第153話 隣の椅子
薬の部屋に、ハーマイオニーはいなかった。
扉を塞いでいた炎も消えている。卓上には瓶が残っていたが、鬼太郎は足を止めなかった。校長が先へ進み、浮かぶハリーの身体がその後を通る。
トロルは、床へ伏せていた。
両目の周りに血が乾いている。戸口へ届いていた腕は動かず、胸だけがゆっくり上下していた。鬼太郎は黒檀を握り、手の届く範囲を避けて通った。
チェスの部屋へ入ると、盤の端から二人が立った。
「ハリー!」
ロンが駆け寄ろうとして、顔をしかめる。ハーマイオニーが肘を支えた。呼ばれても、ハリーは目を開けなかった。
「息はしています。今は、医務室へ」
鬼太郎が言うと、ハーマイオニーは焦げた袖を見て、それから鬼太郎の胸元へ視線を移した。
「あなたも、血が……」
「手当てしていただきます」
「何がいたんだ。スネイプは?」
ロンに問われ、歩みを緩めた。
「最奥にいたのは、クィレル先生です。もう攻撃はしてきません」
「クィレル先生?」
ロンがハーマイオニーを見る。彼女も、答えを持っていない顔だった。
ダンブルドアが二人の前へ立つ。
「詳しい話は後じゃ。ロン、歩くのがつらければ、無理をせんように」
「歩けます」
そう答えたが、支えられた腕はすぐに外さなかった。
校長が歩き方を確かめ、一行を盤の外へ導く。鬼太郎は二人の後ろについた。割れた駒を越えるとき、ロンの足が遅くなり、ハーマイオニーも一緒に止まる。
待つ約束を破ったことは、既にロンへ言った。今、その続きを尋ねて足を止める気にはなれなかった。
黒檀の先を下げ、次の扉を通った。
◆
医務室の明かりは、地下より眩しかった。
ポンフリー夫人はハリーを寝台へ移すと、火傷した腕を確かめた。校長の短い説明を聞きながら瞼と呼吸を見て、袖を肌から離していく。
ロンは隣の寝台の縁へ座った。ハーマイオニーは入口近くで、自分の腕を抱いていた。
鬼太郎は黒檀を収めようとして、胸へ布を擦った。
小さな痛みに、手が止まる。
「あなたは、そこへ座っていなさい」
夫人が顔を向けた。
「ハリーさんを先に――」
「順番は私が決めます。座って待っていれば、傷を見落とさずに済みます」
鬼太郎は空いた寝台へ腰を下ろした。
ハリーの腕へ薬が当てられる。ロンにも、どこを打ったのか、立つと何が痛むのかを尋ねる声が飛んだ。
ダンブルドアはハーマイオニーへ近づいた。
「グレンジャーさんも、痛むところがないか診てもらいなさい。その後は、寮へ戻るんじゃ」
「でも、ハリーが目を覚ますまで――」
「そのためにも、静かに休ませてやらねばならん」
彼女は唇を結んだ。ハリーの寝台へ目を向けてから、頷く。
校長が鬼太郎の前へ来た。
左腕には、魔導書がある。鬼太郎の目が表紙へ落ちると、その抱え方が僅かに変わった。
「話は、皆の手当てが済んでからにしよう」
「はい。調べるときには、僕も呼んでください」
「分かっておる。今夜は、休むことじゃ」
鬼太郎は頷き、本へ向きかけた身体を戻した。
校長が出ていくと、夫人が胸の傷を確かめに来た。鬼太郎は服を緩める前に、銃をホルスターごと外した。抜かずにローブで覆い、脇へ置く。黒檀は寝台の横へ。
胸へ薬を当てられると、一度、熱い痛みが走った。
息を吐く間に、夫人の手は頬へ移る。口の端の血も拭われた。
「深くはありませんね。だからといって、今から歩き回ってよいわけではありません」
「傷が塞がっても、ですか」
「その顔色と疲れは、傷だけを治してもなくなりません。今夜は安静です」
返事をして、寝台へ脚を上げた。
座ってから動かさずにいたせいか、膝の重さがはっきり分かった。胸へ新しい布が当たり、服を直しても、今度は傷が擦れなかった。
ロンも、そのまま休むことになった。
横になる前にハリーを見たが、声は掛けず、毛布の端を引き上げた。
診察を終えたハーマイオニーが、鬼太郎の傍へ来る。
「薬の部屋で話したこと、覚えてる?」
