第173話 目覚めた朝にも、問いは残る
白い天井が見えた。
ハリーは瞬きをした。石のアーチも、鏡もない。頭の下には枕があり、胸まで毛布が掛けられている。
医務室だった。
顔を横へ向けると、寝台の傍に菓子の箱が積まれていた。包みからカードが覗き、その奥には花もある。誰のものか確かめようとしたとき、椅子から衣擦れの音がした。
「おはよう、ハリー」
ダンブルドアが座っていた。
その顔を見た途端、石の床と、指の下で焼けていく腕を思い出した。クィレルの身体が崩れ、鬼太郎が前に立った。どこからか、黒いものが――。
「先生、石は?」
起き上がろうとして、肘へ力を入れる。身体が思ったより重く、枕から頭を離すだけで息が詰まった。
「慌てなくてよい。石は、わしが預かった」
「ヴォルデモートは……鬼太郎は、大丈夫ですか?」
「鬼太郎も、ロンも無事じゃ。手当てを受けて、もう寮へ戻っておる。ヴォルデモートは石を手に入れられず、学校から去った」
ハリーは枕へ戻った。
鬼太郎の胸元には、血が付いていた。立っていたからといって、平気だったとは限らない。だが、寮へ戻ったのなら、歩けるほどにはよくなったのだろう。
「僕は、どれくらい寝ていたんですか?」
「三日じゃ。皆、目を覚ますのを待っておったよ」
ハリーは、もう一度菓子の山を見た。
「これ、僕に?」
「見舞いの品じゃ。食べるのは、ポンフリーがよいと言ってからにしよう」
校長が、倒れかけたカードを箱へ立て掛け直した。
ハリーは毛布の上へ手を出した。腕は手当てされていた。指を曲げると動いたが、クィレルの手首を掴んだときの感触が、まだ指の間に残っているようだった。
「石は、別の場所に隠すんですか?」
「いや。ニコラスと話し合い、壊すことにした。もう、石はない」
ハリーは校長を見た。
「でも……それがないと、フラメルは」
「ニコラスも、奥方も、いずれは亡くなる」
あまりに静かな答えで、ハリーはすぐに言葉を返せなかった。
石を守ろうとして地下へ行った。ヴォルデモートに渡らずに済んだなら、それでよかったはずだ。その石を壊して、持ち主が死ぬことになるとは考えていなかった。
「ほかに、方法はなかったんですか?」
「二人が選んだことじゃ、ハリー。わしが勝手に奪ったわけではない。身の回りを整えるだけの命の水は、残っておる」
ダンブルドアは、ハリーの顔を見て続けた。
「二人は、長い人生を共に過ごした。終わりを迎えることについても、話し合っておる。わしたちに寂しさがあっても、二人の決めたことを大切にしたい」
ハリーは毛布の端を指で押さえた。
自分なら、死なずにいられるものを手放せるだろうか。まだ分からなかった。ただ、フラメル夫妻が何も知らずに石を壊されたのではないと聞いて、胸に詰まったものが少し緩んだ。
「クィレル先生は、どうして僕が触ると火傷したんでしょう。僕が掴んだら、腕が焼けて……」
「母上が、ハリーに残した守りじゃ」
ハリーの指が止まった。
「母さんが?」
「リリーは、ハリーを守るために命を差し出した。その行いが、ハリーの中に深い守りを残した。ヴォルデモートを宿したクィレルには、それに触れることができんかったのじゃ」
ハリーは自分の手を見た。
特別な光も、印もなかった。あのときも、ただ必死で掴んでいただけだった。
「僕は、知らなかったんです。ぶつかれば、少しは止められると思って」
「うむ」
「鬼太郎が、杖を拾えたら……二人で、何かできるかもしれないって」
ダンブルドアは頷いた。
「鬼太郎からも聞いた。ハリーが飛び出したことで、杖を拾い、反撃する機会を得られたとな」
「本当に?」
「そう話しておったよ」
ハリーは息を吐いた。飛び出した後は、痛みと熱さで、周りをよく見られなかった。役に立ったのかさえ、はっきりしなかったのだ。
校長が椅子を少し寄せた。
「じゃが、ひどく危険なことでもあった。母上の守りがあるから、どんな攻撃にも耐えられるわけではない。今回も、ハリーは傷を負った」
「……はい」
「勇気を出したことは、わしも認めておる。その勇気を、無事に帰るためにも使ってほしい」
ハリーは、手当てされた腕を毛布へ戻した。
寮に残してきたキーノへ帰ると約束した、と鬼太郎は言っていた。あの部屋でも、逃げられるか、何を取り戻せるか考えていた。
自分は石を渡したくない気持ちでいっぱいだった。もう少し違うやり方があったのかは、目を覚ましたばかりの今には分からなかった。
「鏡のことも、聞いていいですか?」
「もちろんじゃ」
「僕が見たときには、鏡の中の僕が石をポケットに入れました。そうしたら、本当に入っていて……でも、クィレル先生には取れなかった」
「石を手に入れたいと願っても、それを使うつもりのない者だけが、取り出せるようにしておいた」
ハリーは眉を寄せ、それから校長へ顔を向けた。
「僕は、ヴォルデモートに渡したくなかっただけだから?」
