帰る家にも、訪ねる声がある
第177話 帰る家にも、訪ねる声がある
扉を開けると、窓から入った光が食堂の床まで伸びていた。
鬼太郎は鞄を椅子の脇へ下ろした。学校の机よりも傷の多い卓があり、壁際には薪が積まれている。キーノは自分の荷物を抱えたまま、窓辺まで歩いて留め金を外した。森から吹き込んだ風が、彼女の髪を揺らした。
「まず、部屋を開けてくる」
「荷物を運びましょうか」
「自分で持てる。お前はその鞄を片づけろ」
キーノは卓の脇を通りかけ、椅子へ手を置いた。
「……しばらく、家でゆっくりできるな」
「課題はありますよ」
「分かってる。家では課題をしないと言ったか?」
「いいえ。僕も、拠点で調べたいことがありましたから」
「家だ」
鬼太郎が顔を上げると、キーノはもう階段へ向かっていた。
砦を手に入れたばかりの頃にも、同じことを言い合った。鬼太郎には、眠れて、荷物と武器を置ければ足りた。キーノは屋根の穴を指し、水場へ連れていき、煙のこもる台所を見せた。その要求を一つずつ通した結果、今の部屋がある。
鬼太郎は鞄から帳面を取り出した。
机へ置こうとして、手を止める。学校で使ったものと、森へ持っていくものが、まだ中で混ざっていた。
まずは片づけるとしよう。
窓の外で木の葉が鳴った。上階からは、キーノが自分の部屋の窓を開ける音が聞こえた。
◆
サーシェスが戻ったのは、それから数日後だった。
昼を少し過ぎた頃、外から聞き慣れた声がした。鬼太郎が食堂を出ると、荷を肩へ掛けた男が中庭を横切ってくる。
「よう、坊主。もう戻ってたのか」
「ええ。お仕事は済んだのですか」
「金を貰うところまでな。そっちは、追い出されたんじゃねえだろうな」
「夏休みですよ。次も来るように言われています」
「そりゃご苦労なこった」
サーシェスは笑い、主棟の扉をくぐった。荷物を置きに上がった彼が戻るまでに、キーノが卓へコップを三つ並べる。
「手を洗ってから座れ」
「帰って早々、うるせえな」
「汚れた手で触るからだ」
サーシェスは水場へ回った。戻って椅子へ腰を下ろすと、濡れた手を拭いながら鬼太郎を見た。
「で。何があった」
「学校のお話を、と思っていたのですが」
「だから聞いてる。お前が戻って、何もねえ顔で帳面を広げてる時ほど、ろくでもねえ話がある」
鬼太郎は閉じた帳面へ目を落とし、笑った。
「では、森でお会いした方のお話から」
クィレルだった。
ホグワーツで闇の魔術に対する防衛術を教えていた男が、ヴォルデモートをその身に宿していた。森でユニコーンの血を飲んでいたのも、あの身体だった。
サーシェスは途中で口を挟まず、コップを持って聞いていた。
「先生の身体に、あいつが入ってやがったわけか」
「はい。二人が同じように動くわけではありませんでした。最後の戦いでも、途中からヴォルデモート自身が身体を動かしていました」
「あの晩も、途中で変わったな」
指が、コップの縁を一度叩いた。
「杖を持つ手も身体も同じなのに、やることが違う。面倒な相手だ」
「ええ。それに、森では悪魔まで呼びましたからね。あの本が残っている以上、同じことができると考えていました」
だから、杖を持つ手だけ見ていればよい相手ではなかった。
鬼太郎は、校長が学校を離れた夜のことを話した。ハリーたちが石を守るために向かったこと。自分も後を追い、最奥でクィレルと戦ったこと。
サーシェスは、そこで鼻を鳴らした。
「梟を寄越したのは、その時か」
「ええ。合流を待つ時間はありませんでした」
「俺も、すぐ学校へ飛べる場所にはいなかった。呼べばいつでも来ると思うなよ」
「承知しています」
キーノがコップを置いた。
「だから、お前も戻ってくるまで無茶をするな」
「俺に言うのか?」
「二人ともだ」
サーシェスが歯を見せた。
「無茶の値段次第だな」
「そういう返事をすると思った」
鬼太郎は口元へ笑みを残したまま、続きを話した。
ハリーが触れた箇所から、クィレルの肌が焼けた。鬼太郎は腕を封じられた状態から既に抜けていたが、動かないふりを続け、相手がハリーを振り払った瞬間を狙った。
武装解除の呪文で杖を飛ばすと、身体も石段の向こうへ吹き飛んだ。焼けた箇所から崩れ、最後に残ったのは灰と衣服だった。
