第154話 同じ机につく条件
翌朝、寝台から降りても、胸元の布は傷へ擦れなかった。
鬼太郎が肩を動かすと、ポンフリー夫人がその手を止めた。胸と頬を確かめ、歩くところを見てから、着替えを認める。
続いた指示は、着替えの許可より長かった。
激しい運動はしない。魔法の練習も休む。疲れが戻れば医務室へ来る。
鬼太郎は一つずつ返事をした。
動かして確かめたい気持ちはあった。だが、傷が痛まないことと、昨夜使った力が全て戻ったことは同じではない。
銃を抜かずにホルスターを着け、服とローブを整える。寝台の横から黒檀を取り、収めた。
ロンも帰寮を許された。
二人が支度をする間、ハリーは眠っていた。薬を当てられた腕が毛布の上にあり、呼吸は落ち着いている。
「まだ、起きないんだな」
ロンが寝台の傍で言った。
「休ませてあげなさい。目が覚めたら知らせます」
夫人に答えて頷き、ロンは足を戻した。鬼太郎もハリーの顔を見てから、医務室を出る。
昨夜の事件への対応で、この日の授業は取りやめになっていた。生徒は基本的に寮で過ごすよう告げられ、朝食の後、鬼太郎には校長室へ来るよう知らせが届いた。
キーノは頬の薄い傷跡を見て、それから鞄へ目を移した。
「本の話か?」
「昨夜のことも、お話しするでしょうね」
「戻ってから、どこまで分かったか教えろ」
「ええ」
鬼太郎は椅子から立った。
廊下へ出る前に振り向くと、キーノは足取りを見ていた。目が合って、短く頷く。
鬼太郎は鞄の紐を肩へ掛け直し、校長室へ向かった。
◆
扉が開くと、ダンブルドアは机から手を離した。
鬼太郎は普段の速さで入ってきた。頬には傷の跡が残っているが、血は拭われていた。鞄を置く動作にも、痛みを堪える間はない。
「掛けなさい。今朝の具合はどうじゃ」
「傷は、問題ありません。今日は練習を休むようにと言われています」
「ポンフリーの言うことは、守るんじゃぞ」
「はい」
少年が座るのを待ち、ダンブルドアも腰を下ろした。机の紙を脇へ寄せる。
「無事に戻ってくれて、よかった」
鞄の紐から、鬼太郎の指が離れた。
「昨夜は、ハリーを見てからでなければ、ゆっくり顔を確かめることも出来んかった。こうして話せるのを、嬉しく思う」
「ご心配をお掛けしました」
鬼太郎が少し頭を下げた。
ダンブルドアは、その先を少年に言わせなかった。
「わしからも、謝らねばならぬ」
顔が上がる。
「学校を空け、君たちが戦っている間、ここにおらんかった。すまなかった」
焼けた腕も、地下に広がる灰も、着いたときには既にあった。目の前の少年の頬へ、自分が間に合わなかった跡が残っている。
鬼太郎はすぐには答えなかった。
「魔法省から呼ばれていたと伺いました」
「うむ。今となっては、あの呼び出しに、ヴォルデモートの配下が関わった可能性を疑っておる」
「先生を、学校から離すためですか」
「そう考えると、昨夜の動きとよく合う。じゃが、誰がどこへ手を回したかまでは、まだ確かめられておらん」
ダンブルドアは机へ片手を置いた。
「正式な呼び出しとして届いた以上、対応する必要があった。敵がいるかもしれぬというだけで、全ての連絡を退けるわけにもいかん。それでも、ここを離れると決めたのは、わしじゃ」
「関わったかどうかは、これから調べるのですね」
「うむ。今分かっていることと、疑っていることは分けておきたい」
鬼太郎が頷く。
それで話を終わりにする気はないらしかった。
「配下は、まだ残っているのですね」
「死喰い人と呼ばれる者たちじゃ。ヴォルデモートに仕え、腕に闇の印を刻んだ者たちがおる」
「見れば分かるものなのですか」
「印を見られれば、手掛かりにはなる。いつでも袖の下を確かめられるわけではないがの。それに、かつての配下と知られながら、今も表社会で暮らしている者もおる」
「どうして、戻れたのです?」
「主人が敗れた後、自分は操られていたと弁明した者たちじゃ。服従の呪文で、意思に反して従わされたのだと」
「全員、そうだったのでしょうか」
「その言葉だけで、全員を信じるつもりはない。一方で、実際に操られた者がいたことも、忘れてはならぬ」
少年は膝へ置いた手を動かした。
「では、今の仕事や肩書だけで、関わりがないとは言えませんね」
「そうじゃ。主人が力を失っても、人との繋がりまで消えるわけではない」
ダンブルドアはそこで止め、返答を待った。
以前、この少年は自分の過去を差し出した。求める対価を明らかにし、秘密を守って条件を果たす相手として、こちらを選んだ。
判断まで預けられたわけではない。
少年の望みは、こちらが力を貸すかを決める手掛かりにもなる。だが、それを知ろうとして、自分の疑いを事実に見せかけるつもりはなかった。
「昨夜のことを、聞かせてくれるかね」
「はい。僕が着いたときには、ハリーさんは縄で縛られて、鏡の前に立たされていました」
鬼太郎は、最奥へ入ったところから話した。
こちらへ向け直された杖。クィレルの腕にあった本。頭の後ろから出る声と、そこに現れた顔。
石がいつハリーへ渡ったのかは、知らないと答えた。
ダンブルドアは、その空白を推測で埋めさせなかった。