「うむ。富や命の水を求めて、石を使おうとしておらんかった。クィレルは、主人へ渡すために手に入れようとしていた」
鏡の中の自分が笑った意味が、ようやく分かった。
地下へ行く前には、もっと単純に考えていた。スネイプが石を狙っていて、クィレルが脅されている。自分たちが何もしなければ、石は盗まれてしまう。
だが、鏡の前にいたのはクィレルだった。
「スネイプ先生は、本当に止めようとしていたんですか?」
「そうじゃ。石を守り、クィレルを警戒しておった。箒の試合でも、ハリーを助けようとしていた」
ハーマイオニーが燃やしたローブを思い出した。
自分たちは、助けようとしていた先生を邪魔したのだろうか。ハリーは枕へ少し深く頭を沈めた。考え直さなくてはならないことが、一度に増えていく。
それでも、一つはどうしても引っ掛かった。
「でも、先生はいつも僕に意地悪をします。授業でも、僕ばかり質問して……答えられないと、点を引いて」
ダンブルドアは、否定しなかった。
「セブルスと、ハリーの父上は、学生のころから折り合いが悪かった」
「父さんと?」
「うむ。一方で、ジェームズがセブルスの命を救ったこともある。そういう相手への借りは、簡単には割り切れぬものじゃ。セブルスは、ハリーを守ることで返そうとしたのかもしれん」
ハリーは、眼鏡の向こうの校長を見つめた。
「父さんが助けたのに、僕が嫌いなんですか?」
「助けられたからといって、それまでの感情が消えるとは限らん。大人になっても、昔のことを引きずる者はおる」
「でも、僕は父さんじゃありません」
「そのとおりじゃ、ハリー」
思ったより早く同意され、ハリーは続けようとした言葉を止めた。
「父上とのことは、ハリーの責任ではない。セブルスが守ろうとしていたことと、授業でハリーがつらく感じていることは、両方とも受け止めねばならぬ」
校長は、机の上の菓子へ目を逸らさずに言った。
「話してくれたことは、覚えておこう」
ハリーは少し迷ってから、頷いた。
石を盗もうとしていたのではない。それは分かった。箒から落ちないようにしてくれたことにも、助けられたのだろう。
だが、次の魔法薬学で、スネイプの前に座りたいと思えるわけではなかった。
入口の方で足音がした。
「目が覚めたのですね」
ポンフリーが寝台へ来た。ハリーが返事をすると、顔色と腕の具合を確かめ、水を渡してくれる。
「起き上がるのは、まだ少しずつです。お話も、そろそろ終わりにしてください」
「そうしよう。ハリー、また話せる」
ダンブルドアが立った。去り際に入口で何か言葉を交わしたが、ハリーには聞き取れなかった。
その後ろから、赤い髪が覗いた。
「ハリー!」
ロンとハーマイオニーだった。
ハリーが身体を起こしかけると、ポンフリーに肩を押し戻された。
「あなたはそのまま。二人とも、短い面会ですよ」
「はい」
ハーマイオニーが即座に答え、寝台の傍へ来た。ロンは菓子の山を見て、一瞬目を丸くしてから、ハリーへ顔を戻す。
「やっと起きたんだな。何度来ても、寝てばかりでさ」
「寝かせておくように言われていたでしょう」
「分かってるよ。でも、見たら少しは安心するだろ」
ハーマイオニーは言い返さず、ハリーを見た。目が少し赤かった。
「今は、痛くない?」
「腕は少し。でも、大丈夫。ロンは?」
「僕はもう平気。ハーマイオニーが戻ってきて、一緒に待っててくれたんだ」
ハーマイオニーが頷いた。
「チェスの部屋で待っていたら、校長先生があなたを連れていらしたの。鬼太郎も一緒に歩いてきて、それから皆で医務室へ戻ったわ」
「クィレルだったんだね」
ロンの声が低くなった。
「鬼太郎から聞いたとき、何かの間違いかと思ったよ」
「僕も、最初はそう思った」
ハリーは、鏡の前で振り返った顔を思い出した。
「スネイプは、止めようとしていたんだって。試合のときも、僕を助けてた」
ハーマイオニーの手が、寝台の縁で止まった。
「じゃあ、私……」
「ダンブルドア先生が言ってた。僕たち、間違えてたんだ」
ロンは口を開け、閉じた。
「それでも、嫌な先生なのは変わらないけど」
ハリーは、少し笑った。ハーマイオニーもすぐには注意しなかった。
窓から入る光が、三人の間の毛布を照らしていた。地下では戻ってこないと思ったロンが立っていて、炎の向こうへ別れたハーマイオニーも、手を伸ばせば届くところにいる。
「鬼太郎は?」
「目を覚ましたって、知らせてもらうと思うわ」
ハーマイオニーが言った。
「キーノも、ずっと気にしていたもの」
「鬼太郎にも、会いたいんだ。最後のところ、僕にはよく分からなくて」
「会えるよ。今度は、君が寝てなければね」
ロンの返事に、ハリーはまた笑った。
ポンフリーがこちらを見たので、三人とも少し声を落とした。
聞きたいことは、まだ沢山あった。けれど今は、ロンが引き寄せた椅子の音と、ハーマイオニーが見舞いのカードを一枚ずつ見せてくれる声を聞いていたかった。