「触ると焼ける?」
サーシェスが片眉を上げた。
「そいつも、お前みてえな力を持ってるのか」
「僕とは違います。お母様が残した守りだと、校長先生から伺いました。僕も詳しく知りたくて、ハリーさんに尋ねたのですが」
「手品みてえに、好きな時に出せるものじゃねえと」
「ええ。触れる前には、あのような反応もありませんでした」
鬼太郎の炎を消し、動きを読み、逃げる先へ呪文を送ってきた相手だった。ハリーが掴んだ手を見て、ようやく攻める隙ができた。
サーシェスはしばらく黙り、それから短く笑った。
「よく飛び込んだな、そのガキ」
「石を渡せば、もっと多くの方が危なくなると考えたのでしょう。縛られたままで待つ方ではありませんでしたね」
「お前が褒めるくらいか」
「あの時、動いたのはハリーさんですから」
サーシェスはコップを傾けた。空になった底を見て、卓へ戻す。
「で、入ってた方は」
「身体を捨てて逃げました。追える状態ではありませんでしたし、今どこにいるかも分かりません」
「宿の方だけ潰したか。次は別の顔で出てくるかもしれねえな」
「その可能性はあります」
同じ顔と杖を探すだけでは足りない。
サーシェスはそれ以上、追わなかった理由を聞かなかった。鬼太郎も、今度こそ追い切るといった約束はしなかった。
◆
「本は、持って帰ってねえのか」
「現物は校長先生が保管しています。僕が持っているのは、調べたことを書いた帳面です」
鬼太郎はそれを開いた。
図と文字が並んだ頁を見て、サーシェスが椅子の背から身体を起こす。
「読めるようになったのか」
「一部は。それを調べている時に、また記憶が戻りました」
キーノも自分のコップを脇へ寄せた。
鬼太郎は、図のない余白へ小さな四角を描いた。
「以前の僕は、こういう機械を使っていたんです。COMPと呼んでいました。悪魔を召喚するためのものです」
「本じゃなくて、機械?」
「ええ。手で操作できるくらいの大きさでした。形の違うものもありましたが、同じように使っていましたね」
紙の上の四角へ、画面と操作する部分を書き足す。
その手応えは戻っている。呼ぶ相手を選び、登録を確かめ、必要な処理を動かす。動かなければ、止まった箇所を調べる。
「特別なのは、機械そのものか」
サーシェスが聞いた。
「中で働かせる仕組みも必要です。悪魔召喚プログラムと呼んでいました。機械へ何をさせるか、その順番を決めたものですね」
「お前が使ってたやつだけか?」
「いいえ。僕以外にも、使う方はいました」
「魔法を使えなくても?」
「使えました。僕と同じ力を持っている必要もありません」
サーシェスの指が、描いた機械の脇へ置かれた。
「俺でもか」
「以前のものなら、サーシェスさんにも扱えますよ」
サーシェスは鬼太郎を見た。冗談を言っているか確かめるような間があり、それから、ゆっくり口角が上がった。
「そいつはいい」
「ただ、呼べることと、従ってもらえることは別です。悪魔にも、受ける条件と受けない条件がありますから」
「あの三分しか働かねえ奴みてえにか」
「ええ。僕たちを殺すよう言われても、好き勝手に話していたでしょう」
「覚えてるぜ」
楽しそうな返事だった。
あの刃を、サーシェスも間近で見ている。銃を持った人間とは違う身体と速さで、二人を追い詰めた相手だった。
「話が通じるなら、交渉の余地はあるってことだろ」
「あります。話が通じるからこそ、こちらの望む条件を嫌がることもありますが」
「人間と大して変わらねえな」
サーシェスは描かれた四角から指を離した。
「完成したら、俺にも一つくれよ」
軽い言い方だった。だが、目は帳面から逸れていなかった。
「以前と同じ機械にできるかは、まだ分かりません。新しい本にする案もあります」
「持ち歩けて、俺にも使えるなら、形は何でもいい」
「では、そういうものができた時には。扱い方と、呼ぶ相手についても、お話ししないといけませんね」
「そこまで込みで頼むぜ、坊主」
キーノが、二人の間へ視線を往復させた。
「二人で、何を呼ぶか決め始めるなよ。まだできてないんだろ」
「はい。今の本には、使いたくない仕組みもありますから」
