檀を向けたまま、半歩退いた。
欠片の間から、煙に似たものが立ち上がる。クィレルの肌から出ていたものとは違った。上へ薄れる代わりに寄り集まり、石段の向こうで、人の頭ほどの高さへ伸びていく。
背後でハリーが息を呑んだ。
「まだ……」
声が途切れ、布が床を擦る。
鬼太郎はハリーと灰の間に立ち、浮かび上がるものを見た。
目があった。
輪郭の定まらない顔の中で、赤い目だけがこちらを捉えている。後頭部にあったものと同じ顔だった。だが、それを支える首も、杖を持つ手もなかった。
身体が崩れても、残る。
鬼太郎は相手の目から狙いを外さなかった。
武装解除で奪える杖はない。さっきまで狙っていた胸も見つからない。火なら届くのか。それとも、通り抜けるだけなのか。
考える間に、影が石段を越えた。
靴の傍で灰が散る。
裂けた胸元へ冷たい空気が触れた。鬼太郎は足を引き、ハリーの前を空けずに杖を向け直す。相手は輪郭を縮めたが、目を逸らさなかった。
あの手首の動きを思い出した。
壊れかけた身体を使い、こちらの足を追い、杖を戻す隙まで奪ってきた。借りた身体であれなら、使い慣れた身体では、どう動くのだろう。
笑うと、頬の傷が痛んだ。
「次は、あなた自身の身体でお相手いただきたいですね」
影の中で、口に見える裂け目が動く。
「その望みは叶えてやろう、鬼太郎。次に膝をつくのは、お前だ」
声は、クィレルの身体から聞いたときと変わらなかった。
「楽しみにしています」
答えた直後、影が広がった。
赤い目が横へ流れる。
鬼太郎はハリーへ身体を寄せた。影は肩の上を抜け、外周の太い石柱へ向かう。
ハリーが叫んだ。
振り返りかけ、踏みとどまる。今、行き先を見失えば、どこへ戻るかも分からなかった。
黒いものが柱の縁へ巻きついた。
次の瞬間、石の表面を透かすように薄れていく。
赤い光が消えた。
足音はなく、扉も動かなかった。
鬼太郎は柱へ杖を向けたまま待った。ハリーの苦しげな呼吸だけが、背後で続いていた。
◆
ハリーは額を押さえ、目を開けた。
赤い目は見えなかった。鬼太郎が柱へ杖を向けている。
逃げたのだと分かっても、傷の痛みはすぐには消えなかった。床へついた肘が震え、上体を起こしかけて、また下がる。
その向こうに鏡があった。
縛られたまま見た、自分の手を思い出した。赤い石を取り出し、こちらへ見せてからポケットへ戻した手。
あれから、何度も床を転がった。クィレルへぶつかり、振り払われて倒れた。
落としてはいないだろうか。
額に片手を当てたまま、反対の手をポケットへ入れた。
指へ、硬いものが触れる。
あった。
握ると、石の角が掌へ当たった。引き出しかけた指の間に、鏡で見た赤い色が覗く。
クィレルには奪われなかった。
あの赤い目にも、渡さずに済んだ。
「鬼太郎……」
声が掠れた。
振り向いた鬼太郎へ、見せようとした。だが、腕が上がらない。肩を動かすと、額の痛みに重なって火傷がひりついた。
手を緩めれば、落としてしまう。
ハリーは石をポケットの奥へ押し戻した。その上へ掌を重ね、もう一度呼ぼうと息を吸う。
鏡も柱も、端から暗くなった。
◆
「ハリーさん」
返事がなかった。
鬼太郎は広間を見渡し、膝をついた。額へ押しつけた指の間から、傷痕が覗いている。開いていた目が、ゆっくり閉じた。
もう一度呼んでも、瞼は上がらない。
肩を支え、無理に起こさず床へ寝かせた。鼻先へ顔を寄せると、息が触れた。胸も動いている。
腕は赤く焼けていた。ほかに、すぐ塞がなければならない出血は見当たらない。
額の痛みまで、ディアで治せるかは分からなかった。
鬼太郎は傷痕を押さえていた手をそっと外し、胸の前へ置いた。ローブから覗いた杖の柄を、抜け落ちない深さへ差し直す。
柱を見上げた。
向こう側へ回れば、影の行き先を探せるかもしれない。だが、追いついて何を当てるのか。姿がなければ、それ以上は追えない。
膝を戻し、ハリーの呼吸を確かめた。
キーノに、戻ると答えている。
無理に追わず、本を奪うために深追いもしない。今、床へ落ちているものと、石を抜けて去ったものを追うことは、同じではなかった。
鬼太郎は小さく息を吐いた。
石段の向こうで、閉じた魔導書がローブの端に掛かっている。表紙には灰が薄く積もっていた。
手を戻した後も、拾える隙はなかった。
今は、届くところにある。
鬼太郎はハリーを柱の傍へ寝かせたまま、右の黒檀を外へ向けて立った。入口と床を交互に見て石段を越え、ローブへは手を入れず、本の表紙の端を左手で持つ。
灰が落ちた。
持ち上げると、手へ重みが掛かった。
悪魔を呼び出すために、何を使ったのか。あの人物が頁を開いていた間に、何が行われたのか。その手順が、ここに書かれているかもしれない。
親指が表紙の縁へ触れる。
鬼太郎は、そのまま閉じて持った。
先に校長へ見せ、調べてもらうことになっている。今ここで試すために、この本を求めてきたわけではなかった。
左腕へ抱え直し、別の柱の根元へ向かう。
クィレルの杖があった。
