エピローグ 差し出す手には、望みがある
エピローグ 差し出す手には、望みがある
膝をついた魔法使いたちへ、低い声が指示を与えていた。
声の主へ顔を上げる者はいない。クィレルの肉体を失っても、彼らが従う相手まで消えたわけではなかった。
必要なものを集めること。連絡を絶やさず、命じられるまで待つこと。
配下が一つずつ返事をする間、ヴォルデモートは急かさなかった。役目を与え終えると、魔法使いたちは頭を下げ、静かに退いていった。
「残念だったね、トム」
最後の足音が消えた後、場に似合わない軽い声がした。
帽子をかぶった姿が、薄闇の中に浮かんでいる。輪郭は見えるが、そこに肉体が立っているとは思えなかった。
クリシュナは、いつものように笑っていた。
「石は手に入らず、使っていた身体も失った。あの学校は、思ったより手強かったようだ」
「石は惜しかった」
ヴォルデモートの声に、怒りはなかった。
「だが、収穫がなかったわけではない」
「へえ。何を持ち帰ったんだい?」
「墓場鬼太郎。あの小僧だ」
クリシュナは、穏やかな笑みを保っていた。
忘れるはずのない名だった。だが、目を見開くことも、聞き返すこともしない。
「へえ。その少年が、どうしたんだい?」
声にも、いつもの軽さを残した。
その名を口にしたヴォルデモートは、なお楽しげだった。
「弱った宿主を相手にしていたとはいえ、よく動いた。攻められ続けても、反撃の機会を探していた。最後まで、俺に杖を向けるつもりでな」
「それで、気に入った?」
「力を欲しがっている。人を殺すことにも、戸惑いがない。知りたいものを前にしたときの目は、分かりやすかった」
石柱の間で、少年は笑っていた。
闇の帝王の名を聞いたからといって、戦いを諦める者ではない。差し出した知識と力に価値を見ながら、それでも従うことを選ばなかった。
「誘ったのかい?」
「断りおった」
答える声は、なお楽しげだった。
「俺のもとへ来れば、あの小僧はさらに強くなる。今の学校で教わるだけでは、触れられぬ術もある。あれが何を望み、どこまで伸びるか。確かめる価値はある」
「キミに従う気がないとしても?」
「一度断られただけで、捨てるには惜しい」
クリシュナは、帽子の下で目を細めた。
「随分、楽しそうだね」
「それに、杖だけではない」
ヴォルデモートが続けた。
「あの小僧は、別の力を使う。杖を持たぬ手から炎を放ち、雷を起こす。クィレルからも聞いていたが、実際に向けられると、魔法使いの呪文とは違っていた」
クリシュナは、笑みを崩さずに聞いていた。
「……へえ」
さっきまでと同じ短い返事だった。だが、今度はすぐに言葉が続いた。
「杖を奪われても、使えたのかい?」
「ああ。力を失った様子はなかった」
「炎を使うとき、何か言っていた?」
ヴォルデモートが、少年の発した短い名を伝えた。
アギ。
クリシュナは、その音を黙って聞いた。
同じ名で、自分たちの側の魔法を使う。殺すことをためらわず、強い相手を前にして笑う。
あの男が、この世界にいる。
発端は、人間たちの暮らすコロニーでのことだった。
そこで祀られていた神が通ると、人々は膝をついた。男だけが、座ったまま食事を続けていた。
神はそれを咎め、男の食事を叩き落とした。
傍らにいた仲魔のジャックランタンが、神を見て呟いた。
「あーあ。こいつ、死んだホ」
まだ、男は手を出していなかった。
その神は、男に殺された。
ただ、それだけのことだった。領地を奪われたのでも、誰かを救おうとしたのでもない。食事を台無しにされた男は、相手が何者であろうと、容赦しなかった。
報復へ向かった者たちも、次々に帰らなくなった。
そこで終われば、まだよかった。
男は、次の相手が来るのを待たなくなった。多神連合の者がいると知れば、自分から探しに行った。新しい玩具を見つけたように笑い、自らの力で神々を殺して回った。
刃を向けた敵へ、情けを掛ける者ではなかった。見逃せば何が得られるかを語る間にも、その手は次の一撃へ動いた。
多神連合の大半を、あの男が殺した。フリンに倒された者もいれば、二人を相手にした者もいた。
自分だけは、違う結末へ導けるはずだった。
だが、取り繕う余地もなくなり、本性を剥き出しにした自分の前へ、あの手が迫った。
魔力を纏った手刀。
