第155話 掌に戻る機械
表紙の下には、細かな記述が詰まっていた。
鬼太郎は羽根ペンを持ったまま、校長の手を見た。
指が紙の端を押さえる。
何も起きなかった。
次の頁がめくられても、机の上には紙の擦れる音だけが残る。ダンブルドアは眼鏡の位置を直し、同じところへ目を戻した。
「……読めぬな」
「先生にも、ですか」
「見慣れた魔法書の記述として、読み進めることが出来ん。何を示すものか、どこから辿ればよいのかも、今のわしには分からぬ」
鬼太郎は前へ身を寄せた。
字に見える形と、線で繋がれた図が並んでいる。同じ形が幾つか繰り返されていた。だが、それが同じ意味を持つのか、別の場所では働きが変わるのかさえ判断出来ない。
悪魔を呼んだ本だ。
それなのに、開けば手順が分かるわけではなかった。
鬼太郎は帳面の白い頁を見た。何か書き留めようと構えたペン先は、まだ紙へ下りていない。
「触れるだけなら、今のところ、わしには異常はない」
校長が本を中央へ戻した。
「鬼太郎にも、見覚えがあるか確かめてほしい。ただし、何かを唱えたり、力を通したりはせんように」
「はい。まずは、見るだけですね」
羽根ペンを帳面の脇へ置いた。
開いた記述を目で追い、次も確かめようと左手を伸ばす。
指が、紙へ触れた。
その下で細い線が光る。
手を引こうとした。だが、その前に、机の上へ別の景色が重なった。
手の中に、小さな機械があった。
黒い外装と、収まった画面。
握る手は、今より大きかった。親指が端へ掛かり、もう一方の指が迷わず操作する。画面の表示が変わった。
呼び出す相手を選ぶ。
その前に、確かめることがあった。
相手は登録されているか。今、呼び出せる状態なのか。戦いの直前に、来られないものを選ぶわけにはいかない。
COMP。
名前が、手の中の重みと結びついた。
同じ機械を握る記憶が重なる。
使っていたのは、自分だけではなかった。形の違う端末を持った者もいた。操作に戸惑い、同じ箇所を繰り返し押す指を、自分が傍から見ていたこともある。
装置を動かすために、自分と同じ力が必要だったわけではない。
だが、画面を操作出来ることと、呼び出したものが従うことは別だった。
要求を聞く。言葉を選び、受けるか、退けるかを決める。
機械は悪魔を呼ぶ。
悪魔の意思まで、代わりに決めてくれるわけではなかった。
長く使った。
戦う前に表示を確かめた。動かなくなれば、どこで止まったかを調べた。来るはずの相手が来ない。その一度が、自分の死に繋がり得る。
何を確かめ、どこへ処理を渡すのか。
命を預けるものの働きを、知らないままにしておく気はなかった。
画面の文字が流れた。
選び、繋ぎ、動かすための記述。仕組みを辿り、必要なものを組み直したときの感覚が戻る。
悪魔召喚プログラム。
機械へ行わせていた処理を、知っている。
紙の頁が、視界へ戻りかけた。
今は機械ではない。ここに画面も、操作するための部品もない。
それでも、記憶を走った処理と、頁を埋める並びが、頭の中で近づいた。
「鬼太郎」
遠くで、名前を呼ばれた。
◆
指は、頁の端へ止まっていた。
光はすぐに消えた。だが、鬼太郎は手を引かず、紙をめくりもしない。開いた目が、本の上の一点から動かなかった。
「わしの声が聞こえるか」
返事がない。
ダンブルドアは立ち上がった。
苦痛は顔に出ていない。胸も動いている。それでも、近くで呼びかけた声へ目が向かなかった。
自分が触れたときには、反応がなかった。
それをもとに判断した。今、同じ紙へ触れた少年に、違うことが起きている。
右手に杖を持ち、左手を肩へ置いた。強く揺すらず、顔を覗き込む。
「鬼太郎。答えられるなら、返事をしなさい」
少年の指が曲がった。
目が閉じられ、細く息が漏れる。
「……先生」
顔が上がった。
視線が合う。ダンブルドアは肩の手を残したまま、その目が自分を捉えていることを確かめた。
「痛むところはあるかね」
「いいえ。少し、驚いただけです」
鬼太郎が左手を見た。
ゆっくり紙から離し、指を開く。
「何が起きた?」
「……思い出しました」
視線が本へ戻った。
「生前、僕は小さな機械を使って、悪魔を召喚していたんです。COMPと呼んでいました」
「触れたことで、その記憶が戻ったのか」
「はい。使っている自分を。それに、どう動いていたのかも」
