第174話 触れた手にも、知らぬ力がある
ロンとハーマイオニーが帰った後、ハリーは少し眠った。
目を開けると、飲みかけの水が寝台の傍にあった。窓から差す光の位置が変わっている。腕を動かすと、さっきよりも楽だった。
扉の方で、ポンフリーの声がした。
「長くならないように。疲れている様子があれば、すぐに切り上げてください」
「はい」
聞き覚えのある、落ち着いた返事だった。
鬼太郎とキーノが、寝台の間を歩いてきた。鬼太郎の頬には薄く傷の跡が残っていたが、胸元の服は綺麗で、歩く足も止まらなかった。
「ようやく起きたんだな」
キーノが言った。寝台の前で止まり、ハリーの顔から、毛布の上へ出した腕へ目を移す。
「痛むのか?」
「少し。でも、だいぶよくなった」
「なら、無理に起きなくていい」
ハリーは枕へ背中を預けたまま頷いた。鬼太郎が椅子を寄せ、キーノも隣の椅子へ座る。
「お話しできるようになって、よかったです」
「君も。胸に、血が付いてたから」
鬼太郎は自分の胸元へ手を置いた。
「ここは、もう治していただきました。最初は練習も休むようにと言われましたが、普段の生活には困っていません」
「最初は、じゃなくて、その日は休めと言われたんだ」
キーノが横から訂正した。
「ちゃんと休みましたよ」
「私が見ていたからな」
ハリーは少し笑った。いつもの二人の話し方だった。地下では聞けなかったやり取りが、医務室の静かな空気の中に戻ってきた。
「最後のこと、聞いてもいい?」
鬼太郎が頷くと、ハリーは腕を見た。
「僕がクィレルにしがみついて、その後、振り払われただろ。君の呪文が当たったところは見えたんだけど……」
「武装解除の呪文です。ハリーさんが相手を引きつけてくださった間に、僕は杖を拾えました」
「腕は、動いたんだね」
「ええ。反撃できるときまで、動かないようにしていたんです」
ハリーは鬼太郎の手へ目をやった。ずっと腕を固められたままだと思っていた。立つ場所を変え、身体を捻って避けていた姿を覚えている。
「それで、隠して待ってたの?」
「はい。相手の注意が戻る前に撃てるように。ハリーさんが振り払われたところで、使いました」
鬼太郎は、膝に置いた手を僅かに動かした。
「クィレル先生の杖を飛ばし、身体も石段の向こうへ吹き飛ばしました。ただ、身体が焼けて崩れたのは、僕の呪文の働きではありません」
「僕が触ったから……」
「ええ。掴んでいた手首から、広がっていました」
ハリーの指が、毛布の上で曲がった。
皮膚が焼けていくのを、間近で見た。離せばまた杖を使われると思い、掴んでいた。今、静かな寝台の上で話すと、そのときの匂いまで戻ってくるようだった。
鬼太郎は一度ハリーの顔を見て、声を落とした。
「あの力について、聞いても構いませんか」
「ダンブルドア先生から、さっき聞いたんだ。母さんが、僕を守るために死んだから、その守りが残っているんだって」
鬼太郎の視線が、ハリーの手から顔へ戻った。
「お母さんが残したものですか」
「うん。ヴォルデモートがクィレルの身体にいたから、僕に触れられなかったらしい。僕も、それ以上は分からないけど」
鬼太郎はすぐには返さなかった。少し考えてから尋ねる。
「ハリーさんが、使おうとして起こした力ではないのですね」
「そんなことできるなんて、知らなかったよ。杖を使っても通じなかったから、ぶつかったんだ。掴んだら、クィレルの方が叫んで……」
「触れたとき、ご自分の中で何か動くような感じは、ありましたか」
ハリーは、目を落とした。
クィレルの身体へぶつかる直前に、呪文を受けた痛みがあった。床へ脚を踏み出し、肩から押し込み、杖を持った手を止めようと腕を伸ばした。
「よく分からない。痛かったし、必死だったから。火傷が見えて、何か起きてるって気づいたんだ」
「自分の意思で始めたわけでも、終わらせたわけでもない」
「うん。最後まで、どうしてそうなるのか知らなかった」
鬼太郎は、ハリーの腕を見た。触れた側にも手当てが必要な傷はある。力が働いたことと、怪我をせずに済むことは別だった。
「クィレル先生が杖を使っていた間は、普通に攻撃できていました。ですが、身体を操っていたのは、途中からヴォルデモートだったと思います。それでも、ハリーさんへ触れると焼けた」
「母さんの守りは、どっちが動かしているかとは関係なかったのかな」
「そうかもしれません。ただ、今のお話だけでは、何に対して働いたのかまでは分かりませんね」
鬼太郎は椅子の背へ身体を戻した。
人が命を落とした後も、守りが残る。その守りが、本人も知らないまま働く。自分が力を巡らせ、形を定めて使う魔法とは、随分違っていた。