顔面を抉られた、その一撃だけでは終わらなかった。手刀の余波が身体を呑み、残ったものまで消し去っていく。焦りも、憎悪も、次の言葉にする前に、自分は消滅した。
それが今は、子供の姿で学校にいる。
クリシュナは微笑んだまま、背へ回した手を握った。
頬の奥に力が入り、笑みが僅かに張る。声を出す前に、その力を緩めた。
「お前たちにも、ああいう術があるのか」
ヴォルデモートの声がした。
「ボクたちにも、馴染みのある力だよ」
クリシュナは答えた。
「そういうものを使える人間が、あの学校にいるとはね」
「お前たちと、関わりのある者か?」
「思い当たる相手はいるよ。本人を見て、確かめたいね」
クリシュナは口元へ指を寄せた。
トムへ、全てを話す必要はなかった。
自分たちのほかにも渡ってきた。その相手が、よりによって墓場鬼太郎とは。
顔へ触れた指に、傷はない。だが、消し去られた最期も、その直前に自分を支配した焦りも、忘れてはいなかった。
恨みは、消えていない。
それを、トムの前へ差し出すつもりもなかった。
だが、トムが見た相手は、まだ子供だった。前の力をどれだけ持ち、何を覚え、何を失っているのか。会う前に、確かめるべきことがある。
「ポッターの方は、どうする?」
クリシュナが尋ねた。
ヴォルデモートの声から、僅かに笑いが薄れた。
「忌々しい。あの女の守りが、今も残っているとはな」
触れた宿主の身体が焼け、崩れていった。リリー・ポッターが命と引き換えに残したものは、十年を経ても、なお邪魔をしてくる。
「だが、あの小僧には、まだ使い道がある」
自分の肉体を取り戻すためにも。
ヴォルデモートは、その先を口にはしなかった。クリシュナも、すぐに詳しく聞こうとはしない。
「それなら、キミはまた学校へ行くつもりかい?」
「当分は動かぬ。一年は、次の身体を得る準備に使う」
ヴォルデモートは、配下が出ていった方へ意識を向けた。
「働かせる者はいる。急いで、使えぬ身体を掴む必要もない」
「それなら、その間はボクが見てこようかな」
「あの小僧をか」
「学校も含めてね。キミがそこまで気に入ったのなら、ボクにも興味がある」
「分かったことは、聞かせてもらうぞ」
「もちろん。キミの望むものが見つかるかもしれない」
クリシュナは笑った。
ヴォルデモートも、それ以上は尋ねなかった。
◆
クリシュナが戻ると、老人が顔を上げた。
オーディンは、既に顕現していた。その足は床を踏み、声も、この場にいる者へ届く。
ただし、今取れるのは、老人の姿だけだった。かつての姿へ戻るには、まだ至っていない。
「何か見つかったか」
「墓場鬼太郎が、この世界にいるらしい」
辺りの影が、ざわめいた。
それまで静かに沈んでいた輪郭が揺れ、低い囁きが重なる。名を聞き返す声の奥で、別の声が短く何かを吐き捨てた。
オーディンは、クリシュナを見たまま動かなかった。
クリシュナは笑みを保ち、揺れる影へ目を向けた。
姿を得た者もいれば、声と気配だけが戻った者もいる。同じようにこの場へ集まっていても、取り戻せたものは、それぞれに違っていた。
アドラメレクの意識も、既に戻っていた。だが、まだ姿を得ることはできない。名を告げる前より濃く揺れるその影を、クリシュナは一度見た。
身体を得たオーディンも、かつての姿ではない。以前のように揃って並ぶには、まだ足りないものがあった。
「学校に、近づいてみようと思う」
「あの魔法使いどもの場所へか」
「うん。ただ、ボクが話しかけるだけでは、長く中を見ていられないからね」
鎧をまとった女が、呼ばれて前へ出た。
人間より少し背が高い。姿勢よく立ち、クリシュナの言葉を待っている。
「ヴァルキリー。キミに、頼みたいことがある」
戦乙女は静かに頭を下げた。
◆
ギルデロイ・ロックハートは、訪ねてきた相手を見たとき、取材の申し込みかと思った。
だが、帽子をかぶった男は、差し出された著書へ署名を求めなかった。
「キミの名は、よく聞いているよ」
「それは光栄だね。どの本を読んでくれたのかな?」
「人々が、キミに何を期待しているかの方に興味があってね」
男は柔らかく答えた。
ロックハートは笑みを保った。少し変わった人物だったが、自分の評判を知っているなら、話は聞いてもよさそうだった。
