神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

16 / 23
第二章
国を出る日


第十五話 国を出る日

 

 左腕を縫った糸が抜かれたのは、ニコラ・ペトロフを殺してから十日後だった。

 

 裏通りの診療所には、今日も薬品と煙草の臭いが染みついている。

 

 医者は鬼太郎の腕を持ち上げ、塞がった傷を指で押した。

 

「痛むか」

 

「押されれば、少し」

 

「腕を動かしたときは」

 

「ここまでなら、何も」

 

 鬼太郎は肘を曲げ、左手を胸の高さまで上げた。

 

 傷の奥が引きつる。

 

 だが、皮膚が開く気配はない。

 

 医者は腕を下ろさせた。

 

「日常生活には使っていい。重いものは持つな。撃つときの支えにも、まだ使うな」

 

「どのくらいです?」

 

「あと一週間だ。何もなければな」

 

「国境を越えるだけなら、問題ありませんね」

 

 医者の手が止まった。

 

「今度は何をする気だ」

 

「国を出ます」

 

「その腕でか」

 

「腕で歩くわけではありませんから」

 

「前にも聞いたな、それは」

 

 医者は小さな鋏を取った。

 

 結び目を切り、一本ずつ糸を抜いていく。

 

 鬼太郎は、右手だけで椅子の端を掴んでいた。

 

 この十日間、新しい仕事は受けていない。

 

 買い手の事務所には、鬼太郎を指名する依頼がいくつか届いていた。

 

 だが、すべて断った。

 

 報酬は必要だったが、今は足りている。

 

 傷を開いて出発を遅らせる方が、損失は大きい。

 

「終わりだ」

 

 最後の糸が抜かれた。

 

 左上腕には、赤黒い線が残っている。

 

 頬の傷は細い痕になり、脇腹の傷も薄い皮で塞がっていた。

 

「熱が出る。腫れる。膿が出る。どれか一つでもあれば、向こうで医者を探せ」

 

「分かりました」

 

「分かった顔には見えん」

 

「いつも、この顔ですよ」

 

 鬼太郎は代金を机へ置いた。

 

 診療所を出る。

 

 空は曇っていた。

 

 冷たい風が上着の袖を揺らす。

 

 傷が塞がるまでの間に、青い装束の人物を三度思い出した。

 

 最初は刃がぶつかる光景だった。

 

 二度目は、背中を預けて何かと戦っている光景。

 

 三度目は、互いに傷だらけのまま向き合っている光景だった。

 

 顔は見えない。

 

 声も聞こえない。

 

 名前も戻らなかった。

 

 それでも、思い出そうと力を込めることはしなかった。

 

 必要になれば、残りも戻る。

 

 アギも、銃の扱いも、プリンパもそうだった。

 

 今は、英国へ向かう方が先だった。

 

     ◆

 

 ペタル・ヴァルチェフは、分解した〈シュライク〉を作業台へ並べていた。

 

 火と煙に晒された銃身。

 

 床へ転がったときについた細い傷。

 

 煤の混じった汚れ。

 

 ペタルは部品を一つずつ拭い、歪みがないか確かめていく。

 

「空になるまで撃ったそうだな」

 

「ええ」

 

「何人だ」

 

「一人です」

 

 ペタルが手を止めた。

 

「一人に全部か」

 

「外した弾もあります。足場を落とすのにも使いました」

 

「銃は金槌じゃない」

 

「知っていますよ。撃ったのは留め具です」

 

 ペタルは返事をしなかった。

 

 薄い金属棒を銃身へ通し、内側を確かめる。

 

 鬼太郎は作業台の前に座っていた。

 

 左腕は膝の上へ置いている。

 

「傷は」

 

「今朝、糸を抜きました」

 

「撃てると言われたか」

 

「右手だけなら」

 

「撃つなと言われた顔だな」

 

「左手で支えなければよいそうです」

 

「言葉の隙間を撃ち抜くな」

 

 ペタルは組み直した〈シュライク〉を布の上へ置いた。

 

「銃は無事だ。お前の方がひどい」

 

「僕も無事ですよ」

 

「銃より修理に時間がかかっている」

 

「人間ですから」

 

 鬼太郎は〈シュライク〉を右手に取った。

 

 握りを確かめる。

 

 引き金へ指はかけない。

 