「ええ。あの力と、銃のことですね」
彼女はローブで覆われた荷物を見た。
「前にも、普通の呪文と違う力を使っているとは思ってた。でも、あの炎を凍らせて通って、銃まで……」
言葉を切り、鬼太郎へ顔を戻した。
「今すぐ全部、聞こうとは思ってないの」
「僕には、少し特殊な力があります。授業で使う呪文とは、違うものです」
声を落とした。
隣でロンがこちらを見ていたが、医務室の奥まで聞かせる必要はなかった。
「この力を知られて、狙われたこともあります」
ハーマイオニーの目が、荷物へ戻る。
「だから、銃を?」
「身を守るために、扱いを覚えました。いつでも、力だけで間に合うわけではありませんから」
「学校へ来る前から?」
「ええ」
待ち構えていた者も、捕らえて見世物にした者もいた。銃がなければ、そこで終わっていたかもしれない。
だが、その前に自分が何の依頼を受け、相手に何をしたかまで教えるつもりはなかった。
「誰に狙われていたの?」
「その話までするつもりはありません」
鬼太郎は彼女の顔を見て答えた。
「教えたくないこともあります。力の詳しいことも、今は話せません」
ハーマイオニーは袖口を握ったまま、黙った。
言い直すのを待っているのかと思ったが、次に出たのは別の問いだった。
「先生は知っているの?」
「ダンブルドア先生には、お話ししています」
袖を握る指が、少し緩む。
「……分かった。でも、話せないことがあるなら、そう言って。分かったふりをするのは嫌だから」
「ええ。そのようにします」
ポンフリー夫人が、寝台の間から顔を出した。
「今夜のお話はそこまでです。グレンジャーさん、寮へ。二人とも、寝ている人を起こさないように」
ロンが毛布へ顔を半分隠した。
ハーマイオニーはハリーをもう一度見てから、鬼太郎へも短く挨拶をし、入口へ向かった。
扉が閉じる前に、廊下から声がした。
キーノだった。
ハーマイオニーと何か言葉を交わし、医務室へ入ってくる。鬼太郎を見つけると歩幅が速くなり、寝台の前で止まった。
開きかけた唇が閉じる。
頬の手当てを見て、胸元を見て、それから顔へ目が戻った。両手は握られたままだった。
「戻ったんだな」
「はい」
「怪我も、話す約束だった」
「胸と頬です。口の端も少し。手当ては、今終わりました」
「ほかは?」
「新しい傷はありません。疲れてはいますが」
キーノは椅子を引いた。
座ってからも、鬼太郎の腕を見ている。
「寮の扉が開くたび、お前が帰ってきたと思った」
膝へ置いた手が、服を掴んだ。
「違うと、また待つしかなかった。何が起きているかも、分からなかった」
鬼太郎は返しかけた言葉を止めた。
布を握る指へ目を落とし、顔へ戻す。
「マクゴナガルに、医務室へ戻ったと聞いた。途中で倒れたんじゃないだろうな」
「歩いて帰りましたよ。追ってもいません」
「何を?」
隣の寝台を見た。
ロンは横になっている。眠っているかは、分からなかった。
鬼太郎は顔を寄せ、椅子に座るキーノへだけ届く声にした。
「ヴォルデモートです」
眉が動いた。
「クィレル先生の身体を使っていました。身体が崩れた後も、影のようなものが残って、石を抜けていきました」
「……そんなものを、追うつもりだったのか」
「捕らえられるかも、分かりませんでしたからね。ハリーさんも倒れていましたし」
キーノがハリーを見た。
薬の塗られた腕が、毛布の上にあった。
「それで、戻ったんだな」
「お約束しましたから」
「約束がなくても、戻れるときに戻れ」
小さな声だった。
椅子が、寝台へ少し近づく。
「次は、私も隣で戦えるようになる。お前の心配を増やすから残れなんて、もう言わせたくない」
鬼太郎は膝の上の手へ、自分の手を伸ばした。
布を掴む指に触れると、力が少し緩んだ。
「それは、楽しみですね」
「本気で言ってる」
「分かっていますよ。キーノさんが強くなるのは、僕も嬉しいです」
細い指へ、自分の指を重ねた。