いったん黒檀を収め、右手で柄を拾う。ハリーから離れた石段の上へ置き、手を離してから、自分の杖を抜き直した。
あれを取りに動くものがあれば、ここから見える。
ハリーの傍へ戻ったとき、入口の向こうで音がした。
右手を上げる。
本を左腕へ抱え、まだ顔を見せていない相手へ黒檀を向けた。
通路の明かりに、長い白髪が浮かんだ。
「鬼太郎」
ダンブルドアだった。
手元から床のハリーへ視線を移し、足を止めずに入ってくる。
「ハリーは?」
「息はしています。今、意識を失ったところです」
鬼太郎は杖を下げ、膝をずらして場所を空けた。
校長は屈み、額と火傷した腕を確かめた。ローブの襟を緩めてもハリーの顔は動かなかったが、呼吸は続いていた。
「クィレル先生の身体を、ヴォルデモートが使っていました」
鬼太郎は石段の向こうを示した。
「ハリーさんが手首を掴むと、肌が焼けました。離れた後も傷みが広がって、最後は、あのように」
ダンブルドアは灰を見た。
潰れたローブに目を留め、それから石片の散る床と、削られた柱を辿る。
「ヴォルデモートは、影のような姿で残りました。あの柱を抜けて消えています。追ってはいません」
「……そうか」
校長はハリーへ目を戻し、その肩へ手を添えた。
「ロンとグレンジャーさんには会った。二人とも、こちらを心配しておったよ。帰り道のトロルも、もう心配はいらん」
鬼太郎は入口を見た。
「通路を進んで来られたんですね」
「うむ。ロンの様子を確かめ、トロルを動けなくしてから薬の部屋へ進んだ。グレンジャーさんから、二人が先へ行ったと聞いてな」
校長は焦げた袖を、赤い腕からそっと離した。
「火の仕掛けも解いてある。グレンジャーさんには、ロンの傍へ戻って待つよう伝えた。帰りに連れていこう」
鬼太郎は杖を握る指を緩めた。
ハーマイオニーがトロルの部屋を無理に通ることも、ロンが一人で先へ来ることも、今は心配せずに済む。
膝から腰を上げ、本を抱え直した。
「その前に、謝らなければなりません」
ダンブルドアの目が上がる。
「近づかないように言われていた場所へ入り、学校の守りに手を出しました。申し訳ありません」
鬼太郎は頭を下げた。
胸元の布が動き、傷へ擦れる。
三人が先に行ったと言えば、自分のしたことが消えるわけではない。自分も相手と本を求め、ここへ来ると決めた。
顔を上げると、校長は裂けた胸元を見ていた。
「その話は、手当てをしてからじゃ」
「はい」
鬼太郎は魔導書を差し出した。
「こちらが、森でも使われていたと思われる本です。クィレル先生が持っていました。まだ開いていません。お約束どおり、先にご覧いただきたいのですが」
ダンブルドアは表紙を確かめ、受け取った。
すぐに頁を繰ろうとはしなかった。
「まずは預かろう。ここで読み始めるわけにはいかん」
「ええ。先生の杖は、そちらの石段に置いてあります」
鬼太郎が示すと、校長は左腕へ本を抱え、右手で杖を回収した。自分のローブへ収める前に、灰の傍で足を止める。
空の服へ、少しの間、目を落とした。
鬼太郎は何も尋ねなかった。
鏡は、割れた床の向こうに立っていた。
クィレルはハリーを縛り、その前へ置いていた。鬼太郎が入ってきたときには、何をさせた後だったのか。ハリーのローブへ向いていた杖を思い出した。
「石についてですが、クィレル先生が手に入れたところは見ていません」
ダンブルドアが戻ってくる。
「ハリーから、何か聞いたかね」
「いいえ。最後に僕を呼びましたが、それだけです」
校長は鏡へ目を向けてから、ハリーの傍へ屈んだ。
片手が、ポケットの上へ重ねられていた。
その指をそっと外し、布の膨らみを確かめる。校長が差し入れた右手に、赤い石が現れた。
鬼太郎は目を細めた。
「……ハリーさんが?」
「どうやら、鏡はハリーへ渡したようじゃな」
ダンブルドアは、石からハリーの顔へ視線を移した。
ハリーは目を閉じている。
あの身体で、クィレルへぶつかっていった。石を隠したまま掴み続けていたのか、それとも、その後で手にしたのか。
鬼太郎には、まだ分からなかった。
「これは、わしが預かる。今はハリーを運ぼう」
石が校長のローブへ収まる。
鬼太郎は入口までの床を見た。霜の残る場所と、石片の積もったところを避ければ歩ける。
一歩動かすと、膝が重かった。
「歩けるかね、鬼太郎」
「はい。胸と頬を切っていますが、脚は動きます」
「途中で苦しくなれば、すぐに言うんじゃぞ」
「分かりました」
ダンブルドアが自分の杖を抜いた。
ハリーの身体が静かに持ち上がり、横たわった姿勢のまま床を離れる。揺れた袖から赤い腕が覗き、鬼太郎は空いた左手で、落ちかけた裾を直した。
ハリーは目を開けなかった。
鬼太郎は右手に黒檀を持ち、浮かぶ身体の傍へついた。校長が左腕へ魔導書を抱え直し、通路へ進む。
石段を降りると、靴の下で灰が擦れた。
鬼太郎は肩越しに柱を見た。
赤い目の消えた場所に、傷ついた石だけがある。
顔を前へ戻し、ハリーと並んで扉を抜けた。