目の前の姿は、クリシュナ自身の肉体ではない。
その場へ来る前に、彼は自分へ賛同する魔法使いの身体へ入っていた。人の身体を借り、外見だけを自分の姿へ変えている。
ロックハートには、その内側を知る手掛かりはなかった。
「ボクから、キミに紹介したい相手がいる」
「私に?」
「キミの活躍に、力を貸せる相手だ」
クリシュナは、掌へ小さな指輪を載せた。
宝玉を加工したものだった。ロックハートが身を寄せると、男は指輪を摘み上げ、見やすい位置へかざした。
「使い魔は、ここに収めておける。必要なときに呼べばいい」
「この中に?」
「見ていてごらん」
クリシュナが、その名を呼んだ。
「ヴァルキリー」
指輪に光が灯った。
そこから溢れた光が、床の上へ大きな輪郭を描いた。蹄が音を立てて降り、白い首が持ち上がる。背から広がりかけた翼が、左右へゆっくりと畳まれた。
天馬だった。
その背に、鎧をまとった女が騎乗していた。
手綱を取る手は落ち着き、背筋は真っすぐに伸びている。光を受けた鎧の輝きと白い翼が、書物の中の神話を、そのまま目の前へ運んできたようだった。
だが、ただ美しく飾られた姿ではなかった。こちらへ向けられた眼差しには迷いがなく、馬上の身体も、次の動きに備えて揺るがない。今にも手綱を引き、戦場へ駆け出しそうな勇ましさがあった。
ロックハートは息を呑んだ。天馬の蹄から騎手の顔へ目を上げ、それから男の指にある小さな輪へ視線を戻す。
「これほどのものが、指輪から……」
もう一度見上げると、戦乙女は静かにこちらを見ていた。天馬も翼を畳んだまま、彼女の指示を待っている。
「彼女は、ヴァルキリー」
「戦乙女か」
知っている名だった。
ロックハートは改めて戦乙女を見た。名前だけなら、書物の中で何度も目にしている。それが今は、天馬に騎乗して自分の前にいる。
「一種の精霊だよ。キミの使い魔として働いてもらうことができる」
「……使い魔に?」
「そう。この指輪と共に、キミに預けよう。彼女はキミの指示に従い、その活動を助ける。人前で働かせることもできる」
ロックハートの目が、女の顔から鎧へ動いた。
戦乙女を従える魔法使い。
その姿を、人々が見たらどう思うだろう。写真にもよく映るはずだった。自分が隣に立てば、なおさらだ。
「なぜ、私に?」
「名を広める力があるからだよ。珍しい存在に出会っても、誰にも知られずに終わる者は多い。キミなら、その価値を分かってくれるだろう?」
ロックハートは微笑んだ。
「確かに、伝え方というものは大切だね。どんな偉業も、人々に届かなければ意味がない」
「ボクも、そう思う」
男は彼女へ顔を向けた。
「試しに、何か頼んでみるといい」
ロックハートは少し考え、自分の背後を示した。
「では、馬から降りて、私の後ろに立ってくれるかな。そう、少し右へ」
「承知しました」
ヴァルキリーは手綱を取り直し、天馬から身軽に降りた。馬をその場に待たせ、ロックハートが示した位置へ進む。
ロックハートは壁の鏡へ目をやった。自分の背後に戦乙女が控えている。半歩ずらすよう頼むと、彼女はそのとおりにした。
満足して振り返る。
「実に、よく分かっている」
「彼女も、キミのもとで働ける」
クリシュナは穏やかに言った。
「その力を披露すれば、人々も喜ぶだろうね。キミの新しい活躍を」
ロックハートは、まだ鏡の中の自分を見ていた。
披露する場所を考える。人々の前もよいが、魔法を教える場であれば、さらに相応しいかもしれなかった。
知識だけでなく、実際に従えた精霊を見せる。生徒たちには、忘れられない授業になるだろう。
「詳しい話を、聞かせてもらおうか」
彼は笑って、椅子を勧めた。
ヴァルキリーは命じられた位置に控え、黙って二人を見ていた。その向こうでは、白い天馬が翼を畳んで待っている。
人間の指示には従う。そのために、ここへ来た。
鏡の角度を直すよう頼まれれば直し、力を示せと言われれば示すだろう。彼が自分の働きを誇ることも、妨げる理由はなかった。
彼女へその役目を与えた者は、今、目の前で笑っている。
クリシュナが指輪を差し出すと、ロックハートはそれを受け取った。
掌に収まる輪と、その指示を待つ戦乙女を見比べる。彼の笑みは、いっそう深くなった。
クリシュナが差し出した手を、ロックハートは自ら握った。