「僕も、キーノさんを置いて、どこかへ行ってしまうつもりはありません」
「……なら、ちゃんと帰ってこい」
「はい」
キーノは手を引かなかった。
しばらくそのままでいてから、寝台の横へ目を移す。
「本は?」
「ダンブルドア先生にお預けしています。先に、見ていただきます」
「開けるのも、後だな」
「ええ。今夜は休むようにと言われました」
「私も、そう思う」
鬼太郎は枕へ背を預けた。
夫人が通りかかり、キーノへ短く時間を限る。彼女は頷いたが、すぐには椅子を離れなかった。
胸に当てた薬の匂いが、鼻の傍へ残っていた。
やはり、闇の帝王と呼ばれた方は強かった。
クィレルが動いていた間は、柱や床で出る場所を絞れた。盾を使わせ、別の手を重ねる余地もあった。
あの声の主が身体を使い始めてからは、違った。
隠れる先を撃たれ、手を上げようとすれば次の光が来る。脚が震えていると分かっても、そこへ狙いを付ける時間を作れなかった。
鬼太郎は右手を開いた。
硬直を解いておかなければ、最後に杖を上げることも出来なかった。ハリーが飛び出し、掴み続けてくれたから拾えた。その腕が離れた一度を、待つことが出来た。
ハリーの寝台へ目を向ける。
足が震える相手へ、自分から走った。痛みで顔を伏せても、指は残した。
目を覚ましたら、そのことは伝えておこうと思った。
「あれだけ怪我をして、よく笑っていられるな」
キーノが言った。
鬼太郎は彼女へ目を戻した。
「強い方と戦えましたので」
「追い詰められたんだろう」
「はい。あの人が動かし始めてからは、ほとんど攻められませんでした」
頬を動かすと、手当てした肌が僅かに張った。
笑みは緩めたが、戦いを思い出すのはやめなかった。
あの人から教われることは、多かっただろう。
闇の魔術も、秘術も。使う手元を何度も間近で見られれば、自分で探す時間を減らせる。強い相手と戦いたいと望むことさえ、隠さずに済む。
それが魅力的だったことは、今も変わらない。
だが、何を望むかまで預ける気はなかった。
誰と戦い、何を学ぶか。そのために力を得たいのに、受け取る代わりに選ぶ権利を渡してしまう。
あの赤い目の前で、許しを待つ自分は想像したくなかった。
校長にも、条件は示されている。
自分も頼むことを選び、条件を出した。断られれば別の道を考える。そのうえで受けた約束だから、破ったことを謝った。
調べるところまでしか、まだ協力は得ていない。本を預けたからといって、使えると決まったわけでもない。
それなら、何が分かるかを待ち、次を考える。
キーノの手は、膝へ戻っていた。
ほどけた指と、近くへ寄せられた椅子を見る。
彼女を自分の傍へ置くと決めたのは、鬼太郎だった。手に入れたからには手放したくない。誰かに奪われるなど、考えるだけで不快になる。
力のために彼女を置き去りにする気もなかった。他人の都合で、キーノといる場所や時間を決められたくもない。
そのキーノが、自分で隣に立つと言った。
強くなった彼女を見たい。自分の思う通りに動くだけではないキーノと、次に何が出来るのか。
鬼太郎は、左腕へ掛かっていた本の重みを思い出した。
ヴォルデモートの下へ行かずとも、手に入ったものはある。
書かれた手順を確かめ、使うために何が必要か知れれば、今までの魔法では届かなかった先へ進めるかもしれない。
校長にも、あの赤い目にも、まだ遠かった。
だからこそ、あの頁を読むのが楽しみだった。
寝台の横へ指を伸ばすと、キーノがその先を見た。
「杖を取るな」
「手の届く場所にあるか、確かめただけですよ」
「確かめたなら、もう寝ろ」
黒檀に触れた指を離した。
枕へ頭を戻すと、キーノが毛布を胸元まで引き上げる。
「続きは、起きてからですね」
「そうしろ」
椅子を引く音がした。
キーノが立ち、帰る前にもう一度顔を覗き込んだ。
鬼太郎は目を閉じた。
扉が開いても、今度は杖へ手を伸ばさなかった。