呼ばれる悪魔の側へ、対価を奪うことを許してしまう。
自分で条件を受けるか選べない作りだと説明すると、サーシェスも笑いを引っ込めた。
「後から勝手に値段を決められるのか」
「どこまで取られるかも、まだ分かっていません」
「そいつはいらねえ」
「僕もです。ですから、そのまま使わず、校長先生と調べることになりました」
鬼太郎は帳面を手元へ戻した。
夏の間に、続きを相談する。読めていない部分を確かめ、どの処理を何へ置き換えられるか調べることになる。
その間にも、できることはあった。学校で覚えた呪文は、まだ動きながら使うだけで精度が落ちるものがある。アギも、もう少し先へ進めそうな感覚を繰り返し確かめたい。森へ戻れば、グロブニクに相手を頼むこともできる。
まだ作れないものを、急いで使う理由はなかった。
「機械を一つ作るだけでも、暇はしねえな」
「ええ。せっかくの休暇ですから」
「休む話はどこへ行った」
キーノに言われ、鬼太郎は顔を上げた。
「今日は、座ってお話をしていますよ」
「今日だけの話じゃない」
サーシェスが声を上げて笑った。
◆
帳面を閉じた頃、中庭の方から呼ぶ声がした。
鬼太郎が窓へ目を向けると、門を入ってくるヴィーラが見えた。その後ろには革の上着を着たゴブリンがいる。金槌を下げた姿に、砦の修繕を決めた朝を思い出した。
さらに、八本の脚が門の影を離れた。
「珍しい組み合わせですね」
鬼太郎は立ち上がった。キーノも椅子を戻し、サーシェスは窓から来訪者を見た後、ゆっくり腰を上げる。
三人が中庭へ出ると、ヴィーラが歩みを止めた。
「戻ったと聞いた。今、少し話せるだろうか」
「はい。ちょうど、こちらのお話が済んだところです」
近づいてきたアラクネは、少し離れた所で脚を畳むように身を低くした。ゴブリンは主棟の壁を見上げ、開いている窓へ目を移してから鬼太郎へ向き直る。
「砦に不具合でも?」
「屋根も壁も、約束どおりだ」
ゴブリンは首を振った。
「相談したいのは、森のことだ」
鬼太郎は黙って先を待った。
最初に話したのはヴィーラだった。
「よその森から、移ってくる者が増えている。ここなら密猟者に捕まらずに暮らせると聞いたらしい」
「この砦のことが、外まで伝わったのですか」
「人間に捕らえられた者を助け、入ってきた密猟者を追っている。その話は、前から少しずつ広がっていた」
初めてここで会った時にも、アラクネは噂の話をした。
森に、狩る者を殺す人間が住み始めた。
短い言葉は、今も森の外へ届いていたらしい。
「守りを頼れる場所を探すことは、私たちにも分かる」
ヴィーラが続けた。
「ただ、今までの住処へ別の者が入る。空いて見える穴でも、戻ってくる者がいる。水場や、食べ物を集める場所でも同じことが起きている」
「先に暮らしていた者が、追われ始めたのですか」
「まだ、そこまでではない」
ゴブリンが言った。
「だが、境界を知らない者が増えた。知っていても、安全な場所を離れたがらない者はいる。我々と決めた縄張りを、その者たちがどう扱うのか。それを確かめたくて来た」
声は低かったが、鬼太郎を責める調子ではなかった。
互いに決めた条件がある。外から来た者にも、それを認めさせられるのか。ゴブリンの長い指が、革の上着の端を押さえていた。
アラクネも口を開いた。
「餌を取れる場所は、急には増えない。寝床を変えれば済む者ばかりでもない。今いる者だけで話し合おうにも、新しく来た者は、お前が守っている森だと言う」
鬼太郎の後ろで、キーノが小さく息を吐いた。
サーシェスは何も言わず、門の向こうへ目をやった。
「お前たちが密猟者を退けていることに、異を唱える者はいない」
ゴブリンは、鬼太郎を真っ直ぐに見た。
「そのおかげで、我々は暮らしている。ただ、増えた者をどう受け入れるのか、あるいは、どこまで認めるのか。我々だけで決めてよい話ではないだろう」
ヴィーラが頷く。
「揉め事が大きくなる前に、あなたの考えも聞きたい」
鬼太郎は三人を見渡した。
森へ入ってきた密猟者なら、これまでも相手をしてきた。
今、門の外へ増えているのは、その密猟者を避け、自分のいる森を選んだ生き物たちだった。