「クィレル先生には、こちらから攻める余地がありました。ですが、ヴォルデモートが身体を動かし始めると、それがほとんどなくなりました」
「途中から、直接操ったということじゃな」
「ええ。混乱させたはずの相手が、迷わず杖を向けてきました。脚も視界も、治ったようには見えません。それでも、動かし方が違いました」
柱へ入った向きと、次に狙われた場所を、小さな手の動きで示す。
両腕を止められたところで、その手が膝へ戻った。
「硬直は、自分で解きました。ただ、すぐに動かせば気づかれますので、そのままに見せておいたんです」
「反撃を隠すためか」
「はい。ハリーさんがぶつかり、手首へしがみついてくれたので、杖を拾えました。あの行動がなければ、間に合わなかったと思います」
自分の反撃の前に、何があったかを省かなかった。
触れた肌が焼け、離れた後も崩れ続けたこと。武装解除で杖と身体を飛ばしたが、その呪文で灰にしたのではないことも。
「影は、柱を抜けていきました。どう捕らえるか分かりませんでしたし、戻る約束もありましたから」
「そこで止まった判断は、よかった」
鬼太郎の口元が上がった。
「次は、あなた自身の身体でお相手いただきたいとは、言いましたが」
ダンブルドアは眼鏡の上から少年を見る。
「……それを、あの場でかね」
「はい。次に膝をつくのは僕だと、返されました」
「期待どおりの返事だったようじゃな」
「楽しみではあります」
小さく息を吐いた。
この少年が強い相手との再戦を喜ぶことは、既に知っている。だからこそ、引き返したことも、ただの臆病さで片づけず聞く必要があった。
鬼太郎の視線が、机の脇へ動く。
そこには、昨夜預かった本があった。
「本を取りに行きたかったことも、否定はしません。学校でまだ学びたいことがありますし、あの人に壊されるのも困ります」
「ハリーたちだけを理由に、来たわけではないのじゃな」
「ええ。三人には待つように言いましたが、先に行かれてしまいました。ただ、僕も最初から、行くつもりでした」
言葉を切り、こちらへ目を戻す。
「約束を破ったことは、昨夜お伝えしたとおりです。理由を違うものにするつもりはありません」
「分かった。今回帰ってこられたことを、次も同じように出来る保証にはせんでほしい」
「承知しています」
少年の指が、鞄の紐へ触れた。
「もう一つ、話しておくことがあります。ヴォルデモートから、勧誘されました」
ダンブルドアの手が止まった。
「どのような話だったかね」
「闇の魔術や秘術を教えること。強い方と戦う機会も与えると。望むものを手に出来る立場を用意する、とも言っていました」
少年は目を逸らさなかった。
「僕も、かなり好意的にお返事しましたよ」
「興味があるように見せたのか。それとも、本当に?」
「本当にです。あの人から教われることは、有益だと思いました」
鬼太郎が軽く笑った。
「油断させるためだったと言えば、安心していただけるのでしょうが。それでは、昨夜の僕とは違います」
ダンブルドアは笑い返さなかった。
手の中へ収めたい者に、欲しいものを並べる。ヴォルデモートの狙いは分かる。目の前の少年にとって、その誘いが軽くないことも。
鬼太郎は、それを隠さず話している。
「では、何を受け入れられなかった?」
「余の下につけ、と言われました」
笑みが薄くなる。
「僕が何を望み、誰と戦うかまで、あの人が決める。そのために強くなりたいわけではありません」
「教わることに、魅力があってもか」
「はい。手に入らなければ、別のもので強くなればいいんです」
鬼太郎は黒檀を収めたところへ手を添えた。
「この杖も、学校で覚えた呪文も、以前の僕は知りませんでした。まだ知らないものは、沢山あります」
視線が本へ戻った。
「あの人に従うために、自分で選べる道を捨てるつもりはありません」
ダンブルドアは少し間を置いて、頷いた。
「何に惹かれ、何を断ったか。話してくれて、ありがとう」
「先生にも、力をお借りしたいとは思っています。ただ、僕が何を求めるかは、僕が決めたいんです」
「うむ。わしがどこへ力を貸せるかも、互いに確かめる必要がある」
「ええ。そのために、お願いしています」
ダンブルドアは魔導書を机の中央へ移した。
以前、前世の話を聞いたときも、使うための協力まで約束したわけではなかった。
何が出来るのか。どんな危険があるのか。
今あるのは、現物を前に、それを調べるという約束だった。
「この本について、覚えていることも聞こう。分からぬところは、分からぬままにしておかねばならん」
「それを、分かるようにしたいんです」
少年が椅子を少し前へ寄せる。
「使えるようになれば、先生にも、あの人にも、今より近づけるかもしれませんから」
「だからといって、すぐに何かを呼んでみるわけにはいかんぞ」
「もちろんです。使う前に確かめたいから、お見せしたんですよ」
ダンブルドアは閉じた表紙へ手を置いた。
鬼太郎も手を伸ばしかけたが、本の前で止めた。代わりに鞄から帳面を取り出し、机へ置く。
「読めるところから、始めましょうか」
「うむ」
羽根ペンが、まだ何も書かれていない頁の上へ構えられた。
その前で、ダンブルドアが魔導書の表紙を持ち上げた。