 重さも、手に触れる位置も変わっていなかった。

 

 ペタルが新しい弾薬と、空の予備弾倉を作業台へ出す。

 

「頼まれた分だ」

 

 鬼太郎は数を確認した。

 

 右手だけでは時間がかかる。

 

 それでも、ペタルは手を貸さなかった。

 

 数え終えてから、決められた代金を支払う。

 

「明日、出るのか」

 

「その予定です」

 

「英国まで行けば、ここへ戻る方が難しくなる」

 

「そうでしょうね」

 

「その銃は、今のお前に合わせてある。背が伸びて、手が大きくなれば合わなくなる」

 

 鬼太郎は〈シュライク〉を見た。

 

 六歳の手に収まるよう、最初から作られた銃。

 

 前世の記憶を呼び戻し、今の身体で戦う方法を与えた武器。

 

 だが、身体は変わる。

 

 いつまでも同じ道具を使えるとは考えていなかった。

 

「そのときは、また作っていただきます」

 

「英国からか」

 

「必要なら戻ります。戻れないなら、戻れるようにします」

 

 ペタルは鬼太郎を見た。

 

 それから、鼻で短く息を吐いた。

 

「次は、銃と一緒に自分も持ってこい」

 

「もちろんです。僕がいなければ、採寸できませんからね」

 

 鬼太郎は弾薬を鞄へ入れた。

 

 弾を入れていない〈シュライク〉を専用ホルスターへ収める。

 

「お世話になりました」

 

「金はもらった」

 

「ええ。よい取引でした」

 

 鬼太郎は作業場を出た。

 

 ペタルは見送りに出なかった。

 

 金属を磨く音が、閉じた扉の向こうから聞こえていた。

 

     ◆

 

 買い手の机には、三種類の紙が並べられていた。

 

 国境までの経路図。

 

 その先で使う連絡先。

 

 そして、キリル・ヴァシレフの名が記された書類。

 

 イリーナ・ヴァシレヴァは、机の脇に立っている。

 

「もう一度だ」

 

 買い手が経路図の一点を指した。

 

「ここまではイリーナの車で行く。最初の国境を越えたあとも、しばらくは同じ車だ。途中で車と運び手を替える」

 

「連絡相手が来なければ?」

 

「二時間待て。それでも来なければ、印を残さず次の場所へ移れ」

 

「金を追加で要求された場合は?」

 

「決めた額より払うな。一度払えば、次も取られる」

 

「相手が武器を向けたら?」

 

 買い手は鬼太郎を見た。

 

「それを俺に聞くのか」

 

「確認ですよ」

 

「イリーナの判断に従え。国境の近くで火事を起こせば、軍まで来る」

 

 鬼太郎は頷いた。

 

 買い手は紙を重ね、革の封筒へ入れた。

 

「この先の連中は、お前の力を知らない。知らないままでいられるなら、その方がいい」

 

「必要がなければ使いません」

 

「必要だと決めるのが早いから言っている」

 

 イリーナが机へ手を置いた。

 

「書類を」

 

 買い手はキリルの書類を渡した。

 

 イリーナは一枚ずつ確認し、自分の書類と照らし合わせる。

 

 そこにいるのは、墓場鬼太郎ではない。

 

 イリーナ・ヴァシレヴァの甥、キリル・ヴァシレフだった。

 

 本名が消えたわけではない。

 

 国境を越える間だけ、別の名前を借りる。

 

「名前は?」

 

 イリーナが尋ねた。

 

 鬼太郎はすぐには答えなかった。

 

 机の上の書類へ目を落とし、僅かに間を置く。

 

「キリル・ヴァシレフです」

 

「私は」

 

「叔母のイリーナです」

 

「どこへ行く」

 

「叔母さんと一緒に、西へ」

 

「何をしに」

 

 鬼太郎はイリーナを見上げた。

 

「それは、叔母さんが知っています」

 

 イリーナが頷く。

 

「それでいい。知らないことを作るな」

 

 次に、鬼太郎の頬へ目を向けた。

 

「傷を聞かれたら」

 

「転びました」

 

「どこで」

 

「道で」

 

「何をしていた」

 

 鬼太郎は少し考えた。

 

「遊んでいて」

 

「誰と」

 

「そこまでは聞かれないでしょう」

 

「聞かれた」

 

 鬼太郎は黙った。

 

