第178話 広い森にも、越せない境がある
「集まっているのは、この近くなのですか」
鬼太郎が尋ねると、ヴィーラは門の外へ目を向けた。
「川沿いにもいる。南の道を外れた辺りから、もっと中央に近い場所まで」
「皆さんが暮らしている範囲と、重なっているわけですね」
「空いているように見える場所へ入ってくる。そこで何を採り、誰が休むかまでは、知らないから」
鬼太郎は中庭の端から細い枝を拾った。地面へ砦の位置を記し、その北へ谷を表す線を引く。
グロブニクの住処は、そちらにある。
砦を中心に南から中央へ続く道には、歩いた場所も多い。誰の住処へ通じるか、どこで荷車が曲がるかも、以前より分かるようになった。
だが、森はそこで終わっていなかった。
「東や西にも、森は続いていましたね。そちらに住める場所はないのですか」
枝の先を、谷と砦の間から横へ動かす。
アラクネは、その先へ視線を落とした。
「東にはレーシーがいる」
「初めて伺う名ですね」
「お前たちが来るより、ずっと前からいる。東の奥へ入るなら、あれに認められなければならない」
「森の主、といったところですか」
「本人は、そう扱われることを好む」
ゴブリンが口を挟んだ。
「お前が密猟者を追うようになっても、あちらが何かを寄越したことはない。境界を決める話にも来ていない」
「では、僕たちの取り決めは、そちらには及ばないのですね」
「そうだ」
鬼太郎は、東へ伸ばしかけた線の先を止めた。
アラクネによれば、レーシーは森で暮らす者を一律に嫌うわけではなかった。特に、魔法的な力を使う生き物へ興味を示す。姿を変えるもの、光や声で相手を惑わせるもの、珍しい力を持つものを、自分の領域へ集めたがるという。
「気に入られれば、住める?」
キーノが聞く。
「住まわせることはある。ただし、向こうが気に入った者を、向こうの条件で、だ」
「選ばれなければ、ほかへ行けと」
「同じ道を何度も歩かされて、帰り着けばまだましだな」
ゴブリンが言った。
鬼太郎は顔を上げた。
「道に何かするのですか」
「知っている声が聞こえることがある。追えば、知っているはずの道から外れる。あちらを探しに入った者が、先に出口を探す羽目になる」
居場所が分かれば、会えるとは限らない。
鬼太郎は東の線の横へ、小さな印をつけた。
「では、西は?」
今度はヴィーラが答えた。
「湖と、湿った土地が広がっている。そこにはヴォジャノーイが棲んでいる。女の姿をしたものだ」
「そちらも、住む者を選ぶのでしょうか」
「払える者なら、通す。水を使うにも、魚を取るにも、何かを求める」
「取引には応じるわけですね」
「相手が困っていなければ、な」
ゴブリンが、口の端を下げた。
「ほかへ行けないと分かれば、昨日より高く言う。魚を取れずに戻ってきた者へ、次は何を持ってくるかと聞くような女だ」
「性格が悪いな」
キーノの言葉に、ヴィーラは否定を返さなかった。
「水へ入らずに話せる場所はありますか」
「岸へ姿を見せることはある。だが、自分から水を離れてまで、こちらの都合は聞かない」
サーシェスが、鬼太郎の描いた図を覗いた。
「北の奴も、初めは似たようなもんだったろ」
「ええ。ただ、グロブニクさんには、ご自身のいる場所でお会いできましたからね」
枝を地面へ置いた。
空いた土地へ行けば済む話なら、相談には来なかっただろう。東西には、今いる者たちが知らない余白ではなく、別の相手との関係がある。
「両方とも、直接お話を伺う必要がありそうですね」
「今からか?」
キーノが眉を寄せた。
「いいえ。突然押しかけるより、準備をしてからにしましょう」
鬼太郎はヴィーラたちへ向き直った。
「手土産にするなら、何がよいでしょう。お二方の好むものを、ご存じですか」
◆
食堂の卓へ紙を広げると、ゴブリンが椅子へ上がった。
ヴィーラはその隣へ座り、アラクネは扉に近い広い場所から話に加わる。
「レーシーなら、煙草だ」
ゴブリンが言う。
「香りのいい葉を持っていった者がいた。話を聞いてもらえた。粗悪なものは、すぐ分かるらしい」
「では、質のよい葉煙草を。西の方は?」
「甘い酒を好む」
ヴィーラは少し考えてから、続けた。
「銀の櫛を見せびらかしていたこともある。髪を梳くより、相手に見せている時間の方が長かった」
「分かりやすいですね」
「安く見られることは嫌う。銀に似せただけの品は、持っていかない方がいい」
鬼太郎は三つの品を書き留めた。葉煙草、甘い酒、銀の櫛。酒は運ぶ途中で割れない包みにし、櫛は細工と材質を確かめてもらう。