触れた身体から焼けていく様子は見ている。だが、それを見たことと、同じことを自分で起こせることの間には、まだ何もなかった。
「この世界には、知らない魔法が多いですね」
「先生たちでも、全部は知らないんじゃないかな」
「ええ。だからこそ、知りたいことが増えます」
鬼太郎は少し笑い、ハリーを見た。
「ですが、あの場面でよかったのは、その守りだけではありませんよ」
「え?」
「力を知らずに、ご自分で考えて前へ出たのでしょう。呪文では止められない相手へ、別の手を選んだ。おかげで、僕にも反撃する時間ができました」
ハリーは、枕へ預けた背中を少し起こした。
「脚が、震えてたんだ。君を攻撃するときも、立ち直るのが遅くて。ぶつかれば、少しは崩れると思った」
「よく見ていましたね」
「でも、近づく前に撃たれるかもしれないとは思ったよ」
鬼太郎は黙って続きを待った。
「ヴォルデモートは、僕が必要だって言ってた。鏡から石を取らせるために。だから、石を手に入れるまでは、僕を殺さないはずだと思ったんだ」
「相手が、何のためにハリーさんを捕らえていたかを考えたのですね」
「うん。怪我はするかもしれないけど……君も、あのままだと」
ハリーは言葉を切った。
鬼太郎は笑って戦っていた。それでも、次の光を避けられるかは分からなかった。自分が柱の陰にいる間にも、逃げる場所へ呪文が飛んでいた。
「ええ。あのままでは、僕も困っていました」
鬼太郎は率直に答えた。
「ハリーさんが必要だという言葉は、確かに判断の材料になります。ただ、殺さずに動けなくする方法もあるので、危険は残りますね」
「分かってたつもりだった。でも、撃たれたら、思ったより痛かった」
「次に同じことをするなら、そこも考えたいところです」
「次があるように言うな」
キーノが口を挟んだ。
鬼太郎が顔を向けると、彼女はハリーの水の杯へ目をやった。
「目を覚ましたばかりだ。話し込むな。お前も、さっきから戦いの話になると長い」
「ハリーさんが何を考えていたか、聞けましたから」
「聞けたなら、一度休ませろ」
ハリーは笑いかけ、喉が乾いていることに気づいた。キーノが杯を差し出す。礼を言って受け取ると、二人とも飲み終わるまで待ってくれた。
「君も、ちゃんと帰ってきたんだね」
杯を戻しながら、ハリーは鬼太郎へ言った。
「キーノと約束したって、言ってただろ」
「はい。追わずに、皆さんと戻りました」
「帰ってはきた。怪我もしていたがな」
キーノの返事に、鬼太郎が僅かに苦笑した。
「怪我をしないとは、約束していませんでしたよ」
「だから、怪我も話せと言ったんだ」
ハリーは二人を見た。
地下へ行く前、キーノは寮に残っていた。何が起きているか分からないまま、扉が開くのを待っていたのだろう。
「心配したよね」
「した」
キーノは短く答えた。
「お前も、三日も寝ていたんだからな」
「ごめん」
「起きたなら、それでいい。ちゃんと治してから戻れ」
鬼太郎は、キーノの横顔を見てからハリーへ向き直った。
「僕も、もう少し早く着ければよかったのですが」
「来てくれて、助かったよ。僕一人じゃ、あそこから出られなかったと思う」
ハリーは二人を見たまま言った。
「ありがとう」
「ハリーさんにも、助けていただきました。僕だけでは、あの反撃はできませんでしたから」
鬼太郎が答えた。
校長からも同じことを聞いたが、本人に言われると、胸に入ってくる感じが違った。必死で手を離さなかったことが、あの部屋にいたもう一人へ繋がっていた。
ポンフリーが寝台の間から顔を出した。
「そろそろ、おしまいですよ」
キーノはすぐ椅子から立ち、鬼太郎も続いた。
「また、寮で話しましょう。今度は戦いの話ばかりにならないように」
「本当か?」
キーノが尋ねると、鬼太郎は少し考えた。
「授業の話も、できますよ」
「呪文の使い方なら、また長くなるだろう」
ハリーは笑った。ポンフリーに見られて、今度は咳き込まないよう、ゆっくり息を吐く。
「食事のときにでも、話そうよ」
「ええ。お待ちしています」
鬼太郎が椅子を戻した。キーノはハリーの杯が手の届く場所にあるか確かめ、二人で入口へ向かう。
扉が閉じるまで見送ってから、ハリーは枕へ頭を戻した。
大広間には、いつもの席がある。隣にロンが座り、ハーマイオニーが本から顔を上げる。キーノが鬼太郎へ言い返し、誰かが笑う。
次にあの長い卓へ座ったら、自分もその話に加われる。
ハリーは手当てされた腕を毛布へ収め、今度は、その日を待つために目を閉じた。