 実際にいない相手の名前を作れば、続けて尋ねられたときに答えが増える。

 

「一人で走っていて、転びました」

 

「それでいい」

 

 買い手が封筒を閉じた。

 

「金は」

 

 鬼太郎は鞄から紙幣を出した。

 

 渡航に必要な額を机へ置く。

 

 ニコラを殺して得た報酬の大半が消えた。

 

 買い手は紙幣を数え、足りていることを確認する。

 

「ここまでだ」

 

「何がです?」

 

「俺の仕事だ。国境から先で何があっても、追加の面倒は見ない」

 

「最初から、その条件でしょう」

 

「確認だ」

 

「では、僕からも確認を」

 

 鬼太郎は空になった鞄を閉じた。

 

「約束された書類と経路と同行者は、すべて揃っていますね?」

 

「揃っている」

 

「それなら、取引は完了です」

 

 買い手は封筒をイリーナへ渡した。

 

「最初にここへ来たとき、お前は人買いに連れられた子供だった」

 

「そう見えるようにしていましたからね」

 

「今度は、自分から国境を越えるのか」

 

「ええ。そのために、ここへ来たのです」

 

 鬼太郎は椅子から立った。

 

「お世話になりました」

 

「仕事をさせた。金も取った」

 

「ですから、よい取引でした」

 

 ペタルへ告げたものと同じ言葉だった。

 

 買い手も、鬼太郎を見送るためには立たなかった。

 

     ◆

 

 出発は、翌朝の日が昇る前だった。

 

 イリーナの車が、人気のない通りに停まっている。

 

 鬼太郎は小さな鞄を後部座席へ置いた。

 

 中には衣服と食料、残った現金が入っている。

 

 襲撃者から回収した細い杖は、衣服の間へ包んでいた。

 

 何に使う道具なのかは、まだ分からない。

 

 父の英国出生を示す書類は、鞄にはない。

 

 イリーナが車内に作った隠し場所へ収めている。

 

 〈シュライク〉と弾薬は、それとは別の場所だった。

 

 どちらか一方が見つかっても、すべてが同時に失われないようにするためだ。

 

 鬼太郎の手元にあるのは、キリル・ヴァシレフの書類だけだった。

 

「乗れ」

 

 イリーナが運転席から言った。

 

 鬼太郎は後部座席へ座る。

 

「助手席ではないのですか?」

 

「六歳の甥なら後ろだ」

 

「なるほど」

 

 扉を閉める。

 

 車が動き出した。

 

 窓の外を、夜明け前の街が流れていく。

 

 最初に買い手と会った建物。

 

 仕事の前後に通った道。

 

 ペタルの作業場へ続く角。

 

 ここで〈シュライク〉を手に入れた。

 

 銃とアギを組み合わせる方法を作った。

 

 人間を追い、捕らえ、殺し、その対価で英国へ向かう道を買った。

 

 それだけだった。

 

 窓の向こうから街が消えても、鬼太郎は振り返らなかった。

 

     ◆

 

 国境へ着いたのは、昼を過ぎてからだった。

 

 前方には車の列ができている。

 

 制服姿の係官が書類を受け取り、荷台や車内を調べていた。

 

 イリーナは列の最後へ車をつけた。

 

「今から、お前はキリルだ」

 

「ここへ来るまでは違ったのですか?」

 

「余計なことを言うなという意味だ」

 

「分かっていますよ、叔母さん」

 

 イリーナが鏡越しに鬼太郎を見る。

 

「その呼び方でいい。だが、楽しそうに言うな」

 

「注文が多いですね」

 

「生きて向こう側へ行きたいなら覚えろ」

 

 車が少しずつ進む。

 

 前の車が調べられていた。

 

 係官が荷物を一つずつ地面へ下ろしている。

 

 別の男は、棒を使って車の下を覗き込んでいた。

 

 鬼太郎は窓の外を眺めた。

 

 〈シュライク〉は手の届かない場所にある。

 

 見つかった場合、その場で撃つことはできない。

 

 左腕も、まだ完全には使えない。

 

 アギなら発動できる。

 

 だが、買い手が言ったとおり、国境で炎を使えば兵士まで集まる。

 

 必要なら使う。

 

 使わずに越えられるなら、その方がよい。

 

「考えるな」

 

 前を向いたまま、イリーナが言った。

 