宛名には、ボリス・マルコフと書いた。
必要な品と、二者への挨拶に使うこと。揃えるまでにかかる日数と値段を、先に知らせてほしいことも添える。
「明朝、町へ運ぶ荷に付けられる」
ゴブリンが紙を見て言った。
「ボリスなら、受け取る場所も分かる」
「お願いします。調達費はこちらで持ちます」
インクが乾いてから折り、ゴブリンへ渡した。
鬼太郎は残った紙を重ねた。東西の相手に会うのは、品が揃ってからだ。道と訪ね方も、もう少し聞いておきたい。
その前に、目の前の問題があった。
「新しく来た方々のところへ、案内していただけますか」
ヴィーラが頷いた。
「行くなら、今からでも」
◆
砦から川沿いに歩くと、見覚えのない足跡が増えた。
泥へ深く沈んだ大きな足と、細い蹄の跡がある。木の根元には荷を置いて休んだらしい跡が残り、少し先から声が聞こえた。
鬼太郎は黒檀の杖を手に持ち直した。
隣を歩くキーノも杖を携えている。サーシェスは後ろから、枝に引っかからないよう上着の裾を払ってついてきた。
「あんた、疲れてるんじゃなかったのか」
「座って話すのに飽きたんだよ」
「さっき帰ったばかりだろ」
「散歩くらいさせろ」
軽口を聞きながら、鬼太郎はヴィーラの止まった場所へ目を向けた。
木々の間に、小さな群れがいた。
先に顔を上げたのは、額に角を持つ男だった。上半身は人に近く、下半身を毛が覆っている。蹄で足元の荷を避け、こちらを見る。
そのそばでは、小柄な者たちが根の張り出した場所へ身を寄せていた。茶色の毛に覆われた腕で包みを抱え、一人が別の一人の服を引いている。
さらに奥には、大きな身体が三つあった。
厚い腕。突き出した顎。膝へ置いた棍棒の太さは、キーノの胴ほどもある。一本の木へ背を預けていた個体が、ヴィーラを見て、それから鬼太郎へ視線を下ろした。
「フォーンとブラウニー。それに、オーガだ」
ヴィーラが小声で教えた。
鬼太郎は頷き、皆から見える場所へ進んだ。
「お時間をいただけますか。砦に住んでいる、墓場鬼太郎と申します」
角のある男が目を細めた。
「密猟者を追っている人間か」
「はい。その件を聞いて、こちらへ来られたと伺いました」
「人間の罠へ、毎晩気をつけて眠るのは疲れるからな」
男は自分の荷を脇へ寄せた。
「俺たちが来たことで、何か問題が?」
「場所によっては、先に住む方の生活と重なり始めています。皆さんにも、守っていただきたい取り決めがあります」
「そのために呼んできたのが、これか」
奥から声がした。
棍棒を持つオーガが、鬼太郎を眺めている。
「人間の子供に、住む場所を決めてもらうのか」
ヴィーラが口を開きかけた。鬼太郎は先に、オーガへ顔を向けた。
「森全体を、僕が決められるわけではありません。ただ、僕と取り決めを交わした方々の住処を、勝手に取られては困るのです」
「空いていれば使う。それだけだ」
「使う方が戻ってきたら?」
「ほかへ行けばいい」
鬼太郎はオーガを見たまま、少し首を傾けた。
「先に住んでいた方が、ですか」
「俺を退かせられねえなら、そうなる」
隣のオーガが、棍棒を膝から下ろした。
「まだ、何を言うか聞いてねえだろ」
「聞けば分かる。場所を空けろと言いに来たんだ」
「まず、境界を守っていただきたいのです」
鬼太郎は言った。
「空いている場所を探す相談には応じます。ですが、ほかの方の寝床や餌場を奪って、それを僕に守らせるつもりでしたら、お断りします」
角のある男が頷いた。
「境界を教えてもらわなければ、こちらも分からない。通っていい場所と、採っていいものも聞きたい」
「ええ。案内できる方と、お話ししていただきましょう」
「守ると言っても、いつでも来られるわけではないんだろう?」
「そのとおりです。僕たちだけで全てを引き受ける約束はしません。罠や侵入者を見つけた時には、知らせを回していただきます」
ブラウニーの一人が、抱えていた包みを下ろした。
「仕事なら、できる」
細い声だった。
「繕う。片づける。食べ物を、傷ませないようにもできる。戦うのは、できないが」
「何ができるか、後で詳しく伺っても?」
鬼太郎が聞くと、その小さな顔が上がった。
「聞くのか」
「知らなければ、頼めませんからね」
ブラウニーは隣の者と顔を見合わせ、何度も頷いた。
オーガの鼻から、荒い息が漏れた。
「そんな奴らの分まで、残してやれってのか」
フォーンが振り返った。
「俺たちが何を食うかも、まだ話していない。全部同じ場所を使うとは限らないだろう」