ダンブルドアは肩から手を離した。
鬼太郎は帳面へ手を伸ばしかけ、こちらの視線に気づいて止める。
「今は、先生のお話も聞こえています。身体も動きますよ」
「うむ。じゃが、もう一度触れるのは、話を聞いてからにしよう」
「分かりました」
返答を聞いてから、椅子へ戻った。
杖は机の脇へ置く。本は開いたまま、二人の間に残した。
「その機械は、鬼太郎のためだけに作られたものだったのかね」
「いいえ。同じようなものは、沢山ありました」
掌へ収まる大きさを、両手で示す。
「形に違いはあっても、悪魔を召喚する仕組みが入っていました。僕は長く使っていたんです」
「誰でも、使えた?」
「ええ。僕と同じ力を持っている必要はありません。こちらでいう、マグルでも扱えるものです」
ダンブルドアは少年の手から、本へ目を移した。
これまでは、特殊な力を持つ少年が、以前の仲間を呼ぶ手段を求めていると考えていた。その望みと、この本の危険を確かめようとしていた。
機械は、一つではなかった。
魔法を使えない者でも、扱えた。
「装置があれば、誰でも悪魔を従えられるということかね」
「召喚出来ることと、従ってもらうことは別です」
すぐに首が振られた。
「悪魔にも意思があります。呼べたからといって、言うことを聞くとは限りません。仲魔にするには、相手と関わらなければなりませんでした」
「森で呼ばれた悪魔も、命令に不満を返していたのじゃな」
「はい。機械が、相手の意思まで決めるものではありません」
ダンブルドアは、机の上で指を開いた。
魔法使いが知らない方法を、魔法使いでない者まで使える。それが多数の手へ渡れば、隠してきた世界も、今の力の釣り合いも、同じ形では保てないかもしれない。
しかも、相手は道具ではない。
自分の力に出来ると信じて呼んだものが、その場の人間へ牙を向けることもある。
「その仕組みが、この世界でも広く使えるようになれば、多くの者の生き方が変わる」
鬼太郎が、校長の顔を見た。
「使う者が何を呼び、相手がどう振る舞うか。知らぬまま、手にした者が試すことも考えねばならぬ」
「この本が、同じことを出来るかどうかは、まだ分かりませんよ」
「うむ。機械の話と、この本に出来ることを、一つにしてしまうつもりはない」
開いた記述へ、視線を落とした。
クィレルは本で悪魔を呼んだ。鬼太郎が目撃したのは、その事実だった。森の相手も、地下のクィレルも、衰弱していたという。
それだけで、この本が何を奪ったかを決めることは出来ない。
広まる危険を考えるにも、まず目の前の記述を知る必要があった。
「操作だけでなく、仕組みも戻ったと言ったな」
「はい。悪魔召喚プログラムというものです」
鬼太郎は少し考え、言葉を選んだ。
「機械へ、必要な処理を順に行わせるためのものです。何を確かめ、どう繋げて呼び出すか。その知識はありました」
「使ううちに、覚えたのか」
「生死を分けるものですからね。動かなければ、困るだけでは済みません」
帳面の端へ、指が置かれた。
「同じ仕組みのプログラムを作る知識も、思い出しています。ただ、以前は機械がありました。今の本に同じものを書けば動く、とは言えません」
ダンブルドアは頷いた。
戻った知識があっても、本を無事に使えると分かったわけではない。自分には何もなかった触れ方で、少年には反応が起きた。
その違いを無視して、呼ぶことだけを試せばよいはずがなかった。
「まず、確かめたいことがある」
頁を示す。
「鬼太郎は、この本を読めるかね。戻った記憶で、書かれていることを理解出来るか、見てほしい」
少年が身を寄せた。
先ほどは、すぐ次を見ようとしていた。今は一つの形へ目を留め、そこから伸びる線を辿っている。
「……少し、時間をいただけますか」
「もちろんじゃ」
鬼太郎は帳面を寄せ、羽根ペンを取った。
本には触れず、同じ頁の中で繰り返される形を一つ写す。その下へ、似ているが線の付き方が違うものを並べた。
繋がる線を描きかけ、ペン先が止まる。
「同じものだと思ったかね」
「見た目は近いのですが……同じ働きとして扱ってよいか、まだ分かりません」
鬼太郎は、二つを結びかけた線を途中でやめた。
その横へ小さく疑問符を書き、本の同じ箇所を見直す。
ダンブルドアは、次の言葉を急がせなかった。
帳面の上には、二つの形と、繋がらない線が残っていた。