「顔に出ていますか?」

 

「出ていないから言っている。黙りすぎるな。怖がっている子供にも、何かを隠している子供にも見える」

 

「難しいものですね」

 

「窓の外でも見ていろ」

 

 やがて、車が検問所の前へ出た。

 

 係官が手を上げる。

 

 イリーナは車を停め、窓を開けた。

 

 書類を渡す。

 

 係官はイリーナの顔と書類を見比べた。

 

 次に、後部座席へ目を向ける。

 

「子供は?」

 

「甥です」

 

「名前は」

 

 鬼太郎は、自分へ向けられた顔を見た。

 

 すぐには答えない。

 

 一度だけイリーナを見てから、口を開く。

 

「キリル・ヴァシレフです」

 

「歳は」

 

「六歳です」

 

 係官が鬼太郎の書類をめくる。

 

「どこへ行く」

 

「叔母さんと一緒に、西へ行きます」

 

「何をしに」

 

 鬼太郎はイリーナを見た。

 

「親戚を訪ねます」

 

 イリーナが代わりに答える。

 

 係官は鬼太郎の頬へ視線を戻した。

 

「その傷は」

 

「走っていて、転びました」

 

「どこでだ」

 

「家の近くの道です」

 

「一人で?」

 

「はい」

 

 係官はしばらく鬼太郎を見ていた。

 

 鬼太郎は視線を逸らした。

 

 怯えたふりはしない。

 

 ただ、知らない大人に見つめられて居心地が悪い子供のように、窓の外を見る。

 

「降りろ」

 

 係官が言った。

 

 イリーナと鬼太郎は車を降りた。

 

 別の係官が、後部座席の鞄を開ける。

 

 衣服を持ち上げる。

 

 包んだ杖へ手が近づいた。

 

 鬼太郎は動かなかった。

 

 係官は杖を掴み、布の中から引き出した。

 

「これは」

 

「棒です」

 

 答えたのはイリーナだった。

 

「見れば分かる」

 

 係官は杖を持ち上げた。

 

 細い木の棒。

 

 鬼太郎にも、まだそれ以上の説明はできない。

 

「この子が拾ったものです。捨てろと言っても聞かない」

 

「なぜ持っていく」

 

 係官が鬼太郎へ尋ねる。

 

 鬼太郎は杖を見た。

 

「気に入っているからです」

 

 嘘ではなかった。

 

 使い方の分からない道具だが、両親を殺した者が持っていた。

 

 いつか、その意味へ辿り着くための手掛かりだった。

 

 係官は杖を曲げようとした。

 

 鬼太郎の左手が、僅かに動く。

 

 イリーナの手が肩へ置かれた。

 

 係官は途中でやめた。

 

 壊すほどのものでもないと判断したらしい。

 

 杖を鞄へ戻す。

 

 衣服と食料の下まで確認したが、それ以上のものは出なかった。

 

 もう一人の係官が、車内の床と座席の下を調べている。

 

 父の書類にも、〈シュライク〉にも届かない。

 

 やがて、車の扉が閉められた。

 

 最初の係官が書類へ印を押す。

 

「行け」

 

 イリーナは書類を受け取った。

 

 二人は車へ戻る。

 

 鬼太郎は後部座席へ座った。

 

 車が検問所の先へ進む。

 

 遮断棒が上がった。

 

 前方の道へ出る。

 

 鏡の中で検問所が小さくなっていく。

 

 イリーナはしばらく何も言わなかった。

 

 鬼太郎も、後ろを振り返らない。

 

 国境を示す標識が窓の外を通り過ぎた。

 

「ブルガリアは出た」

 

 イリーナが言った。

 

「これで、英国ですか?」

 

「最初の国境を越えただけだ。海までも遠い」

 

「そうですか」

 

 鬼太郎は、前方へ続く道を見た。

 

 父が生まれた国。

 

 両親を殺した者たちが使った、細い杖の正体へつながるかもしれない場所。

 

 そこに何があるのかは、まだ知らない。

 

 知らないからこそ、行く価値がある。

 

「では、先を急ぎましょう」

 

 鬼太郎は僅かに笑った。

 

「英国は、まだ遠いのでしょう?」

 

 イリーナは答えず、車の速度を上げた。

 

 西へ続く道が、二人の前に伸びていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。