「腹が減った時に、こいつらに聞いて回る気はねえ」
オーガが立ち上がった。
低い枝が肩へ当たる。手でへし折り、足元へ捨てた。近くにいたブラウニーたちが、荷物を抱えて後ろへ下がる。
「俺は使いたい場所を使う。嫌なら、力ずくで退かせろ」
「僕と話している間も、そのおつもりですか」
鬼太郎が聞いた。
オーガは、口を開けて笑った。
「お前が何をする。木の棒で尻でも叩くか」
「なら、皆さんから離れてください。巻き込む必要はありません」
鬼太郎は斜めに歩き、根の少ない場所へ出た。
キーノはブラウニーたちの前へ移った。ヴィーラもフォーンへ下がるよう促す。サーシェスの笑みは薄れ、上着へ右手が入った。
オーガはそれを見たが、鬼太郎を追ってきた。
「棒を捨てて逃げりゃ、追わねえでやるぞ」
「お気遣いなく」
鬼太郎は足を止めた。
「お話は、聞いていただけたようですから」
棍棒が持ち上がった。
◆
振り下ろす動きに合わせて、鬼太郎は横へ踏み出した。
棍棒が地面へ食い込む前に、左手を向ける。
「ブフ」
オーガの踏み込んだ足へ冷気が走った。湿った土と足の周囲が凍り、棍棒を引き上げようとした身体が一瞬、遅れる。
鬼太郎は止まらず、脇へ回った。
大きな手が棍棒を離す。
こちらを掴むつもりだった。オーガの足元で氷が割れ、腕が伸びてくる。
「ザン」
左手へ集めた風を、その腕へぶつけた。
掴む指が横へ流れた。肩まで吹き飛ばせはしない。だが、掌の届く先から鬼太郎の身体が外れ、オーガの顔がこちらを追う。
鬼太郎は右手の杖を左手へ移した。
空いた右手が、懐へ入る。
オーガが、もう一方の腕を振ろうとした。
〈ケストレル〉の銃口が上がった。
一発。
額へ当たった衝撃で、オーガの顔が跳ねた。鬼太郎は身体の傾く先を見て、二発目を撃った。
大きな身体が、背後へ倒れた。
土が揺れ、低い枝が震える。鬼太郎は巻き上がった葉を避けて二歩離れた。銃口を下げず、胸と手足を順に見る。
動かなかった。
少し待ってから、息が止まっていることを確かめた。
森の中に、銃声の余韻が残っていた。
鬼太郎は顔を上げた。
残った二体のオーガは、その場から動いていなかった。棍棒を下ろしていた個体が、ゆっくり両手を開く。
「俺は、聞くと言った」
「はい。伺っています」
鬼太郎は答えた。銃を持つ右手を下ろすが、まだ収めない。
「あなた方は、どうされますか」
もう一体も、持っていた棍棒を地面へ置いた。
「境界を、教えろ。知らずに踏むのは困る」
「ええ。そのために来ました」
フォーンは、倒れたオーガと鬼太郎を交互に見た。
「密猟者も、そうやって退けてきたのか」
「必要な場合は」
鬼太郎は銃を収め、黒檀の杖を右手へ戻した。
キーノがこちらを見た。怪我がないと分かったのか、杖を下ろし、小さな者たちの方へ身体を向ける。
「もう、出てきていい。荷物を置き忘れるなよ」
ブラウニーたちは、互いの肩越しに倒れた巨体を見た。一人が震える手で包みを拾い、隣の者へ渡す。
鬼太郎は、先ほど仕事の話をした者へ顔を向けた。
「それで、どなたとお話しすればよいでしょう。皆さんで同じ場所に住むのですか」
その者は一度、喉を動かした。
「……同じで、なくてもいい。雨を避けられて、踏み潰されない場所なら」
「では、必要な広さも教えてください」
ヴィーラが、ブラウニーたちのそばへしゃがんだ。
フォーンは自分の荷を持ち、地面に落ちた枝を拾った。先ほどまでオーガが座っていた場所から離れ、境界の形を描けるよう、土の上の葉を払う。
残ったオーガの一体も、そちらへ向かった。
鬼太郎はサーシェスへ目を向けた。
男の右手は、もう上着から出ている。
「散歩には、短かったですね」
「お前に付き合うと、退屈はしねえよ」
低い笑い声が返った。
アラクネが鬼太郎の脇へ来た。八本の脚が土を踏み、倒れたオーガの前で止まる。
「これは、私たちで片づけようか」
「お願いします。持ち物は、後で確認します」
アラクネは頷いた。
密猟者を相手にしていた時と同じ声だった。その意味を、近くの者たちも聞いている。
鬼太郎は、土の上を指すフォーンの隣へ戻った。
力がなくても、条件を尋ねることはできる。できる仕事を持ち出し、居場所を得ようとする者もいる。その話を聞く時間まで、奪うつもりはなかった。
「川から、どの辺りまで使っていたか、順に教えていただけますか」
ヴィーラが、小さな線を引き始めた。
鬼太郎も腰を落とし、今度はその線を最後まで見た。